§09 05月12日(木) 18時頃 ほんとに彼女なんだね

文字数 5,522文字

 昨日からの雨が朝方まで残り、空を見上げても雲が切れる気配はなかったものの、天気予報はこの先の天候の回復と明日の晴天を予報していた。友香里は昼過ぎに衛からメッセージを受け取り、今日は迎えに行く必要がなくなったので、午後は産業カウンセラーの勉強をして過ごすことにした。肌寒い一日だったから、三時過ぎにベッドに上がり足元に布団をかけてテキストを眺めているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。
 五時前にぼんやりと目を覚ました友香里は室内干しをしていた洗濯物に触り、今日は乾きそうもないことを確かめてから洗面所で顔を洗った。水も冷たかった。明日は晴れて二十度を超えるということだから、それに週末の金曜日でもあり、放課後に衛が寄り道してくれるだろう。火曜も水曜も雨が降ったから衛を迎えに行きまっすぐに送り届けた。そしてこの日は学校で用事があり放課後に立ち寄る時間がないと言われてしまった。
 ゴールデンウイークが明けて一週間になる。月曜は晴れて送り迎えは無く、日曜に会ったばかりだったので放課後の寄り道は無し。火曜は午後になって雨が降りお迎え。昨日は一日雨だったので送りも迎えもした。今日は雨の中を送ってあげたけれど、お迎えは無し。放課後の寄り道もなし。これでもう四日間ものあいだ、人目を忍ぶ小さなキスくらいしかできていない。友香里は暮れて行く庭を眺めながらひとり不満気に頬を膨らませた。
 スマートフォンが振動したのは六時少し過ぎのことだった。プッシュ通知やメール受信などではなく電話がしつこく鳴った。手に取ったディスプレイに思わぬ名前が表示されていて、なぜか心臓が大きくひとつ跳ね上がった。退職前におかしな交錯があり、なんとなく連絡先の交換をしてはいたものの、実際に電話をかけることも、かかってくるようなこともないと思っていた。
「はい、紺野です」
「紺野さんさ、ちょっとこれから出てこられる?」
「え、なに?」
「今あなたのおかしな少年と一緒にいるのよ」
「……はい?」
「事情はあとでちゃんと説明するから、ひとまず駅まで出てこれないかな?」
「衛が一緒なの?」
「どうするか決めてよ。紺野さん来ないなら私がこのまま送ってくから」
「待って! 行くわよ、行く。どこの駅?」
 急に出かけることになったと母にメッセージを送り、炊飯器をセットしてから家を飛び出した。あまりに慌ててしまい、財布とスマートフォンを放り込んだバッグになにが入っているか、確かめもしなかった。道路が混んでいる時間帯なので車は避け、自転車で駅まで飛ばし電車に乗ったところでバッグを覗くと、幸いにも化粧品は入っていた。うたた寝から覚めたあと丁寧に顔を洗い、そのとき確か化粧水は使っている。ターミナル駅に着くと不本意ながらトイレに駆け込み大急ぎで簡単に化粧を済ませると、指定されたカフェの自動扉を抜け店内を見回した。保奈美がすぐに見つけてくれて手を上げた向かい側で、車椅子から衛が振り返った。歩み寄った友香里は驚いて目を見張った。立ち上がった保奈美がコーヒーでいいよねと言って席を譲った。友香里は正面から改めてじっくりと衛の顔に見入ってしまった。衛はそれでもいつものように笑おうとした。
「ずいぶん泣いたみたいね」
「実はね、そうなんだよ」
「私には話せないことだったの?」
「友香里さんは当事者だからさ」
「私のことで泣いたの?」
「直接的には違うんだけどね、まあ、それで泣いたのだと言ってしまっても構わない」
「自分で泣いといて、見てきたみたいな言い方しないで」
 保奈美がホットコーヒーを二つ手に戻ってきた。衛の車椅子のために退けてあった椅子を引き寄せ、二人とのあいだで二等辺三角形をつくるように腰かけた。テーブルの上には衛と保奈美が飲み干したカップが残っている。見るからに不満そうな友香里の顔と、そのことで困っているらしい衛の顔をいくどか見比べてから、保奈美はくすッと小さく笑った。
「驚いたわ。こうして並べると確かにカップルに見えるね」
「ちょっと、沢邊さん――」
「この少年はいま絶望的に傷ついてるの。危うく海に身を投じかねなかった。それくらい酷いことがあったのよ。だから紺野さん、そんな不満そうな顔をしたらダメ」
「……本当なの?」
「う~ん、正確に言うとね、保奈美さんがいなければ僕が海に身を投げていたかもしれない、というのは違う。保奈美さんと話しているうちに海に身を投げたくなった、というのが事実」
「保奈美さんとか呼んじゃってるんだ、もう」
「紺野さん、そこじゃないでしょ?」
「だってこの子ったらすぐにそういう――」
「はい! おしまい、おしまい! あなたたちマジで付き合ってるのね。今まさに実感した。この目でしかと確かめた。――いやあ、紺野さん、ちょっとビックリだわ。そんな虫も殺せないみたいな感じ出しといて、こんなハンサムボーイ食っちゃうなんてさ」
「食っちゃうとか言わないでよ」
「私そう言えば少年課なんだよね、いま思い出したけど。その辺でよく捕まえるガキにさ、『さわべっち』とか『ほなみん』とか呼ばれちゃったりしてるわけよ。衛くんてそいつらと変わんないわけじゃない? だからもうほんとビックリ。参りました、て感じ」
 保奈美のわざとくだけてみせた言い方に、困ったように友香里が顔を向けると、衛は今度こそいつものように笑っていた。いつものように、にこにこと。しかし酷く泣き腫らした少年の目がそこにあり、友香里は唐突に胸を締めつけられた。どこでどう沢邊と知り合ったのかわからないけれど、友香里には話せない、話したくない、聞かせたくない出来事が、確かに衛にはあったのだろう。
 そうして黙って見つめ合ってしまった二人を、保奈美がすぐに今ここにある現実に引き戻した。
「さて、どっちが送ってく? てか少年、ちょっとスマホ見てみな」
 言われて、衛はリュックの中からスマートフォンを取り出した。案の定、不在着信が並んでいる。衛がディスプレイを見せると、やっぱりねというふうに保奈美が肩をすくめ、友香里のほうは怖いものを見たように身をすくめた。
「つまり紺野さんが送ってくのは無し、てことね。じゃあどういう話をこしらえようか? 今から電話して帰宅途中だって言えばそれで通る?」
「まあ、通るかな」
「まだ七時だしね、高校生なんだしね。じゃ、すぐ電話して。友達とカフェでだべってたとか、そんな話でいいんじゃない? ここで電話したほうがいいよ。臨場感出るから」
 友香里はなんとはなしに片手で口元を覆い、衛のスマートフォンが自分の気配を拾ってしまわないよう、やや体を強張らせた。保奈美はコーヒーを口にしながら、家族と話す衛の様子を息を呑んで見守る友香里に、なにか珍しい生き物でも眺めるかのような眼を向けた。
 衛の電話は殊の外あっさりと終わった。電話に出たのは薫だった。話しぶりからそれと察し、友香里はちょっと肩の力を抜いた。これから乗る電車の時刻を確かめ、もう暗いから薫が駅まで迎えに出てきてくれるという話になったようだ。
 友香里と衛が二人でカフェを出た。保奈美はテーブルを新しいカップふたつだけに片付けると、スマートフォンをいじりながら友香里を待った。店内には今のところ見知った顔はいない。職場の人間も、少年少女たちも。このあと現れる可能性はある。が、店を替えるのも億劫だ。
 衛の電車が出るまでまだ十五分ばかりあった。もしかしてギリギリまで待たされるのかと嫌な予感がした。改札のそばでじっと見つめ合うカップルを目にすることは珍しくない。今まさにあの二人がそんな場面に浸り切っている様が想像され、保奈美はやれやれと一人で首を振った。
「沢邊さん」
 案に相違して、友香里はすぐに戻ってきた。
「あれ? まだ時間あったよね?」
「そうね。あと十分くらいかな」
「電車が来るまでホームの端っこで抱き合ってるのかと思ったよ」
「そんなことしません。――それよりなにがあったの? その前になんで沢邊さん?」
「そうね、そっちから話そうか。――先月にさ、防犯講習があったのよ、彼の学校で。そこで向こうから声をかけられた。どうも少年課ってところに引っかかったみたいね。うまいこと話に乗せられて、あの子そういうの上手ね、とりあえず二回は会ってあげるって約束したの。その一回目が今日。いきなりビンゴ引いちゃったわけよ。ほんとは紺野さんには内緒にする話だったんだけど、あんまり酷かったからさ、私も正直このまま家に帰すの怖くなっちゃって。でも家に電話したらどちら様ですか?て話になるじゃない? 少年課の警察官だなんて言ったら大騒ぎよ。それで紺野さんを呼んでもいいかって訊いたら、そうして欲しいて言うから電話したの」
「そっか、ありがとう」
「紺野さんがくるって聞いたら落ち着いたのよ。ずっと車の中にいたんだけどね。泣き止んでも体の震えが止まらなくてさ。紺野さんつかまらなかったら、腹くくって病院連れてってたかも」
「わかった。うん、なんて言えばいいか、とにかくありがとう。――それで、なにがあったの?」
「彼がイジメのきっかけをつくった、て話」
「イジメ? 学校ね」
「いろいろ気を使ってくれる女の子がいたんだって。まあやさしい子なんだろうね。その子にちょっと頼り過ぎたみたいでさ。あれこれとお世話させちゃったわけよ。目立ったし、目についたんだね。ところがさ、ここからは私の想像なんだけど、彼には紺野さんがいるわけだから、付き合う気なんてさらさらない。でも周りからは明らかにその気があるように見える。これってマズいパターンよね。明確な好意があってしてるなら、まあいいのよ。そうじゃないのにそれやると不興を買うわけ。そういうのって見てるほうはわかるから。なんか記憶にない?」
「わかるような気がする。衛って特定の人とはすごく仲良くするんだけど、それはそれでいいんだけど、それ以外はもう存在すらしていないみたいな態度とるのよ。基本的にあんまり周りの人間には興味がなくてね、ほんと極わずかな人間だけ特別扱いする感じなの。病院でもそうだった。木之下さんて看護婦さんだけ特別扱い。高校であれやったら、確かにギクシャクするわね」
「う~ん、ちょっと違うかな、それ」
「え、違うの?」
「彼がそういう振る舞い方をする、ていうのはたぶんそうなんだろうね。そこは紺野さんのほうがよくわかってるはずだし。ただね、事故があって、事件になって、彼の言葉を借りるなら熱量が上がったのよ、彼の周りの磁場みたいなところの。そのせいでさ、彼が思ってる以上に周りに強い影響を与えちゃうわけ。なんて言うかな、魔法を使えるようになったのにまだ上手にコントロールできない感じ、あれに近いかな。それで彼が言うにはさ――」
 そこで保奈美ははッとして言葉に躓いた。
「なに?」
 衛が並べた名前をそのまま口にしていいものか。そこには紺野友香里の名前もあった。つまり彼女もまた彼の熱に中てられておかしくなってしまった一人に数えられている。
「どうしたの?」
「あゝ、え~とさ、彼が言うにはね、お母さん、お姉さん、フルサワ精器の社長さん、この人たちはそのせいでちょっとおかしくなった、て。自分がおかしなふうにしてしまった、そう思ってるのよ。いま話した女の子もね、自分のせいでおかしくしてしまった。だから――」
「待って。沢邊さん、そこに私の名前は?」
「紺野さんが、どうして?」
「私の名前はなかった?」
「なかったと思うけど」
「……そう。ならいいけど」
「うん。で、彼はそのことに怯えてるわけ。その女の子のことがショックでね。だから、そう、まさに魔法を手に入れた少年がさ、自分の思わぬ力に怯えてる。そんな話よ」
「それで沢邊さんはなにをするの? どうして沢邊さんに声をかけたの?」
「止めてほしいんだってさ、そうなる前に。近づき過ぎてるよ、とか言ってほしいんだって」
「沢邊さんに?」
「私になるか知らないけど、とにかくそういう大人にそばにいてほしいみたい」
「私じゃダメなの?」
「紺野さん彼女でしょ? その子に嫉妬したりするでしょ? あゝ、するわな。さっき私のこと『保奈美さん』て呼んだときもむくれてたし。それじゃ役に立たないでしょ。わかる?」
「まあ、言いたいことは、わかるけど」
「なんか何度もこんなこと言って悪いんだけどさ、紺野さん、ほんとにあの子の彼女なんだね。もう反応のひとつひとつがいちいち彼女だもんね。――いやもう今日はほんと疲れたわ。そう言えばそもそも私ったら朝五時から仕事してるの忘れてたよ」
「あのさ――」
「ん?」
「それ、沢邊さんにやってほしいな。その、大人の人の役」
「二重スパイは勘弁してよ」
「うゝん、こっそり教えてほしいとかじゃないの。そこは衛にも私には話したくないことあると思うし、だからそれはいい。ただ、その相手が誰だかわからないでいるより、沢邊さんだって知ってるほうが安心する」
「ま、彼がどう考えるかだね。私に、て言うなら真面目に考えるよ」
 送ろうかと提案した保奈美に、駅まで自転車に乗ったからいいと友香里が応じ、二人は友香里の電車の時間に合わせてカフェを出た。改札で別れ、保奈美はパーキングからレンタカーを返却した。思いがけず長く濃密な一日になってしまった。寮に帰った保奈美は夕食をとっていないことも忘れスーツを脱ぐと倒れ込むように眠った。空腹で目を覚ますこともなかった。
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