§06 04月19日(火) 22時頃 「姉」なるもの

文字数 3,572文字

 両親が二階に上がってきた気配に耳を澄ませ、慎重にたっぷり時間を置いてから、薫は音が鳴らないよう廊下を摺り足で階段の降り口まで進むと、一段ごとにゆっくりと足を下ろした。衛の部屋の扉から灯りが漏れている。事前にメッセージを送り訪問を知らせてあった。ノックをせずに入って変なものを見たくない。衛の新しい部屋の引き戸は新しいだけあって音もなく滑らかに開く。ベッドの上の衛は上体を左右に捻るストレッチみたいなことをしていた。
「普通に降りてくればいいのに」
「お母さん最近ちょっと勘が鋭くなってるから」
「そう?」
 薫はベッドの中央のあたりに腰を下ろし、さらに声を潜めていくらか衛に顔を近づけた。
「今日、友香里さんのとこ寄ったでしょ?」
「薫も勘が鋭くなったみたいだね」
「お母さん絶対感づいてるよ」
「気を利かせて家を空けるくらいになってくれないかなあ」
「……あのさ、ちょっとあの、下種なことなんだけど」
「なに?」
「……えっと、あの、友香里さんが上、なんだよね?」
「上? あゝ、体位のこと。そうだよ、友香里さんが上。こいつを切り落とさない限り僕らには騎乗位か座位くらいしか選択肢がない。つまりはそれもあってアンプタをするわけさ」
「それは違うでしょ」
「違わないよ。豊かな人生を送るための第一歩だ。薫も想像してごらんよ、柏原なにがしとのセックスがこの先つねに騎乗位しか選択できないとしたら、ちょっと眩暈がするだろう?」
「……する。かな?」
「もしかして薫はわざわざ事前に訪問予告を送ってまでして僕と友香里さんがどんな体位を選択しているのか知りたかったわけ?」
「違うよ!」
 思わず声を上げてしまい、慌てて両手で口元を覆った。
「違うのか。どうもテーマが見えてこないな」
「だから私が言いたかったのはお母さん絶対感づいてるから注意して振る舞わないと友香里さんと会えなくなっちゃうよってこと」
「ずいぶん早口で言ったね。要するに節度を保て、と」
「うん」
「毎日やっちゃダメだ、と」
「当たり前」
「二週に一度しかできない姉の心情を慮れ、と」
「いやそんな話はしてない――」
「高校生って人生でいちばん窮屈なステージかもしれないな」
 ゴロンと仰向けになって天井を睨みつけてしまった衛を見下ろし、薫はつい要らぬことを口にした。
「ま、破局したら私が車椅子押してあげるけどね」
「薫がなすべきことはそれじゃない。どうすれば自分が車椅子を押すような事態に陥らずに済むか、そこに全力を傾けてほしいね」
「私は認めてるよ、友香里さんのこと」
「薫に認めてもらって解決する問題なのかなあ」
「姉の理解が得られてるって最強じゃない?」
「僕が言いたいのはね、いざというとき僕と友香里さんには籠城戦しか手がないってことなんだよ。でもって確実に兵糧攻めに屈するわけさ。わかる?」
「攻めて出る武器を持ってない。あっても役に立たない」
「そう、役に立たない。役に立たない武器なんて形容矛盾もいいとこだ。豆腐を投げつけて人を殺そうとするくらい滑稽な話だよ。だけどいわゆる『不能犯』ていうのは犯罪者の想像力の欠如ではなく、周囲を取り巻く道具立ての不足が問題なんじゃないかという気がする。僕はこのところずっとその問題を考えてるんだ。当事者と、利害関係者と、オーディエンス――役回りがひとつ足りない。すぐ頭に血が上る利害関係者に冷や水を浴びせかけ、憐れみ、嘲笑い、恥じ入らせる。そういう人間」
「むちゃくちゃ難しそう」
「それに当人にはたぶん悲劇的な結末しか待ってないような気もする」
「やさしい衛くんには躊躇いがあるわけだ」
「いや、まだ誰というターゲットがいるわけじゃないんだけどね」
 衛がなにごとかに取り掛かろうとしているのは薫も漠然と感じていたところである。この夏の切断手術に向けて環境を整え直そうとしているのかもしれない。切断後の新しい世界に必要となるピースを集めるのだ。紺野友香里との勝ち目の薄い籠城戦に追い込まれないために。
 見ていると、薫もふと気づいたのだが、うっかりすると毎日でも会いに来てしまいそうなのは、実は紺野友香里のほうだ。彼女はこのゲームに身を投じてしまっている。ゲーム? うゝん、そういう意味じゃない。衛がおかしな言い方をするからだ、プレイヤーがいてルールがあるみたいな。今そこにルールを無視して動ける人間が欠けていることが問題なんだとか。
 本来それは「姉」なる属性を持つ自分が果たすべき役割なのではないかと薫は薄々ながら察している。しかし衛は決してそうは言ってくれない。衛は端から薫を勘定に入れていない。おとなしく勉強し素直に東京に行けばいいとしか言わない。
「ゴールしてそのまま病院に担ぎ込まれるようなやり方はスマートじゃないだろう?」
「じゃあ、駆け落ちする?」
「ふむ」
「心中とかもあるよ?」
「あゝ」
「講談の世界になっちゃうね」
「道ならぬ恋ってやつか。その線で観客を惹きつける手も確かにあるな」
「ふたりに陶酔してくれる信者を集めるみたいな感じね」
「紅葉の散り敷く路か、桜花の舞い散る丘を、友香里さんが僕の車椅子を押して歩いて行く情景に、ゆっくりとエンドロールが重なる」
「まあ美男美女であることは否定しないよ」
「学校ではすでに『謎の美女』というレッテルが貼られているらしい」
「友香里さん? そう言えばなんて説明してるの?」
「なんの説明もしてないよ。そしたら勝手に『謎の美女』って扱いになってた。彼女たちはきっと謎は謎のまま解決されないことを望んでるんじゃないかな。なにしろ学校ってところは次々と種明かしを聞かされる場所だからね。生徒が皆つまらなそうな顔をしてるのは味気ない思いばかりさせられるからだよ。時々こそっとQ.E.D.とは書けない命題を忍び込ませておくべきだと思うね。僕はあの場所に友香里さんという大いなる『謎』を持ち込んで学園の空気を活性化させたわけさ」
「車椅子に乗ったおかしな少年てだけで充分じゃないの?」
「僕はダメだよ。経緯も経過もみんな知ってる。そもそもの誕生からしてほぼリアルタイムに知らされたんだから。ある意味僕は誰よりも丸裸にされてるよ」
「そっか。衛はもうスターにはなれないのね」
「なれないね。でも正直ちょっとばかりほっとしてるんだ。もしかしたら僕にはスターになる資質が備わってるんじゃないかって、ずっとそれを恐れてきたからね」
 薫は小さく肩をすくめベッドの端から腰を上げた。
「もう寝る」
「うん、ありがとう。薫と話をすると気分がすっきりするよ」
「そう?」
「きっとこうやってずっとあれこれ話してきたからだろうな」
「かもね。おやすみ」
「おやすみ」
 薫は自室に戻るときも慎重にゆっくりと息を潜め気配を消した。いつもの、これまでの衛と変わったところはないように思った。もし紺野友香里との関係で母が衛を追い詰めるようなことになれば、そのときは自分が身を投じるほかにない。二人の子供からNoを突き付けられてしまう母も気の毒には違いないけれど、紺野友香里を失った衛がどんな目でこの世界を見るようになるか、そのほうがもっとずっと憂慮すべき事柄だ。
 今夜は衛の部屋を訪ねる前に孝介との電話は終えていた。つまらない話だけれど、母は仙台の国立大学に進んだ孝介を、その実績ひとつで信頼している。警察を辞め、まだなにも仕事を始めていない紺野友香里の在り様は、それだけで母の不信を醸成するには充分だ。歩行能力を失ったとは言え衛は今でも優秀な少年であり、母の自慢の息子であることに変わりはない。母は父と古澤と一緒に県下有数の進学校に通った同窓生で、薫と衛もその後輩で、地元の正直ぱっとしない国立大学の心理学修士に過ぎない紺野友香里を軽んじている。

と母は恐らく本当にそう思っている。程度の低い人間に、それも女に、衛を委ねるなどあり得ないと、本気でそう思っている。中途半端な能力しか持っていない女が、その美しさで衛を籠絡し、奪い去ろうとしているものと考えている。
 自分のベッドに入った薫は、母に考え方を変えさせるのは無理だろうと思った。試みるのも無駄なことだ。衛はやはり母から逃げ出すしかない。田舎の高校だから学校の近くに下宿している生徒もけっこういる。いやダメか。車椅子が邪魔をするのか。高校生相手の下宿にバリアフリーを求めるのは無茶な話だ。それならどうする? ほかになにがある? ――いや、これは私が考えることではない。こんなことを考えているのが衛に知られたらまた激しい拒絶に遭う。私は衛の世界では何者でもない、小さなころからあれこれと話してきた、ただの「姉」だ。
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