§08 05月12日(木) 14時頃 海辺の咆哮

文字数 3,807文字

 豊田行雄のような男の耳にまで届くということは、すでに相当多くの人間が知っていると考えていい。退職した紺野友香里が、あのフルサワ精器と雇用契約を結んだ。野上雄一郎、久瀬衛、フルサワ精器、紺野友香里――あの厄介な事故・事件に関係し、その顛末の裏側を知る人間は少なくないとは言うものの、フルサワ精器と紺野友香里の結びつきをあれこれ詮索する人間はいなかった。触らぬ神に祟りなし。事情をもっともよく知る正木警部補も無用の想像を無闇に膨らませるタイプではない。
 しかし豊田はまさにそのようなタイプの男であり、同時に常に見当違いの場所を掘ってしまう男なのだが、どうしたわけかこのときばかりはずばりと的の中心を射貫いた。フルサワ精器が紺野友香里を相応に処遇するということは、すなわち、紺野友香里が今もなお久瀬衛と深く結びついていることを意味するほかにない、と。この男には珍しく確信めいたものを抱いた。
 しかしまた豊田という男のニューロンは単純な反射的情報伝達しかしないものだから、紺野友香里は臨床心理士として久瀬衛をケアし続けているのだと受け取ってもいた。まさか二人がいわゆる男と女の関係にあるとは夢想だにしていない。知ればあんぐりと口を開けたまま数分は動けないだろう。動き出すのだって恐らく口の中が乾いたから唾液で湿らせるために過ぎず、理解した状況になんらか対処するためではないかもしれない。前者は生理的な機序に伴う課題解決であり、後者はいわゆる「魂」の働きに関係する厄介な事柄だ。
 それにしても運のいい女だと豊田は思った。フルサワ精器は地元でも数少ない高級ブランドのひとつである。どのような雇用形態か知らぬが労働者を使い捨てにするといった類いの悪い噂がない企業だから、この先惨めな思いをする可能性は低いと見ていい。やはり美人は得をするというひとつの例証なのか。そう言えばどんな顔をしていたのか朧気になりつつあることに気がついて、豊田はやや狼狽した。いつからかステレオタイプな美人顔しか思い浮かばなくなっている。
 なにやら難しい顔をし始めた豊田の様子を、離れた席から保奈美が気味悪そうに眺めていた。今日は休みの予定だったのだが、ゴールデンウイークの報告書の中にあり得ないミスが見つかってしまい、早朝から書き直しを余儀なくされ今さっきようやくそれを終えた。机の周りの片付けを始めたところで豊田の気持ちの悪い顔を見てしまったのである。
 運の悪いことに目が合った。豊田が明らかに自分を目指してやってくる。保奈美は片づけを急いだ。目の前でピシャリと戸を閉めてやろう。
「今日はもう上がり?」
「五時から出てましたので」
「うわ、それは大変だったな。昨夜なにかあったの?」
「大したことじゃありません」
 腰を上げ椅子をデスクの下に押し込んだ保奈美に、豊田が馴れ馴れしく体を寄せて囁きかけた。
「紺野さんとフルサワ精器の話、聞いた?」
「それがなにか?」
「要するに紺野さんまだあの少年のケアを続けてるってことだろう?」
「さあ、知りません」
「いやそうだって。あの少年はフルサワ精器と関係が深いんだよ。知らない?」
 保奈美はイラっとして豊田の顔をまっすぐに見据えた。
「辞めた人間の身辺を嗅ぎ回ってなにか楽しいですか?」
「あ、いや、俺は――」
「失礼します」
 わざと豊田を押し退けるようにしてデスクを離れた。いけない。感情的になってはいけない。私は彼らに対して当事者でもなく利害関係者でもなく、かといって傍観者でもない、そんなニュートラルな立場を久瀬衛から求められている。彼らを守ることも責めることも求められてはいない。笑うのはいい、呆れるのはいい、諭す、戒める、首を傾げる、あるいは頷く、慰める、肩を抱く。――いや、そんな場面は訪れないよね。
 朝方の雨は予報通り上がっていた。降り続くようであれば考えるとの話だったが、連絡は届いていない。表は少し肌寒かった。駅前でワンボックスカーを借りた。車椅子を上手に折り畳める自信がなかったので、適当に押し込めそうなサイズを目分量で計り大きめの車種にした。ファミレスに入って昼食を済ませると、示し合わせた通り学校とは駅の反対側の隅に車を停め、時間を調整した。
「まずステップを内側に倒す。…そう。…後ろに回って、ハンドルの付け根にストッパーがあります。…それです。内側に押すと倒れます。…そしたらシートの前後を持ち上げて下さい、ゆっくり。…上手じゃないですか、沢邊さん! 薫よりよっぽどうまい」
 想像していたほどの大きさでも重さでもなかった。折り畳むのだって造作もない。ただ衛が乗り降りする様子を見て、大きな車種にして正解だったとは思った。二十分ほどで風力発電所を見上げる海辺に出た。衛が降りたいと言うので車椅子を拡げた。南西の風はさほど強くない。岩と草と砂の斑模様になった道で、保奈美がハンドルを握った。思いがけないことに、車椅子を押すのは難しかった。足元の悪さと風の強さのせいばかりではない。保奈美は緊張した。ハンドルから伝わってくる衛の体重が、大袈裟に言えば命の重さそのもののように感じられた。波間が見えたところでようやくストッパーをかけると、保奈美がほっと息をつくのと同時に、衛は大きく腕を拡げて深呼吸をした。
「あゝ、海は気持ちがいいなあ」
「晴れてればよかったのにねえ」
「でも、これはちょっとシマッタかもしれないな。海で沢邊さんとデートしたなんて、万が一こんなことが知られたら不機嫌どころじゃ済まなくなる」
「デートじゃないから。ていうか、君、彼女いるんだ?」
「え、だから、友香里さんですけど」
「ん? あゝ、え?」
「友香里さんです」
「紺野友香里?」
「あれ? 承知してるものだとばっかり」
「いや、でも彼女でしょ? あゝ、え?」
「どんな体位であれするか知りたいとか?」
「いやそんなの知りたくないけど。それマジなの?」
「そっか。そこから始めないといけないのか。面倒臭いな」
 保奈美は乾いた場所を探して衛の斜め向かいに腰を下ろすと、昨年秋の事故以降に起きた驚くべき物語を聞いた。元々今日は出勤するつもりがなかったので海辺に行くことを承知したのだが、思わぬ展開でスーツのまま草と岩の上に乾いたところを見つけて座る事態となってしまい、なんとも心地が悪い。しかし久瀬衛という少年の語り口はおもしろかった。「沢邊さん」が途中から「保奈美さん」に変わり、看護師の形容をするのに「保奈美さんみたいにお尻の大きな」などと口にし始めたところで、保奈美はその都度いちいち窘めるのも諦めた。これは要するにそのような(たち)の少年なのであり、しかしあの紺野友香里の穏やかに落ち着いた線の細い気配とはどうにも相容れず、目の前で饒舌にしゃべり続ける少年との房事など想像もできないことだった。
「オーケー! もうその辺でいいわよ」
 衛の話が回復期リハビリテーション病棟に移ってしばらくした場面で保奈美が遮った。
「とりあえずフルサワ精器の社長が噂以上にとんでもなくヤバい人だってことだけはよくわかった。――それで少年、君は紺野さんに内緒で私とどんな話がしたいわけ?」
「たとえば、クラスに西尾さんという可愛らしい女の子がいます」
「うん」
「僕が教室を出ようとすると必ず振り返ってくれる気持ちのやさしい女の子です」
「ほお」
「今日、彼女のノートが引き裂かれました」
「はい?」
「もう二度と彼女が僕の車椅子を押すことはないでしょう。たとえばそういう話をしたい。もっと早くに誰かと西尾さんの話をしていれば今日のような事態は回避できたのではないか。たとえば保奈美さんが『あんまり贔屓にするとあらぬ誤解を招くよ』とか言って牽制してくれたかもしれない。そうした一言で気づかされることが世の中には本当にたくさんある。僕はあの事故のために、そしてこの脚のために、周囲の熱量を少しばかり引き上げてしまう人間になった。たとえば古澤氏は元々ちょっとヤバい人だったけど保奈美さんが言うようにとんでもなくヤバい人になった。同じように西尾さんはきっと誰にでもやさしい幸せな女の子のはずなのに僕の前でぽろぽろと涙を零すことになった。そうしたことを恐れて僕が明日から貝のように口をつぐんでも、今度は貝のように口をつぐんだことがまた、どこかで新たに熱量を上げてしまう。西尾さんみたいな人を次々と生み出してしまう。だから僕には保奈美さんが必要で、もしかしたら保奈美さんじゃないのかもしれないけど、とにかく僕のどうでもいいような話を聴いてくれて、僕の耳にそろそろ気をつけろとか囁いてくれる人が必要で、だから、僕はもう、西尾さんみたいな人を増やしたくないんだ。そんなのは母さんと、薫と、古澤氏と、友香里さんと、それ以上には増やしたくないんだ。あんなの、だってあんなの、だって、そうだよ、あんまり酷いじゃないか!」
 衛の咆哮は風に飛び、波の音に掻き消された。保奈美は泣きじゃくる少年を胸に抱き一緒に泣いた。それもまた風に飛び、波の音に掻き消された。目の前でひとりの少年が壊れてしまう姿なんて見たくない。だから保奈美は少年がバラバラになって風に飛び、波に運ばれ、海の底へ消えてしまうようなことがないように、少年の頭を強く胸に抱きしめた。ガタガタと震える少年はほんとうに今にもバラバラに砕け散ってしまいそうだった。
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