§13 06月07日(火) 14時頃 目撃者Ⅱ

文字数 3,588文字

 教室の喧騒と臭気に酷い眩暈を感じた。冷たくなった頬を汗が伝い落ちるのがわかった。誰かが呼びかけている。けれども言葉が判然としない。腕をつかまれ無理やり席を立たされた。教室の喧騒が静まった。誰かの声に無意識のうちに頷いていた。雲の上を歩くように足が軽かった。
 奈々は保健室のベッドの上で目を覚ました。そっと上体を起こして周りを見回し耳を澄ませた。足音が近づいてきてカーテンが開いた。養護教諭の里村は生徒たちに人気が高い。女子にも、男子にも。引き締まった体と薄い褐色の肌の上で、笑うと可愛らしいえくぼができる。が、態度も口の利き方もその印象を大きく裏切るもので、生徒たちからの人気の一端もその辺りにあった。
「気分はどうよ?」
「はい。大丈夫です」
「軽い脱水症状だね。今日暑いから。これからもっと暑くなるよねえ。やだやだ」
「先生、私はどうやってここに……」
「蓑田に腕を抱えられてきた。お弁当食べ始めたとき、なんか変だな?て思ったってさ」
「あゝ、そうだったかも」
「ちょっと座るよ」
 里村はベッドの足元に腰を下ろすと、奈々の顔を覗き込むような仕草をして見せた。
「本当はあなた、自分でスイッチ切ったでしょ?」
「スイッチ?」
「ブレーカーが落ちたってこと。漏電か、過電流か。昼休みが始まってすぐに起きた出来事と関係してそうだね」
「……見てたんですか?」
「見てたねえ。ここ見えるんだよねえ。校門も昇降口も。なんでこんなとこに保健室つくったのか知らないけど。ふつうは校庭や体育館から入り易いとこにつくるもんだけどね。――いや、話さなくていいよ。私は養護教諭、保健室の先生、人生相談は専門外。でもそもそも学校にそんな話聞いてくれる人いないよね。私も二十年前に女子高生やってたけどさ、そういうのを持ち込む場って未だにないよね。ほんと、どこにもないんだわ。スクールカウンセラーだって聴いてくれない。聴いている姿勢を見せてくれるだけ。あんたバカねえとか言ってくれないよ、あの人たち。それ言わないとカウンセリングにならないと思うんだけどね、私の個人的な見解としては」
「私はバカなんでしょうか?」
「女子高生なんて概ねみんなバカでしょ」
「確かに、まあ……」
「ねえ、久瀬衛って何者? 事故や車椅子の話じゃなくてさ。どうして教師たちはあの少年を腫れ物に触るみたいに取り扱う? あなたなにか知らない? 私ほら、地元じゃないからさ、そういうの入ってこないんだよね」
「私も知らないです。お父さんのお仕事とか。家がどこかも知らないし」
「じゃあ、迎えに来るあの美女は?」
「福祉関係の人じゃないでしょうか? 今日も病院に行くって言ってましたよ」
「そっか。高校生ってそういうの抜きにして好きになれるんだったね。もうすっかり忘れてるわ」
 そう言われて奈々はふいに思い出した。――そう、あのとき久瀬衛を好きなのだと気がついたこと。具合がおかしくなったのは確かにその直後だった気がする。上体を屈め、顔を寄せた女性の頬か、唇の端っこかに、久瀬衛はキスをしたのだ。校門のすぐ外で、桜の樹の青々とした枝の向こうで。
「……あの、私はそれで、自分でスイッチを切ったと」
「そんな気がしない?」
「なんとなく、そうなのかな…ていう気はします」
「この世界には誰かの代わりを務められる誰かなんて存在しない。欲しいものは手を伸ばさない限り絶対に手に入らない。闘う前に敗けと決めてしまうのは愚か者のすることだ」
「先生さっき話さなくていい、て言ったのに」
「思春期の女の子を揶揄うのが私の唯一の愉しみなんだよ」
「よくない趣味だと思います」
「ほかに愉しいことなんてなんもないからね、この職場。いいかい、間違っても高校の養護教諭になんかなっちゃダメだよ。それはもう人生の敗北を意味するだけだから」
「闘う前に敗けと決めてしまう愚か者」
「あゝ、天に唾したか。――でもわかるよ、恋は人生で二番目に苦しいことだよね」
「一番目はなに?」
「虫歯に決まってるじゃない。『我思う』じゃなくて『我痛む』こそが真理」
「それって保健室の先生だから?」
 鐘が鳴った。何時間目なのか、始まりなのか終わりなのか――里村が腕時計を見た。なにか教えてくれるのかと思ったら、お茶でも飲もうかと言った。奈々はベッドから降り、保健室の中央にあるテーブルについた。里村は香りのいい紅茶を入れてくれた。空調の効いた涼しい部屋で口にする熱いストレートティーは素晴らしく美味しかった。
 ふと扉のわきに見慣れたリュックが置いてあるのが目に入った。見慣れたもなにも、奈々のリュックである。そうか、私はこのまま帰宅するのか。帰宅していいのか。それは助かるな、と奈々は思った。教室に戻れば間違いなくあれこれ尋ねられるだろう。軽い脱水症状、今日は夏日になったから。桜の樹の木陰はだからあんなに色が濃かったのだ。
「ねえ、しつこいようだけど、久瀬衛についてなにか知ってることない?」
「……う~ん。あ! そう言えばこの夏に脚を、なんていうか、その――」
「切断するのか」
「そう言ってました。邪魔なだけだから、て」
「もう動かないんだな、要するに」
「はい。そうみたいです」
「動かないなら切っちゃったほうがいいね。義足も使えるようになる」
「あゝ」
「歩けるようになるってことだよ。両脚だからちょっと苦労するだろうけど」
「そっか。え、でもそれってすごいことですよね? そっか。久瀬くん歩けるようになるんだ。あ、でも……」
 もう車椅子を押すことができなくなってしまう。車椅子だからできたことなのに。体に触れることなくできたのに。不安定な義足を支えるためには腕をとってあげたりしなければならない。もしかすると肩を貸してあげたりしなければならない。触れるどころか、触れられる。久瀬くんの腕がこの肩に回って、私の腕が久瀬くんの背中に回って――
「……車椅子を押すのって、なんか、すごく特別な感じがしません?」
「そりゃまあ生殺与奪の権を握るわけだから。親切で声をかけてくれたのだとしても見ず知らずの人間にコントロールを渡すのは怖いわな。それを委ねられるってだけでもあなたは相当なもんだと思うよ。私ならクラスメイトは断るね。久瀬衛は西尾奈々を信用していい人間だと判断したんだろう。それでも後ろに立つから顔は見えてない。頬が引き攣ってたとしても驚かない。むしろそれが当然だと思う。あなたは集中を切らすことがないってわかったのさ。そうでなければ一回切りで終わっていたよ。もっと仲良くなれたら一度乗せてもらうといい。おっかないよ、あれ。生きた心地がしない」
「そんな危ないものなんですか?」
「車椅子が危ないなんて言ってないよ。コントロールを誰かに引き渡すという行為とその心情について言ってるんだ。利害関係者と当事者以外は触るものじゃない」
「利害関係者と、当事者」
「看護師や駅員、家族や恋人。――あ、恋人はヤバいこともあるなあ」
「酷い……」
「そういう意味では家族も事情に寄りけりだねえ」
「なんか怖い話にしてません?」
「誰の介添えも必要ない、てのがいちばんだな」
「そんなのさびしいです」
「だけど久瀬衛はきっとそのために切断するんだと思うよ」
「そうでしょうか?」
「知らないけどね」
 そんなやり取りを尚しばらく続けているところにノックがあり、ドアが開いた。
「あ、元気じゃん」
 あの「事件」のあと、孤立しかけた奈々に最初に声をかけてくれた蓑田麻央が、今回も奈々を保健室にまで連れてきてくれて、弁当箱を片付け、リュックにノートや教科書を詰め込んで持ってきてくれたのだ。
「一緒に帰ろ」
「うん。今日はありがとう」
「アイスカフェラテおごって。そしたらノートも見せてあげる。大サービスだよ」
「ほんとに?」
「里村先生さようなら!」
 部活のない生徒たちが校舎から出て行く様子を窓辺で眺めながら、里村はこの春に受け取った久瀬衛に関する申し送りを手にした。回復期リハビリテーション病棟からのレポートに見るべきところはひとつもなかった。立って歩けないこと以外、久瀬衛の日常生活にはなんの問題もない。他方、急性期に衛の処置を手掛けた医師からは明確にAmputationを計画すると記されている。現時点では壊死のリスクは回避されているが運動機能が回復する見込みはない。今後の生活を考えれば膝関節離断が望ましく夏季休暇中の施術を前提とした定期検査をスケジュールする、と。すなわち久瀬衛は二学期から義足を担いで登校してくるわけである。里村には義足に関する充分な知見がない。恐らく一度はリハビリに立ち会って療法士や装具士から直接話を聞いておくべきなのだろう。
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