§24 06月21日(火) 17時頃 つまりはそういうことさ

文字数 2,287文字

「僕が歩けるようになったら友香里さんは嬉しい?」
「嬉しいわよ」
「いや、ちょっと待てよ。でもそれって言い直せばこいつを切り落としてくれるのが嬉しい、て意味にならない?」
「それは必要条件ではあるけれど十分条件ではない。使い方これで合ってる?」
「合ってる。どしゃ降りの雨なのに傘を電車の中に置き忘れたのと同じことだ。僕はいま否定したはずの薫と同じような考え方をしてしまった。薫がそこにこだわった意味が少しわかった気がする」
 今日は珍しく体の位置をいつもとは上下を反対方向にずらし、枕をヘッドボードとのあいだに挟み脚を投げ出して座る衛の胸に頬をあて、心音を聴きながら、友香里は頭の上から降ってくる声とおしゃべりをする夕暮れの時間の満足感に浸ってみた。衛の手がいつまでも飽きることなく体の上を這い回ることも許した。お仕置きの、いや折檻の終わったあとの時間はいつも不思議な虚脱感、あるいは喪失感の中に放り込まれる。考えても仕方がないとわかっているのについ考えてしまう事どもが、汗と吐息と一緒にすべて流れ出し吐き出されてしまうのかもしれない。
「僕ね、歩けるようになったら、友香里さんがどこかに消えてしまうような気がしてたんだよ」
「そうなの?」
「もしかしたら友香里さんはそのために遣わされた人なんじゃないかって」
「私は籠に入れられて流れてきたのね。どこから? だれから?」
「わからないな。最近なんだかいろいろとわからないことが増えてるんだよね。前はいろいろわかっていたはずなのに、今はいろいろわからなくなっている。そんなことってあるかな? いろいろわかっていくものなんじゃないのかな?」
「たとえばなにがわからないの?」
「たとえば彼らのことだよ。僕は先週の金曜日まで彼らのことなんかまったく知らなかったのに、今日は廊下の窓からがんばれ!とか言われてる。まだたった二日三日しか経っていないのに。そんなことが起こるなんて僕はほんとうにまったく考えてなかったんだ」
「衛にとっては二日三日なのかもしれないけど、きっと違うのよ。お友達にとっては二ヶ月三ヶ月なの。先週の金曜日からじゃなくて、もっと前から衛のことを考えてたんだわ」
 手術後に断端がしっかり治れば衛は膝立ちのような姿勢をとることができるのだろうか。初めて衛のほうが上に乗ることができるかもしれない。初めて全身の力を抜き、衛にすべてを預け、衛の思うがままを受け入れるのは、なんと魅力的な誘惑だろう。衛の渇望が、それを満たそうとする欲動が、(いかづち)のようにぶつけられてくる衝撃を夢想して、友香里は自分がどれほどそれを焦がれているかを思った。いつか耽溺の先にある破滅を想い、衛と一緒に溺れ一緒に滅びたいと願ったことがあったけれど、いよいよそれが現実の姿をとって迫ってくる。身震いするほどの悦びが待っている。それを目の前にしている今、私が衛の前から姿を消すことなどあるものか。
「そうか。そうなるとそこには僕の知らない僕がいたことになるね。僕の知らない僕がずっと彼らにあれこれと働きかけていたわけだ。僕は始まりの日みたいに思ってたけど、彼らにとって先週の金曜日はずっと前からの延長線上にあって、今日のあれも同じ延長線上にあった。だから彼らはがんばれ!なんて叫んでしまった。そういうことだね?」
「うん。そういうことだと思うわよ」
「そうか。それはでもずいぶん不思議なことだね。僕の知らない僕はなにをしてたんだろう。こっちの僕がこうして友香里さんとエッチなことをしてるあいだ、そっちの僕はなにをしてたんだろう。あいつ羨ましいな、とか思ってたかな? たまには替わってくれないかな、なんて」
「ちょっと困るわね、それは」
「どうして?」
「だって私には見分けがつかないかもしれないじゃない? 一昨日のあれは実は僕じゃなかったんだよとか言われたら、私もうパニックよ」
「でもやっぱりちょっとした違いはあるんじゃないかな」
「たとえば?」
「そうだなあ。たとえば友香里さんのおっぱいにどっちから吸いつくか、とか。ちなみに僕は右って決めてるんだよ」
「はい…?」
「あ、ちんちんがちょっと曲がってるとかもあるかな。それって入ってきたときにわかるでしょ? わからない?」
「まあ、わかる、かな…?」
「僕が知ってる僕と友香里さんが知ってる僕もやはり同じように違う。外受容感覚と内受容感覚が脳内で統合されて僕という個体が認識されるわけだけど、たとえばキスをしたりそれこそちんちんを入れたりするとその境界が侵食されるわけで、そこで僕らはお互いが持つイメージを無媒介に交換しているのだとも考えられる。実際僕は直接的に友香里さんを感じるし、そこになにかが媒介している感覚がないんだ。ほんとうにダイレクトに感じるだよ、友香里さんの核のようなものを」
「それはどんな形や色をしてるのかしら?」
「形や色はないよ。ないというか、感覚器官を媒介して捉えられる友香里さんとは違うんだ。綺麗だなあとかいい匂いがするなあとか柔らかいなあとか、そうしたものじゃない。そうした情報処理をすっ飛ばしたところで感じる友香里さんそのものだ。わかる?」
「う~ん、わかるような、わかってないような」
「ちょっと顔を上げて」
 友香里が胸の上から顔を上げると衛が濃密なキスをした。
「いま触覚と味覚と嗅覚とが働いたよね。でもそれ以外のなにかもあったろう? なかった?」
「あった」
「つまりはそういうことさ」
「もう一回して」
 夏がやってくる。
「もう一回」
 夏は繰り返しやってくる。
「もういっ……」
 私たちの過去や未来など、夏にはなんの関係もない。
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