§05 04月19日(火) 15時頃 謎の美女

文字数 3,622文字

 ――今日は車で迎えに行きます。帰宅が遅くなる理由を考えられる?
 昼休み中に受け取った友香里からのメッセージについて、衛は午後の授業中ずっと頭を働かせていた。帰宅が遅くなる理由なんていくらでも考えられる。そもそもまっすぐ帰宅する理由のほうこそ存在しない。あるとすれば事故なく帰ってきたことの目安になるという程度であり、それは予め帰宅が遅くなることを伝え基準点を動かしておけば済む話だ。衛が考えていたのはだからそこではない。そんなメッセージを寄越した友香里の思惑に関してだった。
「久瀬くんてさ、ずっと送り迎えしてもらうの?」
「いや、月末まで」
「あ、そうなんだ。一人で大丈夫?」
「駅員にお願いすれば」
「駅ってどこだっけ?」「同じ駅の子いるよね?」「男子じゃないと無理じゃない?」「でもいつも付き添ってるの女の人だよ?」「そうそう、すごく綺麗な人」「綺麗だよね、あの人」「ねえ、あの人って久瀬くんのお姉さん?」「天野がめっちゃそそる!て叫んでた」「なにそれ?」「天野っていつも胸見ない?」「見る見る!」「副島さんとかすごいイヤそうな顔してるよ」「あの子おっきいよね」「ぜんぶおっきいけどね」「それ言っちゃダメ」「ねえねえ、久瀬くん、あの人ってだれなの?」「久瀬くん、聞いてる?」
 帰宅が遅くなる理由。――そうか! まっすぐ帰るからいけないのか。元凶は送り迎えなんだね。送りはともかく迎えが問題なんだね。お迎えをやめればいいんだ。そうか、気がつかなかったよ。抜かったなあ。友香里さんきっと気づいたんだな。お迎えをやめればいいんだ。そうすれば友香里さんの家に行ける。あそこは昼間は友香里さんしかいない。僕らはなにをしてもいいわけだ。いやなにをしてもいいわけじゃないか。いやなにをしてもいいんだよ。そうだよね?
 予鈴が鳴った。少女たちが自席に散って行った。数学教師がやってきてこの日の最後の授業が始まると衛は窓の外に目をやった。窓際のいちばん後ろが衛の席だ。他の生徒たちの行動を邪魔することなく車椅子の可動域を確保できる。この先二年間ずっとこの席なのだろう。友香里さんの車は何色だったかな。二台あったよね。どっちでくるんだろう。シルバーと薄いグリーン。きっとグリーンのほうだな。あっちのほうが小さいし、友香里さんに似合っている。
 でもまさか沢邊保奈美が現れるとは驚いた。前に友香里さんの話に出てきた人だ。少年課だったんだな。やけにお尻の目立つ人だ。それも蠱惑的に。こんなこと絶対に友香里さんに言っちゃいけないな。友香里さんのお尻も素敵だけど。いや友香里さんのお尻のほうが断然素敵だよ。マズい、授業中に思い出しちゃダメだ。でも追い払えない。困ったな。でも仕方がないよ。だってこのあと友香里さんの家に行くわけだろう? あれは正式には背面騎乗位と呼ぶらしい。正式な呼称なんてものはないか。とにかく振り返る横顔が堪らなく素敵なんだよ。そう言えば春画にも「見返り美人」てテーマはあるのかな? いやだからマズいって……。
 さっきの女の子たちはなんだったのだろう。天野? 副島? そんなのいたか? そもそもあの子たちの名前もまだ覚えてないな。よくやってくるけど。たまに混ざることのあるいつもポニーテールにしている子はなかなかに可愛い。髪で耳や頬、特にこめかみから顎にかけての稜線(いわゆるエラ)を隠している女の子はまず見込み薄だ。そういう傾向が強い。自覚があるから隠すのだろう。あの子は自信があるから見せるのだろう。確かになかなかに可愛い。友香里さんには遥かに及ばないながらも上手に立ち振る舞えば恵まれた人生が待ち受けているはずだ。
 でもまさか沢邊保奈美が現れるとは。ゴールデンウイーク明けのどこかと言っていた。友香里さんに嘘をつかなければいけない。学校内での用事を拵える必要がある。外での用事だと友香里さんも一緒に行くとか言い出すかもしれない。街中で会うのは避けるべきだろう。誰の目に見られるかわからない。住宅地の路地に入った公園とか。乗り降りが厄介だけど車の中とか。沢邊さんは車持ってるかな。しかし彼女はこれまでの経緯をどこまで承知しているのだろう。少年課だから詳しくは知らないはずだ。僕の事故・事件は少年課とは関係がない。
 校門はこの窓の反対側にある。だから窓の外を眺めていても友香里さんの車は見えない。それにしても退屈な授業だ。数学がこんなに退屈であっていいものだろうか。いいわけがない。哲学を頂点に据えたとき、二番目に来るのが数学と文学だ。それがこんなに退屈なのは恐らく教師が数学の背景に哲学を見ていないからだろう。あるいは数学と並び立つ文学への造詣が浅薄なのだろう。技術的には予備校の講師に劣り、哲学や文学を語ることもできない。教師がすべからくそんなだから僕は学校の外に大人を探さなければいけないわけだ。僕らの貴重な時間の大半を拘束しておきながら、とんだ役立たずもあったものだ。
 いま校庭の向こうの道をシルバーの車が行き過ぎた。明らかに女性が運転していた。友香里さんと同じくらいに少しだけ伸びた髪を結んでいるように見えた。シルバーの車は少なくないけれどこの退屈な授業もあと十五分で終わる。廊下の窓から友香里さんの車が見えたら素敵だろうな。いや廊下の窓からは空しか見えないのだった。背筋を伸ばしても窓から見下ろすのは僕にはできない。だから校舎を出るまでは見られない。こういう時にはちょっと残念な気分になる。結局今日も男子の体育を見学させられたし。それも結論が出せなかったとか。しかしその場を言い繕ったのは明らかだ。なんらかの意思決定をするには理屈と勇気が求められる。要は先延ばしにしたのだ。
 友香里さん、僕はこの先もこんな世界で生きて行かなくちゃいけないの? もう少しマシな景色が見られるものと思ってたんだよ。それなのにいま僕の目に映る世界には友香里さんの姿のほか見るに値するなにごともない。だから僕の視界をすべて友香里さんの姿で埋め尽くしてしまいたい。だけど友香里さんとずっと一緒にいるためには友香里さんの姿だけを見ていたのではダメなんだよね。僕はすでに〈父の名〉が発せられてしまったあとにいるものだから。
 あ、あの子が指された。西尾さんていうのか。自信がありそうだな。うん、やっぱりね。そう、証明はそれで合ってるよ。きれいな字を書くなあ。いま僕を見たね。僕が見ていたからか。先生、そいつに説明なんか要らないよ。西尾さんはいちばん簡潔な証明をしたじゃないか。
 授業が終わりテキストを片付けるとリュックを膝の上に乗せた。教室の後ろを扉に向かう途中で衛はふと顔を西尾奈々に向けた。奈々もちょうど衛の姿を目で追っているところだった。衛が首を傾げると奈々も首を傾けつつ歩み寄ってきた。
「西尾さん、ちょっと窓から校門の辺りを見てくれないかな?」
「あ、うん、いいよ」
 衛が先に、奈々が後に続いて廊下に出ると、窓辺に寄った。
「車が見える? シルバーか、薄いグリーン」
「シルバーの車が見えるけど」
「へえ、シルバーのほうなのか」
「なに?」
「うゝん、ありがとう。それじゃあまた明日」
「……うん、気をつけてね」
「ありがとう」
 エレベーターに向かう衛を見送ってから奈々はもう一度窓の外に目を向けた。しばらくして衛の車椅子が校舎から出てくるのが左下に見えた。同時に車から女性が降り立った。いつもの綺麗な人だ。今日は車で迎えに来たのか。どこか出かけるのかな? 衛が後部座席に潜り込むと女性がドアを閉め、車椅子を折り畳んでトランクに収めた。運転席に回り込むときにちらりを校舎に顔を上げた。はッとして奈々は身を固くした。一瞬、目が合ったように感じた。けれども女性はなにごともなかったように車に乗り、衛とともに走り去った。
「奈々っち、なに見てるの?」
「いま久瀬くんが車に乗って帰ってった」
「車? 珍しいね」
「でも運転はいつもの綺麗な人だったよ」
「謎の美女だよねえ」
「福祉関係の人でしょ、きっと」
「いやいや。あれはいわゆる『謎の美女』だと思うな」
「それってなに?」
「なんだかわからないから謎なんだってば」
 奈々はもう一度ちらりと外に目をやってから教室に戻り、時計を見て、慌ててリュックを背負うと部室棟に駆け出した。この日は珍しく茶道部兼華道部の自主的ではない活動があった。基本的に活動はほぼ自由であり、言い直せば活動などないも同然の部活である。奈々は運動が苦手だ。マットの上で前転すらまともにできない。お尻を持ち上げられないほど太っているわけでもないのに。登校するだけで息が上がってしまうほど虚弱でもないのに。どこからどう見ても完全で完璧な中肉中背の十六歳なのに。いまだに時間割に体育のある日は前夜から憂鬱な気分になる。
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