§28 07月06日(水) 24時頃 寝つけない四人の女たち

文字数 3,141文字

 十一時過ぎには衛は寝息を立て始めた。もちろんそれを聴くことができたのは姉の薫ひとりきりである。ベッドのわきの畳の上に来客時用の布団を敷いて横になった薫の耳に、灯りを消して間もなく衛の寝息が聴こえてきた。心配する必要もなかったとは思わなかった。一緒に寝てあげると言ってあげてよかったと思った。結局お風呂にも一緒に入ってあげた。薫はずっとバスタブに肩まで浸かっていた。風呂場でも衛があれこれとおかしなことを口にするものだから、湯から上がったとき危うくのぼせて倒れそうになった。それでも衛の脚をしっかりと見た。大袈裟でなくこの世の見納めなのだとしみじみ感じ入った。衛は隠そうとしなかったので陰部も見えてしまった。柏原孝介のそれよりもかなり大きいように感じた。しかし勃起している状態ではどうなのだろう。きっとついそんなことを考えてしまったから余計にのぼせたのだ。
 衛の寝息が聴こえてきたとき、だから薫は言うまでもなく、ほッと安堵した。安堵したはずなのに今度は自分が寝つけなくなっていることに気がついた。けれども明日は家の前で見送ること以上の仕事はないのだから眠れなくても構わないのだとすぐにそう考え直した。後部座席に衛を乗せ車椅子をたたんでトランクに収めるまで紺野友香里がすべてひとりでやる。薫が手を出す必要はない。それを寂しく思ったことは確かにあった。でも今はもうない。それでも友香里は衛の恋人であって家族ではないのだからいつ消えていなくなるとも限らないのだという思いは頭の片隅に残っている。古澤との約束があって東京に出るのだとしても、同じ古澤との約束によって郷里に戻ってくるわけで、そのとき衛のそばに友香里がいるという保証はどこにもない。だから薫はこの先つねにいつでも衛の車椅子を押してあげられる者として暮らして行く必要があるのだと思っている。相変わらず。
 木之下真由はこの日は休日だった。明日から少なくとも二週間は休みが取れない。しかしそれは木之下がそのように決めたことだった。ご指名を受けて衛を任せられた以上は一日も欠かさず自分が断端の状態をチェックして包帯を巻き直す。衛はトイレも風呂も着替えもすでに一人でこなせるのだから実際のところ手がかかるわけではない。だけど衛は物理的に脚を失うことになる。もちろんここまで充分な準備期間があり、充分なコミュニケーションをとってきた。それでも脚が目に見えなくなったとき衛になにが起こるのかまでは予測不能だ。いつものようにふざけたことを口にしながらなにごともなかったかのように退院してくれたらいいなと思う。もちろんそれがいちばんいい。膝関節離断によって衛の生活がいま以上に困難になるわけではないからだ。しかしそのように冷静に受け止められるとは限らない。十七歳でも、六十七歳でも、予断はできない。
 そんなあれこれを考えているうちに日付が変わってしまった。この仕事に就いてから時間ができれば眠るというなんでもないことのように思えて実はけっこう難しい技をいつしか習得していた。けれども今夜はそれがうまくいかなかった。うまくいかないかもしれないとふと考えてしまったのがいけなかったのかもしれない。言うまでもなく衛は最初から特別な患者だった。不条理な事故に遭い、それでも不幸中の幸いとも言うべきレベルにとどまったものの、当時警察にいた紺野友香里が現れ、夜勤の際には必ず深夜の二時前後にナースコールがあり、おかしな話をたくさん聴かされ、叱ったり怒ったり泣いたりしたあとに、野上雄一郎やフルサワ精器に関する聞いてはいけない話まで知ってしまい、そして専任指名を受けた。病院側は嫌な顔をしたに決まっている。けれども断り切れない事情がある。この田舎町にとってフルサワ精器は途轍もなく大きい。久瀬衛はただ単に綺麗な顔をしたおかしな少年ではない。
 紺野友香里は仕事帰りにガソリンスタンドに立ち寄りオイルの状態などを一通りチェックしてもらった。薄いグリーンの小型車は元々は母と共用してきたのだが、このところ実質的に友香里が専有している。母は久瀬衛という少年について、あなたのしたいようにしなさいと言ってくれた。しかしそう言われて自分はいったいどうしたいのだろうと友香里は考えてしまった。衛と一緒にいる場は幸せだ。この世の富のすべてをやると言われても手放すことなんて考えられないほどに。一時期「プライスレス」という言葉が流行ったけれど、まさに取り換えの効かない唯一無二の場だ。それでいいと割り切るまでに少し時間がかかった。それ以上のなにものも、それ以外のなにものも、この世界には存在しないと信じられるようになるまでに。通いなれた道ではあるけれど、明日もいつもと同じように安全第一でハンドルを握らなければならない。
 寝返りを打ってふとラックの上のデジタル時計に目をやると日付が変わっていた。どうやらうまく寝つけないらしいと気がついてちょっとおかしくなった。今さら衛がなにかを失うわけではないのに、むしろ手に入れられることのほうが多くなるはずなのに。衛のほうこそちゃんと寝つけたろうか。友香里はヘッドボードの上で充電してあったスマートフォンを手に取って見た。夕方のおしゃべり以降、メッセージは届いていない。明日の朝から週末までずっとそばにいる。さすがに夜は帰るけれど。月曜日以降も仕事先から直接病院を訪ねる。ベッドで夕食をとる衛を見るのは久しぶりだ。いつもおしゃべりが過ぎてなかなか食事が進まない。きっとまたそうなのだろうと想像しやはりおかしくなった。痛みはどれくらい続くのだろう。若いから傷口は順調にふさがるはず。キスをしたら、キスだけで終えられるだろうか。それでも無事手術が終わったらご褒美にキスをしてあげないと。
 これはもうぜったいに眠れないやつだ、と西尾奈々は早々に諦めてクリップライトを点けた。しかし手のひらに残る上戸瑛太の感触がすぐにライトを消させた。衛を想ってもやってこなかったのに、瑛太にそれができることが不思議だった。奈々は手のひらをそっとパジャマの下に差し入れた。それは自分の手でありながら明らかにもう瑛太の手でもあった。衛の手が一度も届かなかったところに瑛太の手はこれほどあっさり届いてしまう。不思議を通り越して奈々は困惑した。初めて経験する激しい欲情だった。途中で立ち位置を入れ替えて手を繋ぎ直したために、瑛太の感触は右手にも左手にも両方に残っている。左手を下から上に、右手を上から下に差し入れて、奈々は顔を赤らめながらいくども息を漏らした。衛の顔は見えなかった。衛の声も聴こえなかった。その間、むろん最後まで、それを怪しみもしなかった。それを恐れもしなかった。
 クリップライトを点け直したとき、唐突に衛が現れた。ずっと見られていたという感覚が確かな手応えとともに降りてきた。しかし恥ずかしさはどこにも見当たらない。奈々は見上げる天井に衛の眼差しを置き、今度は枕元から照らす灯りに身を曝け出したまま、じっと目を見開いて口元に笑みを浮かべた。それでも手は瑛太の手のままに奈々をふたたび最後まで誘(いざな)った。どうしよう、て困ってたの。本当にこれが久瀬くんだったら困るな、て思ってたの。だって私には届かないでしょ。久瀬くんの手は私には届かないでしょ。それってやっぱり酷いことだと思うのよ。惨いことだと思うのよ。でも違ったんだね。よかったあ。ほんとによかったなあ。え? もうこんな時間なの? もう明日じゃなくて今日なんだね。久瀬くん、がんばってね。二学期にまた会おうね。学校ではこれからも私が車椅子を押してあげるから、安心してくれていいよ。(第二部 了)
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