§07 05月12日(木) 11時頃 西尾奈々

文字数 3,470文字

 教室の後ろを窓際から廊下に向かう車椅子の気配に振り返ると、久瀬衛がいつも必ず目を合わせ笑みを返してくる。単なる挨拶に過ぎないときと、なにか頼みごとがあるときと、そのわずかな違いを西尾奈々は的確にとらえ、笑みを返すか歩み寄るか、次の行動につなげる。
 初めて久瀬衛のそんな笑みに出くわし、なにか頼みごとがあるらしいことを察したのは、ゴールデンウイークの少し前のことだった。廊下の窓から校門を見下ろし、そこに何色の車が停まっているか見てほしいと言われた。例の「謎の美女」が乗ってくる車の到着を確かめてほしいという意味だった。車椅子の衛には窓の外を――空なら見えるけれど校門を見下ろすことができないのだ。そう言えば、毎日必ず送り迎えをしていた「謎の美女」は、このところ雨の日にしか姿を見せていない。
 あのあと、奈々はちょくちょくと衛から頼まれ事をされるようになった。いわゆるバリアフリーへの対応がなぜか不十分な場所がいくつかあり、たとえば視聴覚室とか雨が降ったあとの講堂への渡り廊下とか、奈々は衛の車椅子を押した。それは奈々が教室の後ろを窓際から廊下に向かう車椅子の気配に振り返るからであることを、奈々は認識していなかった。奈々はただ反射的にふと首を振り向けるだけなのだ。
 しかしそんなとき、久瀬衛という少年はいつもおかしな話をする。衛はちょっとおかしな少年だ。どうせ体育を見学させるなら女子のほうにしてほしいと言ったときは、クラス中が爆笑した。視聴覚室のスペースが車椅子を縦に向けられない寸法になっており、そのために机に対して横向きになってしまうことを教師に示しながら、決して先生の発音が世界的ど田舎のオーストラリア訛りであることとは関係ありませんよと言って、赤毛の白人教師を赤面させ苦笑させた。そしてこの日、講堂への渡り廊下には中途半端な隙間があって車椅子のタイヤが嵌まりそうになるのだが、これは車椅子を押したくてうずうずしている人間にその絶好の機会を提供するために用意されたトラップなんだよと、どう考えてもそんなことなどあるはずのない話をしながら、奈々の顔を振り仰いだ。
「つまり君はいま万人の羨望を集めるその選ばれし栄誉をまさに独り占めしているわけさ」
「ねえ、そう言えばどうしていつも私なの?」
「もちろん西尾さんがクラスでいちばん可愛らしい女の子だからだよ」
「……あ、それは、どうも」
「車椅子に座ってるのがこんな美少年なわけだから、それを押すのもまた相応の美少女でなければならない。この栄誉を授かることのできない人間たちの妬み嫉みが醜いイジメに発展する可能性の芽を事前に摘んでおく必要がある。そうだろう?」
「妬み嫉みならもうけっこうあるよ。まだイジメられてはいないけどね」
「イジメられそうな予感がある?」
「どうかなあ。久瀬くん人気あるけど、思い詰める感じとはちょっと違うから」
「思いがけないことを言うね。そろそろ親衛隊が組織されるんじゃないかって思ってたんだけど」
「親衛隊? 久瀬くんの? ないない、それはないよ」
「ふむ、おかしいな。そんなはずはないんだけどな」
 この日は二年生を対象とした進路指導の一環として、ほぼ漏れなく進学するこの学校の生徒たちに、大学の学部・学科が将来どのような職業へとつながって行くのか、そんなセミナーが講堂で開かれた。衛は去年これを聴いている。むろんなにひとつ覚えていなかった。事故のせいで記憶が飛んでしまったわけではない。そもそもが容易に想像できる話しか聞けなかったからであり、また、そもそもがそうした質(たち)の少年だったからだ。
 講堂に入ったところで西尾奈々は車椅子から手を離した。衛はいつものようにクラスのまとまりのいちばん後ろに回った。生徒たちの頭をぼんやり眺めていると西尾奈々の周囲で女の子たちがちらちらと衛を振り返っているのに気がついた。しかしそこで今なにが起きようとしているのかまで、衛には理解できなかった。ほらね、西尾さん、やっぱり僕の親衛隊が組織化されつつあるみたいじゃないか――などと、実に呑気なことを思ったりした。
 講堂から戻る際は教室で斜め前に座る大柄な男子生徒に声をかけた。クラスでいちばん背の高い彼がすぐ目の前にいたからだ。ああいいよ、と渡り廊下で車椅子を押すのを請け負ってくれた。大きくて力のある彼にはこれまでも幾度か頼んだことがある。教室に戻った衛は窓際のいちばん後ろから廊下側の真ん中辺りに座る西尾奈々の横顔をなんとはなしに眺めていた。奈々は衛が車椅子で移動を始めたときはさっと振り返るのだが、ふだん自席から衛に顔を向けることはない。しかし衛がそうして西尾奈々を見ている様子を何人かの生徒が意識していた。衛は気づいていなかった。
 昼休み、弁当を終えて教員室前のトイレから出てくると廊下に見知った顔の女子生徒が二人、衛を待っていた。スライド式の扉を閉めた衛が問いかけるように首を傾けると、二人は少し躊躇うような素振りを見せてから歩み寄ってきた。衛はにっこりと笑って迎えた。
「久瀬くん、あのさ――」
「はい」
「あの、久瀬くんて西尾さんと付き合ってるの?」
「いいや」
「でもいつも西尾さんに頼むよね?」
「あゝ、車椅子のこと?」
「なんで西尾さんなの?」
「やさしくて可愛らしいからだけど」
「やっぱりそうなんじゃない」
「やさしくて可愛らしいからだよ。僕が車椅子で移動を始めると西尾さんは必ず僕のほうを振り返ってくれる。そうしてくれる女の子はあのクラスには西尾さんしかいない。少なくとも君たちがそうしてくれたのを僕は見ていない。確かに全員の顔を確かめてるわけじゃないけど西尾さんだけを見ているわけでもない。それでもさっと僕のほうを振り返ってくれる気配はすぐに感じ取れる。そしてそれはいつも西尾さんだ。少なくとも君たちじゃない」
 二人は微かに顔を引き攣らせつつ互いに目配せをすると、そのままなにも言わずに立ち去った。衛はひとり溜め息をついた。悪いことをしちゃったな、と思った。西尾奈々に対してだ。「可愛い」が「正義」であるかは兎も角として、判断力を鈍らせるのは間違いない。しかし今の二人は正しく理解したのだろうか。仮にこれまで君たちが僕を振り返ってこなかったとして、今後もし君たちが僕を振り返るようになったとしても、そのとき同時に西尾奈々もまた僕を振り返っている限りは、僕が君たちに車椅子を押すことをお願いする保証はない。あれはそう簡単にだれにでも頼める仕事ではないのだ。西尾奈々はただ可愛いだけはないと、そういう話をしたつもりなのだが。
 衛はもう一度溜め息をついてからエレベーターに乗った。二階に着いて扉が開いたとき、向かい側の壁に西尾奈々が立っていた。胸の前にノートを抱えて。誰かが力任せに引き裂いたノート。衛がエレベーターから廊下に出ると同時に、奈々の目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。立ち上がり、歩み寄って、抱き締める。――僕にはそれができない。ごめん、西尾さん、僕にはそれができないんだ。それでも車椅子を奈々のそばに寄せるべきか、衛は迷った。もう彼女に近づくべきではないような気がした。
 と、驚いたことに奈々のほうから衛に歩み寄ってきた。しかし奈々は衛の前ではなく脇に立ち、壁のボタンを押し、いま閉じたばかりのエレベーターの扉を開けた。先に中に入ったのは奈々のほうで、なにを思ったか車椅子のハンドルを握り、衛を後ろ向きに引き摺り込んだ。二人の目の前で扉が閉じ、しかし行き先階を指定されていないエレベーターは、そのまま静かに黙り込んだ。車椅子の後ろに立ったままの奈々の声が、なお零れ続ける涙とともに衛の真上から降ってきた。
「久瀬くん、どっちがいい?」
「どっち?」
「これからも押してほしい? それとも押してほしくない?」
「僕が決める状況じゃないと思う」
「久瀬くんが決めるんだよ。私はそれに従うしかないもの」
「それなら――」
 どうしてこんな酷いことになったんだ!?
「もう、押さないでほしい」
「……わかった」
「ごめん」
 奈々がボタンを押して開けた扉から、衛はひとりで廊下に出た。正確に言えば押し出された。エレベーターは奈々を乗せたまま、ふたたび扉を閉じた。エレベーターが動き出す気配は今度もない。ここに長居すべきではないと思い、衛はうなだれてハンドリムに手をかけた。なにもかもが、この少年には初めてのことだった。
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