§25 07月06日(水) 12時頃 おまえに拒否権はない

文字数 3,537文字

 期末考査が終わった。このところ昼休みばかりでなく、朝も授業の合い間も放課後も、衛のそばに固定的なメンバーが集まるようになっていた。多田雅臣は衛の斜め前だから動かないにしても、西尾奈々と蓑田麻央と上戸瑛太は遥々やってくる。いつも衛のことが話題になるわけではない。車椅子で机のあいだを動くのは難しいから自ずと衛の周りに集まるのだ。あの五人は仲がいいのだなと周囲から見られている。特段の注目を集めているのでもない。雅臣も瑛太もスタープレイヤーではないし、奈々と麻央も学園のアイドルではない。稀代の美少年である衛を囲むことへのやっかみが微かに漂いはしたけれど、いつかの衛の大立ち回りがあり、大柄な運動部の二人がいることもあって、炎を上げることなく燻ぶった。友達の成り立ちというのは説明のつかないものだ。
「帰ったら荷造り?」
「荷造りはもう母さんが終えてるよ」
「なにか予定ある?」
「今日はなにもない」
 そう聞いてから、奈々が雅臣に顔を向けた。
「よし。じゃあこのまま久瀬の家に押しかけっぞ!」
「え?」
「おまえに拒否権はない!」
「いや、でも――」
「この日の壮行会のために西尾が愛情たっぷりのオードブルを用意してるんだ」
「あ~、えっと、注文しただけです……」
「見ろ、このいじらしくもけなげで可憐な西尾奈々を目の当たりにして、久瀬衛という男はそれでも拒否権を請求するほどの鬼畜ではあるまい。そうだよな?」
 衛はその場ですぐに母に電話を入れ昼食の支度をキャンセルしなければならなかった。校舎を出たあとの車椅子は最初から最後まで奈々がひとりで押した。電車の乗り降りは初めて経験することだった。万が一のときは俺と瑛太で持ち上げられるから心配するなと雅臣に言われ、確かにこの二人なら衛を乗せたまま左右から車椅子を持ち上げてしまうだろうと思い少し安心した。それでも奈々は押すよ、止まるよ、と声をかけながら慎重に押した。
 途中、テイクアウトのお弁当屋さんに立ち寄って、注文してあったオードブルを受け取った。こういうときは赤飯を食うものだと雅臣が主張してそれも五人前加えた。確かに参加人数は五人なのだが、そんなに食べられないと女生徒二人がいかにも女の子らしいことを口にしたところ、俺と瑛太が食うから心配するなと雅臣がそこは運動部らしく請け合った。午前に降り出した雨は短時間で上がり、このあとは終日曇り空の予報である。
 バリアフリーにリフォームされている衛の家に驚嘆しつつ、多田雅臣、西尾奈々、上戸瑛太、蓑田麻央の四人がどやどやと上がり込んだ。雅臣と瑛太がリビングのテーブルを衛の部屋に運び入れた。麻央はトレーニングマシンに上がって奮闘してみたがピクリとも動かない。奈々も手伝って二人がかりでようやく少しばかり動いた。そのあとにやる気満々の様子で雅臣が腰掛けるとシャツを脱ごうとした。
「こら、脱ぐな!」
「多田くんの裸とか見たくないし」
「久瀬と瑛太が脱いだらおまえらが欲情するから敢えて俺が脱ぐんだろうが」
「だから脱がなくていいって!」
「なんで誰かが脱ぐ前提なのよ。まったく多田くんバカ過ぎる」
 蓋を開けたオードブルの鮮やかな景色に歓声が上がった。ノンアルコールのシャンパンで乾杯をした。運動部の男子二名の食欲の凄まじさに女子二名が唖然とする様子を衛がおもしろそうに眺めた。話題は終わったばかりの期末考査をめぐって始まり、間もなく脈絡なく発散した。散らかすのは概ね雅臣の役割で、奈々と麻央が眉を顰めたり悲鳴を上げたり笑い転げたりしながら、梅雨曇りの午後がその場をともに楽しむかのようにゆっくりと過ぎて行った。
「義足を使うとなにができるようになる?」
「歩けるようになる」
「そんなことはわかってる。それ以上のなにか、て話だよ」
「ねえねえ、バスケは見たことあるけどバレーもあるの?」
「バレーはシッティングだ」
「シッティング、て?」
「床に座ったままでやる」
「へえ。そうなんだ」
「こいつがそうかな」
 瑛太がスマートフォンをテーブルの上に差し出して、みんなが覗き込んだ。
「ほんとだ、座ってる。ていうか、転がってる?」
「上半身と腕だけでやるわけだからな」
「あゝ、なるほどねえ。で、久瀬くんはなにやるの?」
「僕はなにもやらないよ。運動は苦手なんだ」
「こんなすごいマシン持ってるのに?」
「まあ強いて言えば、ボディビルかな」
「おいおい」
「似合わねえ」
「そうでもないと思うよ。ちょっと脱いでみようか?」
「脱ぐな、つったでしょ!」
 運動は苦手だと吐露したのにも関わらず、みんなして衛が取り組むべきスポーツをめぐり、スマートフォンで動画を探したりしながら、途中トレーニングマシンに多田が無駄に戯れつつ、若者たちは義足や車椅子で行われている様々な競技に触れて行った。こんなことでもなければ知らないままでいたかもしれない。パラリンピックが知名度を高めているとは言え間近で見る機会も少ない。留年した衛が同じクラスにならなければ彼らの話題がその周辺をめぐることすらなかったろう。むろん衛はそんなところまでは考えていなかった。なにかやらされるかもしれない。運動は苦手というだけで逃げ切れるのか。そんなことを大真面目に心配していた。
 リビングから運び入れたテーブルを元に戻し、友人たちは十七時前に帰って行った。玄関から見送って、まるでなにごともなかったかのように片付いた部屋を眺めたとき、衛はひとりで小さく笑ってから自分の脚を見た。――明日、入院する。そして膝関節離断の手術を受ける。すでに動かないとはいえ視界から消えたら僕はそれをどう処理するのだろうと思った。そんなことを考えるのは初めてだったので衛は小さく笑ったのだ。想像もできない事態に直面した際の人間に於いて普遍的に見ることのできる反応として。要するにうまく処理ができなかったということだ。
 スマートフォンに友香里からメッセージが届いていた。十五時過ぎのタイムスタンプでいま仕事が終わったという内容である。水曜の十五時過ぎに届くいつもと同じメッセージだが、今日は昼過ぎに衛のほうから会えないと伝えてあった。衛はお疲れさまと返したあと、少し考えてから、遅くなってごめんと追伸した。ベッドに仰向けになって眺めていると、まもなく衛から送った二通のメッセージが同時に既読に変わり、ややあって笑顔のスタンプが届いた。もう帰宅しているはずの時間である。衛はすぐに電話に切り替えた。友香里もそれを待っていた。
「楽しく過ごせたのかしら?」
「そうだね。概ね楽しかったと言っていいかな」
「そもそもなんの集まりだったの? 試験の打ち上げ?」
「ひとつはね。もうひとつは僕の壮行会」
「例の『がんばれ!』の続きね」
「手術が終わって落ち着いたころお見舞いに来るかもってさ」
「へえ、よかったじゃない。私以外だれも来ないのかと思ってたわ」
「僕は友香里さんだけでいいんだけどな」
「まさかそんなこと言ってないでしょうね?」
「それくらいの常識的分別は持ってるよ」
「怪しいものだわ」
 そこでふと、衛がほんの僅かな間をつくった。
「ねえ、友香里さん――」
「なに?」
「僕は脚を切っちゃうんだよ」
「うん、そうね」
「真由ちゃんにはあんなこと言ったけどさ、やっぱり世界はきっと変わってしまうんだろうな」
「引き継がれるものもちゃんとあるから大丈夫よ」
「たとえばなに?」
「たとえば、私」
「――たとえば友香里さんが、切り落とされた僕の脚を手に、雨の日の横断歩道に立っている」
「それはどこのイメージ?」
「置いてくる世界の出口のイメージ」
「私はずっとそこに立ってるの?」
「友香里さんは新しく現われる世界の入り口にも立っている。だけどその手にはもう僕の脚を持っていない。つまり振り返ると僕の脚を持った友香里さんがいて、行く手には僕の脚を持ってない友香里さんがいる」
「私も一緒に跳び越えるのね」
「手をつないでくれる?」
「もちろんよ」
「脚はどうすればいいかな?」
「脚は置いてくるわよ。そうしないと手をつないで跳べないでしょう? それに跳んだあと、今度は義足を持たないといけないわけだし」
「そっか。そうだね」
 そこで、今度は友香里のほうが小さな間をつくった。
「衛、怖い?」
「うん、ちょっと怖い」
「そうよね。でも跳び損ねたら一緒に墜ちてあげるから」
「ほんとに?」
「約束する」
「わかった。――うん、大丈夫。――ありがとう」
 通話を切ると、衛はベッドに仰向けになって天井を見つめ、友香里はベッドの端に腰かけて顔を覆った。ふたりは夕食の支度が調うまでそのまま動かなかった。なにも考えていなかったし、なにかをイメージしてもいなかった。ただ天井を見つめ、ただ顔を覆っていた。
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