§11 06月07日(火) 12時頃 目撃者Ⅰ

文字数 3,626文字

 あれ以来、西尾奈々は衛を振り返らなくなった。そうするように衛が求めたからだ。不登校なんかにならずに済んでよかったと衛は思った。しばらく奈々はひとりぼっちでいたようだけれど、このところ休み時間に友達と話している様子も見る。トイレの前で待ち構えていた二人の女子生徒が誰だったのか、エレベーターの前に立つ奈々を目にした瞬間に、奈々の目から涙が零れ落ちた瞬間に、衛は忘れてしまった。――そうだ。西尾奈々ではない少女たちはすべて名前と顔を失った。それがあの出来事が結果として固定したものだ。このクラスには久瀬衛と西尾奈々がいて、西尾奈々ではない少女たちがいて、久瀬衛ではない少年たちがいる。この場はそのように描き直された。
 時を同じくして、衛はこの場の外側に沢邊保奈美を手に入れた。保奈美と会うことは友香里に知らされるが、話した内容が伝えられることはない。友香里が本当に開示請求権を放棄したのは意外だった。そうは言っても保奈美と会った直後にはそれとなく探りを入れてくるものだと思っていたし、あるいは保奈美と密かに通じようと試みるのではないかと怪しんでいた。しかし友香里はそのいずれの素振りも見せなかったのだ。
 この日は早退して午後に病院に行く。友香里が車で迎えに来てくれる。なにがあったのか知らないけれど、母はこのところ紺野友香里の名を口にしなくなった。衛がそれを口にしても、たとえばこの日は友香里に車で送ってもらうと告げても、これといって表情を変えない。相変わらず歓迎はしていないようだが明らかな猜疑と拒絶の色を表さなくなった。たぶんゴールデンウイークが明けてしばらくしてからのことだ。休み中、衛が友香里の家を訪ねたのが二度、車で海辺や川の上流に出かけたのが二度、いずれも友香里が車で衛の家に迎えに来た。学校の送り迎えも雨の日のみとなっており、母と友香里が顔を合わせる頻度は大きく減っている。もしかすると万能と噂される「時間」というやつがなにごとか母に施しを与えてくれたものと考えていいのかもしれない。
 連休が明けたあと病院には二度ばかり行った。この夏の切断手術に向けたプロセスの一環である。あれこれとおかしな器機を使って切断予定箇所の状態を定期的に調べている。器機の名前なり目的なりは聞いたけれど衛はそっくり忘れた。医師や看護師やなんたら療法士らが知っていればいい事柄であり、内臓疾患などとは違い、そもそも両脚の膝から下を切断するという手術に際して、患者が成すべきことはこれと言ってない。黙って体を預けるだけだ。
 古澤からプレゼントされたトレーニングマシンは大いに衛の気に入った。その効果あってのことか、衛の体は退院直後に比べると、確かにいくらか逞しくなってきたようである。マシンは膝から先が使えないことにも対応されており、上半身を動かす際には腰や太腿がしっかり固定できるように改造され、どうしても弱ってしまう腰から太腿を鍛えるための器機もあった。奇しくもオリンピック・パラリンピックの年に当たっているものだから、テレビでは車椅子での競技が盛んに取り上げられている。驚くほどたくさんの競技があった。衛は特別運動神経の良いほうではなく、目立って鈍くもなかったが、スポーツは観るものだと思っている。自分も車椅子に乗っているとはいえ、健常者のスポーツのほうが観ていて楽しい。圧倒的な身体能力こそが観る者にとっての醍醐味なのだと嘯き、周囲には勧められたものの、衛はなにかを始めようとは思わなかった。
 昼休みが始まってすぐ、教室を出てエレベーターに向かう途中で、廊下の先からやってきた西尾奈々と正面から出くわした。きっと慌てて顔を伏せすれ違うのだろうと思っていたところ、立ち止まって笑みを向けられたので衛のほうがドギマギしてしまった。奈々は衛が膝の上にリュックを置いているのを目にして声をかけた。
「早退するの?」
「うん、病院で定期検査」
「あ、そうなんだ」
 ゆっくりとエレベーターのほうへ動き出そうとした衛はそこで思いがけず呼び止められた。
「久瀬くん。――私ちょっと聞いたんだけど、あの、手術をするって、ほんと?」
「あゝ、そうだよ。夏休み中に膝から下を切り落とす。もう邪魔なだけだからね」
「邪魔?」
「つまり、ほら、この先こいつらが動くようになる可能性はない、てことさ」
「まったく?」
「そうだよ」
「そっか。……あ、ごめんね。急いでるよね」
「西尾さん、窓の外を見てくれない?」
「ん? あゝ、うん」
 窓辺に寄った奈々は校門の先の路上に薄いグリーンの車を見つけた。
「薄いグリーン。ん、緑だったっけ?」
「シルバーとふたつあるんだよ。今日は小さいほうで来たんだな」
「あ、下まで一緒に行こうか?」
「大丈夫」
「うん。あ、でも……」
 なにやら迷ったらしい奈々を、衛はなんとなく待ってみたくなった。
「あの、久しぶりにちょっと、押したいかな、なんて」
「いいの?」
「いい、いい。ぜんぜん大丈夫だよ」
「じゃあ、お願い」
「うん」
 車椅子の後ろに回り、奈々はほぼひと月ぶりにハンドルに手をかけた。グッと力を入れると、記憶している感覚と少し違っているように思った。エレベーターのボタンを押し、中に入ってぐるりと回転させた際も、やはり明らかに感覚が違っている。奈々はその理由を確かめたくなった。
「車椅子、変えてないよね?」
「変えてないよ」
「でもなんか、ちょっと前と違う感じがする」
「それはたぶん僕が大きくなったからだと思う」
「大きくなった? そうなの?」
「ほら、触ってみてよ」
 衛は右腕を持ち上げて力こぶをつくって見せた。奈々は恐る恐る手を伸ばした。
「ほんとだ。なんか筋肉ついてる感じする」
「でしょ? 肩のほうもね」
「あ、ほんと。なにか始めたの? あ、車椅子バスケとかって、最近なんかよく見るよね」
「トレーニングマシンを使ってるだけだよ」
「ジムにあるみたいなやつ?」
 エレベーターが一階に着き、扉が開いた。
「そう、そう。――でも、そうか。西尾さんさ、車椅子のスポーツでなにがいちばんおもしろい? もちろん観る人間の目線として」
「なんだろう? そんなにいろいろ見てないし」
「じゃあ宿題。観る側にとっていちばんおもしろい車椅子スポーツを選べ」
「いいよ。いろいろ見てみる」
 昇降口を出ると校門の内側にある桜の樹の木陰に友香里が立っていた。衛が手を振ると友香里も軽く手を上げて応え、車椅子を押す少女と目を合わせた。少女は慌てて頭を下げた。友香里は微笑みつつ歩み寄った。上履きを靴に履き替えるべき手前で少女がハンドルを友香里に渡した。
「ありがとう」
「あ、いえ……」
「衛、紹介して」
「あゝ、西尾さんだよ。僕のクラスでいちばん可愛らしい女の子だ」
「久瀬くん、それはちょっと――」
「あなたすぐそういうこと言うの悪い癖よ。さ、行きましょう。――さようなら」
「あ、さようなら」
「バイバイ!」
「うん、バイバイ」
 振り返りつつ奈々に手を振った衛が、顔を上に向けてなにか女性に話しかけた。と、すぐにぽかりと頭をはたかれた。思わずクスッと笑ってから、奈々は慌てて校舎の中に戻った。最後にちらりと振り返ったとき、車椅子は校門を出て左に曲がるところで、女性の頭が衛の向こう側に屈み込んでいた、話に耳を傾けるように。――と、衛の頭がちょっと動き、女性がはッとしたように顔を上げ、ハンドルから離した左手を頬にあてた。奈々は目を見張った。衛はキスをしたのだ。あの女性の頬に、あるいは唇の端に。
 教室には弁当の匂いが充満していた。
「遅かったね」
「うん、ごめん」
「斎藤って話長いから」
「そうだね」
「ん? なにかあった?」
「うゝん、別に。お腹空いた」
「お腹空くと機嫌悪くなるタイプだっけ?」
「そんなことないよ」
 衛の弾けるような笑い声が聴こえたような気がする。女性が少女のように顔を赤らめたような気がする。青々と葉の繁った桜の樹の向こうだった。拡がる枝が二人を覗き込むように垂れ下がっていた。梅雨入り前の初夏の陽射しが差し込んで、今日は少し汗ばむくらいに暑い。
 どうすればいいのだろう。いま目にしてしまった情景をどうすればいいのだろう。久しぶりに車椅子を押すことができてものすごく嬉しかったのに。初めて触れた少年の筋肉に指先が震えるほど胸が躍ったのに。最後に目にしてしまったあの情景をどうすればいいのだろう。
 奈々は稲妻に打たれたように自分が久瀬衛に恋をしていることを悟った。それなのに、どうしてあのような情景を見てしまったのか、意地の悪い偶然を呪いたくなった。しかし順序が逆なのだとは気づかなかった。あのような情景を目にしていなければ、西尾奈々が久瀬衛への恋心を意識する瞬間はやってこなかったのである。
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