第3話 幻の文明

文字数 12,617文字

 第2章 幻の文明 

 1

 デルタ社では、世界各国の情報交換や戦略を練るため、定期的にグローバル会議が開かれる。その年の秋、これが最後と予想されるグローバルEHS会議がやってきた。
 この団地が略奪者集団に襲われ、二人の犠牲者を出してから二年が経っていた。あれ以来暴動の兆しはないが、念のため、家族を妻の実家にあずけ、岳はアメリカへと立った。
 デルタ社のヘッドクォーターを置くボストンから、コバルトブルーのカリブ海に浮かぶプエルトリコ島に向かった。
 早朝、サン・ファン空港から武装したタクシーで二時間ほど走ると、検問所のようなやぐらが見えてきた。弾帯をクロスに肩掛けし、機関銃を構えた髭の男が、辺りに目を光らせている。窓口の警備員に身分証を見せ、歴史あるリゾートホテルのゲートを潜った。
「やあ、久しぶりだね! 再び会えて嬉しいよ」 
 岳は顔見知りの各国の代表者たちと肩をたたき合った。
 ここはプエルトリコの西海岸にあるリゾートホテル『パルマス・デルマール』のロビー。海岸側は解放されており、広い芝生に立ち並ぶヤシの木の向こうに、きらきらと輝く真っ青な海が、どこまでも広がっている。だが、一つ無くなったものがある。あのなだらかに傾斜していた広大な砂浜だ。5年前はその砂浜に戯れる若者たちの姿が蟻の行列のように見えた。今は寄せ返す波の音が足元に迫り、「危険! サメに注意」の看板が目の前に立っている。サメがクロマグロほど美味しければ、このホテルも一層繁盛したろうに。
 プエルトリコは、カリブ海北東に位置するアメリカ合衆国領であるが、コモンウェルス(米国自治連邦区)という特別な立場にあり、税金の特別措置があるため海外の一流企業が多く進出している。広大な工業団地では、デルタ社の主力工場も稼働していた。
 会議が始まった。冒頭に、ボストンからスカイカーでやってきたCOOのフレッドから挨拶があった。
「ハロー、各国のEHS責任者の皆様。お陰さまでデルタ社は電子産業の国際競争に勝ち残ってきました。しかしながら、深刻な地球温暖化の影響で国家間の貿易システムに亀裂が入り、多国籍企業の存続が危ぶまれております。だが我々には、グローバル経済を牽引し、人類の幸福に貢献してきた輝かしい実績があります。ネバーギブアップ! 最後にこの会議で、気候変動を奇跡的に鎮静化する妙案が提案されることを期待しております」
 会場に、溜息のような拍手が響いた。万策が尽きた世界に、妙案などあるはずがなかった。
 無言で唇を噛み締める三十人ほどの出席者を後に、フレッドはつんのめるようにステージを降り、ヘリポートに向かった。
 その後ろ姿を見て岳は、彼が日本に来た時のことを思い出した。
 社員全員が集まったタウンミーティングで、若い社員が手を挙げた。
「家電製品が売れなくなったら、半導体産業は生き残れますか?」
 当時は、テレビやパソコンが陳腐な存在になろうとしていた。
 フレッドが笑みを浮かべ、陽気に手ぶりを添えながら答えた。
「大丈夫です。モバイル通信システムが5Gから6Gへと進化し、記憶媒体の大容量化が進んでおります。サーバーの集積度を支えるのは半導体テクノロジーです。この業界は永遠に廃れることはありません。但し、データセンターの省電力化も、我々の使命ということを忘れないように」
 それを聞いて、自分も胸をなでおろした記憶がある。一方では、クラウドのビッグデータを処理するデータセンターの消費電力は膨大で、環境NGOから度々指摘されていたことも確かだ。
 惨めなフレッドの姿は紛れもなく、今のこの会社の象徴だった。そそくさとスカイカーに乗り込むと、ボストンに向って飛び立っていった。往時の威厳は微塵もなく、サラ金に追いかけられるような男の背中が、最後の記憶に残った。
 各国からのプレゼンテーションがスタートした。
 最初にヘッドオフィスのマイクがアメリカの様子を、巨大な液晶画面に映し出した。会場から驚きの声が上がった。
「これは5年前、会議のあと皆様と夕食に行った、あの懐かしいボストンのピアフォーです」
 ロブスター料理で世界的に有名なレストラン・アンソニー・ピアフォーの海に突き出たテラスは、きらきらと黒く光る海面にわずかに手摺だけが出ており、打ち寄せる波が建物の壁を洗っていた。海岸から離れた高層ビル群も海面が足元に迫り、半分以上が廃墟と化している。
「ボストン港の海面はもう取り返しがつかないほど上昇しております。一時、ピアフォーは高台に移動する準備を始めたのですが、あの海に面したテラスが売りものなので結局店をたたんでしまったのです。あのあたり一帯は、今は無法地帯となって、満潮時には夥しい死体が漂流するのです」
 いつもジョークで笑わせるマイクのプレゼンが、今回は一変していた。ただ最後に、希望の光ともいえる状況を説明してくれた。
 広大な草原で、数えきれないほどの植樹ドローンが、台地に種子カプセルを打ち込んでいく様子が映し出された。
「世界最大の二酸化炭素吸収源である南米アマゾンの熱帯雨林が再生しつつあります。Gレボのグレッグと日本政府のお陰です。それに、ガリンペイロから身を起こしたブラジルのカジノ王が、アマゾンへの感謝として、AIコントロールによる自動植樹システムに全財産を投じてくれたのです。この荒野が熱帯雨林で埋め尽くされる日も近い。我々の最後の頼みの綱です。
「ヨーロッパもこのままでは壊滅するかもしれません――」
 次にイギリス支社のエリックが、すでに覚悟を決めた表情でパソコンのキーを叩いた。
巨大なディスプレイに現われた動画に会場は凍りついた。延々と続く防潮堤の上端を乗り越え、海水が内陸へとなだれ込む、ロンドンに近い港町ドーバーの惨状が映し出された。
「漁業の中心のコーンワル半島では、このところ急に鱈やニシンが獲れなくなって深刻な問題となっている。コンベア・ベルトのことは皆知っていると思うけど、どうやらそれが温暖化の影響で減速されたようなんだ」
 エリックが言うのは、これまでヨーロッパに好漁場をもたらした暖かいメキシコ湾流の北上が、その勢いを落とし始めたのではないかということだった。北ヨーロッパの漁場で豊富に獲れた鱈やニシンは、暖流のメキシコ湾流とグリーンランドから南下する寒流とがぶつかり合って潮目を作っていたからであり、魚が集まらなくなったということは、メキシコ湾流の北上が弱まった可能性があるということだ。確かに、北極の氷が解け始めたころ、一部の学者が指摘していたことだった。
 コンベア・ベルトというのは、米国コロンビア大学のブロッカー博士が、全地球を覆う海洋の大循環流が存在し、その表層水と深層水が千年単位で入れ替わることを発見し、これをブロッカーのコンベア・ベルトと呼んだ。海洋大循環を駆動しているのは海水の熱塩循環で、北大西洋のグリーンランド西方のラブラドル海と南極のウエッデル海に見られる現象だ。大気による冷却と海氷の発生に伴う塩分濃度の上昇により、海水の比重が重くなり海底に深く沈み込んでいくことが最初の原動力となる。ラブラドル海で沈み込む海洋大循環の速度は毎秒10センチメートルほどで、幅数百キロメートルに至る膨大な海水の移動だ。この流れに牽引されるように北上する暖かいメキシコ湾流のお陰で、北ヨーロッパ各国は温暖な気候を享受でき発展できたのである。一万二千年前のヤンガードリアス期と呼ばれる急速な氷河期の到来は、この海洋大循環が停止したことが原因だとする説がある。
 岳の番が回ってきた。
「皆さんこんにちは! 日本の状況も悲惨なものです。ただ日本には世界にも類のない沿岸防災都市が築かれている地域があり、そこは立派に機能しながら維持されております。これは今から37年も前のことですが、日本の太平洋沿岸部が史上最大の津波に襲われ、壊滅的な被害を受けた歴史があります。この経験を活かし、この地方の人々は10年の歳月をかけ、海抜50メートルの高台に安全な町を築いたのです」
 岳は、ネットでやっと探し出した東日本大震災の悲惨な状況と、現在の高台に築かれた町並みの画像を映し出した。
 会場の驚きと賞賛のどよめきが収まったあと、マイクが残念そうな表情を見せた。
「確かその当時、日本が世界をリードし、核融合発電の研究が進められていた。もしあれが実現していれば、地球のたどる道も違ったかもしれないね」
 当時日本では、フランスを拠点に、ITER(国際熱核融合実験炉)の主力メンバーとして、夢のエネルギーの実現に取り組んでいた。それは、海に無尽蔵に眠る燃料から超高温プラズマを発生させ、太陽と同じ原理の核融合を地上で実現するという壮大な計画だった。しかし各国の資金の多くは、宇宙戦を想定した兵器開発へと流れて行った。世界が同時に、戦争の放棄という英断を下せば、あるいは実現していたかもしれない。
 最後に、欠席したフランスのジェロームの代わりに、マイクからフランスの深刻な気候変動の様子が紹介された。
 フランスの惨状も想像を絶するものだった。セーヌ川流域の港町ル・アブール、ブルターニュ半島の南に広がる小麦地帯ルドン、ジロンド川流域のぶどう地帯ボルドーなど海抜が低い沿岸地域に海水が浸入し、農業、果樹、住居地域が壊滅的な被害を受けていた。
 最後に、フランスの北に位置する海抜ゼロメートル地帯のオランダの様子が映し出された。ビルの谷間の水面下に、大きな黒い影が見えている。よく見るとそれは、温暖化で北上した巨大なサメが、悠然と背びれで水を切る姿だった。
 マイクが最後に、ジェロームは中東の友好国に出張中、テロ集団に拉致され命を落としたという悲報を伝えた。会場に悲痛などよめきが起こった。岳は、いつも自分に友好的で、アスリートのライフスタイルを大切にしていたジェロームの面影に黙とうした。
 どの国のプレゼンテーションも、地球はもはや後戻りできない領域に入ったことを鮮明にした。
 レビューでは、妙案どころか、今まさに人間が淘汰されようとしている現実を受け容れるのが精一杯だった。最後は、森林再生に賭けるしかないと全員が一致し、会議は終了した。
 以前は会議の後は皆で、ステーキやロブスターが並ぶディナーを楽しんだものだが、今はレストランも閉鎖され、会議室でトマトジュースとホットドックだけの懇親会が開かれた。
 翌朝、全員がロビーに集まった。もう二度と会うことはできないだろうと、女性同士は肩を抱き合い、涙を浮かべている。皆、別れを惜しみながら握手を交わし、それぞれの帰途についた。
 岳はアメリカの友人との約束があり、再びボストンに向かった。
 ボストン・ローガン空港に降り立ち、予約していた空港ホテルにチェックインする。
「ハーイ! 岳、しばらくぶりだね」
 すでにロビーに迎えにきていたイラージが、眉が濃く彫りの深い顔に笑みを浮かべ近づいてきた。今日は、彼が通うボストン郊外の空手道場で、最後に一緒に練習をする約束をしていたのだ。
「こんにちは! イラージ、相変わらず元気そうだね」
 彼は、ヘッドオフィスの技術開発部門に所属しているが、日本に出張してきたとき、お互いの趣味が空手ということで意気投合し、仕事を離れても付き合いが続いていた。
 彼は中東の出身で、MITを卒業したエリートだが、アフターファイブにはけっこう危険なところにも出入りするらしい。どこの国でも同じだが、魅力的な女性が集まるところは、匂いを嗅ぎつけて野獣も集まる。甘いマスクを持つイラージは、どうしても彼女を守る武器としての空手が必要なのだろう。
「岳、しっかりつかまってな」
 岳はバイクの後ろに乗せてもらい、マス・パイクと呼ばれる広々とした高速道路に入った。
 広大な平原に建設した夥しい数の石油備蓄タンクが、上空を旋回する軍の攻撃型ドローンに守られていた。用途は軍事優先で、航空機以外の民需は極度に押さえられているという。
 交通の主流となったバイクが唸りを上げる中を、時おり、太陽光パネルで覆われた大きな車が音も無く通り過ぎる。一時流行った自動運転車は、気温がECU(車載コンピューター)冷却機構の外気上限温度を超えたあたりから、原因不明の事故が発生するようになり、今はほとんど見られない。頭上には、一着五千万円と言われたジェットスーツで優雅に飛行する人の姿も見える。昔の富裕層の名残にちがいない。
「岳、マス・パイクを降りるよ」
 イラージの声がエンジン音に重なった。
 心地よい減速と共に、広々とした景色が流れていく。
 ダウンタウンを抜け十分も走ると、アメリカと東洋がミックスされたような道場の建物が見えてきた。
「どうだい、凄いだろ。ここが、僕が通っている空手道場さ」
 イラージが得意そうに道場の入り口に立った。そこには『跆拳道』と漆黒の文字が彫り込まれた分厚い看板が下がっていた。英語横文字の世界で、縦に連なる漢字は異様な迫力を放っている。
「アメリカで漢字の看板には驚いたよ! それもテコンドー」
アメリカでは、テコンドーも空手も同じようなものらしい。
 張り裂けんばかりの気合が、ここまで響いてくる。
 中に入ると、道着を纏った大勢の男たちが、基本稽古に汗を流していた。なんと、五十人程の練習生の前で号令をかけているのは女性だった。黒帯を締めたショートアフロの精悍な顔は、看板に負けない迫力を見せている。
 日本人の突然の訪問に、練習生が一斉に振り返った。その異様な風体に岳の足が止まった。モヒカン刈りやスキンヘッド、まるで昔のハリウッド映画の悪役養成所のようだ。
「イラージ、日本の空手道場とはだいぶ様子が違うね――」
 岳は、イラージの横顔に囁いた。
「最近のアメリカは治安が特に悪く、屈強な用心棒がいなければ夜の商売は成り立たなくなったんだ。彼らは、ほとんどがボストン市内のパブやクラブのスタッフで、飯を食うためにやっているのさ」
 イラージが、練習生たちにスマイルを投げながら教えてくれた。
 テコンドーの看板を掲げてはいるが、練習内容は空手そのものだった。実戦に基づいた蹴りやパンチをキックミットやパンチングミットに打ち込み、ひたすら攻防の練習に励んでいる。バチン! ドスン! という音とともに汗が飛び散り、けんか空手という表現がぴったりくる。岳もイラージと組になり、滝のような汗を流しながらキックミットに回し蹴りを叩きこんだ。イラージの蹴りは重く、ズシーン! とくる腹への衝撃は、時差と暑さで疲れ切った身体にはこたえた。
 休憩の時間になり、日本から空手家がきたので、「型」を見せてくれということになった。彼らの空手には型がないらしく、全員が壁際に腰をおろし、型が始まるのを真剣な目差しで待っていた。岳は後に引くわけにもいかず、学生時代に習得した、流派を代表する型を演じた。型演武は、敵を仮想した実戦攻防の技の展開により、独特の武道性を表現できる。
 体力の限界で、辛うじて最後まで演じ終わった時、スキンヘッドやモヒカンたちの間にどよめきが巻き起こった。全員が、笑顔で拍手をしている。
 岳は想定外の賞賛に、人種の坩堝のような道場生たちと心が通った一瞬を覚えた。彼らの、風貌にはそぐわない柔和な眼差しは、生涯忘れることはないだろうと思った。

 3

 帰国するとまた、目の回るような忙しい日々が始まった。
 激務でへとへとになった岳は自転車を小屋にしまうと、絞るような汗を滴らせ、玄関のドアを開けた。
 暑さでぐったりとなっていたロンが、それでも弱々しく尻尾を振りながら、岳の足元にまとわりついてくる。
「おかりなさい!」
 桜が、額の汗を拭いながら出迎えてくれた。いつもの笑顔に心なしか憂いが見える。リビングに入ると、未来が駆け寄ってきた。早いもので、もう小学校二年になる。
「明日から学校お休みだって!」
 未来が、暑さで朦朧とする目で岳を見上げた。
「これからは、お母さんが先生の代わりだね」
 桜が、疲れた笑みを浮かべ未来を見た。
「お母さん、篠笛も教えてくれる?」
 未来は、三年生から音楽の授業で篠笛学習があることを楽しみにしていた。
「いいわよ。お母さん、得意だったのよ。実家にまだあるかもしれない。あとから電話してみるわ」
 未来の顔に、わずかに笑顔が戻った。だがあどけない笑みも、長くは続かなかった。
「先生が、地球温暖化って、お父さんやお母さんやその前の人たちが二酸化炭素を出し過ぎたからだって言ってたけど、それ本当?」
 未来が、岳と桜の顔を交互に見上げた。岳は言葉に詰まった。
「確かに、そうかもしれないね……」
 桜が、小さくうなずきながら答えた。岳も、先生の話しに反論できるいかなる言葉も、思いつかなかった。
 自分自身が、膨大な二酸化炭素を排出する業界で働いてきた。それで家族が生き延びてきたことは隠しようのない事実だ。反省する人間は、おそらく世界のどこにもいないだろう。けれども、「どうしようもなかった」という言葉は大人には通じても、子供には虚しく響くだけだ。岳は未来だけではなく、世界の子供たちに、心の中で詫びた。
 カレンダーは秋を告げているのに、五十度を下がることがない異常な暑さが続き、熱中症で命を落とす老人や子供が絶えなかった。
夜のニュースでは、全国各地の小学校が臨時休校になることを伝えていた。いよいよ社会システムそのものの崩壊が始まったのだ。
「どうだった、ガソリンは入れられたかい?」
 岳は、日増しに精彩が失われていく桜の横顔を見た。
「うん、何とか。1日並んでやっと10リッター入れてもらったわ」
「それはよかった。10リッターでも、確保できれば――」
 世界の、ローコストで採掘できる石油は底をつき始めたらしく、ガソリンの値段は数年前の3倍に跳ね上がった。
 一時は、ほとんどが電気自動車に取り替わったのだが、充電スタンドの充電ケーブルが盗まれる事件が続出し、再びガソリン車が出回っていた。銅は闇ルートで、開発途上国に流れているらしい。
 今は、幸い仕事がある人間も、通勤は自転車かバイクが当たり前だ。数少ない自家用車も軽自動車となり、共同で購入したものを、主婦たちが買いものに使用している。街はライオンの群れが獲物を狙うサファリパークの中と同じで、無防備な姿では、百メートルとして無事には進めなかった。
 3人で、缶詰や瓶詰に乾パンが並ぶ食卓を囲んだ。手作りは味噌汁だけだ。米はすでに闇のルートが牛耳っていた。何枚ものお皿に盛り付けた料理は遠い昔の記憶だ。食品流通の崩壊で生ものはまったく手に入らない。家の周りや空き地の昆虫は捕り尽されたのか、姿を見ることはなくなった。それに、水道がちょろちょろとしか出ないので、食器を洗うということが不可能だった。飲料水は酒類より高価なものとなった。賞味期限など死語となった今、やっと手に入れた鯖缶やアスパラの瓶詰めが並ぶ食卓は贅沢なことだった。
 ふと見ると、ロンが用意された食べ物に口をつけようとしていない。みんなの食べ物から少しずつ分けたものが皿に載ったままだ。
「どうしたんだ、ロン、体調が悪いのかな?」
 岳が二人の顔を交互に見た。
「ロン、散歩に連れて行った時に、雑草や、土を掘って何かを食べるようになって、家で出したものを食べなくなったの。もしかしたら食糧難になったことに気づいているのかしら」
 未来が、「今日は特別だから一緒に食べよう」とロンの頭を撫でた。 ロンが「ワン!」と一つ吠えると、嬉しそうに食べ始めた。
「ごちそうさま。明日は食糧買出しにいってくるわね」
 桜がテーブルを片づけ始めながら、硬い表情を作った。
「そうか、気をつけて行ってくるんだよ――」
 岳は心配そうに桜を見た。今は食糧の買出しが、主婦にとって何よりも危険で大変な仕事となっていた。
 そして翌日の夜、家族の安否を心配しながら岳が帰宅すると、
「お帰り。お疲れさま……」
 なぜか、出迎えてくれた桜に、笑顔はなかった。
「桜どうしたんだ、何かあったのか?」 
 岳は、陰りが差している桜の顔をのぞき込んだ。
「もうだめ! このままではみんな死んでしまうかもしれない」
 リビングに入ると桜は、テーブルに突っ伏して泣き出した。
「どうしたんだ? 話さないと分からないじゃないか」
 岳は初めて見る桜の弱気な姿に驚いた。ロンが心配そうに、桜の足元にすり寄っている。
 桜は憔悴しきった顔を上げ、ぽつぽつと話し始めた。
 ぞっとするような桜の話は、およそ次のようなものだった。

 ***

 いつものスーパーマーケットに行くと、先月までは並んでいた野菜が突然姿を消していた。その代わり、目を背けたくなるような大きな幼虫や、見たこともない様々な昆虫類のパックが重なるように並んでいる。今や、国内の昆虫は食べ尽され、ついにアフリカなど、海外の昆虫が食材の地位を獲得したようだ。
「あのぉー、野菜はどこにいったのでしょうか?」
 桜は、忙しく動き回る中年の店員に訊いてみた。
「ああ、奥さん、野菜はもう入る見込みがありません。野菜は七十%が海外もの、それがついに底を突いたのです。国内産が入り次第並べます。もし入れば、の話ですがね」 
 目に濃い疲労の色を浮かべた店員は、そそくさと立ち去っていった。
 最近は生野菜の値段が恐ろしく高く、このひと月ほど食べていなかった。桜は市内のすべてのスーパーを回る覚悟で、その店を後にした。
「お母さん、野菜どうして売ってないの?」 
 未来は、今まで当たり前のように買っていた野菜がなくなった理由が理解できないようだ。
「それはね、地球温暖化が原因で世界の農業地帯が洪水とか干ばつで作物が採れなくなったの。だからその国の中で食べるのがやっとで、他の国へまで送ることができなくなったんだね。日本も同じで、しょっちゅうやってくる台風と豪雨で畑がめちゃくちゃになり、お店に出すほど作物が採れなくなったんだって」 
 未来はやっと理解したようだ。だが、海外ものは店員の説明に間違いないと思ったが、国内の作物は、より利益を生む「特別区」に流れているのだろうと桜は推測した。そこには、特権階級の富裕層だけが住んでいる。
「よぉーし! 野菜が見つかるまで元気を出して行ってみよう」 
 桜は、助手席で心配そうにしている未来に笑顔を向け、市内に10店ほどあるスーパーマーケットを目指し、ハンドルを切った。
 以前、2、3度来たことのあるスーパーの駐車場の入り口に近づくと、中の騒然とした様子にびっくりした。店の入り口や窓のガラスがすべて割られ、大勢の客が石鹸やシャンプーなどの商品を小脇に抱えて持ち出しているのが、目に飛び込んできた。
 ふと駐車場の方を見ると、回転灯が威嚇するように光るパトカーと救急車が店の横に停まっている。ぐったりとした男子店員が、裏口から担架で運び出されてきた。たった一人しかいない若い警官が、顔半分を包帯で覆われた男子店員に、何やら事情を訊きながら手帳に書き留めている。
 偶然、事件の一部始終を見たという中年の女性がすぐ後ろにおり、事件の全貌を次のように話してくれた。
 その日はちょうど『先着何名様――』のイベントセールがあり、開店一番を狙い駐車場に入ろうとした時だった。物凄い勢いで錆びだらけのトラックが突っ込んできた。荷台では愚連隊のような男たちが、鉄パイプを片手に奇声を上げている。トラックは入口の自動ドアを突き破りそのまま店内に突っ込んで行った。恐ろしくなって街路樹の陰に車を停め、中を窺っていると、女の悲鳴や男たちの怒声が響き渡り、商品棚が倒されるような音が響いてきた。やがて悲鳴は止み、店内を駆け回っているような男たちの奇声だけが聞こえていた。間もなく店内の奇声が止むと、荷台に食糧を山と積んだトラックが勢いよく飛び出してきた。荷台には、数人の女子店員も縛り付けられていた。略奪者たちは、再び奇声を上げながらタイヤを軋ませ、あっという間に消え去った。すぐ警察に通報したが、パトカーが到着するまで一時間もかかり、それからまた救急車がくるまで一時間もかかった。
 桜はこの話を聞いて足がすくみ、家に帰ろうかと迷ったが、覚悟を決めて残りのスーパーへと向った。だが、どこのスーパーでも野菜を見つけることはできなかった。
 日が暮れ始めた街を横切り、桜は郊外の農村地帯へと向った。直接農家から買うしかないと考えたのだ。新鮮な野菜を未来と岳に何とか食べさせてやりたかった。農家の家々が立ち並ぶ農道の端に車を停め、1軒、1軒当たってみることにした。農道の左側は、盆地であるK市を囲うように荒れた水田が連なり、右側は山裾へとつながるなだらかな畑が広がっている。その畑の中に農家の建物は点在していた。以前、家族でドライブで通りかかったときは、のどかな風景の一部としか感じなかったその農家の佇まいが、今は厳然として人間たちの命を握る砦のように見えた。
 1軒目の玄関で声をかけると、おばあちゃんが出てきた。耳が遠いらしく、野菜を売って欲しいことを何回説明しても分からず、あきらめて引き返そうとした時だった。後から出てきたおじいちゃんに、「野菜なら何回きてもだめじゃ! 二度とくるな」と怒鳴りつけられた。怯える未来を抱え、桜の目に悔し涙が滲んだ。
 農道から少し入った所にところに門を構える、2軒目に行ってみた。
 日に焼けた恵比寿顔のおじさんが出てきて、「少しばかり高いけど、いいかのう」と言った。
 桜はほっとして、「キャベツを一つください。助かります!」と満面の笑顔を返した。おじさんは「特別1万円にまけとくよ」と言うと、いつの間にか変化した狡猾な顔を桜に近づけ、ニンニク臭い息を吹きかけてきた。
 桜は屈辱感と怒りでいっぱいになったが、やっとのことで「今日はいいです」と小声で断ると、踵を返した。
「お母さん大丈夫? 泣いちゃいやだよ。未来も悲しくなるから」 
 農道の脇にしゃがみ込み、肩を震わせる桜に、未来が優しく背中を擦りながらなだめた。
「そうだね、ごめんね! 泣いたりして。お母さん頑張るからね」 
 やっと気を取り直し、再び農道を歩き始めた。
 集落から少し離れたところに、浮いたように新しい二階建ての家が見えてきた。『グリーンピエロ』という大きな看板が二階の壁にかかっている。最近は、悲惨な現実から目をそらそうとするかのように、不可解な横文字が目立つようになった。
 農道に面した広い畑の間を通り、玄関の横にある来客用チャイムボタンを押した。
 間もなく引き戸が半分ほど開き、黒ぶちの眼鏡をかけた誠実そうな男が顔を出した。頭が玄関の鴨居にぶつかりそうだ。
 少し気後れしながらも、野菜を売ってほしい旨を伝えると、「ああ、何とかいたしましょう」と、無表情ではあるが、親切そうに答えた。それから男は、
「独り暮らしなので野菜が余っちゃって――地下収納庫にたくさん入ってますので、お好きなものを選んでください。さ、どうぞ、どうぞ、遠慮なく中に入って。お安くしておきますよ」
 と言い残し、引き戸をいっぱいに開けると、薄暗い家の奥へと引っ込こんで行った。
 横で、じーっと男を見上げていた未来が、なぜか桜の綿パンのポケットを掴み引きとめる。

 ふと、家屋の二階に張り出された洗濯物干場に目が止まった。

 そこにはツナギの作業服やTシャツなど、たくさんの男物の衣類が乾してあったが、端の方にたったひとつ、異物のように見えるものがひらひらしていた。それはどう見ても、その男の前掛けぐらいにしかならない大きさの、醤油の染みが残る割烹着だった。
 桜は目を点にしながら、この家に隠されたおぞましいにおいを嗅ぎとった。
「奥さん! 早くお入りください」
 という声が、暗がりから響いてきた。男が再び玄関に出てくる気配を背中に感じながら、桜は未来の手を引き、敷地を駆け抜けた。振り向きもせず、必死に農道を走った。
「危なかったね! でも未来、よくわかったね」 
 二階建ての家が見えなくなるところまで走ったところで、桜は息を切らせながら、未来に話しかけた。
「うん、あのおじさん、お母さんを見る目、すっごく気持ち悪かったの――」
 桜は子供の勘の良さに感心し、無防備な自分を反省した。
 途方に暮れた桜は、わずかなプライドが脳裏を過ぎったが、隣町で農業を営んでいる、それほど親しくなかったOL時代の同僚の家まで行き、やっと大根の葉っぱを手に入れた時は、もう辺りは暗くなっていた。

 ***

 岳は、現実となったB級バイオレンス映画のような桜の話に、じわりと背中を這い上がるものを覚えた。ロンも巻尾をぴたりと背中につけ、じっと桜の話を聞いていた。いよいよ、警察も当てにならない社会となったことを実感した。家族を守るために本当の暴力と対峙しなければならない時が来たのだと思った。だが一方では、華やかな先端技術ばかりが持てはやされ、土と闘う「食」の原点を軽視してきた報いが、今人間に突きつけられたのだと思った。
 遅くなった夕食で、三人は桜が身体を張って手に入れてきた大根の葉っぱの煮つけを食べた。岳はほろ苦い葉っぱを噛み締めながら、全身の細胞に染み渡るような野菜の味と桜の苦労に、自然と涙が溢れてきた。見ると桜も涙ぐんでいる。わずかな葉を噛み締めているロンの目も、心なしか潤んでいるように見える。
「どうしたの、二人とも。今日はお野菜が食べられたんだから楽しい顔をしなくちゃいやだよ。未来が大きくなったら、もっとたくさん買ってあげるからね」 
 未来があっというまに自分の野菜を食べ終わると、悪戯っぽい目で二人の顔を交互に見た。ロンの顔もパッと明るくなり、尻尾を振りながらみんなの顔を見上げていた。
「ごめん、ごめん。二人ともありがとう! 今日の野菜はとっても美味しかった。そうだ桜、これからは少しでも家の周りに畑を耕し、野菜を作ろう」
「そうね、それがいいわ。岳もこれからは野菜作りのことも勉強してね!」 
 岳は、次の休日から始める約束をしたが、内心では、塵一つない無機質な空間で、精神も肉体もすり減らしてきた自分にできるのだろうかと、不安も過ぎった。だが、大半の職を失った家庭では、家の周りで野菜を作るのは当たり前の仕事となり、これからは土と共に生きる強靭な肉体が必要とされていることは確かだった。
 悪いことばかりではなく、ありがたい話も聞こえてきた。農業を営む若い世代が、点在する公民館の敷地などを利用し、週一回朝市を開くようになったのだ。スーパーで売っていたころと比べると値段は倍近くにはなったが、最低限、家族の健康を維持するだけの野菜が食べられるようになった。
 岳は、この野菜のフリーマーケットが無くなるときが、人間が本当の飢餓に直面する時となるのだと思った。

 それから半年後、頻発する略奪、強盗などの凶悪事件を伝えるテレビニュースの中で、K市郊外の農家の地下室から、たくさんの女性と子供の腐乱死体が見つかったというニュースが流れた。警察が住人の男性と、その母親から事情を聞いているという。

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