第4話 最後の夕食

文字数 30,808文字

 第3章 最後の夕食

 1

 日本デルタの生産量は確実に落ち込んでいった。飢えを満たすのが精一杯の社会では、半導体産業を支えていたパソコンや液晶テレビといった民生需要が冷え込むのは自然の理だ。業界は軍需に頼っていたが、世界の戦争の形そのものが変化し、需要は激減した。
 日本を除くすべての軍事国家が核弾頭を手にし、月と宇宙空間に核発射施設と迎撃システムが、網の目のように築かれていた。
 日本の沿岸全域には、強力なレーザー兵器が配備され、仮想敵国が発射する弾道ミサイルや巡航ミサイルはほぼ無力化できる態勢を築いていた。だが、核の先制攻撃を行った国は、他のすべての国から攻撃を受けるという国際合意により、最初に発射した国が滅亡の浮き目を見ることは明らかだった。核兵器はすでに、ショーケースの中の武器となった。
 代わりに威力を発揮したのはAIが主役のサイバー攻撃だった。高度に自動化された移動手段や発電所などの国家インフラは、それを超える人工知能の攻撃に、まるで吊り人形の糸が切られたように機能ダウンした。顔が見えない、AI対AIの虚しい代理戦争の始まりだった。だが、血を流し苦しむのは人間だ。人工知能の開発競争の影で、いつの間にか支配の構造が逆転しつつあることに気がつく人は稀だった。

 イギリスのエリックからメールが入った。
 冒頭に、これが最後になるだろうとのコメントがあり、ヨーロッパ全域のさらに悲惨な状況を伝えていた。夏の焼けるような熱波に加え、10年ほど前から、冬季は観測史上最大級の寒波が襲うという不思議な現象にも触れていた。破壊し尽された農業、魚が浮く赤潮の海、それに追い討ちをかけるように中東やアフリカ大陸から膨大な環境難民が押し寄せ、悪夢としか言い表せない飢餓と略奪の世界だという。人々が命を削って再生した樹林が、今は生き残った善良な人々の隠れ処になっているという。衝撃的な言葉が目に飛び込んできたのはその後だった。サハラ砂漠の「緑の壁」プロジェクトに参加していたGレボのグレッグが、テロに巻き込まれ一命を落としたという。アフリカでは、セネガルからジブチ共和国まで、幅十五キロ、長さ八千キロに渡る植樹計画が進んでいた。グレッグはそこで、砂漠でも育つゴムの木を植え、タイヤの天然ゴム化に役立てようとしていたようだ。おそらく、石油由来の合成ゴム業界の反発を買ったのだろう。
「今や家族を守ることが残された最後の仕事となった。グッドラック!」と締めくくられていた。
 岳の脳裏に、広大な砂漠を横断するグリーンベルトが広がり、その中に日焼けしたグレッグの面影が浮んだ。もし自分が生き残ることができたら、彼が命を懸けた地を、家族で訪ねてみようと誓った。 

 エリックからのメールから三ヶ月後、デルタコーポレーションCEOのジョン・フォークナーから世界の従業員に、すべての工場を閉鎖する旨が伝えられた。メールには12に及ぶ各国翻訳版の資料が添付されていた。営業所だけは、ヨーロッパ全体の残務整理のためにロンドン支店を、アジア全体の窓口として東京支社を、一年を限度に残すことも述べられていた。
「桜、やはり来るべき時がきたよ――」 
 岳は帰宅すると、「お帰り!」と笑顔を見せる桜に笑顔を返すことができないまま、工場が閉鎖されることを伝えた。
「そう、やっぱり。大変なことになるね……」 
 桜の顔から、急速に笑みが引いていくのがわかった。
 会社の破綻が近いことを予測はしていたが、失業というこれまでは他人事のように思っていたことが現実のものとなった。これから家族三人がどうやって生きて行くのか、想像もできない絶望の暗雲が脳裏を覆っていった。
 失業者が溢れかえるK市では、街全体が刃物のような荒んだ空気に支配されていた。駅の周りや公園の芝生には、段ボールハウスやブルーシートの小屋が並び、攻撃的な太陽の光が行き場のない路上生活者を容赦なく襲っていた。
 岳はふと、これまでは別世界のことと考えていた、ホームレスの人々が、ゴミ箱から食べ物を漁る光景が家族の姿と重なり、背中の汗が急速に冷たくなるのを覚えた。
「桜、元気を出すんだ! 俺が必ず何とかする――」
 岳は、当てもないままに、肩を落とす桜を励ました。

 1週間泊り込みの「工場閉鎖作業」は無事終了した。作業のほとんどは、半導体製造工程材料の無害化処理だった。行き場を失った大量の化学物質は、まるで壊れた文明の膿のように思えた。
 恐怖政治で組織を支配していた権堂と役員たちは、人事権という伝家の宝刀を失うと、身の危険を感じたのか、いつの間にか姿を消していた。特別区のマンションが、護るはずの警備員たちに襲われたというニュースが流れていた。今となれば、無事に東京の家族のもとに帰れることを祈るしかない。
 その日は、電力制限のため、夕方から停電となった。
 夕食に、桜は16年間の岳の労をねぎらい、闇ルートでやっと手に入れたという、ひび割れたようなステーキを焼き、底に残った最後のウイスキーをグラスに注いだ。ロンの皿には、大好物のキャベツの芯が並んでいる。
「わぁー! ステーキだ、美味しそう。ロンにも一口あげるね」
 未来が、肉の切れ端をロンの皿に載せた。ろうそくの炎に揺れながら、ロンが目を細めてそれを見ている。
「お母さん、今日は何かいいことあったの?」
 テーブルについた未来は無邪気に喜び、母の顔を見上げる。
 桜は、「お父さんが新しい仕事に挑戦するためのお祝いだよ」と、歯切れの悪い言葉で誤魔化し、グラスをかかげた。 
 岳は、まるであてのない「新しい仕事」に、神妙な面持ちでグラスを合わせた。その心境を読み取ったのか、桜が「これからも頑張ってね!」といたわりの微笑を見せてくれた。
 未来が食べ始めたのを見て、ロンがキャベツの芯に歯を立て始めた。けれどもロンは、家族の微妙な心理を汲み取っているのか、心なしか尻尾の振り方が弱かった。
 これが本当に最後の夕食らしい夕食になるとは、この時は家族の誰もが信じてはいなかった。

 2

 次の週、日本デルタの合同送別会が、東京本社で開かれることになった。この送別会は希望者のみ参加の案内であったが、苦楽を共にした本社の人間に最後のお別れを言いたく、出席することにした。
 実は岳には、もう一つ、別な上京の目的があった。
 玄関先で、桜と未来が、疲れた顔に精いっぱい笑顔を見せ見送ってくれた。ロンがいつもとは違った様子で、岳の足元に鼻を擦りつけてきたのが少し気になった。
 昔は一時間おきに走っていた東北新幹線も、今は早朝の上り1本と夕方に東京駅を出発する下り1本が、警備会社から派遣された保安要員を乗せ、辛うじて運転していた。
 幾分は涼しく感じる車内から見る窓の景色は、荒れ果てた街の風景とは逆に、平地に広がるメガソーラと、稜線に延々と続く風力発電が唯一文明の輝きを残していた。
 沿線の国有地と思われる空き地には、延々と若い杉林が続いている。Gレボと日本政府の努力の跡に違いない。
 だが、建設当時は原発の代替として脚光を浴びていた再生可能エネルギーも、送電用ケーブルの銅が略奪者集団の餌食となり、今はその半分も稼動していない。
 日本の原発はすでに、すべてが廃炉の道をたどっていた。
 今から40年前、大震災によるメルトダウンを経験した日本の原発は、その後様々な安全対策を講じながら維持してきたが、一度メルトダウンを引き越した原発の廃炉計画は、極めて困難だということが実証された。それが廃炉の決断の理由の一つには違いないが、過激思想集団によるステルスドローンを使った原発テロが頻発したことにより、原発の運営そのものが立ち行かなくなったというのが真相のようだ。
 一方、日本の原発事故の後も、世界では温暖化を避けるために、原発の増設が続いた。だが、海水による冷却ができない大陸やヨーロッパの原発は、温暖化で河川の水温が上昇し、運転は困難を極めた。さらに、石油や天然ガスを独り占めにする国が現れ、火力発電所の運転がダウンしたことにより、世界の電力供給は逼迫していた。
 日本を始め、エネルギー自給率が低い多くの国々では、国際合意で禁止となっていた石炭火力が復活した。あれほど嫌われた石炭火力発電所が、人類の頼みの綱となった。今や、死語に近い黒いダイヤが本物のダイヤよりも価値を有し、石炭燃料を巡る国家間の紛争が激化していた。
 電力費の高騰に加え乗客の安全対策費用がかさみ、新幹線の料金は以前と比べて三倍に跳ね上がっていた。必然的に利用客は富裕層に限られてくるが、それを狙う略奪者たちも巧妙に紛れていた。
 混雑した車内は、クールビズ姿の、いかにも官公庁役人やビジネスマン風が多かったが、中には何くわぬ表情で周りを窺う得体の知れない男や女もおり、全体が異様な空気に包まれていた。乗客はすべて凶器の有無をチェックされるが、人間の内に潜む狂気まで暴くことは不可能だ。
 17両編成の各車両には五人の屈強な保安員が通路に立ち、社内に鋭い視線を走らせていた。
 途中で飛び込み自殺が4件ほどあった。家族を失い、生きる希望も見えなくなった人々がたくさんいた。車両内では大きな事件もなく、岳は無事東京駅に降り立った。
 だが、駅構内に入り様相は一変した。まったく身動きができない。中央通路が巨大な満員電車のようだ。 一歩、また一歩、車両から吐き出されてくる人々の動きに流されていくと、その理由がわかってきた。
 構内の隅々に、ホームレスの人々が重なるように横たわっている。通路に足を投げ出して眠っている若い男、何度も通行人に踏みつけられぼろ雑巾のようになって転がっている老人、力尽きてその屍に重なるように倒れ込む乗客の姿があちこちに見える。
 ホームレスのすえたような臭いや行き交う人々の汗の臭いで、空調が止まった構内はむせかえっていた。あの清潔で近代的な東京駅構内は、今や巨大な生ゴミ容器のようだ。
 岳は何とか東京本社のある八重洲口の改札を出たが、ここでもまた想像を絶するような光景を目にする。
 駅ビルの前を横に走る通路に段ボールハウスが、向こうが見えないほどに並んでいる。朽ち果てようとする人間の負の臭いが50℃を超える熱気と共に纏わりついてきた。積み木細工のように並ぶ段ボール箱はピクリともしない。まるで粗末なお墓の連なりのようだ。壁という壁は、薄気味悪い落書きで埋め尽くされ、ここも人間が住めなくなるのは時間の問題だと思った。
 陽炎の中に林立するビル群に目を移した。警備員が取り囲むように護衛しているビルは機能しているように見える。略奪者の餌食となったビジネスホテルや雑居ビルは、割れたガラスの奥から、今にも断末魔の悲鳴が聞こえてくるようだ。ここは、もはや投宿できる場所ではない――。岳は送別会を断念した。
 日本デルタが入る地上六十階建ての高層ビルは、スクラムを組むように並ぶ警備員に守られ健在だった。
 岳は、本社オフィスに、最後の挨拶と思い顔を出した。社長や役員に挨拶したあと、お世話になった総務部に回り、送別会は欠席し、今夜最終の新幹線で帰る旨を伝えた。
 今日が最後の勤務だという総務部長が、今では貴重な飲み物となった缶コーヒーを出してくれた。お互いに助け合いながら環境安全管理に取り組んだ総務部長とは、小料理屋の暖簾をくぐり、同じ立場の愚痴を言い合った仲だ。
 帰りに、あまり馴染みのない社員たちも一緒に、ビルの玄関まで見送ってくれた。岳は、予想もしなかった本社の人々の親切に、文明の崩壊を前にして始めて、人間のつながりの大切さに気づいたのだろうかと思った。岳は最後に、家族の夢を託してきた、今や巨大な墓石のように見える高層ビルを見上げた。
 それから岳は、上京の本当の目的のため、メイン道路に出てタクシーを探した。すでに地下鉄は沿岸部から押し寄せた難民の住処になっているらしく、地上の電車もまばらにしか動いていなかった。
 交差点の広場で、5、6人の若者が踊りながら歌っていた。防衛大学など、政府系の大学以外はほとんどが閉鎖状態にあった。おそらく、学ぶ場所を失った大学生たちだろう。
 この歌と踊りは、20年ぐらい前だろうか、どこからともなく世界に広まった不思議な現象だった。リズム感のあるダンスに合わせ、全員が口をそろえる英語の歌詞は、「私は変われる♪ あなたも変われる♪ みんなが変われる♪ それは何? 自然を愛する人間さ♪」という単純な繰り返しだが、人類の見果てぬ夢を端的に表しているように思えた。
 いち時は、地方都市にもこの若者文化は広まった。駅前などで、数10人の男女に交じり、中年のオジサンたちも腹を揺らせていた。だが、社会全体が変わるには遅すぎたのかもしれない。Tシャツに浮くあばらから絞り出す単調なフレーズが、灰色の街に虚しく響いている。岳は込み上げてくるものを堪えた。
 台数が激減したタクシーはなかなかつかまらない。やっと空車が近づいてきた。運転手が岳の姿を値踏みするように見てから、ドアを開けた。乗り込んでみて驚いた。昔、ニューヨークで乗ったイエローキャブと同じように、網入りの防弾ガラスで運転席と客席が仕切られていた。
「上野のアメ横までお願いします。それにしても凄い車ですね!」 
 行き先をつげると車はすぐ動き出した。岳が東京に出てきた経緯を話すと、運転手はやっと分厚いガラス越しにチラリと笑顔を見せ、東京の凄まじい状況を話し始めた。
「お客さん運がいいよ。今都内で営業しているタクシー会社は、官公庁専属で生き残っているのが2社だけ。あとは俺みたいに命がけで営業している個人タクシーがせいぜい百台あるかどうか。手を挙げるお客はたくさんいるけど、彼らのほとんどの目的地は、俺たちの墓場になる所さ。タクシー強盗は昔も稀にはあったけど、今はまともな客のほうが稀なんだから、笑っちゃうよね。警察はまったく当てにならないし、ほとんどの運転手は命大事で辞めちまったのよ。正直、お客さんもちょっとヤバそうな感じがしたけど、よく見ると目が澄んでいたんでね、乗せたってわけよ」
「あ、それはどうも。東北の田舎に住んでいるせいかもね」
「ま、いずれ全国に広がるんだろうけど、東京はいたるところ阿鼻地獄さ。でも、アメ横は大丈夫だ。東京でもあそこだけは特別治安がいいんだ。警察が守ってるってことじゃないよ。警察は不良達の真っ先のターゲットになって、都内にはもう半分も残ってないだろうね。不良達の目的は銃さ。こうなってくると警察って職業は悲惨だ。パトカーは路地に誘い込まれて車ごとひっくり返され、袋叩きにあって銃を奪われるんだ。ルールのない闘いになると、やっぱりワルには敵わんのかね。これから行くところはそれがよくわかるよ。悪は悪を持って制するっていうのかな。俺もこれにはびっくりした。ああ、へらへら話しているうちに着いちゃった。ところでお客さんも彼らと同じ匂いがあるから、喧嘩にだけはならないよう、気をつけな!」
 運転手は防弾ガラスの隅にある小窓から料金を受け取ると、チラリと笑みを見せた。夜逃げ屋本舗さながらのトラックがひしめき合う幹線道路へと、流れ込んでいった。
 岳は、不安と期待で胸を膨らませ、アメ横街へと向かった。どのような状況であれ、あの威勢のいい店が密集する街が健在だということは嬉しかった。
 岳は上京の度に、アメ横街の奥で米軍払下げ品を扱っている店に寄り、渓流釣りに使用するための戦闘用カーゴパンツやジャンパーなどを手に入れていた。
 アメリカから仕入れる本物の戦闘服は、ジョージアコットン100%の丈夫な素材で、肩、膝、尻の部分が二重に作られているため、切り立った岩場を遡上するには持ってこいだった。だが、今日の目的は今までの趣味や娯楽のためではなく、戦闘服の本来の用途、敵と闘うことを想定したものだった。
 やっと、向こうが見えないほどに店舗が密集する、懐かしいアメ横街入口にたどり着いた。あの『アメ横』の赤文字看板は色褪せていたが、その下に『エンジェルモンスター』というわけのわからない、ド派手な看板がかかっていた。
 以前、桜が恐怖の体験をしたという『グリーンピエロ』もそうだが、地方も都市もやたら意味不明の文字が躍るようになっていた。人間たちの、あまりにもおぞましい現状を仮想現実として封じ込めておきたいという、虚しい発想のように、岳には思えた。
「おっさん、ここに入るときは一応決まりになってるんで、武器のチェックをさせてもらうよ」
 岳は、見るからに悪そうで強そうな男たちに囲まれた。ヘアスタイルは、金髪ロン毛にアーミーカット、モヒカンにスキンヘッドと、よくここまでそろえたというヤンキーのオンパレードだ。おまけに上半身裸の男たちは、黒炎の中から大蛇が威嚇したりドクロやマリアが浮かび上がる図柄の刺青が、はち切れそうな筋肉を覆っていた。
 空手黒帯の岳も、彼らに負けない風格があるはずなのだが、この男たちには全く通じない。彼らは素手で闘う、ルールのない実戦の自信に漲っているようだ。
 岳は、見下すように「おっさん」呼ばわりされてむっとなったが、タクシー運転手の顔を思い出し、やり過ごした。いや、この連中を相手に喧嘩をしても、百パーセント勝ち目はない。運転手が言っていた、「悪を悪で制する」という言葉がストンと落ちた。岳は素直に全身をチェックさせた。
 リーダーと見られるスキンヘッドにあごひげの大男がにやりと笑いながら、「オーケイ」と言った。岳もつい「サンキュー」と笑みを返し、店舗がひしめき合う路地へと急いだ。
 すべての店舗の前には、客に愛想をかける売り子とは明らかに違う、屈強な男たちが猛禽のような目を光らせて立っていた。
 ここには、目が飛び出るような値段ではあるが、魚や肉までが並べられていた。中でも、田舎でも手に入らない野菜や果物があるのには驚いた。富裕層なら買えそうな価格で、ピッカピカに光るキュウリやトマトが売られていた。
 目的の店を探し、奥へと進んでいく。岳は、信じられない光景にぶつかった。どこの店でも、若い女性が屈託のない笑顔を見せながら買い物を楽しんでいる。さすがに、昔流行ったらしいランジェリールックは見かけないが、ジーンズにカラフルなTシャツやベスト姿で、店から店へと蝶のように舞っていた。
 田舎のK市でも、街にはすでに若い女性の姿は見られない。ここは、東京近郊から若い男女がたくさん集まってくるのだろう。途中の危険地帯さえ突破すれば、足の先から頭のてっぺんまで野獣の匂いをぷんぷんさせる悪の権化のような男たちが、逆に彼女らを守ってくれるのだ。女たちは外見ではなく、恐ろしいほどに澄んでいる彼らの目から、安全を本能的に嗅ぎ取っているのかもしれない。
『米軍直輸入』と入口の上に大きな看板のある、目的の店が見えてきた。
「いらっしゃい!」
 店先で、アーミーカットの若い男が声をかけてきた。
 岳は、通路が塞がるほどに陳列されている米軍コレクションの山の中に入っていった。USアーミー腕時計、ポケットが鈴なりのコンバットベスト、ちょっぴり怪しい金色の勲章、迷彩色のカーゴパンツなどが、アメリカの匂いと一緒に目に飛び込んでくる。
「これで最後だと思います。最近アメリカも品不足で、注文を出しても入ってこなくなったんです」
 ジャングルを切り取ったような迷彩服が似合う店員が、岳がリクエストした戦闘用カーゴパンツと上着を何種類か出してきた。
 岳は、黒の上下を二セット購入した。黒色の戦闘服は、多少傷を負っても血の色が相手に見えず、実戦には有利だと何かの本で読んだことがあるからだ。
 岳は、念願の戦闘服を手に取り、ほっとしてカウンターの前に立った。その時だった。おっさん呼ばわりをやっと忘れていたところに、またしても人をおちょくるような声が、岳の背中に纏わりついてきた。
「へへへへ、リーマンのおじさんが何に使うの、それ?」 
 入口で岳に鋭い視線を飛ばしてきた男が、にやにや笑いながらカウンターに近づいてきた。
 原色が躍るカジュアル一色のアメ横街で、たった一人、ネクタイこそ着けていないが、白いワイシャツにグレーのスラックスというどこから見ても真面目なサラリーマン風のおじさんは、かなり奇異に映ったのかもしれない。そうだとしても、すでに職を失い、これからは体を張って家族を守ろうとしている岳のかんにさわった。
「リーマンのおじさんもお客はお客、ねぇー、おじさん――」 
 店員は、岳の顔色を窺いながら、アーミーカットに「やめろ!」と言うように、一瞬目配せをした。
「おじさんだって、戦闘服が必要なときもあるさ……」 
 岳は、さきほどから耳障りな「おじさん」呼ばわりにいらつきながらも、ぐっと堪えていた。
「へぇー、それっておじさんも誰かと闘うわけ。どんなやつと闘うの? おせぇーて、おせぇーて」 
 アーミーカットが目を丸くして喰い下がる。
 岳はついに切れた。タクシー運転手の顔は、すでに脳裏から飛んでいた。
「おい、俺をなめるなよ。表に出ろ!」
 岳はアタッシュケースをカウンターに置くと、アーミーカットの背中を両手で押し出すように、店の外に出た。
 アーミーカットは、しかたねぇーなという顔でチッと舌を鳴らすと、ひらりと態勢を整え、両拳を頬の高さに構えた。その拳の間から別人のような鋭い目が覗いている。空手とも違う独特の構えだった。岳は重心を下げ、両拳を胸の辺りに構え、間合いを取った。
「ほぉー、おっさんも何かやってんだな。だけどだめだね、その顔付きでは。殺るか、殺られるかの目になってないもんね」 
 図星だった。空手では、少なからず組手試合を潜り抜けてきたが、所詮はルールに守られた競技に過ぎない。殺気が交差する攻防には違いないが、あくまでも生存を前提にした闘いだった。
 たくさんのやじ馬たちが集まってきた。そのやじ馬たちを押さえつけるように、屈強な用心棒達が腕組をして二人の動きを凝視している。不思議だ。止めもしなければ加勢もしない。ただ、じっと見ている。
 アーミーカットがあごをしゃくり、誘いかけた。
 岳はすり足で一挙に間合いを詰め、左上段のフエィントジャブから右中段の逆突きに出た。空手の基本的な攻撃技だ。腰の回転に乗せた突きが鳩尾に入れば、普通の男なら間違いなく崩れ落ちる。
 果たして岳の正拳が、バックステップでかわし切れなかったアーミーカットの鳩尾にめり込んだ――はずだった。だが、胃袋を覆う腹筋はタイヤのように硬く、岳の拳の皮が、彼のTシャツの上でずるりと剥けたのがわかった。
 ひるんだ岳の顔面ががら空きとなった。瞬間、アーミーカットの肘打ちが岳の左あごをえぐった。あごの骨が外れるような衝撃と共に脳が激しく揺さぶられた。同時に彼の左足が地面を蹴り、上方へと弧を描くのが見えた。
「まて! そこまでだ」
 朦朧とする意識の向こうで、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
 岳の顔面に、とどめを刺そうと襲ってきたアーミーカットのハイスピンキックが右こめかみの手前でぴたりと止まった。鋭い風圧が脳を突き抜け、岳は膝から崩れ落ちた。
 店の奥だろうか――、粗末なソファで意識が戻った。だらしない恰好で、あごを冷やされていた。
「おじさん、わるかったよ。俺、おじさんをからかったんじゃねぇーんだ。リーマンにしちゃ今どき本当に珍しかったし、体張って闘うって姿に、逆に尊敬したんだよ」
 アーミーカットは、岳に何回も詫びながら、仲間の女たちにいつもだまされているおじさんが、戦闘服を着て闘うというイメージがどうしても浮かばなく、率直に尋ねたことを説明した。
 岳は、アーミーカットの話しをやっと了解した。
「ところで、君のその顔は、いったいどうしたんだい?」
 傷だらけで血に染まったアーミーカットの顔面を、岳はいぶかしそうに見た。
「あぁ、これは俺らのルールさ――」
「ルール?」
「お客には絶対に手を出しちゃいけないっていう掟があるのさ。これはその罰」
 アーミーカットは、岳が気を失っている間に、リーダーのスキンヘッドから何度も頭突きを食らわされたことを打ち明けた。そばにいた店員が、「俺が止めに入らなければ鼻骨を潰されていたかもね」と、にやりと笑った。
 岳は痺れるあごを擦りながら、ひじ打ちを食らったにしては歯がすべて健在なことに気づいた。自分に憎しみがあれば前歯をすべて折ることも可能だったはずだ。普通の喧嘩はそれが当たり前だ。
 岳は、一切の言い訳をすることもなく、スキンヘッドの頭突きで朱に染まっていくアーミーカットの顔を想像し、己の了見の狭さを反省した。この喧嘩は、闘う前から自分が負けていたのだ。
「悪かったな――」
 岳は率直に詫びた。そして続けた。
「それにしても君は強いね。キックボクシングをやってるのかい?」
「うん、ちょっと違うけど。おじさんが弱すぎるんだよ。おっと気にしないでね。俺なんかまだまだ下っ端のほうで、大会には出してもらえないのさ」
「大会って、何の大会だい?」 
 実戦での未熟さを悟った岳は、空手でも、キックボクシングでもない大会という言葉に興味を持った。
 アーミーカットが、彼や用心棒仲間のほとんどが毎日練習し、目指しているという『大会』について話してくれた。
 それは、もう何十年も前から続いている『アウトロー・ファイト』と呼ばれる地下格闘技大会だった。格闘技界の重鎮と言われる男が立ち上げた、「日本で誰が一番強いのか」を決する現代版武道大会の目的は、厳しい格闘技修行をとおし、不良たちに自分に打ち克つ武道精神を植えつけることと、日の当らないところに棲む若者たちに夢と希望を与えることだった。
 両国国技館や有明コロシアムなどで毎年開催される大会では、隅から隅まで悪の形相で埋め尽くされた会場の真ん中で、全国から集まった「戦士」が素手で闘う。立ち技最強といわれるムエタイを基本ルールとしており、別名「喧嘩格闘技大会」という名のとおり、殴っても、蹴っても、締め上げてもOKという、正に不良どうしの命をかけた闘いだ。レフリーとセコンドがつかなければ文字通りの「死闘」になる。
 岳は、アーミーカットが目を輝かせて話す「アウトロー・ファイト」のことを聞いていて、自分が同じ世代だったころ、やはり日本空手道選手権大会に向けて練習に励んでいたことを思い出し、彼に懐かしい親近感を覚えた。
 岳は、平和なころは街の嫌われ者だった不良たちが、社会が崩壊しつつある今、こうして大都会の治安を維持する盾となっていることに、この国の社会システムの盲点を見たような気がした。
「おじさん、マジに格闘が好きな人だとわかったんで言っておくけど、相手の命(たま)を取るときは、遠慮なく顔面を狙うことだね」
 アーミーカットが最後ににっこり笑い、岳にアドバイスした。
「君も、肘一発で倒すときは迷わずテンプルを狙うことだね。さっきは前歯を残してくれてありがとうよ。もし田舎で暮らしたくなったら私の住む町に来いよ。と、言っても無理かな。君は都会のサバンナで獲物を追ってるのが、一番似合ってるかもな」
 岳は久々に、心から湧き上がった笑顔を向けた。
「うん、まぁーね。でも何かあったらいつでも連絡しなよ。おじさんとなら、俺も体を張って一緒に闘うよ」
 アーミーカットも、少年のように、白い歯を見せた。
「ああ、約束する。私も、本当の悪には命をかけて闘うつもりだ。その時は、お互いに助け合おうぜ」
 岳は、アーミーカットの優しさに感謝しながら、ふと自分の性格を重ね、お互いに生き残っていかれるよう、心で祈った。
 最後に自分の名前と住所を残し、店を後にした。
 
 アメ横街を出て上野駅構内に入ると、東京駅に着いた時と同じような光景がどこまでも広がっていた。岳は、さまよえる人々を掻き分けながら、出発が間近い東北新幹線のホームを目指した。
 指定の車両に入ると、黒い革の編み上げ靴に黄褐色のカーゴパンツと同色のジャンパーを羽織った、五人の保安員が乗客の持ち物に目を光らせていた。
 サイズ違いなのか、制服が異様にだぶついた小柄な保安員の目つきが気になったが、岳は彼らの間を通り抜け車両の中央へと進んだ。指定席の番号を確認し、アタッシュケースと戦闘服の入った紙袋を席上の棚に載せる。なぜか保安員の鋭い視線が背中に突き刺さってくるのを感じたが、それが彼らの仕事なのだと納得し、席に着いた。
 座席に体重を預けると、どっと疲れが出て、大宮到着のアナウンスが響くまで眠ってしまった。あごが少し痛むが、疲れはすっかりとれ、体が軽くなったようだ。
 大宮から中年のビジネスマン風の男数人と、珍しく若いカップルが乗り込み、座席はほぼ満席になった。
 通路の反対側の、岳からそう遠くないところに席をとった若いカップルは、二人とも洒落た紙袋を持っており、買ってきたジーンズやTシャツを袋から引っ張り出しては、楽しそうに笑顔を交わしている。育ちが良さそうな色白の若者と、すらりとした水色のワンピースの女からは結婚して間もないような初々しさが感じられる。久々に眺める平和な光景だ。これも目の前に立っている保安員たちがこの車両を守っているからできることだと感謝しながら、岳は再び睡魔に体を預けた。
 異変は、大宮を出発して間もなく起きた。
 岳は、「ギャー!」というくぐもった女の悲鳴で目が覚めた。見るとさっきのワンピースの女が、背の高い保安員にナイフで脅されながら口を塞がれ、ずるずると前方のドアの方に引きずられていくところだった。彼女の席を見ると、通路の床に広がりつつある赤黒い光りの中に、連れの若者の白い顔が沈んでいた。さらに目を疑う光景が飛び込んできた。入り口近くで保安員同士が取っ組みあっているではないか。なぜ保安員同士が? 岳はとっさに後方を見た。
 やはり――保安員が一人すでに通路に倒れており、制服がダブついていたあの小柄な保安員が大きなナイフを乗客に突き付け、財布をひったくっているところだった。
 読めた! 本当の保安員は両端の二人で、中央の三人は偽者だ。女が連れ去られた方を振り返った。通路に二本の血糊を残し、車両内に女はいなかった。ドアの手前で、執拗に降り降ろされるナイフの餌食となった本物の保安員は、すでに戦意喪失状態だ。
 周りの客は皆、惨劇から目を背け、まるで貝のようになっている。岳は、初めて遭遇する本当の暴力に、全身の血が逆流し、体が小刻みに震えだした。ちびりそうな股間を押さえ、目を逸らそうとした瞬間、アーミーカットとの約束が蘇った。今が闘う時なのだ。萎えかかった闘志に火がついた。再び熱い血が全身を駆け巡り、湧き上がる勇気が恐怖を拭い去った。一頭のけものとなった岳は、立ち上がった。
 女が引きずられて行った方向に飛び出した。気配に振り向いた偽者が、血だらけの保安員を突き放し、血濡れのナイフを構えた。距離が縮まる。ナイフが振りかざされた。
「命を取るには顔面を狙え!」アーミーカットのアドバイスが蘇る。
 岳は決死の飛び二段蹴りに出る。ひらりと空中から繰り出した前蹴りが男の顔面をとらえた。吹き飛ぶ歯。後頭部が叩きつけられたドアのガラスが赤く染まり、偽者はその場でずるずると崩れ落ちた。
 衝撃でドアが開いた。トイレの入り口で必死に抵抗する女が目に飛び込んでくる。その時だった。
「あッ、危ない! 後ろ!」と、近くのおばちゃんが叫んだ。岳は反射的に後ろ蹴りを放った。

 神が味方をした。

 皮靴の踵が、今にも岳の背中にナイフを突き立てようとする偽者の顔面にヒットした。鼻骨がつぶれる嫌な音を残し、偽者が仰けに倒れていった。
 残るは後一人。トイレのドアに挟まれ て、痛々しく痙攣する白い足が覗いている。岳はゆっくりと近づいた。ドアの隙間に手を入れる。女の細い首にしゃぶりついていた偽者が、慌てて女を突き放す。涎で濡れた口を半開きにした顔面ががら空きだ。狭い部屋、逃げ場はない。岳は右正拳を構えた。怯える目。無言のまま、岳の拳が残像を残し、野獣の眉間に吸い込まれていった。だが、炸裂する寸前、無意識に、拳が掌底に変わっていた。偽物は顔面陥没を免れ、壁でバウンドしただけで、その場に崩れ落ちた。
 足元で、衣服も心も引き裂かれた女が、トイレの床にうずくまり泣きじゃくっている。
「こいつはまだ生きている。仕返しをするなら今のうちだ――」 
 岳は、女の肩を優しく叩き、トイレから出た。
 ふと振り返る。女が夜叉のような形相で、偽者の頭を便器の中に押し込み、これでもかと踏みつけていた。
 やっと騒ぎを聞きつけて、本物? と思われる保安員たちが集まってきた。
 岳は、たった一人、勇気を出して助けてくれたおばちゃんに目でお礼をいうと、荷物を抱え別な車両へと姿を消した。
 放心したように、空いた席に崩れ落ちた。腹筋が痛いほど緊張している。岳は、死を覚悟した闘いとはこういうものなのだと初めて悟った。命を救ったアーミーカットのアドバイスに感謝した。乗務員が担架で、色白の若者と虫の息の偽物たちを運んでいった。
 闘わなければ家族を守ることはできない。けれども、家族を守るためには、目の前の惨事に目をつぶらなければならない時もある。どちらも、崩壊しつつある社会の現実だった。
 ふと、あの色白の若者が生きていたとしても、あの女は、もうあの男の元には戻らないだろうと思った。

 その後、東北新幹線は何事もなくK市まで進み、岳はホームレスたちが重なり合う駅を後に、暗い家路を急いだ。
 家は、みな寝静まっていた。ロンが小さく鼻を鳴らし、出迎えてくれた。暗闇の中で、岳の労をねぎらうような目が、優しく光っている。動物の本能が、主人が断崖の危機から生還したことを察知しているのかもしれない。

 3

 翌朝、桜が岳の顔をまじまじと見ながら口を開いた。
「東京で何かあったの? 顔が変わったみたい――」
 未来も心配そうに見上げている。岳は慌ててあごを動かし、顔の筋肉を和らげた。新幹線で起こったことは、家族には話さない方がいいと思った。
「ああ、少し緊張したのかな。街は荒れ放題でホテルが閉鎖されていた。それでも本社の連中には最後のお別れを言ってきた。心配するな。これからハローワークに行ってくるよ」
 目的地に着いて、周りの光景に唖然とした。四階建てのハローワークの建物は、順番を待つ人、人、人で何重にも囲まれている。
 黒山の人で隠れてしまった入り口では、男や女の怒号が飛び交っている。突然、ガラスが割れる音が響いた。
 破られた窓から、男たちが押し入り始めた。この町も、東京と同じ運命をたどるのは時間の問題だと思った。
 岳は失業保険をあきらめ、踵を返した。いや、そんな制度はすでに幻なのかもしれない。
 家に引き返す途中、何かを叫びながら自転車を漕ぐ男や、不気味な笑みを浮かべながら歩く女性とすれ違う。人間たちが壊れていく本当の恐怖に、鳥肌が走るのを覚えた。

 翌日の朝義母から、街で暴動が起き、義父が行方不明になったという連絡が入った。

 家族は急遽、桜の生まれ故郷である東北の太平洋沿岸部にあるI市に向うことになった。未来はロンも連れて行くと言い出したが、危険だからと、残すことになった。
 2011年3月、この地を大地震と津波が襲った。それから40年の月日が流れ、破壊し尽くされた海辺は嘘のように生まれ変わっていた。町はすべて高台に移転されていたので、その後じわりと襲ってきた海面上昇の影響は受けず、国内では一番生活の安全が保証された地域といわれていた。だがこの美しい高台の町も、すでに海に沈んだ全国の低海抜地帯から難民が押し寄せるようになり、大混乱を起こし始めていた。
 被災地の南端には、津波の影響で炉心の冷却装置を失い、メルトダウンを起こした廃原子力発電所がある。当時計画した廃炉完了の最終期限が、ちょうど今年に当たる。だが、当時の責任者はみな鬼籍に入り、有能な技術者は資金逼迫で激減した。デブリの取出しは困難を極め、工程は宙に浮いていた。
 いち時は、「史上最悪の観光地」として、各国から物好きな見学者がやってきたようだが、今はゴーストタウンだ。原子炉建屋は巨大なコンクリートの壁で覆われ、残酷な威容を曝している。緑のジャングルと化した周辺のビルやアパートには野生化した動物が棲みつき、猪と豚が交配した大きなイノブタが、廃墟の街を徘徊しいていると報道されていた。

「これは大変だ! ここまで酷いとは――」

 I市の市街に車を乗り入れた岳は目を見張った。あちこちで略奪の火の手が上がり、想像を絶する惨状が目に飛び込んできた。
 岳は目を鷹のようにしながら、ステアリングを住宅街へと切った。
「未来、外を見ちゃだめよ!」 
 桜は、未来が外の様子に恐怖の色を浮かべているのを見て注意するが、未来は顔を背けながらも、目は車外の様相に釘付けになっている。
 車内に吹き込む風に、おもわず顔をしかめる。何かが焦げる異様な臭い、舗道の隅に横たわる人間の死体、煙でかすむ街に響く断末魔のような叫び。日本でもっとも安全といわれていた防災都市が、人間が持つ凶気の津波で覆われようとしていた。海面が上昇した東京、大阪方面から、難民がこの地にも押し寄せ、治安が一挙に悪化したのだろう。
 東北の都と言われるS市から南に三十キロメートルほど離れたI市は、人口四万五千人ほどの、商業、工業ともに発展してきた情緒のある都市だったが、廃墟の街となるのにそう時間はかからないだろうと思えた。
「お母さん、私よ! 桜よ。助けにきたの。どこにいるの?」
「ここだよ……」という消え入りそうな声が聞こえてきた。
 義母は、土足の跡が残る部屋の押し入れの奥に膝を抱えて隠れていた。コッペパンを舐めるようにして、生き延びていたようだ。
「おばあちゃん、大丈夫?」
 未来が駆けより、祖母の首に抱きつく。
「あぁ、よく来てくれた。大きくなって。小学校に行っていれば五年生だもんね。お爺ちゃんがいればどんなに喜んだか。でも行くえ不明になったまま帰ってこないの……」
 義母は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
 家の食糧が、数個のコッペパンだけになった朝、お爺ちゃんは家にある現金すべてを持って、ギャングたちが経営しているコンビニに食糧を買い出しに行ったという。
 すべての商店は略奪に遭い閉鎖したが、唯一、暴徒が乗っ取ったコンビニエンス・ストアだけが店を開いていた。彼らは流通を手中に収め、商品を恐ろしく高い値段で売りさばいていた。暴利は、より上位にある悪の組織の資金源となっているらしい。
 おそらく桜の父は、その店で金だけ奪われ殺されたか、首尾よく食糧を買い出したものの、途中で別な暴徒に襲われたのかもしれない。もう出て行ってから一週間近くになり、捜索願を出した警察からは何の連絡もないという。
「私がもっと早く来てあげれば……」
 桜はそれを聞いて、母親と肩を抱き合い泣き出した。
「隣近所の人たちはどこに行ったのですか?」
 岳は、ひっそりとしていて誰も住んでいないように見える住宅街が気になって、訊いてみた。
「私が若いころ、ここらは大きな津波に襲われて、みんなあちこちに避難しました。それが今度は逆になってしまって、他県から大勢難民がくるようになりました。恩返しのつもりで、私たちは家に迎え面倒をみていたのです。でも、その中に悪い人たちも混じってきて、略奪や暴行事件が起きるようになった。食糧は奪われ、若い女はさらわれていくようになった。それで、人々は助け合って生きていこうと団結し、学校の体育館やコミュニティ施設で集団生活を始めたのです。お父さんと一緒に、そこに移ろうかと話していた矢先に、こんなことになってしまって……」
 義母が目頭を押さえながら話し終えた。
「そうだったのか。怖かったろうな……。よし、みんな、できるだけ早くこの街を出よう。暗くなると危険だ――」 
 岳は、身の危険が迫るのを察知し、肩を抱き合って涙を流す三人を促し、立ち上がった。

 ――その時だった。

「へっへっへっへ」
「ひっひっひっひ」 
 いつ侵入したのか、不気味な風体の三人の男が、家族を囲むように立ち塞がった。男たちは皆、白く塗りつぶした顔に黒や赤のピエロのようなメークをしている。意表を突く風貌が凶気を際立たせ、原色で塗り込められた表情の裏は読めない。
 中央のリーダーと見られる大男は、まるでプロレスラーのようだ。不気味に光る鎌が小さく見える。その両脇で、鉄パイプを下げた狼のような男と、こん棒を揺らしている横幅のある男が、ぎらついた目から強烈な暴力の光を放っている。
 両脇の二人が得物を振りかざしながら、じわりと間合いを詰めてきた。
「まて! ここには食糧も金もない、子供や年寄りには手を出すな」
 岳は、家族を背に、立ちはだかった。
「ふっふっふ、ガキやババアに用はない、もちろんお前にもな」 
 大男が、分厚い唇を歪め、地の底から響くような声を吐き出した。厚いメークでも隠しきれない、左頬の巨大なムカデが張りついたような刃物傷が、その残虐性を誇示していた。岳は桜を、背後へと促した。
 そのわずかなすきに、両脇の男が同時に飛びかかってきた。
 こん棒が左の顔面をかすった。岳は必死にその横幅のある男に組みつき、喉仏を締め上げた。だが、3対1の闘いの結果はわかりすぎていた。
 鉄パイプが頭部を襲ってきた。視界が歪む。大男が、鎌を片手に桜を抱きすくめているのがぼんやり見える。「やめろー」と叫ぶが声が出ない。なおも頭部への衝撃が続く。ああ、だめだ――未来が大男の足に噛みついている。大男が未来の首を鷲づかみにし、持ち上げた。やめろー、渾身の力を込めるが、喉が引きつり声にならない。頭部への衝撃はなおも続く。「ああ、だめだ、やめろー」大男が未来を床に叩きつけようとしている。その時だった、桜が猛然と大男に飛びかかった。未来が大男の手を離れ、床に落ちた。左眼を押さえる大男の手から血が滴り落ちている。「桜、よくやった」――だが、桜の悲痛な叫びを最後に、意識が遠のいた。
 それから何時間経ったのだろう。ハッとして目が覚めた。朦朧とする視界。頭が割れるように痛い。それでも、生きていたという感動が、唇をわなわなと震わせた。畳に爪を立て、体を芋虫のように動かす。どうやら手足は健在のようだ。だが頭部からは夥しい血が流れたと見え、皮ジャンの下の白いTシャツを赤黒く染めていた。恐る恐る、頭部に指を這わせてみる。あちこち肉が抉れていたが、骨の陥没は免れたようだ。奇跡的なことだと思った。
 辺りに目を凝らす。畳に沈み込むように動かない義母の姿が、ぼんやりと目に入ってきた。義母はたいした血も流さずに、命が絶えていた。
 不意に、最後に聞いた桜の悲鳴が蘇ってきた。再び、血が噴き出しそうな激痛が頭部を襲った。

 どうしても信じたくはない光景が、部屋の隅に浮かび上がった。

 未来の体をかばうように折り重なった、桜の背中が目に入ってきた。全身の血が逆流するような絶望が襲ってきた。岳は床を這いつくばり、一歩一歩二人に近づいた。桜はすでに息絶えていた。乱れた髪をそっと整え、背中を革ジャンで優しく覆った。もしやと思い、震える手をその下に差し伸べた。小さな体が、微かに反応した。未来は生きていた。桜が命を賭して、守り通したに違いない。
 岳は静かに未来を引き離し、妻を布団の上に横たえた。不思議と、顔だけは無傷だった。白く美しい顔が、あの世から家族を心配するように固まっている。岳は、微かに温もりが残る妻の手を握り、泣き崩れた。娘を助けるために、野獣に命を賭して飛びかかっていった妻の姿が、目蓋の裏に焼きついていた。
 ふと、後に小さな気配を感じ振り返った。未来が呆然と立ち尽くしている。
「未来、どうした? お母さんだよ。お前を最後まで守ってくれたんだ。手を握っておやり」
 岳は未来に手を差し伸べた。未来は目を見開いたまま、微動だにしない。唇が、微かに震えている。
「そうか、無理もない。お前もたった今酷い目に遭ったばかりだ」
 岳は、よろよろと立ち上がった。
 驚いたのは、あの横幅のある男が、部屋の入り口を塞ぐように、カッと目を見開き絶命していたことだ。喉仏に喰い込んだ紫色の爪痕はおそらく自分のものだろうと、岳は強張った手をじっと見つめた。ふとその手を、革ジャンの胸に押し当てた。やはり財布はなかった。カーゴパンツの補助ポケットに分散させた半分の金は無事だった。
 遂に、私は人を殺してしまった。家族を守るためとはいえ、私はけものとなった。だが、殺さなければ殺される。いつか、恐れていたことが、ついに現実のものとなった。
 不思議なことに未来は、何の感情も示すことなく、男の苦痛に歪んだ死に顔を見下ろしていた。
 岳はもしやと思い、よろよろと外に出た。やはり、車がない。着替えや予備の食料も、すべて持って行かれた。再び、頭が割れるような痛みが襲ってきた。貧血のせいか視界が暗い。
 家の電話から110番を押した。あきらめて切ろうとした時に、やっと女性の声が応答した。
 慣れない口ぶりで、長々と事件の状況を訊いた後、パトカーが到着するまでしばらくお待ちくださいと言い残し、電話は切れた。県警のコントロールセンターは、完全にパンク状態のようだ。
 それから1時間が経った。岳は警察をあきらめた。
「未来、ここを出よう。ここは危険だ。また奴らが襲ってくるかもしれない」
 未来は相変わらず、焦点の定まらない目で床に座り込んでいた。
 岳は、押し入れからシーツを取り出して縦に裂き、頭を保護するようにぐるぐると巻きつけた。物置小屋からツルハシとスコップを取り出してきた。
 ポプラで囲まれた庭に深く穴を掘った。岳はそっと、妻の髪を切り、ポケットに忍ばせた。シーツに包んだ二つの遺体を庭に運び出した。未来もやっと自分を取り戻したのか、悲しそうな表情で手伝ってくれた。 だが、可愛がってくれた義母と母の遺体にすがりついて泣くことがない未来が、岳には不思議に映った。
 深く大地の中に、丁重に妻と義母を葬った。土をかける時、未来の顔にも悲しさが浮んでいた。だがそれは、子猫や子犬の死骸を土に埋めるような、幼い子供の儀式のように映った。
 岳は、不憫な娘の背中を見て、必ずこの恨みは晴らすと誓い、最後のひと握りを落した。
 すべてが終わった時は日も暮れかけていた。やはり、パトカーは来なかった。自分と娘が助かっただけでも、奇跡的なことだ。早く安全な場所に移動しなければならない。二人は毛布と義母が残したコッペパンをバッグに詰め、家を出た。

 6

 廃墟の街を影のようにすり抜けると、もと来た国道に出た。夜逃げをするように荷台を軋ませるトラックや、ルーフにずれ落ちそうになるまで荷物を積み上げたワゴン車が、南を目指し通り過ぎて行く。岳は道路の端に佇み、手を振り続けた。だが、停まる車は一台もない。少し離れて付いてくる未来は、相変わらず何もしゃべらなかった。
 辺りは暗くなった。ふらふらと車が向かう方向に歩いて行くと、右側の線路とは反対側の、闇に広がる原野の中に、薄っすらと浮かび上がる小屋を見つけた。一夜を明かすことができるかもしれない。恐る恐る近づいた。粗末な木のドアをこじ開けると、月明かりが差し込んだ。鉄さびと油の匂いが漂ってきた。浮かび上がった内部はひっそりとして、真ん中に大きなポンプがある。目が暗闇に慣れてくると、小屋はぼろぼろだが、床のコンクリートは清潔そうだった。
 二人は小屋に入り、ドアを閉めた。小窓から差し込む月明かりを頼りに、床にバッグを置き、腰を下ろした。ざらついたコンクリートの冷気が、体に滲み込んでくる。
 粉雪が舞うような冬がなくなって久しいが、やはり二月の夜は、空から降りた冷気が壁の隙間から忍び寄ってきた。
 岳はバッグから毛布を出すと、小屋の隅に縮こまっている未来に手渡した。自分は革ジャンの襟を立て、壁に背を預けた。
 未来は、岳のほうを窺いながら、毛布で身体を包み込んだ。再び未来と目が合った。岳は優しい目差しを向け、無言でうなずいた。未来はやっと安心したように、そのまま眠りについた。よほど疲れていたのだろう。五分もしないうちに、小さな寝息が周りの静寂に解けていった。急に、ぞっとするような孤独感が襲ってきた。なぜ桜がここにいないのだろう? 認めるわけにはいかない現実。残酷な記憶が、脳内で早鐘のように点滅する。岳は、現実から逃れようと、硬く目を閉じた。吸い込まれるような睡魔が襲ってきた。
 どのぐらい眠ったのだろうか。ドアのすき間から差し込む朝の光が革ジャンに反射し、目が覚めた。頭部の血は止まり、目まいは引いていた。ふと、手が無意識に桜の温もりを探す。桜がこの世にいない現実を受け容れることは、到底無理のようだ。
 見ると、毛布が膝に掛けられており、部屋の隅に未来の姿はなかった。腕時計の針が六時を指していた。岳は急いで外に出た。辺りに未来の姿は見えない。
 昨夜は暗くて分からなかったが、ポンプ小屋の少し向こうを川が流れているらしく、左右に延びる堤防の下から水が走る音が聞こえてくる。昔、その川からこのポンプで水を汲み上げ、広大な畑の灌漑に使っていたと思われる。
 岳が川の音に向って歩き始めた時だった。堤防の向こうから赤いジャンパーと青いジーンズの未来が現われた。通り過ぎた悪夢を、川で洗い流してきたのだろう。表情に、幾分陰りを引いているが、いつものくりくりした目の丸顔に水の滴が光っている。やっと、出かけてきた時の未来に戻ったようだ。
 岳が手を振ると、恥ずかしそうに近づいてきた。岳は、その表情に違和感を覚えた。ふと、未来があれから一言も言葉を発していないことに気づき、岳は呆然となった。
 恐る恐る、どこか他人のような仕草を見せる未来に話しかけた。
「未来、どうしたんだ、なぜ何も話さないんだい?」
 未来はきょとんとした目で岳を見上げているが、口を開くことはなかった。その目は、これまで一度も見たことのない目だった。
「おまえは私の娘で名前は未来だ。覚えているよね」
 何をばかなこととは思ったが、岳は確かめてみた。
 未来の顔に困惑の色が浮んだ。まるで、何も覚えてないと言っているように。
「昨日、庭の土に埋葬したのはおまえのお母さんだよ。おまえも悲しそうに、土をかけていた……」
「――」
 未来の顔に一瞬、悲しみの表情が浮んだ。
 けれどもすぐに、困惑した表情に戻ると、何も覚えてないというように、首を小さく振るのだった。
 岳は、未来が大男に首を締め上げられ、今にも叩きつけらようとした光景を思い出した。あの時妻が、小鹿が巨大な熊に飛びかかるようにして娘を助けたが、それから起こったことは未来だけが知っている。それは、記憶も言葉も失うほどの惨劇だったことは想像に難くない。むしろ思い出さないほうがいいのだ。このままそっとしておくべきだ。岳はそう確信した。
「悪かった。おじさんがどうかしていた。おじさんはあの街で家族を見失った。娘が、ちょうど君ぐらいの年齢だ。余りの悲しさに、迷子だった君が、娘が帰ってきたと思い違いをしてしまった」
「……」
 未来が、「私は迷子?」とでも言うように、瞬きしている。
「心配することはない。私もすべて忘れ、新しく出発しようと思っていたところだ。ちょうどいい、二人で助け合って生きて行こう。ああ、私は、自分で言うのもなんだけど、怪しいものではない。君のお父さんのようなものだと思ってくれればいい」
 未来はやっと、恥ずかしそうに微笑んだ。ふと視線が、闘いで汚れた岳の服装に留まり、恐怖の色を見せた。岳は慌てて、Tシャツの血の滲みを隠した。
「これは昨日、山道で転んだ時に負った傷だ。もう大丈夫だ。腹がへったろう。食べ物が少しあるから一緒に食べよう」 
 二人は小屋に入り床に並んで腰をおろした。未来は相変わらず無言だった。ここにロンでもいてくれればと、岳はふと思った。だが、一歩間違えれば、もっと悲惨な状況になったかもしれない。
 岳は、桜の実家から持ってきたコッペパンを半分渡した。
「毛布をかけてくれてありがとう。おかげでぐっすり眠れたよ」 
 見ず知らずの男にかけたはずの親切に、岳は礼を言った。
 未来は、しっかりとした目で岳を見ながらうなずいた。何かをしゃべろうとするが、声にはならないようだ。やはり、あの時のショックで、記憶と共に言葉も失ったに違いない。けれども幸いに、人間としての優しさは残っているようだ。両手で持ったわずかなパンを、涙を流しながら噛みしめている。
 岳はふと、妻と娘がどれほどの恐怖を味わったのだろうかと想像し、憤りと共に込み上げてくるものを堪えた。未来は岳のそんな姿を、横でじっと見つめていた。
「私の名前は兵藤岳だ、タケルと呼んでくれ。いや無理することはない。しゃべれるようになってからでいい。私の家は隣の県のK市なんだ。車があればあの道を南に三時間ぐらいで着くけど、車も家族も……」 
 急に、脳裏に忌まわしい出来事が蘇り、言葉に詰まった。
 未来は、岳の心の痛みだけはわかるらしく、パンを食べるのをやめて、じっとうつむいている。岳はそれを見て、今は微かな記憶さえも呼び覚ますのは危険だと思った。子猫のような幼い心では、発狂してしまう恐れもある。今はすべてを忘れることが、空の上で桜が一番望んでいることだと思った。
「この辺りは危険だ。私はこれからK市まで歩こうと思う。今日は途中で野宿して、明日の夕方には着くはずだ。山沿いの街なので、海水が襲ってくることもない。もしそれでよかったら、私と一緒に行ってみないか?」
 岳は、初めて出会った少女に話しかけるように言った。
 未来は、心配そうな目で岳をじっと見ていたが、信用したらしく黙ってうなずいた。その目にみるみる涙が溢れてきた。やはり未来は、すべての記憶が失われ、どこにも行くところがない天涯孤独な少女になってしまったのだ。傷だらけで見ず知らずの男を、人間として信じてみようという、少女なりの命がけの決断に違いなかった。
 社会から人間の信頼が忘れ去られて久しく、岳は胸を突き上げてくるものを覚えた。あえて娘の未来ではなく、一人の少女として、優しく肩に手を載せた。
「よし、それでは話は決まった。私はこれからもう一度街に戻って、食料と野宿の道具を調達してこなければならない。ああ、そうだ、君の名前を考えよう。もし好きな名前があれば床に書いてみてくれないか」 
 岳は、鍬やスコップなどを収納している屋根裏の棚から草刈り鎌を取り出し、手渡した。
 少女は鎌の刃を見て、一瞬恐怖の色を浮かべた。岳はしまったと思ったが、それ以上の反応はなく、両手で鎌の柄をしっかり握り、刃の先で床のコンクリートの表面に名前を刻み始めた。灰色の地肌に浮かび上がった文字に、岳は目を見張った。あの記憶が残っていたのだろうか……。白く刻まれた「あかね」という名は、未来が小さなころ、桜がよく読んで聞かせていた童話の主人公の名前だった。
 岳は鎌を受け取ると、「茜」という漢字をその横に刻んで見せた。少女はそれを見ると、だまってうなずいた。
「茜か、いい名前だ。これからはおじさんも茜と呼ぶよ」 
茜は岳から目を離さずにうなずき、やっと子供らしい笑顔を見せた。
「夕方までには必ず戻るから、ここで待っていてくれないか」
 茜は笑顔から一変して悲しい顔になり、首を横に振った。
 茜をここに一人で残すのは確かに危険だ。が、傷を負った岳の体では、少女を街に連れていくほうがはるかに危険だった。
「大丈夫。私がこれから危険を避ける方法を教えるからよく聞いてくれ。いいね」 
 やっとうなずいた茜に、岳は優しく、身を守る方法を説明した。
 お金も食料も持っていない少女を襲うのは変質者しかいない。それを正直に教えた。茜も、本能的にそれが理解できるようだった。
「危険なのは、道路を通る悪いヤツがこの小屋に少女が隠れていることがわかった場合だ。だから小屋の外には出ないこと。窓の隙間から道路の様子を窺って、万一車が停まり、誰かが小屋に近づいてきたら、すぐ反対側の板を外し、そこから草むらを堤防まで這って行くんだ」
 道路から見ると、小屋の向こうに南北に延びる堤防が築かれ、その向こう側を川が流れている。出入り口は南側にあり、そこから逃げれば悪者に気づかれる。岳は、道路側から死角となる東側の壁の板二枚を、内側から取り外し可能なように加工し、茜が安全に脱出できるように細工した。
 岳は、堤防までの約10メートルを、自らほふく前進をやって見せた。堤防のなだらかな傾斜は川原へと続いていた。河原にはところどころに背丈ほどの葦が密生し、身を隠すことができる。茜は岳の説明を理解したらしく、真剣な目つきでうなずいた。
 岳は小屋を出る前に、顔にポンプの軸受けにこびりついた黒ずんだ油を塗り付け素顔を隠した。あの連中と再び遭遇しても、満身創痍の今の自分では、闘う余力はなかった。
「それじゃ行ってくるよ。気をつけてな」
 岳は茜の両肩に手をのせ励ますと、街に向った。

 7

 半日近く探し回ったが、廃墟と化した街には、食べ物はおろか、役に立ちそうなものは何もなかった。
 岳はあきらめ、引き返した。なかなか国道が見えてこない。遠くに海が見えてきた。どうやら道に迷ったらしい。
 防潮堤を見下ろす丘の道路を南へと歩いていた時だった。大きなホームセンターが見えてきた。それは、全国に展開していた黒一色の建物だったが、巨大な広告塔の看板は外され、代わりに「希望の村」という手作りの看板が掲げられていた。
 入り口には、中世の戦争映画のような、先が尖った太い木で組まれたバリケードが設けられている。建物の周りには、鉄パイプや角材で武装した男たちが目を光らせていた。
 木立に身を隠し様子を見ていると、買い物袋を提げた三、四人のグループが店から出てくる様子や、入れ替わるように入っていくおばさんたちの集団も見える。どうやら一般人が買い物をしているようだ。岳は、恐る恐る、入口に近づいていった。
 すぐに得物を持った屈強そうな二人の男が駆けよってきた。
「おい、どこの者だ? ここに何しにきた!」
 年かさの男が、鷹のような目を向けた。
 男たちは、岳の風体に不信感を持ったのかもしれない。今にも鉄パイプを振り降ろさんとする勢いで詰問する。
「私は怪しい者ではない」
 岳は、生き残った娘のことには触れず、三人組の暴漢に家族が襲われた経緯を話した。若者が信用したらしく、同情の目で、犯人に結びつきそうなことを語った。それは、貴重な情報だった。
 二人は、この施設の自警団員だと言い、店内を案内してくれた。
 このホームセンターは早くから自警団を組織し営業していたが、街では略奪が常態化し、地元商店は次々と閉鎖した。それを憂いた経営者は、店内のスペースを分け合って共同で経営することを提案した。略奪を免れた商店や農協などが次々と集まり、昔懐かしい道の駅のように復活させたのだった。
 広い店内は、日常雑貨やレジャー品は姿を消したが、食料品や工具の他に、農業用品や野菜の苗などの自給自足用品売り場があり、生き延びようとする人々が殺到していた。
 岳は、食べ物と野宿に必要なツールや登山用リュックを求め、店を出た。ふと、ある光景に目を見張った。
 別棟を囲うバリケードの内側で、老人と子供たちが、犬や猫と一緒に、巨大な防潮堤の向こうに広がる海を眺めていた。
 先ほどの若者に訊いてみると、自活できない老人や、親とはぐれた子供たちのために資材庫を開放し、店の利益から捻出した食料を与えているということだった。

 日本は、まだまだ捨てたものではない……。

 岳は、人間の悪が炙り出されるこの過酷な環境で、人間の本来の優しさがまだ残っていることに、胸を突き上げるものを覚えた。
 帰り際に、若者が意外なことを話した。
「ところであんた、傷を負ってはいるが見るからに強そうだ。ここで俺たちと一緒に自警団をやらないか。看板を見たように、俺たちは力を合わせて、ここに希望の村を作ろうと考えている」
 若者は正人(まさと)と名乗り、真剣な目で岳を見つめた。
「ありがたい話だが、今はどうしても、一度K市に戻らなくてはならない。必ずまた来るので、その時はよろしく頼むよ」 
 岳は必ず戻ることを正人に約束し、自分の名前を告げた。
 やっとK市へと続く国道に出た。路面に映る自分の影が、長く伸びている。急に茜のことが心配になり、岳はポンプ小屋に急いだ。
 ポンプ小屋はひっそりとしていた。だが、蹴破られたようなドアを見て、岳は凍りついた。まさかと思い、足を踏み入れる。壁の板が半分外れかかったまま、茜の姿はなかった。
 視界が真っ暗になる。再び外に出ようとした時だった。

「おじさん――」屋根裏の棚から、耳の錯覚なのか、小さな声が聞こえた。

 棚にへばりついて見下ろしているのは茜だった。
「茜、大丈夫か? 何があったんだ。気をつけて降りるんだ」 
 岳は辺りを窺いながら、棚の上に小さく声をかけた。
 茜が器用に、筋交いを伝って降りてきた。茜は岳にしがみつくと、声を上げて泣き出した。岳は驚いた。初めて茜の声を聞いたのだ。ひとしきり泣き終わると、岳から離れ、まだ怯えが残る目で見上げながら、「怖かったー!」と、はっきりとした声で言った。
「茜、お、おまえ、声が出るようになったんだね!」
 岳は、飛び上がりたいほど嬉しかった。だが同時に、記憶の戻りへの恐れも重なった。

 茜が自分の声で語った事件の詳細は、およそ次のようなことだった。

 ***
 
 一人になった茜は、言われたとおりに、じっと板の隙間から外を窺っていた。小屋の中を蒸し焼きにするような強い太陽の光が西に傾き始めたころ、道路に一台のワゴン車が停まるのが見えた。茜は全身が震えてくるのを堪えながら、霊柩車のようにも見える大きな黒い車を見ていた。運転席とスライドドアが同時に開き、三人の男がゆっくりと降りてきた。彼らは、それぞれ辺りを窺っていたが、やがてその目は示し合わせたようにこの小屋に集中した。ぎらぎらと光る六つの目がこちらに向ってくる。茜は、震える体で岳が教えてくれたことを脳裏に描いた。反対側の壁の板を外しにかかった。けれどもなかなか外れない。手が震えて力が入らないのだ。何とか一枚が外れた時は、すぐ近くに男たちの話し声が聞こえてきた。ふと、岳が鎌を取り出した屋根裏の棚を思い出した。とっさによじ登り、身を隠した。と、同時にドアが蹴破られ、男たちが入ってきた。体の振るえを必死に堪え、じっと目をつむっていた。そのうち一人が「ポンプがでーんとあるだけで女の子などいねぇじゃんか」と言うと、別な男が「確かにこの小屋に入っていくのを見たという情報があった」と言い、もう一人が「とんだ金づるを逃しちまった」と、チッと舌を鳴らすと、3人はもう一度ドアを蹴って出ていった。

 ***

「そうだったのか、よくやった!」
 おそらく茜は、切羽詰まった身の危険を自らの力で切り抜けた自信から、ショックにより一時的に失っていた言語機能が回復したのだろう。
 岳は、茜が危機一髪で助かったことと、声が出るようになった感動で、溢れる涙もそのままに、何回もうなずいた。
「おじさん! 早く行こう。また悪者が来るかもしれないよ」
 茜が、真剣な目で岳を見上げた。
 一瞬、娘の未来の声を聞いたような気がして、岳はハッとした。けれども、声は出るが、記憶はそのままのようだ。再び寂しさが襲ってきたが、ホッとしたことも確かだった。絶対に、あの残酷な現場を思い出させるわけにはいかない。
「そうだな、早くここを出よう」

 8

 二人は、日が陰り始めた国道を南に向った。時おり、荷台をガラクタで満載にしたトラックや、狼の群れのようなバイクの集団が追い越していく。岳が一人の時は見向きもしなかった男たちが、少女がいるからか、舐めるようにして通り過ぎて行く。
 岳は、人間の凶気よりも山の獣のほうがまだ安全と判断し、国道より、K市まで延びる鉄道線路を行こうと思いついた。
「茜、私の後をしっかりついてくるんだよ。靴の紐をきちっと締めて。毒虫に刺されないよう袖も降ろすんだ」
 岳は、右手を平行して走る在来線の線路を目指し、背丈ほどもある藪に入り込んだ。時折り、足元から猫のような巨大なカエルが飛び出した。生い茂る草木をかき分けながら進んで行くと、手の平ほどもある黒と黄色のまだらな蜘蛛が立ち塞がりハッとする。意外と茜は、楽しそうに声を上げていた。
 二人はやっと線路に出た。まだ列車が細々と運行しているらしく、両側から押し寄せる雑草の間を、黒光りのする2本の軌跡がはるか向こうの山陰まで延びていた。
 ふと、少し後ろを遅れずについてくる茜を振り返る。線路の枕木を跳ねながら、まるでカモシカの子供のように歩いている。茜は視線を感じたのか、立ち止まり岳を見た。最初に会った時とは、見違えるほど元気になった。
「茜、大丈夫か? まだ歩けるかい」
 岳は優しく尋ねる。
「大丈夫ですけど、おじさんの家はまだまだ遠いのですか?」
「あと百キロぐらいかな。車だと3時間で着いちゃうけど、歩きだと二日はかかるかもね。でも茜は歩くのが速いから、もっと早く着くかもしれないよ」
 岳は、桜と三人で帰ることができたらどんなに良かっただろうと、涙を隠しながら歩いた。茜はほとんど正常に話ができるようになった。だが、記憶は依然として闇の中のようだった。岳はそれでいいと思った。あの残酷な記憶を正視できるまでには、まだまだ時間が必要だろう。
 まもなく、眼前に驚くべき光景が開けてきた。大きな川と、それに直行する、向こう端が霞むような長い鉄橋が延びていた。
 眼下を流れる川は大きくうねり、近づくものをすべて呑み込むような深みを見せている。鉄橋は左側だけに所どころ壊れた手摺りがあり、その手摺りの側にやっと歩けるほどの渡り板が敷かれている。枕木が、人がすっぽりと落ちていくほどの間隔に並べられ、線路はその上を真直ぐに伸びている。
 岳は渡り板の上に、一歩足を踏み出した。茜は鉄橋が怖いのか近づいてこない。
 足元を見下ろすと、はるか下で渦巻く流れが目を奪い、体が宙に浮いたまま川を遡るような錯覚にとらわれる。
 突然、頭部の傷が痛み出した。目まいを覚えた岳は、ふらふらと後退りした。ふと振り返ると、茜はまだ線路の上で固まっている。
「茜、どうした? おまえも鉄橋は怖いのか?」 
 岳は、目の前の一点を見つめて凍りついている茜に声をかけた。
 茜はまた声が出なくなったのか、返事をしない。

 ふと、茜の視線の先を見て、岳は息を呑んだ。

 茜の足元の砂利の上に大きな黒い蛇がとぐろを巻いている。もたげた鎌首が今にも茜に飛びかかりそうだ。下手に刺激すると危ない。黒蛇は毒を持っていることがある。
「茜、そのまま私の言うことを聞くんだ。蛇から目を離さず静かにバックしろ。いいか、ゆっくりだぞ――」
 茜は賢い子だった。岳の言うとおりに、時おり鎌首を揺らす黒蛇から目を話さずに、一歩一歩後退して行った。黒蛇はやがて、あきらめたように、線路の脇へと体をくねらせた。西日にうろこを黒く光らせ、蛇は悠然と藪の中に消えていった。
「もう大丈夫だ、早くこっちへ来るんだ!」
 岳は呆然と立ち尽くしている茜に手招きした。茜は表情を取り戻すと、一目散に駆けてきた。
 日本には猛毒を持つ黒っぽい蛇が二種類生息している。マムシとヤマカガシだ。稀にシマヘビが黒化することがあるが、毒を持たない。毒蛇かどうか見分ける確実な方法がある。蛇と対峙したときに、人間に鎌首をもたげる蛇は毒蛇だ。岳が、渓流釣りで何度も遭遇して得た、貴重な教訓だ。
 二人はいよいよ鉄橋を渡ることにした。岳は線路に腹ばいになりレールに耳を押し付けた。
「おじさん、何してるの?」
 茜もしゃがみ込み、岳の顔を覗き込んだ。
「こうして線路の音を聞いていると、列車が近づいてくるのがわかるんだ」 
「へぇー、おじさんって何でも知ってるんだね! 私もやってみよう」 
 茜は目をきらきらさせ、岳の隣で真似をしてみせる。
 無邪気な顔で線路の上に頭を乗せる目の前の少女は、娘の未来に違いなかった。岳は思わず、胸を突き上げてくるものを堪えた。
「よし、大丈夫だ! 今から5分間は安全だ。絶対下を見ないように私の後をついてくるんだ」 
 高所恐怖症ぎみの岳は、引きつった顔で茜に手を差し伸べた。だが、茜は悪戯っぽく微笑むと、軽く岳の手を払いのけた。
「どうしたんだ? やっぱり茜も怖いのかい?」 
 岳は、心配そうに茜を見た。

 と、その時、茜が岳の脇をすり抜けるように鉄橋へと駆け込んでいった。

「あぁ!」と、手を伸ばす岳を尻目に、茜は髪をなびかせ、渡り板に乾いた音を残しながら、まるで平均台を走る体操選手のように走っていく。中間地点で、唖然と見守る岳を振り返り、両手を大きく振ると、また駆け始めた。見る見るうちに姿が小さくなり、向こう岸に着いた。
 岳も覚悟を決め、渡り板に乗り出した。枕木の間から覗く底なしの恐怖に煽られながら中間地点まで来たとき、「がんばれー!」という茜の無邪気な声が聞こえてきた。見ると向こう岸で、運動会の応援団のような格好で、茜が元気に手を振っている。
「おじさん、大丈夫?」
 茜が、血の気を失った岳の顔を覗き込む。 
「大丈夫だ。茜はたいしたものだ。おじさんの負けだ」 
 岳は引きつった笑みを作り、茜の頭を優しくなでた。
 この一件で岳は、茜に一目置くようになった。茜はとても嬉しそうだ。スーパーマンのように見えた岳に、一人前として認めてもらったからだろうか。
 それから二人は並んで歩くようになり、茜は岳に気さくに話しかけるようになった。それまで遠慮ぎみに「おじさん」と呼んでいたが、いつの間にか「タケル」と親しみを込めて呼ぶようになった。
 それからしばらく行くと、向こうに新幹線の鉄道が見えてきた。
 近づいて様子を見ると、パンタグラフに電気を送る裸銅線はほとんどが持ち去られ、すでに列車は運行不能と思われた。二人は助け合い、土手のフェンスを乗り越えた。
 やがてトンネルが見えてきた。岳は、入り口で中の様子を窺った。照明のない暗い洞窟の、はるか遠くに、出口と見られる光りの点が見える。両サイドにしっかりとした点検通路があることは助かった。
「少し急ぐけど、私の手を離しちゃいけないよ」
 トンネルの中は、微かに湿り気を帯び、別世界のようにひんやりとしていた。
 トンネルを抜けると右側に、昔は日本でも有数の、温泉地を擁するスキー場としてにぎわったといわれる高い山々がそびえていた。
 少し行くと、再びトンネルが見えてきた。
 現役時代の出張では気にも留めなかったが、そのトンネルは相当長く、行けどもいけども入り口の光が見えなかった。闇の中を手探りで進む。さすがに茜も心細くなったのか、岳の手を握る小さな手に力が入った。
 やっと光らしきものが見えてきた。茜が手を離し、駆けだした。
 外に出ると景色は一変し、夕日に染まり始めた遠くの田園の風景に、故郷の匂いが感じられた。
「よーし、今日はここらで野宿しよう」 
 岳は、茜の肩を軽くたたいた。いつも約束は仕事に流され、家族でキャンプをしたことはなかった。茜は不安と、ときめきが入り混じったような目で岳を見上げている。岳は急に、この場に桜がいたらどんなに楽しいだろうと、胸を押し上げてくるものを呑み込んだ。
 二人は線路から降り、山の麓の小高い丘に荷物を降ろした。夕焼けに照らされながら、組立用テントを敷設する。茜は、自分もやってみると、ふらつきながら両手でハンマーを握り、ロープを止めるアンカーの頭を打ちつけていた。
 作業が終わり一息つくと、今朝、迷い込んだホームセンターで、正人が話した驚くべき情報が脳裏に蘇ってきた。
「あんたの家族を襲ったというその大男、左の頬に大きな傷跡がなかったかい? もしそうだとしたら、S市に本拠を持つギャング団の幹部かもしれないね」
 正人の話によると、昔、杜の都といわれたS市も、今は無法地帯となった。歓楽街を根城とする不良グループが、近郊の不良たちや社会からはみ出した人々を次々と吸収し、全国に展開する巨大な悪の組織を築き上げた。彼らは略奪、暴力、女性誘拐など悪の限りを尽くし、中でも最も凶暴だと噂されるのがその巨漢だという。
 男はなぜか銃を使わず、鎌や蛮刀で切り刻む残虐性を持っており、刈棲魔(かりすま)と呼ばれ恐れられているらしい。文明が崩壊し、暴力が支配する世に現れた悪のカリスマか。
 彼らは特に富裕層を憎み、富を独り占めにして立てこもった特別区の要塞をことごとく襲撃した。特別区には膨大な食料が備蓄されていたので、彼らはそこをアジトにしているという。いずれこのホームセンターも襲ってくるだろうと、正人は目を鋭く光らせた。
 岳は、標的の情報に感謝したが、独りで闘うのは容易でないこともわかった。十分な戦略が必要だ……。
「岳、どうしたの、急に考え込んじゃって――」
「あぁ、ごめん。あのホームセンターのことを思い出していた」
 茜の言葉に、いつの間にか強張っていた表情を和らげた。
「茜もおなかすいたよね。さぁー、一緒に夕食を食べよう」 
 岳は、リュックのサイドポケットから味噌焼きおにぎり二つと、水のペットボトルを取り出した。
「ワァー、嬉しい! 茜、おなかぺこぺこだったんだ」
 茜の大きな目の中で、金色の月がきらきらと輝いている。
 おにぎりをほおばる茜を見て、岳は、ロンも一緒に家族で食べた最後の夕食を思い出し、涙が溢れそうになるのを堪えた。
 茜はそれを感じ取ったのか、笑顔が崩れ、口の動きが止まった。
「ごめん、私が悪かった。つい昔のことを思い出しちゃった……」
「岳の家族のこと?」
「――い、いやちがう。今は、茜と二人の家族で幸せだよ」
「良かったー。私も岳のこと、本当のお父さんのように思えてきた」
 二人は、青く澄んだ月光に包まれ、香ばしい味噌の味が滲み込んだおにぎりを噛みしめた。
 ふと見ると、茜はあっという間に食べ終え、月を眺めている。
 岳は、食べかけのおにぎりを半分にし、茜の横顔にそっと差しだした。
 茜は、最初は遠慮するようなそぶりを見せたが、にっこりと笑いながら受け取り、今度は岳に合わせるように食べ終わった。
 山間の夜はひんやりとした湿った空気が山から降りてきて、衣服を通す冷え込みを感じた。それでも二人は毛布にくるまり、今日一日生き延びられたことを感謝して、眠りについた。
 翌朝、日の出と共に起き出した。岳は、遠くの風景に目を見張った。休耕地と思われる広大な原野が、若い杉やポプラの木で埋め尽くされている。桜が夢に見た世界に違いない。この国も、一丸となって地球温暖化に立ち向かったことに、熱いものが胸を突き上げてきた。
「あの木、ポプラって言うんだよね……」
 茜が何かを思い出したように、農道のわきに立ち並ぶ大きなポプラを指差した。岳は、ドキッとした。
「――そ、そうだね。地球温暖化を止めるために、みんなで植林したんだ」
「温暖化、植林……」
 茜は、それ以上は思い出さなかったようだ。岳はホッとした。けれども桜と一緒にポプラを植えたことだけは、微かな記憶の奥にあるのかもしれない。
 二人はよく、早朝の植林活動に参加していた。所どころ破れた桜の軍手は、土にまみれ、血が滲んでいた。身を粉にして温暖化に立ち向かった妻。だが、温暖化で凶気と化した野獣たちに、無惨に殺されてしまった。
 桜がいなくなった今、もう温暖化など、どうでもいいことだと、岳は思った。
 二人はK市に向かって歩き出した。


 
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