第6話 希望の村ミネルバ

文字数 33,132文字

 第5章 希望の村ミネルバ

 1

 年が明けて間もない日の早朝だった。
「岳、何これ、真っ白よ――早く見て!」
 岳は、二階から叫ぶ茜の声で飛び起きた。いつになくロンの元気な吠え声も聞こえてくる。岳はつんのめりながら、階段を駆け上がった。
 二階のベランダから目に入ってきたのは信じられない光景だった。重なり合う住宅の屋根、その向こうの田園地帯から続く山々まで、すべてが白銀の世界に変わっていた。妻を失って以来初めてみる、まさかの雪だった。
 ロンは朝日を浴び、野生が戻ったように、ベランダを駆け回っている。子犬の頃の微かな記憶があるのか、興奮しているようだ。
 岳は、懐かしい光景に目を奪われながら、いよいよ来るべきものが来たかと、体を硬くした。
 茜が、雪を見た時の驚きを、目を丸くして話した。
「明け方、ロンの鳴き声で目を覚ましたの。ロンがカーテンの隙間から窓に向かって、早く見てって言うように吠えていた。ベッドから手を伸ばし、そぉーっとカーテンを開けて見てびっくり。別な星に行ったみたいだった!」
 岳はそれを聞いてホッとした。桜と一緒に雪ダルマを作った記憶にたどり着いたりすれば、一巻の終わりだ。
 二人は一階のテラスに下り、積もった雪を手に取った。茜は、純白の綿のような新雪の冷たさに、歓声を上げた。ロンも、後ろ足で雪を蹴散らし、飛び跳ねている。
「あぁ、茜、口にするのはよした方がいい。飲料にするには煮沸してからだ」
 岳は、茜が雪を食べようとしたのを慌てて止めた。
「ほら、よく見てごらん」
 手の平で融けていく真っ白に見えた雪が、黄色い残渣を残していた。大陸から運ばれてくる黄砂のことを教えていたので。茜はすぐに納得した。
 岳は、この重大な季候逆転を、雪を見てはしゃいでいる茜にどう説明したらいいのか迷いながら、白亜の屏風のように連なる峰々を凝視した。
 これは春夏秋冬の単純な冬ではなく、想像を絶する氷河期への始まりだと確信した。それには、岳なりに学習した根拠があった。
 北極圏の夏の気温が30℃を超えるようになったのは、もうかなり前のことだ。日本の6倍の面積があるグリーンランド氷床の融解が加速され、滝のように流れる淡水が北極海の塩分を薄めていた。更新世末期のヤンガードリアス期と同じように、海洋大循環が止まったことは十分考えられる。
 1万2千年ほど前、地球は寒冷期から現在の温暖期に向かっていた。北アメリカには、日本の面積に近い、氷でせき止められた巨大な氷河湖が出現していた。気温の上昇と共に水位も上がり、ついに氷河湖は決壊した。アガシー湖と呼ばれるその湖から淡水が大量に北極海に流出し、海水は急激に塩分濃度が下がり軽くなった。その結果、北大西洋ラブラドル海から沈み込んでいた海洋大循環が停止し、大西洋を北上していた温暖なメキシコ湾流が停止した。北ヨーロッパは急激に寒冷化へと転じ、それを引き金に再び氷河は北半球全域を覆うようになった。地球温暖化が行き着いた道は、このヤンガードリアス期に酷似している。北半球は氷河期に突入するはずだ。
 岳は、打ち消しようのない現実を、恐る恐る茜に説明した。
「茜、昔は冬には雪が降り、春には融けて桜の花が咲いたものだ。でもこの雪は、単純な季節の移り変わりとは違うかもしれないね」
 茜が、驚くこともなく、意外なことを言った。
「地球の歴史図鑑に、ミランコビッチサイクルについて書いてあった。10万年周期で地球には氷河期が来るって。もしかしてそれかな」
「ほぉー、よく勉強してたね。本来ならば何千年もかけて、氷河期に移行するんだけど、温暖化が原因で、急激に突入したのだと思う」

 岳の予測は的中した。

 4月になっても、6月になっても風雪は止まず、それはやがて氷雪に変わり、辺りは氷の世界となった。
生き残った野良犬が、白一色の雪原に鼻を擦りつけ、餌を求めている。これまで雑草の根や土の中の虫を食べながら生きてきたロンも、空腹と寒さのため日に日に衰えていくのを見るのは辛かった。
 野良猫の姿はめっきりと見かけることがなくなった。やっと見つけた隠れ家にも、氷雪は容赦なく吹き込み、飢えと寒さでひっそりと朽ち果てたのかもしれない。ダラダラと汗が噴き出す酷暑も辛かったが、自然界にはまだ食べるものがあった。

 ラジオ放送が、北極海が氷で覆われ、北半球は氷河が復活したことを伝えていた。やはり地球は、急激に氷河期へと移行したのだ。
 氷で遮断された太陽光は海中に届くことはなく、日本を取り巻く海水の温度も急降下した。これで深海の温度上昇は止まったはずだ。最悪のシナリオである、海底のメタンハイドレート崩壊は避けられたようだ。
地球は人類の窒息死と引き換えに、氷河期という十字架を課したのだろうか。これは、ガイアが最後の最後に見せてくれたせめてもの情けなのかもしれない。
 暖房のない零下30℃の室内は、二人が吐く息は瞬時に凍り、室内を霧のように漂った。ただ起きているだけで体力は消耗し、茜とロンの目はみるみる窪んでいった。おそらく自分も同じなのだろうと、茜の冷たくなった髪を、優しく撫でた。
 二人は、ありったけの寝具を引っ張り出して、部屋の隅で固まっていた。ロンと茜は、お互いの温もりを分かち合うように、体を寄せ合っている。ロンは吠えることもなく、目を閉じていることが多くなった。家族全員に、静かに死が忍び寄っていた。
 二人はお互いの様子を見ながら、交代で寝ることにした。二人とも寝てしまうと、そのまま桜のいる世界に行ってしまうような気がした。それでもいいと弱気が出てしまうが、妻の恨みを晴らすという執念だけが、生きようとする心に火を灯していた。
 茜がロンの頭を撫でながら、弱々しい笑顔で語りかけている。
「ロン、ごめんね。ひもじい思いをさせて。天国に行ったら、また大好きなキャベツの芯を食べさせてあげるね……」
「そんなことを言ってはいけない」と言おうとするが、声が出てこない。ロンは、茜の言葉がわかるのだろうか……。閉じた目じりに、光るものが滲んでいる。寒さを通り越し、楽園へと誘う睡魔が襲ってきた時だった。

 不意に、あのログハウスの地下室が蘇った。

 岳はよろよろと起き上がり、床の畳みを剥がした。床板を取り外すと、凍りついた地面が出てきた。それでも、微かな温もりが、凍傷でひび割れた顔に、優しく触れてきた。
「岳、何してるの?」
 茜が、這うようにして、岳の脇に寄ってきた。
「おまえも覚えてるだろ。あの時のログハウスの地下室。あの時はひんやりとしたけど、酷寒の今は温かく感じるはずだ。二人で地下室を造ろう!」
 岳はさっそく、スコップを凍土に突き立てた。茜も見よう見まねで土を掘り起こし始めた。それを見たロンも、舌を長く伸ばし、一心不乱に土を掘り始めた。茜の真似というよりも、尻尾をピンと立て、本能的な動きで、前足を地面に突き立てている。ひと月もすると、長靴が隠れるぐらいの広い穴ができた。
 来る日も来る日も、雪の下から掘り起こした雑草の根で飢えを凌ぎながら、床下にスコップを突き立てた。ロンは、土の中から何かを見つけるのか、時折涎を流しながら口を動かしていた。
 予想通り、掘り進むにつれ、地盤は徐々に温かみが増してきた。凍傷の指をボロ布で覆い、渾身の力でツルハシを振り下ろす。スコップで掘った土をバケツに入れ、それを茜が引き上げる。大きな石に突き当った時は、ロープで縛りつけ、二人で力を合わせ引き上げた。
 土を掘るたびに出てくるミミズや黒い虫は、茜の目を避け、口に入れた。たまに、何かの白っぽい幼虫が現れた時は、茜の食料として取っておいた。ただ生きるために喰うという行為は、獣と同じで、人間の食事とは程遠いものだった。
 二人は、いや、ロンも足先に血を滲ませながら、寒さと空腹に耐えながら掘り進んでいった。
 半年ほどが経った。朦朧とした意識の中で、手の平に地熱を感じた。いつの間にか、床組みの大引がはるか上にあった。
 四畳ほどの地盤をビニルで防水する。近所の廃屋から木材を集め、床板を敷き、壁を補強した。階段と二段ベッドを作り上げた時は、年が明けていた。疲れきった茜も両手を突き上げ、歓声を上げた。ロンも嬉しそうに、新しい床や壁に鼻をこすりつけ、尻尾を振っている。命の極限に対峙すれば、人間も動物も喜びは同じだった。
 相変わらず茜は両親のことについて話すことはなく、時おり過去の忌まわしい記憶が蘇るのか、悪夢にうなされていた。
 雪氷で覆われた山は、茜が嫌いな蛇さえも獲れず、イワナは夢のご馳走となった。蓄えていた芋と熊の干し肉は底をつき、食料は干からびた栗しか残っていない。腹を減らして部屋の隅でうずくまっている茜を見ているうちに、岳はあることを思いついた。
 それは昔見た、核戦争による文明崩壊後を描いた映画だった。生き残った主人公が弓で獲物を狩り、生き延びていく物語だ。それが現実となった今、映画のように飛ぶ鳥を射るまではいかなくても、山の動物なら自分たちも獲れるはずだと気づいたのだ。
「茜、いいことを思いついた。食べ物にありつけるかもしれない」
 1ヶ月ほどたんぱく質を摂っていない、痩せこけた茜の目にわずかに光りが差した。
 ロンは番犬として残し、岳は茜を連れ、一面真っ白となった廃墟の街を市の弓道場へと向った。窓ガラスを割り、建物の中に忍び込む。的を望む磨き上げられた板敷の大広間は、武道が人々の趣味として浸透していたころを彷彿とさせた。生きる手段になるなど、誰が想像したろう。ふと見ると、壁に書棚が取り付けられていた。中を覗くと、図と写真が載った弓道の手引書が一冊残っていた。思わず顔がほころぶ。備品庫と見られる引き戸をこじ開けてみる。弓が三張立てかけてあった。横の木枠には矢筒が立ててあり、練習用に使用していたものと見られる、たくさんの矢が入っていた。
 岳は様々な弓の用具と一緒に、それも袋に詰めた。

 それから二人は、教本を片手に、庭で弓の稽古を始めた。弓の弦を引いてみたが、意外と重く最後まで引き切ることができなかった。やっと引くことができるようになると、今度は弦を離すことが難しい。弓を握る手を弦が打ち、真っ赤に腫れ上がった。茜は元々その素質があったのか、めきめきと腕を上げ、庭の端に立てた的への命中率は岳を超えるようになった。
 保存の栗も残りわずかとなった。辺りに食べ物はない。岳は、茜とロンを残し、雪に埋もれる商店街へと向かった。
 道路のあちこちに、運転手と共に凍りついた車が見える。
 時おり、雪原を踏みしめながら進んでいく集団とすれ違った。屈強そうな若者を先頭に、幼児を抱きかかえる母親や、子供と手をつなぐ若夫婦、その後ろに、両親を失ったと思われるボロを纏った子供たちが続いている。
 皆疲れ切ったように、振り向く者はいない。酷寒の飢餓で、心まで凍てついてしまったのか。子供たちの目に希望の光はなく、ただ生きるという、本能に支配された暗い光だけが宿っていた。無言のすれ違いが終わろうとした時だった。

 最後列の少年が、くるりと振り返った。

 凍傷で強張る顔に、わずかな笑みを浮かべている。岳は無意識に、口を開いた。
「みんな、どこへ行くの?」
 少年が、割れて血がにじむ唇を動かした。手は凍傷で、赤く腫れている。
「どこかわからないけど、海の方に行くんだ」
「そうか、気をつけて行くんだよ」
 少年は、無言でうなずくと、背を見せる集団に駆け寄っていった。岳は追いかけ、ボロボロの軍手を手渡した。少年は何回か振り返り、軍手を付けた手を振った。やがて、集団と共に消えて行った。
 文明の崩壊は、人々の絆を分断したが、少年にはまだ、無濁な人間の心が残っていた。その温もりを胸に、岳は踵を返した。
 廃屋となったレストランの地下倉庫でネズミを見つけた。すでに追いかける力は残っていなかった。隅で蠢いていた数匹のゴキブリを袋に入れた。
 向こうに、スーパーマーケットの建物が見えてきた。ガラスが割れ、雪が吹き込んでいる店内は、空の棚だけがひしめいていた。
 岳はふと思いつき、裏に回った。大きな廃棄物容器が雪に埋もれていた。夢中で雪をよけ、蓋を開ける。あった! 異臭にまみれながら、凍りついた野菜の切れ端や芯が重なっていた。まだ食べられそうなものを袋に入れ、帰途についた。
 二人は無言で、久々の野菜にかぶりついた。ロンがキャベツの芯を前にして、嬉しそうに尻尾を振っている。二人の顔に、やっと笑顔が戻った。

 1年が経ち、距離30メートル、直径10センチの的の的中率が、二人ともほぼ百パーセントとなった。趣味でやっていたとすれば、10年はかかったに違いない。だが、酷寒の獣の生態は見当もつかない。未知の世界への挑戦は、恐怖と期待が渦巻いていた。
「茜、今日は弓で狩りに出かけよう!」 
 風雪が止んだ日の早朝、岳は決断した。赤紫色に輝き始めた遠く山々の峰が、人間の試練を歓迎しているように見えた。
 茜の顔に、忘れていた輝きが戻った。生存の限界で見せた、微かな希望の色だった。

 2

 白み始めた街を抜け、二人は一歩一歩、白銀の山へと向った。道路も、川も、大地のすべては硬い雪で覆われ、目の前をさえぎるものはない。麓に着いて振り返ると、二人の足跡以外に生き物の形跡はなく、山の中腹にたどり着いた時は正午を過ぎていた。
 栗1個ずつの朝食で、雪深い樹林の中を登って行くのは辛く、二人の会話は次第に少なくなっていった。 その時だった。

 ドキリとする光景が一瞬視界を過ぎった。

 岳は、向こうに見える太い杉の木の陰に、音もなく身を隠した大きな動物の姿を見逃さなかった。 
「茜、止まれ!」
 岳は、斜め後方をふらふらとついてくる茜に声を押し殺し、合図した。
 二人は、反射的に身を伏せ、それぞれ直近の太い立木の陰ににじり寄った。示し合わせたように二人は、背中の矢筒から矢を取り出すと弦にかけた。茜は無言のまま、座射の姿勢で岳の合図を待っている。
 ときおり吹き降ろす冷たい風に、葉を落とした木々がざわつき、二人の姿は荒涼とした自然の一部と化していた。
 大きく枝分かれした角。雄のニホンジカが、ついに姿を現した。凍えるような目を瞬かせながら、まだ青葉が残る雑木の葉を食べ始めたのが見えた。
 距離は30メートル。練習での茜なら外すことのない標的だ。岳は茜を振り返り、無言でゴーのサインを出した。
 茜は片膝をついた姿勢から、静かに弓を引き絞った。鉄で強化した矢尻は、手はずどおり鹿の首筋に向っている。
「キューン!」
 鋭い音と共に矢が放れ、標的に吸い込まれていった。
 ビクンと緊張した鹿が雪面を蹴り、斜面を駆け下りた。と、同時に放たれたもう一本の矢が、疾走する標的に向った。神が味方をした。鹿は崖の下に飛び込む寸前で、雪煙りを上げながら倒れ込んだ。
 茜が射た矢は、鹿が隠れていた太い杉の木の真ん中で左右にしなっていた。茜は射る寸前で的を外したのだった。もしやと、それを予測していた岳は、引き絞っていた矢を疾走する鹿の前方、頭一つ分のところに狙いを定め、弦を離したのだった。
 岳は、斜面を転がるように駆け下りた。鹿の後ろ脚が深々と射抜かれていた。鹿は、角を振り回しながら雪の中でもがいている。背後から、槍のような鹿の角を押さえた。すごい力だ。左腕で角の根元を抱きかかえ、マキリを抜いた。茜が来る前にと、それを水平に引いた。やがて、鹿は動かなくなった。
 脚から矢を抜いてやり、神の恵みに深々と合掌した。
 解体の準備に取り掛かった時、肩を落とした茜がやってきた。
「いいんだ、茜、おまえは優しい心の持ち主だ。それでいいんだよ」 
 岳は、うなだれる茜の肩を優しく叩き、それ以上のことは言わなかった。
 二人は熊の解体と同じように獣の魂を弔い、鹿の処理にかかった。
 鮮血に染まった雪の上に並べられた肉や毛皮は、神が授けてくれた贈り物のように映った。二人は疲れも忘れ、得物を肩に、家路についた。
 空間のすべてが冷凍庫のようになった今、肉の長期保存が可能となった。鹿の内臓を食べさせてから、ロンの毛並みにも艶が戻ってきた。二人は鹿の肉を少しずつ食べながら酷寒の中を生き続けた。
 寒波は益々厳しさを増していった。たまに射す陽光も、白銀の大地で反射され、山岳の積雪は氷河へと変化していった。屋外で吐く息は瞬時に凍りつき、剥きだしの金属に肌が触れたら最後、皮膚がはがれ血が滴った。
 灼熱地獄を生き抜いた強靭な人々も、寒さと闘う武器はなく、やがて緩慢な死へと向って行った。子供たちの姿も見えなくなった。いつか、集団で海を目指していた少年が、仲間と共に生き抜いていることを祈った。
 農業は壊滅し、備蓄していた農作物も凍結したため、物々交換も途絶えた。白銀の世界に、底知れぬ飢餓が口を開けていた。
 二人は今日も山に狩りに出かけた。あれから二頭の鹿を仕留めたが、この寒さで死に絶えたようだ。深い雪を越え、一日中歩いても鹿の姿はおろか、食料になりそうな小動物も見つけることはできなかった。
「茜、もう帰ろう。――そうだ、帰りに農家に回ってみよう! このマキリと、何か食べ物を交換できるかもしれない」
 空腹で朦朧とする岳の思考は、すでに狩人の魂の大切さをも忘れようとしていた。茜は声を発する力さえ残っていないようだ。それでも、見開いた両目を、ゆっくりと左右に振った。
 つるべ落としのように暮れた山道を、二人は疲れ切った身体で里まで降りてきた。雪原を街のほうへと歩き始めた時だった。
 納屋の板戸をこじ開け、中に押し入ろうとしている黒い影を見つけ、足を止めた。
 それは、あばらが浮いた大きな野良犬だった。二人は俊敏な動きで、まるで打ち合わせたように弓を引き、矢を放した。「キューン!」という闇を切り裂く音とともに、二本の矢は一点に吸い込まれていった。のたうち回る黒い陰は、やがて動かなくなった。
 空腹で朦朧となった二人には、それが鹿であろうが野良犬であろうが問題ではなかった。飢餓の限界を超えた二人に、以前、熊を倒したときのような喜びは戻ってこなかった。
 岳は、獲物を縄で括り、端を肩にかけ、雪道を引きずり始めた。茜が無言でそれに続く。背後で、茜が意外なことを口にした。
「この犬、岳だけの秘密の食べ物にしてね……」
 岳はハッとして、ロンのことを思い出した。
 茜の優しさに、ただただ飢餓に荒んでしまった自分を恥じた。
 月明かりに浮かぶ銀色の原野を、哀しい獲物を引きずりながら二人は歩いた。あの月から、桜はこの姿を見ているだろうか。肩を落とし、影絵のように動いていく二人の姿に、妻は何を思うだろう。明日をも知れないこの厳しい酷寒。それでも、家族一緒に生き延びることができたらと、岳はナイフのように輝く月を仰いだ。
 その夜の七時、ラジオの国営放送が始まるのを待った。今は軍事機能だけを維持している政府から、週に一度だけラジオの電波が発信されていた。
 いよいよ電力設備が限界にきたのか、雑音が混じり、所々途切れるアナウンサーの声が恐ろしいニュースを伝え始めた。
 氷河期へと突入した気候の大異変は北半球全域に広がり、ヨーロッパ、北アメリカは零下五十度の猛吹雪が続き、運転手と共に凍結した車両が何百キロと続いている。氷の重みで送電線が切断され、すべての民家は暖房が止まった。細々と灯していたろうそくの火も消え、人々は椅子に座ったまま凍りついているという。
 東京の様子も伝えられた。
 日本の上空には零下80℃の寒気団が居座り、東京でも零下40℃を記録している。高層ビル群に襲いかかる猛吹雪は街のあらゆる空間を凍結させ、これまで生き残っていた強靭な若者たちも、白い悪魔の餌食となった。だがわずかではあるが、善良な市民の集団が、屈強な若者たちに守られながら廃墟の地下街で生き延びているという。
 岳は、上野のアメ横街を守っていた格闘技集団のことを思い出した。アーミーカットが今でも、東京のどこかで生き延びていることを祈った。
 ニュースの最後にアラスカの情報も伝えていた。
 北極海に氷が戻ったアラスカ州のバローでは、大昔から氷河期を生き抜いてきたイヌイットが、水を得た魚のように本来の文明を復活させているという。
 アラスカ州は、西はベーリング海峡を挟んでロシアのシベリアへと続き、南端はベーリング海を囲うようにアラスカ半島からアリューシャン列島へと続く。中央から少し南には、昔はマッキンリーと呼ばれていた北米大陸最高峰のデナリ山を望むことができ、北極海に面したバローは約四千人のイヌイットが暮らしているという。
 文明のころは肩身が狭かったはずの伝統的な文化が、今は最強の文明へと輝いている。岳は、洞窟の中で氷河期を生き延びたという縄文人のことを思い出した。
 縄文時代の始まりは長い間約1万2千年前とされていたが、その後、青森県の遺跡から約1万6千5百年前の土器片が出土し、世界最古の土器文明としての縄文文化の起源が明らかになった。これは11万年前に始まったウルム氷期が最も寒冷な時期を越え、温暖化に向かう時期に縄文人が大陸から移動してきたことを示し、その後突然寒冷化に転じた1万2千年前のヤンガードリアス期を縄文人は生きながらえたことを証明している。
 縄文人は現在と同じような状況に晒されていたのだ。文明の欠片もない縄文人がどうやって生き延びたのだろう。ヒントは洞窟での集団生活にあった。彼らは、孤立しては生きていけない過酷な環境を、助け合って生き延びたのではないだろうか。それは人間同士の温もりが疎遠となった近代文明にはない、人間が極限を生き抜くための智恵だったのかもしれない。
 ニュースの最後に、アナウンサーが悲しげな声で、電力施設の閉鎖のため、ラジオ放送はこれで終了する旨を伝えた。

 3  

 翌年の一月、岳は決断すべき時がきたと思った。この廃墟の街で二人きりで生きて行くのは、あらゆる面で限界だということを悟った。
 酷寒の中で生きるだけが精一杯の日々は、時の刻みを振り返る余裕はない。いつの間にか、あの忌まわしい事件から7年の歳月が経っていた。
 岳は、妻の実家があったI市の郊外で、自警団に守られながら運営していたホームセンター「希望の村」を思い出していた。
 もしあの村がまだ継続していれば、縄文人のように生きていかれるかもしれない。それにあそこは刈棲魔のアジトがあるというS市にも近い。あの村で生き延びながらチャンスを待てば、妻の恨みも晴らせるかもしれない……。
「茜、明日ここを出よう!」
 岳は意を決して、声に力を込めた。
「え、岳、この家を出てどこへ行くの?」
 茜の目が、不安そうに岳を見つめた。
「おまえが迷子になっていたあの懐かしい街だよ。海辺の丘に、共同で運営する大きな店があった。今も続いているかもしれない。何よりも海の町はここよりは暖かいはずだ。それに、私には残された大切な仕事がある……」
 岳は、遠くを見るような目で、優しく語りかけた。
「仕事って――何の仕事?」
 茜が、心配そうに見上げる。
「あ、あぁ、あの店の自警団の一員となり、希望の村を作り上げていくことさ」
 岳はどきりとしたが、うまく切り抜けた。だがそれも、あの時、正人と約束した大切な仕事の一つには違いなかった。
「そうだね、仲間って大切だよね。それと、そのお店には食べ物があるかもしれない! そう、そこに行こうよ」 
 沈んでいた茜の顔が、陽が射したように輝いた。岳も思わず顔がほころぶ。ロンも、二人の会話が読めるのか、一緒に連れてってと言うように尻尾を振り、茜にまとわりついていた。
 二人は出発の準備に取りかかった。これが最後と思うと、思い出が詰まる物がたくさん出てきた。茜も、気に入った図鑑や、学習参考書を並べ始めた。
「茜、荷物が重すぎると、目的地に着く前に倒れてしまう。持って行くものは最小限にしよう」
 岳は涙を飲んで、生き抜くために必要なものだけに絞った。
「分かった、岳が教えてくれた学習資料と英語のノートだけにするわ。でも、この笛だけは持っていきたいな……」
 茜が、篠笛を分身のようにさすっている。
「ああ、それは持っていったほうがいい。私も、心の安らぎになる」
 岳は、今となっては、それが妻と娘のたった一つの思い出だった。
 翌朝、冷たい太陽が昇り始めるころ、二人は出発した。岳は、二度とは戻れない、家族の思い出がつまる家を振り返った。茜も、二階の自分の部屋を懐かしそうに眺めている。ロンも、雪に埋もれた犬小屋に鼻を擦りつけながら、名残惜しそうに尻尾を振っていた。
 岳は熊の毛皮を、茜は鹿の毛皮で作ったマントをまとった。それぞれの大きなリュックにはテントや寝袋などの必需品が詰まっている。二人は、弓矢を背に括りつけ、それぞれマキリとナイフを腰に下げた。文明が崩壊する前は恐ろしく奇妙な格好に見えたはずだが、この氷雪に覆われた廃墟の街では、矛盾なく周りの光景に溶け込むのだった。
 市街地を抜け、どこまでも続く真っ白な雪原は、表面が氷のように硬く、歩くのは容易だった。道路は、その形を雪面に薄っすらと残している。小川も窪みもなだらかな平原と化した郊外は、目的地の方向へと一直線に歩くことができた。ロンは、二人が目指す方向を読み取り、尻尾をピンと立て、一歩先を歩いていた。
I市に行くには7年前に来た鉄道を逆行するのが最短だが、風雪を凌ぐことができる国道を北上することにした。ここからは100キロ近くはあるだろう。できれば夜になる前に目的地に着きたいが、無理であれば途中で野宿をすればいい。
「岳、人が誰もいなくって寂しいね……」
 茜が、延々と続く、道路わきの雪に埋もれたトラックや乗用車のルーフを振り返りながら言った。
「茜、あまりわきを見ないほうがいい――」
 岳は、辺りの目を覆う惨状に、あわてて茜に注意した。
 道路わきのあちこちに見える氷の塊は、飢えと寒さで死んでいった人間の屍だった。略奪者に殺されたのか手に斧を握りしめながら二階の窓に引っかかっている凍死体も見える。
 強風で屋根が飛ばされ、中で抱き合いながら凍りついている老夫婦が目に入ってきた時だった。突然、茜が家屋に近づいて行った。
 茜は、家屋に入り込むと、二つの遺体を部屋の隅に移動し、丁寧に毛布で覆ってやった。
 茜は、いつの間にか逞しく成長していた。その精悍な顔や体つきに、少女のころの面影を見ることはできない。引き締まった体つきは男と変わらず、むしろ、悪と対峙する極限の状態では、茜のほうが肝が据わっていた。よほどの修羅場を潜らなければ持ち得ないその冷静さは、もしかしたらあの事件を通し、本能的に備わったのかもしれない。 
 国道を歩き続けて3時間ほどで、大きな街に入った。文明のころに栄えた都市だが、今は墓石のようなビルが延々と続くだけで、人の姿は見えない。
 頭上にある太陽の輝きは地上にわずかな温もりを落としていたが、街を吹き抜ける凍てつく風がそれを消し去って行った。
 街を抜け、県境の山地に差しかかった。岳は目を見張った。これほど美しい光景があっただろうか――。だがすぐに、その美しさに隠された凶暴性に気づく。山岳の谷間にできた白銀の氷河が、何者をも拒絶するように立ち塞がっている。ロンも、野生の血が蘇るのか、真っ白な壁に向かい、遠く吠えた。
「茜、少し遠回りになるけど、進路を変更しよう。ここから真っ直ぐ海を目指し、海沿いをI市まで北上する」
 学生時代に1度、その県道を通って海に出たことがあった。さほど難所はないと記憶していた。変わった名前のトンネルが薄っすらとした記憶に浮んできた。二人は東の方角に歩き始めた。
「茜、お腹すいたろう。もう少しでトンネルが見えてくるはずだ。そこまで行ったら昼食にしよう」
 最後に残った食料は、栗やドングリの身をすりつぶしたものを熊の油で焼いたもので、この日のためにとっておいたものだ。
「わっ、嬉しい! 茜、お腹すいたし、喉も乾いちゃった。岳が作ったドングリパン、お砂糖が入るとちょっとしたクッキーみたいで美味しくなるのにね」
 岳はその懐かしい響きに思わず顔が綻んだ。家族でクッキーを食べたのは遠い記憶だ。ロンもわかるのか、涎を垂らしている。
 少し行くと、道路沿いに雪に埋もれた集落が見えてきた。人々が肩を寄せ合って生き延びていたであろう、公民館のような建物も見えるが、今は雪に埋もれ、人間が生きている形跡はなかった。
 道路には、海の方に向う、明らかに人間の足跡が、薄っすらと雪の上に残っていた。それは一人や二人のものではなかった。生き残った人々が、やはり海を目指したのであろうか。
 後から、大きな笑い声が近づいてきた。人間の笑い声など、何年と聞いたことがない。
 二人は同時に、後ろを振り向いた。三十代前後の若い男女が、じゃれ合いながら歩いてくる。二人は、いかにも裕福そうな毛皮の帽子が付いた防寒着で身を包み、缶詰の肉か何かを取り合いながら食べている。真っ白な雪原を滴り落ちる汁で汚し、食べ残した切れ端を無造作にまき散らしている。

 突然、ロンが駆けだした。

「まて!」という声も虚しく、ロンは雪面に散らばる肉片を漁り始めた。二人は薄笑いを浮かべ、その様子を見ている。だが、意外なことが起こった。
 男が、見たこともないグレーの缶から、大きな肉をロンの鼻先に近づけた。ロンは前脚を揃え、嬉しそうに尻尾を振り始めた。男はロンの頭を撫でると、肉をロンではなく、笑っている女の大きな口に放り込んだ。ロンは涎を垂らし、それを見上げている。
 女が食いかけの肉を脇に放った。ロンが再び駆け出した。と、その瞬間、いつの間に取り出したのか、男の拳銃が火を噴いた。かぶりつこうとする鼻先で肉が飛び散り、雪面から蒸気が上がった。
 茜がナイフに手をかけた。
「まて、茜、止めるんだ」
 岳は、尻尾を垂れて怯えるロンと茜を抱きかかえ、じっと堪えた。
 男が、銃口に白い息を吹きかけながら吠えた。
「おまえら、親子で強盗やって生き延びてきたんだろ。俺はその奪略者たちを何百人と殺してきた。金もプライドもない奴らに何ができる。どんな男も、女をおとりに使えば簡単に背中を見せるもんだ。仕舞には赤い涎をまき散らし、やがてくたばってしまう」
 男が、女を見てにやりと笑うと、その目をこちらに向けた。 
「おまえらも腹減ってんだろ。正直に言やいんだよ。ほら!」
 男が、空の缶を二人の足元に放った。ラベルのないその缶は、岳が現役時代、レーダーのトラブル処理に同行した自衛隊の通信基地で見たものだった。
「何を珍しそうに見てんだよ――。あんたの想像どおり、俺は政府要人の警護官だった。彼らは無残な死に方をした。地下要塞は汚水の海となった。金も武器もない奴らは面白いことを考える。頭上で、汚水管と水道管が同時に破裂するとは、エリートの頭では想像もしなかったろう」
 やはり、政府の地下要塞も崩壊していたのだ。それも、虐げられた国民のテロで。
 変わった形をした暖かそうなブーツを履いた女が近づいてきた。
「何よ、その目。それに原始人みたいなかっこして。そんな古臭い武器なんて、チャカには敵いっこないんだよ」
 女が茜に、蔑みの一瞥を送った。二人は笑い合いながら、通り過ぎて行った。
 茜は、ロンを抱きしめ、しばらくは悔しさの嗚咽を漏らしていた。
「幻の文明を粋がっていても先には何もない。これからは新しい道を歩むことが必要だ」
 岳は、茜をなだめながら、再び歩き始めた。
 廃屋の連なりが途切れてから少し行くと、道路は緩やかなカーブとなり、左側に迫る山々に接近していく。トンネルは確かこの先にあったはずだ。岳は学生時代のおぼろげな記憶を頼りながら、微かに人間の匂いを残す足跡をたどって行った。
 ふと右側に、小高い山を背にして佇む一軒の家屋が見えてきた。不思議だった。その建物は、屋根や周囲の雪がきれいに片づけられており、そこだけが別世界のような温かみを漂わせていた。
 近づいていくと、手書きで「民宿」と書いた木の看板がかけられ、建物の裏のほうから薄紫の煙が立ち登るのが見えてきた。それは、はるか昔の記憶にある懐かしい人間の営みの風景だった。敷地の入り口に立ち、建物をよく見ると、玄関の脇に二組のスキーとストックが立てかけてあり、和やかな家族の生活さえも想像させる。だが、今時民宿というのも、何か、おかしい――。
「岳、見てこの家、人が住んでるみたいよ! 茜、喉が渇いちゃった。水飲ませてもらえないだろうか?」 
 茜が訴えるように、岳を見上げた。なぜかロンが牙を見せ、低く唸り始めた。
「あれ、どうしたの、ロンも水飲みたいのかな――」
 茜がロンの頭を撫でた。
「ちょっと違うようだ。住人とトラブルになるといけない。ちょっと待って」
 ロンは、人間でいえば七十歳を過ぎていた。最近は、めっきり気が弱くなっている。岳は、路肩の窪みにロンを連れて行き、留まらせた。ロンは心配そうな目をしていたが、大人しく従った。
 岳は再び、家を観察した。二階の窓には趣味のいいカーテンがかけられ、人の温もりが伝わってくる。他人を信じられなくなった自分を反省した。茜にOKの笑顔を送った。
「こんにちはー、誰かいませんか? こんにちはー」 
 岳は、鍵のかかっていない玄関の引き戸を半分ほど開け、中に声をかけてみた。ホールに紺色の分厚い暖簾が下ろされ、奥は見えない。何かを鉈で叩き切るような音が響いてくる。
「はぁーい、いらっしゃい! お待ちくださぁーい」  
 台所で何かの調理中だったのか、前掛けで手を拭きながら中年の女性が出てきた。もう何年と見たことのない、和服姿で家事を切り盛りする元気なオバサンさんの姿がそこにあった。
 声や物腰からすると五十歳は過ぎているように感じるが、その艶と張りのある顔からは三十代とも思える妙な若々しさが溢れている。この飢餓の世界に、岳はなぜ? という疑問を通り越して、ただただ圧倒された。
「大変申し訳ありませんが、息子に水を一杯だけ飲ませてやってもらえないでしょうか?」 
 水の貴重性を痛いほど心得ている岳は、茜の体を少し前に押し出すと、自分も丁寧に頭を下げた。
「それはお安いご用ですわ。お二人ともどうぞ中に入って休んでいってください。おとぉーさん、お客様よ!」 
 まるで夢のようだった。血色のいい婦人は、茜を見るといっそう目を輝かせ、家の中の夫と思われる人に声をかけた。
 岳は、この人も自分たちと同じように、久々に生き残った人間に出会い、嬉しさを隠しきれないのだろうと思った。だが、ここで油を売っていたのでは今日中に目的地に着くことは難しい。
「ご親切はありがたいが、先を急ぐので――ここで水一杯だけいただければけっこうです」 
 岳はそれとなくトンネルの方角に目をやってから、自分の子供を見るような目で茜を見つめている婦人に丁寧に応えた。
「あーら、それは残念ね。でもこの空模様じゃ吹雪になるかもよ。動けなくなってそのまま夜になったら凍え死んじゃうわよ。今日はうちに泊って、狸汁でも食べて、ゆっくりしていったらどぉーお?」
 舐めるように茜を見ていた婦人が、その視線をそのまま岳に向けると、しつこく一晩泊っていくことを提案するのだった。
 その時突然、建物の裏で数匹の犬が激しく吠え立てる声が山に響き渡った。何かを喰い争っているような光景が見えるようだ。
「いやねー、あれは今朝山で獲ってきたタヌキの骨に飼い犬が噛みついているのよ。あんた、静かにさせて!」
 婦人はなぜか、ばつが悪そうな笑みを浮かべると、ちらりと茜を見た。そのとき岳は、一瞬婦人の目の底に、背筋が凍るような光を見た。
「茜、せっかくだけど行ってみようか。すみません、先を急ぎますので今日は遠慮しておきます――」
 暖簾を押し開け、血の滴る鉈を下げて出てくる黒い影を背に感じながら、岳は茜の手を引き、一目散に道路へと走った。すでにロンが道路に出て、「早く、早く!」というように高く吠えていた。
 二人は、振り返ることもなく、トンネルへと向かって駆け出した。
「ねえ、岳、本当は何があったの?」 
 やっと視界から家が消えたところで、歩を緩めながら茜が岳に訊いた。茜も何かを感じているようだ。
「うーん、何とも言えないけど、ちょっとおかしいよね、あの家」 
 岳は、あまりにもおぞましい自分の想像を、茜に話し出すことができなかった。
「うーん、やっぱりね――、私もおかしいとは思ったんだ」 
 茜は意外とけろっとしている。いったい何を想像したのだろう。茜が続ける。
「あのオバサン、私のこと美味しそぉっ! て目で、上から下まで舐め回していたので気持ち悪かった。それと、玄関を覗いたら隅に靴がたくさん積んであって、一番上にどこかで見たことのあるブーツがあったの。これはおかしい! と思った」 
 やはり茜も同じことを考えていたのか――。
「ということは、中年の私には食欲が出なかったということかな?」 
 岳は、婦人がほとんど自分のほうを見ていなかったことを思い出し、半分冗談を言った。茜が真面目な顔で答えた。
「そうかもね、でも狙われたりする心配がないから安心じゃない」
 茜が、悪戯っぽい笑顔を作り、大きな声で続けた。
「冗談よ! そんなこと、あるわけないじゃない。私たちの思い違いに決まってるわよ」 
「そうだよね、昔のサバイバル映画にはよくある話だけど、あのオバサンには、とんだ濡れ衣だったね」
 岳は、疑心暗鬼が作り出した想像とはいえ、人間を信じられなくなってしまった自分を恥じた。
 岳はそっと、茜の背後に近づいた。
「実は俺が本物の食人鬼だー! 茜を丸ごと食べちゃうぞー」 
 岳は思いっきり怖い顔を作り、おどけながら茜を追いかけ回した。茜も無邪気な笑い声を上げながら逃げ回り、仕舞には足を滑らして尻もちをついた。岳は、茜のそばに腰をおろすと、しみじみと語った。
「残念だったね。素直に泊まっていれば、水を飲ませてもらい、美味しい狸汁にもありつけたんだろうけど……」
 ロンがなぜか、雪原に鼻を押し付け、嗅ぎ回っている。
「岳って、意外と怖がりなんだね。あの家で、だんだん顔が引きつっていって、面白かった!」
 二人はまた冗談をいいながら、和やかな笑い声を上げた。その時だった。

 岳は、ふと二人の足元を見て、凍りついた。

 茜も同じことに気づいたのか、周りに視線を走らせている。
 あの家の前まではたくさんあった、海を目指して行った人々の足跡が、周りのどこにも見当たらない。二人は顔を見合わせた。
 あれだけ蔑まれた茜が、気の毒そうな声を上げた。
「あのブーツ、やっぱりあの女の人のものだったんだわ!」
 二人は立ち上がると、再び走り始めた。
 飢餓の中での闘いは、より強いものが勝つ。だが、それも末期になると、より狡猾なものが生き残る。生き物の宿命かもしれない。
 向こうに、雪に埋もれた見覚えのあるトンネルが見えてきた。記憶にある変わった名前の看板も、凍りついたまま残っていた。
 岳は急に、トンネルをバイクで通り過ぎた時、内部のコンクリート壁の割れ目から水が滴り落ちていたことを思い出した。
「茜、もしかしたら水が飲めるかもしれないよ!」 
 トンネルの入り口は吹き溜まりとなっていて、上部にわずかな隙間が見えた。
 二人はトンネルの中に滑り込んだ。足を踏み入れると、中から微かに地熱の暖かみが伝わってきた。
 暗闇を進んで行くと、向こうに小さな出口の光が見えてきた。二人は薄暗いトンネルの中を、左右に分かれて、壁のコンクリートを手探りしながら進んでいった。入口の近くは凍るように冷たかったコンクリートも、奥に進むにつれ温かみが増し、湿り気を感じるようになった。
「あっ、水よ! 水がポタポタ落ちている」 
 左側の壁を手で確かめながら歩いていた茜が、嬉しそうな声を上げた。ロンも尻尾を振りながら、壁面に前足をかけ、舌を出している。
「おお、やっぱりあったか! よく見つけた」 
 ちょうどトンネルの中間辺りで、両側からわずかに届く光に、コンクリート壁の割れ目から滲み出てきた清水がきらきらと反射していた。壁面を伝う滴は足元を黒く濡らし、路盤のコンクリートへと滲み込んでいた。
 岳は、手帳から切り取った紙で樋(とい)を作り、その一滴一滴を携帯用カップに受けとめた。5分もするとカップに三分の一くらいの水が溜まった。岳は神の恵みとも思える液体をわずかに試飲した。美味い! そのたった一滴が、凍えそうな生命を呼び覚ました。
「いいかい。静かに飲むんだよ」
 茜が、感動に震えるような目でカップに口をつけた。咽の鳴る音が、トンネルの静寂に小さく響いた。茜は残りをロンの口に垂らした。ロンが目を細めながら、それを上手に飲んでいる。茜が涙を拭っている。屈辱と殺戮を乗り越えて得た、神の一滴に違いない。脳裏に、桜の優しい眼差しがよぎった。
 これまでは、黄砂が混じる雪を煮沸し、布で濾過してからわずかな飲料としていた。このミネラルがたっぷり含む湧き水の味は、何にも代えがたい美味しいものだった。同時に、これは大きな発見だった。氷河期でもトンネルの中には水が出る可能性があるということだ。
 トンネルを抜けると、高い山々は姿を消し視界が開けてきた。
 ロンを真ん中に、二人は歩き始めた。
 やがて延々と続くコンクリートの塊が視界を遮った。今は無用の長物となった津波を防ぐための防潮堤だ。手摺が錆びついた階段を上りきると、不思議な海の光景が現われた。
「岳、あれって海だよね? でも、海の水、どこに行っちゃったのかな?」 
 茜が、開放感と不安が入り混じった目で岳を見上げた。ロンも怯えたように強く吠えている。初めて見る光景に、何かを感じ取っているのかもしれない。
 海辺は、海面が想像をはるかに超えるほど下がっていた。これまで海底に沈んでいた大きな岩や窪みが姿を現し、荒涼とした風景がはるか遠くまで続いている。まるで文明の傷跡を曝しているようだ。
「氷河期は海面が下がるとは聞いていたが、これほどとは……」
 岳も絶句し、しばし海の方を眺めた。
 温暖化で海面が3メートルも上昇したのは嘘のようだ。数キロメートルも先に見える海岸線は、どうみても100メートル以上は下降している。それも見渡す限り氷に覆われ、簡単に魚を獲ることはできそうもなかった。
 氷河期では、南半球で蒸発した水分は北半球に流れ込むと上空で冷やされ雪となり、山や大地に降り積もる。水分が海に戻ることがないため、海面は下降する。
「でも、山よりこっちのほうが暖かいね! それに、あの海には魚が泳いでいるんでしょ?」
 茜が、氷で覆われた海のはるか向こうで、灰色の空を切り取るように延びる濃いブルーの水平線を指差した。
「そのとおり! あの海には必ず生命が息づいている。それが地球のすべてにつながっているんだ」
 文明のころには当たり前だった自然の恵みが、今では奇跡的な光景となって、人間の手の届かないところにある。それでも、生きていて良かった。岳は、桜も一緒にこの風景を眺められたらと思うと、熱いものが込み上げてきた。
 茜が篠笛を取り出した。真っすぐに氷原の彼方を見つめ、水平に構えた竹笛が、大地の命を蘇らせるかのような旋律を奏でる。不思議な音色は、氷原を渡り、水平線の向こうに消えて行く。ロンの、誰かに語りかけるような遠吠えが、透明な音色に重なった。
 二人は、仲間が生きていることを信じ、海沿いの道を北に向った。

 4

 やがて懐かしいI市の風景が見えてきた。温暖化が生み出した暴力で破壊し尽された街も、今は氷雪に覆われ、白一色に染まっている。人間が犯した愚行を漂白するかのように……。
 岳は無意識に、妻が埋められた実家の方に向かい、合掌した。
 茜が不思議そうに、それを見ていた。
「この町も、多くの人が犠牲になった。安らかに眠れるよう祈っていた……」
 茜も納得し、同じ方向に手の平を合わせていた。不思議だった。ロンが、哀しそうな鳴き声を上げている。自分を拾い上げ、育ててくれた桜の姿を思い出しているかのように。
 稜線の向こうに夕日が沈むころ、真っ白な雪原の中で朱に染まるホームセンターの建物に、二人はたどり着いた。久々に人間の生存の匂いを嗅ぎ取り、感動で疲れを忘れた。
 岳は、建物の周囲に張り巡らされた堅牢な木のバリケードを懐かしく眺めながら、入り口へと近づいた。
 突然、犬の吠え声が上がった。何頭もの犬がバリケードの周辺から駆け出してきた。それ追いかけるように、自警団らしき二人の若者が駆け寄ってきた。
 犬たちが、今にも飛び掛かろうとする勢いで岳たちを吠え立てている。この恰好では無理もないかもしれない。ロンも、強そうな犬の集団に気後れしている。
「何の用だ。どこから来た?」
 若者が、矢継ぎ早に質問した。
 岳は、正人の友人であることを告げると、入り口へと案内してくれた。
「おおー! あんたはあの時の、確かタケルさんだね。よく来てくれた」
 バリケードの入口に構えていた自警団の一人が、懐かしそうに笑顔を向けてきた。髭を蓄えていたが、正人だった。自分より一世代は若いはずだが、今はリーダーとしての風格を備えていた。彼は、7年前の約束を覚えていてくれた。
「あれからかなり経つけど、正人は全然変わらないね。ところで、あの若者も一緒に自警団の仲間に入れてもらえないか?」
 岳は、しゃがみ込んで子犬と戯れている茜を指差した。
「もちろんだよ。あんたの家族を襲ったらしい刈棲魔がギャング団の首領となり、S市の地下鉄を占拠し益々勢力を拡大している。今は優秀な戦士はいくらいても足りないぐらいなんだ」
 文明が崩壊した今も、悪だけは栄えている現実に岳は愕然とした。戦士という一言で、この村の切迫した状況を即座に呑み込んだ。
 茜が、子犬を抱いて近づいてきた。再び生き物に出逢えたことが、よほど嬉しかったようだ。
 茜を正人に紹介した。
「名前は茜。この街で親を見失った女の子を娘として育ててきた。おっと心配は無用だ。見てのとおり男とまったく変わりはない。弓の腕などは私以上だ」
 茜が、精悍な正人の顔を見ながら静かにお辞儀をした。
「それでは、簡単なルールを説明しながら中を案内しよう。今日は疲れたろうから、一息ついて、落ち着いたらゆっくりとこのミネルバのことを話すよ」
 岳は、ミネルバという聞き慣れない言葉に、おやと思ったが、ふと入口の上に目をやると、「希望の村ミネルバ」という大きな看板が掛けられ、なぜかフクロウの絵が添えられていた。
 バリケードをくぐると、あの時とはまるで違う様子に、岳は目を見張った。
 建物の入り口に二重ドアの風除室があり、冷気が直接屋内に吹き込まないように造られている。入口を入ると、頑丈な壁で仕切られた幅の広い通路が左右に延び、ところどころに燭台が灯されている。
 通路は内部の部屋との断熱を図っていると説明があったが、敵の来襲に対しても有効のように思えた。
 ふと、通路の隅にうずくまる、白や黒の小さな塊が目に飛び込んできた。よく見るとそれは、二つの丸い目でこちらを見ている猫だった。岳は思わず口元が綻ぶのを覚えた。人間と一緒に生き抜いてきた動物の温もりが、優しく体の芯に伝わってくる。ロンも、友好的な匂いを感じるのか、落ち着いたようだ。
「茜さん、わるいけど、ペットの動物はここまでなんだ。中は共同生活なので、アレルギーを起こす人もいるのでね」
 正人が、未来に寄り添っているロンの頭を優しくなでながら言った。ロンは賢い犬だった。誰も何も言わないうちに、通路に並ぶ犬小屋の一つに入っていった。
 内部を仕切る壁に設置された堅牢なドアから一歩入り、岳はさらに目を見張った。体育館のような大広間には以前のような商品棚はなく、全体が板張りになっていた。
 まばらに置かれた燭台の灯りの周りに、人々が肩を寄せ合いながらくつろいでいる。昔、博物館で見た、縄文の光景が蘇る。仄暗い大広間に寒さは感じられない。むしろ、すべてを削ぎ落とされ生き残った人間たちの、素の温もりが漂っている。
 岳たちに気づいたグループが、いっせいにこちらを向いた。
「岳さんわるいけど、この村の規則なので、その武器類はあの中にお願いできますか」
 正人が、入り口の近くのキャビネットを指差した。
 各ドアの横には大きなキャビネットが設置されており、扉を開けるとネームプレートがついた仕切りの中に、様々な武器が収納されていた。村にある5挺(ちょう)の猟銃と弾薬は、ギャングの来襲に備え、正人が特別に管理しているという。
 岳は、蛮刀や斧など、鈍い光りを放つ武器類を凝視した。子供のころに見た世紀末映画の原始的な闘いが、今、現実のことになったのだと、背筋に戦慄が走った。
 それから正人は、家族単位で暮らせる、衝立で囲まれた壁際のスペースに案内してくれた。「今日はゆっくりお休みください」と言って、笑みを残し、引き上げていった。
 二人は挨拶をしようと、人々の輪に近づいていった。「こんにちは! お世話になります」こちらを振り返った様々な顔は、一様に疲れてはいるが、柔和な眼差しが炎に揺れていた。
「茜、仲間に入れてもらえて良かったね」 
 岳は、目を白黒させながらあちこちを興味深く眺めている茜に声をかけた。
「ほんと、良かった! 同じ世代の女の子もいるみたい。友達ができるかもしれないな」 
 茜は何よりも、同世代の仲間ができそうな予感で、胸がいっぱいのようだ。
 岳も今、久々に様々な人間たちの匂いに触れ、二人きりで暮らしたK市での生活に限界がきた理由が理解できた。サラリーマン時代は一匹狼を気取っていたが、家族や社会システムの、見えないセーフティネットの上で生かされていたにすぎない。
「岳、これ見て! 便利だね。茜、日付の感覚忘れてた」
 壁には、昨年、今年、来年と、三枚の手書きの暦が張り出されていた。コンピューターもなければ、プリンターもない。手書きから始まる新たな生活。岳も、思わず顔が綻んだ。
 二人は、まだ杉の木の香りが残る床に毛布を敷き、寝袋に入った。
 岳は、正人が言っていた、益々勢力を拡大したという刈棲魔のことが気がかりで、なかなか寝つかれなかった。妻の恨みを晴らそうとする対象が、この「希望の村」の脅威ともなっている現実に、新たな憤りを感じた。
 ふと茜の方を見る。やっと安全な地にたどりついた安堵か、小さな寝息をたてている。ここまでこられたことを神と桜に感謝し、岳もまぶたを閉じた。

 翌朝二人は、久々に人間らしい朝を迎えた。だが、安住の地でのスタートは、岳にとっては生死をかけた闘いの始まりでもあった。
 正人が、声をかけてきた。
「おはよう! どうだい、よく眠れたかい? ここは意外と暖かいでしょう。外は零下40℃でも、建屋の中は零度以下になることはないんだ。連日24時間態勢で、五百人分の飲料水を作るため、炉を運転している。その排熱を暖房として利用しているのさ」
「えっ、ここに500人もいるのですか! それで、水はどうやって作ってるんだい?」 
 岳は、500人も住んでいるということにびっくりしたが、その生命線となる飲料水をどうしているのかに興味を持った。
「元々ここは地下水が豊富に出ていたんだけど、氷河期に突入してからは渇水し始め、ついに一滴も出なくなった。それからは、木を燃やして大鍋で雪を融かし、風呂と飲料に使用している。飲料用は煮沸してから布で濾過するのさ」
「木を燃やすって、ど、どこの?」
「燃料チームが毎日、遠くは隣の県まで行って廃屋となった木造の家から木を剥がしてくるんだ。ただ、燃料の木はいずれなくなる。それに、燃料にする廃屋の木材は、刈棲魔のグループにとっても貴重品だ。燃料チームの仕事は命がけとなる。もう、3人のメンバーが、行ったきり帰ってこない」
 正人の目に一瞬緊張が走った。すぐに柔和な顔に戻ると、続けた。
「色々省エネの工夫もしている。炉から出る煙は、ほら、あそこに走っているダクトを通し、屋外に排出している。その輻射熱で、大広間は意外と暖かいのさ」
「それはすごいや!」
 岳は、文明の末期、産業界が血眼になった省エネの思想が、今、人間の生命を左右することになるとは想像もしていなかった。
「やはり、水が一番の問題さ。大陸から来るらしい雪に混じった黄砂はいくら濾過しても透明な水にはならないし、みんなが満足できるような量ではない」
 正人が、二人の顔を交互に見ながら言った。
 茜が、呼びかけるように岳を見た。岳は、もしかしたらと思い提案してみた。
「正人、実はね、昨日K市からここに来る途中、トンネルの中でわずかだけど清水が出ているのを見つけた。もしかしたらこの近くのトンネルでも清水が取れるかもしれない。もし出ていれば、飲料用だけでも燃料の木を節約できるんじゃないかな」
「えっ、トンネルに清水が出てるって、本当かい?」 
 正人が、目を丸くして驚いている。
「本当だとも。なあ茜、あの水は美味しかったよな」 
 茜がにっこり笑ってうなずく。
「岳、それは凄い発見だよ! 近くに昔の新幹線のトンネルがいくつかある。ちょっと待ってくれ、この付 近の地図を持ってくる」
 地図とにらめっこをしていた岳が、三つほどあるトンネルから一つを指差した。そこは、7年前K市にもどる途中、鉄橋を渡ってすぐに入ったトンネルから、逆に北の方に10キロメートルほど戻ったところにあった。
「このトンネルが、地形的に一番水が出る可能性がある」
 岳はその理由を正人に説明した。
「地下水は、以前のこの場所のように、地面を掘り下げていくと湧き出してくる。だが山にも地下水はある。山地に降った雨は、地表から砂礫層に滲み込み、その下の溶岩層の上を流れている。冬でも、温泉が湧き出す山岳地帯は地下でマグマが活動しており、地熱で融かされた雪は水となり、伏流水となって流れ落ちている可能性が高い。このトンネルは、その伏流水と直行する形で掘られている」
「なるほど、よくわかった。さっそく設備屋とハツリ工を連れて見に行こう」
 正人がすぐに熟練工と見られる二人の男を連れてきた。この村には様々な職人や技術者がいるようだ。
 その日の午後、茜を残して四人は、村から十キロほど西のトンネルに向った。
 暗闇を懐中電灯で照らしていくと、壁にわずかではあるが水が染みた痕が見えた。
「ああ確かにこれは、地山水の漏水ですね。防水シートを切ってやれば、水はもっと出てくる可能性があります」
 トンネル工事経験が長いというハツリ工が言った。
 トンネル壁面の構造は、吹付コンクリートと覆工(ふくこう)コンクリートの二重構造になっており、その間に防水シートが張り巡らされている。完全な遮水には高度な技術を要し、水圧が高いところは外部に染み出すことがあるという。
 すぐにハツリ工が、逞しい腕で石頭ハンマーとタガネを使い、コンクリートの水が染みた辺りに穴を開け始めた。1時間もすると、防水シートを貫通したのか、水が滴るほどに流れてきた。全員から歓声が上がった。
 老練の設備屋が、口を開いた。
「いずれは村まで配管を引くことにして、取りあえずはこの穴にパイプを埋めてタンクに溜め、毎日ソリで運ぶというのは――」
 その案はすぐに実行に移された。
 その後村の住人はミネラルたっぷりの美味しい水が飲めるようになり大変喜んだ。燃料の木材も危険地帯までいかなくても必要量が調達でき、燃料チームの安全も確保できるようになった。
 このトンネルの清水の一件から、新参者である岳たちは一挙に村の住人に知れ渡り、皆、気さくに声をかけてくれるようになった。
「どうだい岳さん、ここの生活も少しは慣れましたか?」 
 岳たちが村にきて2ヶ月ほど経った夕食後、食堂で正人が二人に声をかけてきた。
「ああ、もうすっかり慣れたよ。何よりもこうして毎日食事ができることが夢のようだ」
 村も食料は困窮していたが、朝夕2回開いている食堂で、わずかではあるが平等に分配されていた。
「最初は、村の住人がそれぞれ山や川から獲ってきた食料を分け合っていたんだけど、ギャングたちと鉢合わせになって殺される事件が多発した。奴らに連れて行かれた若い女性もいる。今は武装した専門部隊がその任務に当たっているんだ」
「なるほど。それと、村全体が、私が今まで経験したどの組織とも違うことに感心している。どうやってこのような穏やかな集団ができ上がったんだい?」
「うーん、確かにね。言われてみれば私が昔働いていた会社ともまったく違いますね……」
 正人が語りだした「ミネルバ」の歴史は、およそ次のようなことだった。

 ***

 48年前の巨大地震と大津波で破壊されたこの街は高台に移され、3メートルの海面上昇の影響も受けず、安全な地域といわれていた。
 だが、温暖化が生み出した略奪と暴力が、新たな津波となって襲いかかり、孤立した人々はひとたまりもなく餌食となった。そのうち老若男女を問わず、助け合って生きて行こうとする輪が生まれ、この海岸に近い丘の上に建つ大きなホームセンターに集まってきた。
 最初はホームセンターの創業者が「希望の村」と名づけ、広大な店舗を商店や地域の住民に開放し、有志が作った自警団に守られながら食料の販売や物々交換の場としていた。
 そのうち難民となった家族や老人たちを住まわせるようになり、皆が希望を持って生きて行かれる共同体を作っていこうと考えた。
 やがて創業者が亡くなる時、国際NGOでアフリカ支援に行っていた息子を呼び寄せ、「希望の村」を新たな文明の発祥として継続するよう遺言を残した。
 新しい指導者は、父の遺志を継ぎ、希望の村を「ミネルバ」と名付け、増え続ける住民が助け合って生きていかれるように、不思議な村を作っていった。「ミネルバ」の名称は、古代ローマ神話の知恵の女神ミネルブァからきている。指導者は、ドイツの哲人ヘーゲルが述べた「ミネルブァのフクロウは迫りくる黄昏に飛び立つ」という言葉に、この人類滅亡の危機は、残された人々の叡智を集めれば必ず乗り越えることができると読み取っていた。

 ***      
         
「これで疑問が解けたよ。すばらしい歴史があるんだね」
 岳は、自分が生きてきたこれまでの人生では、とても及びも着かない崇高な哲学に感心した。
 大学時代、パスカルのパンセで学んだことが、今、目の前で、にわかに現実性を帯びてくる奇跡を覚えた。この村なら、人間がいかなる困難をも乗り越えることができると、確信した。
 正人が続けた。
「ここでは皆、自分の得意な分野のチームに所属して働いている。私がまとめている警備チーム、それに燃料チームや設備チーム、主に女性たちが働く調理チームや医療チーム。中でも一番重要で人財を投入しているのは食料調達チームだ。山奥の洞窟や氷の川、あらゆるところに挑み、食べ物を探してくる。ギャングとの闘いもあり得る。どのチームも命がけで働くけど、競争というものがない。だから妬みもない。全体の調整は各チームリーダーで組織する運営委員会で行う。指導者は偏りが見えた時だけ口出しをする。少し大袈裟かもしれないが、ここが人類再生のテストケースになればと思って、皆頑張っているんだ」
 岳は、もしそういう世界が本当に実現できるのであれば、ミネルバに生涯をかけてもいいと思った。だがその前に、どうしてもやらなければならないことがある。
 岳は村の仕事のかたわら、密かにギャング団の情報収集と格闘技の鍛錬を続けた。
 準備が整った時は、すでに年が明けていた。
 岳は正人に、8年前に遭遇した事件のことと、自分の生死をかけた計画を正直に打ち明けた。そして口には出さないまでも、それがこの村を存続させるためにも必要なことなのだと思った。
「岳さん、あんたの気持はよくわかる。だが、それは極めて危険な賭けだ。できれば止めたいが、それは無理だろうな……。みんなに話せば、反対の声も出る。内緒にしておこう」
「それがいい。誰にも迷惑はかけたくはない」
「村に高速雪上車を保管してある。それを使うといい。私にはそのぐらいしか協力できないが、必ず生きて帰ってきてくれ」 
 正人は唇を一文字に引き締め、岳の目を見つめた。
「ありがとう正人! 助かるよ。それと茜は残すので、私に万一のことがあったらよろしく頼む。茜は、これまで男として育ててきた。サバイバルに必要なことはすべて見につけている。戦士としても立派にやって――」
 
 その時、茜がドアの陰から飛び出してきた。

 真剣な眼差しで、きっぱりと言った。
「私も一緒に行きます。岳は迷子の私の命を助け、娘として育ててくれました。今は本当の父なのです。一緒に闘い、必ず二人でここに戻ります」 
 茜の言葉には、自分と生死を共にするという動かない覚悟が現れていた。
 正人も岳も、言葉を失ったまま茜の目を見つめていた。
「わかった。正人も茜も本当にありがとう。二人は必ず生きて帰ってくる」
「武器は、奥の戦闘用武器庫から選んでください」
「ありがたい話だが、私は空手家として素手で闘う覚悟です」
 岳は、漁師の魂であるマキリを、人間の憎悪の血で汚したくはなかった。
 正人が、これを持って行くといいと、武器庫から自分の大型ナイフを取り出し、茜に手渡した。
 その夜、正人が、せめてもの気持ちですと、夕食に鹿の干し肉を添えてくれた。岳には、もう迷いも恐怖もなかった。一緒に闘うと言う茜は、紛れもなく、娘の未来だった。
 二人はまだ薄暗い中、ロンを起こさないように、村を後にした。

 5

 二人が、ミネルバから約30キロ北にあるS市に潜伏し、刈棲魔の動きを探り始めてから1週間が経とうとしていた。ヤツが一人になるチャンスさえつかめれば勝機はあると考えた。ふと見ると、心なしか茜が沈み込んでいるように見える。
「どうした、今ならお前はまだ引き返すことができる。本当にこの仕事は、私独りでいい――」
 岳は、茜を思い止まらせようとした。だが、茜は以外なことを言い出した。
「違うの。私は岳と一緒に命を捨てるのは何も怖くはない。ただ、岳は憎しみで人を殺してはいけないって教えてくれた。岳の家族を襲った刈棲魔の話を盗み聞きした時、私もそいつを殺したいほど憎らしいと思った。でもそれはいけないこと……。岳はそいつに、憎しみを持たないで、闘いに行くの?」
 茜がじっと岳の目を見ている。
 岳は言葉につまった。やっと口を開いた。
「正人を巻き添えにするので、あの時は言わなかったけど、あの村を守るためにはどうしても闘わなければならない相手だ。心配しなくて言い。決して自分の恨みから闘いに行くのではない」
 茜が、安心したようにうなずいた。
 言った言葉に嘘はないが、妻のあの最後の姿が、これまで格闘の修行に岳を駆り立ててきたことは確かだった。
 S市の地下鉄は、街の地下を南北と東西に大きく十字を切るように走る。ギャング団は中央の交差点を根城にしているらしい。二人は戦闘服の上にボロ布をまとい、ホームレスに変装して南端の駅から内部に忍び込んだ。
 地下鉄の中は比較的暖かく、放置された電車の中は、ホームレスたちでごったがえし異臭を放っていた。なぜか屈強そうな男と若い女の姿が見えない。
 しばらく進むと、自衛隊払い下げのような衣服をまとった痩せた男が近寄ってきた。げっそりとこけた頬からやっと口を開き、何か食べ物はないかと言う。ボロをまとった二人に物乞いをするとは、この地下も相当飢えているようだ。岳は男を柱の影に促し、たった今年寄りから奪ってきたものだと言って、正人から渡された干し肉を一切れ与えた。
 肉を食べ終わり、指まで舐めている男に、岳は探りを入れてみた。
「この先にギャング団のアジトがあると聞きましたが、ボスのかたもそこにいるのですか?」
 男の黒目が微かに光ったように見えた。もしかしたら、警察の残党にでも間違えられたのかもしれない。
岳は、とっさに浮んだ言葉を口にした。
「見てのとおり、食い詰めたホームレスの親子ですが、弓で狩りができるので飯にありつけるのではないかと、山の奥から出てきました」
 男は信用したのか、辺りを窺いながら話し始めた。
 男は、元々奴らの一味だったのだが、あまりの悪の所業に耐えられず脱退し、今は武器の売買で細々と生き延びていると言った。
「あそこは人間の皮を被った野獣の集まりだ。牛肉や鮭の缶詰、それに酒瓶が、車両に積み切れないほど収まっている。食料や奴隷の女を自由にできる幹部たちは、日中から鬼畜の所業にどっぷりと浸かり、酒と肉の匂いをぷんぷんさせているのさ」
 刈棲魔が率いるギャング団は、昔からある、いわゆる闇の組織とは一線を画しているようだ。文明末期のころ、あらゆる業界や階層からはみ出した悪人の集団で、もと官僚エリートもいれば暴走族総長もいる。その中で最も悪知恵が働く最凶の悪が幹部として君臨する。いわば、負の実力第一主義の組織のようだ。男はさらに驚くべきことを話してくれた。
 S市は広い湾岸を擁しているが、ここにも酷寒の脅威に勝る彼らの毒牙が及び、漁獲権を一人占めにしているという。海を目指し移動してきた男や女はことごとく拉致され奴隷となる。男たちは、はるか沖の凍てつく海で魚獲りの仕事を強いられ、力尽きるとその場で海に蹴落とされる。女たちは奴隷として地下鉄の車両に押し込められる。リクルート部隊は定期的にこの辺りにも現れ、使えそうな男や、若い女を見つけると、食料で釣って連れていくらしい。
 男が、二人を交互に見ながら、少し眉根を寄せながら続けた。
「できれば勧めたくないが、飯のためと言うならしかたがない。ただ狩りが得意だといっても、今どき弓じゃ採用は無理だ。実は明後日、銃の取引がある。今は陸続きになった朝鮮半島を渡って中国からディーラーがやってくる。干し肉のお礼に、猟銃がお安く買えるよう交渉してあげますよ。もし興味があれば城跡の近くにある風力発電鉄塔のところに、朝八時までに来てください。ああ、お代の方は、時計や毛皮、何でも、値打ちのあるもので物々交換ができます」
 男がホームの向こうに消えて行くのを確かめると、茜が口を開いた。
「岳、怪しくない、この話し。それにあの男、私を見る目が、何か気持ちが悪かった――」
「気のせいだろう。あそこまで素性を曝け出している。もし何かの罠だとしても、こちらには失うものはない。念のため、1時間早く現場に行って様子を窺おう」
 岳は、銃が欲しかったわけではないが、刈棲魔に近づくには痩せ男が言うように、銃を使う狩人を演出する必要があると思った。

 6

 その朝まだ薄暗いうちに、岳は、爪先に鉄芯を仕込んだ靴を点検した。不意の襲撃に備え、戦闘の準備を整えた。茜は背に大型ナイフを括りつけ、護身用としてブーツの中に、愛用のナイフを仕込んだ。
 二人は雪上車を駆って、銃のディーラーと落ち合うという場所に向った。そこは、地下鉄東西線の入り口からもそう遠くない、城跡の近くだった。
 早朝の寒気は一段と冷たく、吐く息を凍らせた。二人は、雪原を走り、いくつかの丘を越え、城跡を目指した。
 城址を見下ろすような大きな風力発電の鉄塔が見えてきた。岳はエンジン音を抑え、木立の中に雪上車を隠した。辺りを窺いながら斜面を登って行く。徐々にS市の全貌が見えてきた。眼前に、百万都市として栄えた市街地が、真っ白な積み木細工のような造形を見せながら広がっている。その向こうには、氷原のはるか彼方に、銀色に光る太平洋を望むことができた。
 鉄塔の近くに、建設工事に使用したと思われるプレハブの小屋が見えてきた。小屋の向こうは断崖となっており、氷雪に埋もれた手摺りが連なっている。岳はどきりとした。

 銅像か何かに見えていたものが、かすかに動いた。

 手摺の前で、大きな男が、遠く海氷の彼方を眺めている。灰色のフード付きマントをすっぽり被っているので、顔は見えない。手には、銃が入っているのか、ずしりとした革製のトランクを提げている。
 その時、待っていたかのように、小屋の陰からあの痩せ男が出てきた。
「1時間も早く来るとはなかなか用心深いですね――」痩せ男が意味ありげな笑みを浮かべた。「あそこに立っている人が、銃のディーラーです」
 岳と茜が、灰色のマントの背中に目を移すと、痩せ男は、「着きましたよ」と、声を低くした。
 灰色のマントの男がゆっくりと振り返った。雪面に軋みを残し、一歩一歩、近づいてくる。その時、山を渡る一陣の風が足元から吹き上がった。大男のフードが外れた。眼帯をした厳つい顔が現れた。ドキリとした。赤黒いイモリのような唇、太い首、広い肩幅……この男はどこかで会っている。
 近づくにつれて、さらに目に入ってきたものは、忘れもしないその左頬に張りついたムカデのような刃物傷。やはり、ヤツだ! 
 男が左目の眼帯を外した。岳は息を呑んだ。灰色に窪む左眼は、桜が、最後に立てた牙の痕に違いない。
 隣の茜も、口を半開きにしたまま、呆然として大男を見上げている。
「どこの馬の骨か知らんが、俺のことを嗅ぎ回っているというのはこいつらか。どうせ警察の残党か、政府の犬だろう。この城跡で切り刻んで、腹を減らしている野良犬の餌にしてやる。ところでどうして俺の顔を、穴が開くほど見つめているのだ?」
「忘れたか、俺の顔を!」
 岳は、ボロ布を脱ぎ捨てた。固い雪面に戦闘靴を喰い込ませ、低く構えた。茜もそれに続く。
「なに、やはりお前か。どこかで見た顔だとは思った。あの時は善人ぶったふやけた顔をしていたが、少しはましになった。鍛え上げて復讐にくるとはいい度胸だ。この死に損ないが、止めを刺さなかったのはうかつだった。隣の若造も一緒に地獄に送ってやる」
 大男の生臭い息が、辺りに白く漂った。
「おまえ、よくもだましたな!」 
 茜は痩せ男をにらみつけ、背中の大型ナイフをスラリと抜き放った。
「ウフフフフ、お互いに飯を食っていくためには仕方がない。刈棲魔様、こいつは生かしておきましょう。男の恰好をしておりますが実は立派な女ですぜ。後からたっぷり楽しめますよ」
「おまえは相変わらず女好きだな。俺はこんな男みたいな女に興味はない」 
 地下鉄の中で痩せ男は、茜が女だということを見抜いていたようだ。いつの間にか爬虫類のような目に変わった痩せ男が、ひらりと二人の背後に回った。
 その時、突然小屋の戸が開き、中から初老のホームレスがよろよろと出てきた。今起き出したのか眩しそうな目で辺りをきょろきょろと見渡すと、ニタニタ笑いながら、刈棲魔に近づいていった。
「へへへへ、だんな、何か食べ物を恵んでくださいよ」 
 ごわごわとした髪が肩まで伸びたホームレスは、革製のトランクを見つめながらよだれを流している。
 刈棲魔は、チッと舌を鳴らすとトランクをゆっくり足元に置いた。ホームレスがトランクに手を伸ばす。刈棲魔は、あっと言う間にホームレスの首を後ろから絞め上げた。マントの裏から研ぎ澄まされた鎌を取り出すと、ホームレスの喉仏に押し当てた。
「ふふふふ、こいつを先に血祭りに上げてやる」
 鎌の刃が、朝陽に反射した。突然、茜に異変が起きた。
   
「やめろー!」
 
 茜は刈棲魔に向かい、狂ったように叫び出した。
 恐れを知らない茜の豹変に、岳は目を見張った。茜は、鎌のギラつきがフラッシュバックし、記憶が戻ったに違いない。ナイフを握りしめ、叫び狂う少女は、まぎれもなく娘の未来だった。
 だめだ――、あの日の光景を見せてはいけない。「やめるんだ!」岳も心の中で叫んだ。
 だが刈棲魔は、ゆっくりと鎌を引いた。
「やめてぇー!」 
 全身から絞り出した未来の最後の叫びも虚しく、真っ白な大地が朱に染まっていった。岳はその無惨な光景に目を奪われながら、あの時、闇に隠されていった妻の姿が脳裏に浮かび上がった。
 ホームレスが、操り人形の糸が切られたように、刈棲魔の足元に崩れ落ちた。
「お母さーん」
 未来は叫ぶと、放心したようにナイフを落とした。その場にひざまずき、全身を震わせながら泣き叫んだ。呪うような慟哭が、雪原を渡っていく。岳は、言葉を失った。
 刈棲魔が顔色一つ変えず、残酷な言葉を吐き出した。
「あの時の小娘か――。おい、この女はお前にくれてやる。殺す前に好きにしろ。俺はこいつを楽しみながら切り刻む。止めは二度と俺の前に顔を現わせないよう、顔面をショットガンで吹き飛ばす。後から組み立てて持ってこい」 
 刈棲魔は、足元のホームレスのボロ布で鎌の血を拭うと、骸を蹴散らし、岳の方に向き直った。岳は、視界の端に茜を捉えてはいるが、刈棲魔の殺気の前には、一歩も動くことができなかった。
 痩せ男はニタニタと笑いながら、トランクを片手に、放心して抵抗する気力も失った未来を、小屋のほうに引きずっていった。
「あの時はお前の女房にたいそう楽しませてもらった。命乞いをしながら、何でもするとしがみついてきた。じきその愛する女のところに葬ってやる。ただし、切り刻む快感をたっぷりと味わってからだ。ふふふふ」 
 分厚い唇が、信じられないような言葉を吐き出した。刈棲魔の下卑た笑いに、全身の血液が一斉に頭部へと向かった。岳は耐え難い屈辱に、我を忘れた。
 刈棲魔が不敵な笑いを浮かべ、じわりと間合いを詰めた。
「死ねー!」
 突然、刈棲魔の巨体がコマのように回転した。バックハンドの鎌が一挙に岳の顔面に伸びてきた。怒りに身体が強張った岳はかわし切れず、鎌の鋭い切っ先が頬を切り裂いた。激痛が襲い、生温かいものが滴り落ちる。
 岳はこの日のために、飛び二段蹴りの鍛錬を重ねきた。鉄芯が仕込まれた爪先が顔面を捉えれば、一撃で倒すことができる。だが、出鼻をくじかれ、手負いとなった岳は、刈棲魔の天女のように舞う刃の軌跡に踊らされながら、崖っぷちに追い詰められていった。     
「そろそろあきらめろ!」
 雪原を揺るがすように刈棲魔が吼える。 
 刈棲魔は一振り一振り浅い傷を負わせながら、岳を追い詰めていく。流れ出す命の一滴一滴が岳のパワーを奪っていく。岳はふらふらになりながら、二段蹴りを放つ最後のチャンスを窺った。
「売人! いつまで楽しんでるんだ。早く銃を持ってこい」 
 一瞬、小屋を振り返った刈棲魔に隙が見えた。今だ! 

 岳は渾身の力で雪面を蹴り、二段蹴りを放った。

 ガードが下がり、がら空きになった刈棲魔の顔面に鋭い蹴りが炸裂した――はずだった。だが怒りに燃え、力み過ぎた岳の蹴りにスピードはない。刈棲魔の巨体からは信じられないスイングにかわされ、鉄のつま先は残像を突き抜けた。背中から真っ逆さまに落ちた岳は、雪面から息も止まるほどの衝撃を受けた。
 千載一遇のチャンスは散った。
 刈棲魔の動きは速かった。深々と左大腿部に鎌を突き立てられた岳は、片足をつぶされたカエルのように、血を滴らせながら氷雪を這いまわった。
 刈棲魔は、辺りの雪を赤く染めていく岳に薄ら笑いを浮かべ、再び叫んだ。
「売人、銃はどうした!」
 静まり返った小屋からは何の返答もない。岳の無念の涙が、雪を朱に染めていく。
 刈棲魔はあきらめたのか、鎌で止めを刺しにかかった。虫の息の岳の髪の毛を引っ張り上げ、含み笑いを漏らし、鎌を喉仏に当てた。凍てついた刃が、皮膚に喰い込み始めた。と、その時だった。

 意識の向こうで、一発の銃声が轟いた。

 刈棲魔の手から鎌が落ちた。頭髪をつかんでいた手がずるりと離れる。
 振り向くと、カッと目を見開いた刈棲魔が、口を半開きにしたままその場に座り込んでいる。
 刈棲魔の背中からマントを焦がす煙が立ち昇り、肉が焼ける匂いが漂った。その向こうに、ショットガンを構え、両目から涙を流す未来が立っていた。刈棲魔は、マントに包まれ、座ったまま死んでいた。
 岳は必死に、その場から離れた。未来がよろよろと近づき、銃を置くと岳を抱きかかえた。
 何かをやり遂げたという未来の顔には、安堵とは程遠い、深い悲しみが見えた。その時だった。

 未来の肩越しに見える灰色の塊がゆらりと立ち上がった。

 刈棲魔は死んでいなかった。鎌を振りかざし、一歩また一歩と未来の背後に近づいてくる。岳は無我夢中で、わきの上下二連式ショットガンを取り上げた。ズシリと重い。初めて持つ銃だ。弾丸が発射するのかどうかもわからない。それでも必死に刈棲魔の心臓に照準を合わせた。刈棲魔が未来に倒れ込むように鎌を振り降ろした。トリガーに力を込める。肩を突き抜ける衝撃。
 刈棲魔が、口から血を滴らせ、大木が倒れるように崩れ落ちた。
 それでも、刈棲魔はまだ生きていた。岳は、刈棲魔の喉仏に、手刀を振りかざした。
「岳、待って、何か言ってるわ――」
 未来の手が、岳の手刀を遮った。刈棲魔が、血にむせびながら、語り始めた。
「俺が富裕層を襲い続けた理由がわかるか。本当の悪人は、善を振りかざしていたお前たちだからだ。俺はボルネオで細々と林業を営んでいた。生きていれば同じぐらいの一人娘がいた。それをリゾート開発会社が根こそぎ伐採し、ホテルやゴルフ場を建設した。銃を取り上げられた俺たちは、やむなく木こりの魂の鎌と蛮刀で抵抗した。が、結果は目に見えていた。女房も娘も売春小屋にぶち込まれ、ぼろ布のようになって死んでいった。お前たちが差し出す神への供物は、お前たちが侵した神の領域からかすめ取ったものだ……。それにしても、お前の女房は立派だった。命を捨てて、娘を助けようとした。だから、娘を殺すことはやめた……。一つだけ教えてくれ。なぜお前は、最後まで武器を使わなかったのだ?」
「あんたの言う通り、自然を破壊したのは私たちの側だ。それでも、私にも最後まで、汚したくないものある」
「面白いことを言うやつだ……。いい冥土の土産ができた。最後にもう一つ言うが、最初に言ったことは……すべて……嘘だ」
 刈棲魔は、老ライオンが大地に還るように、静かに息を引取った。
 岳は自力で左脚の付け根を固く縛りつけると、未来を抱き起こした。未来は、虚ろな目で、放心したように泣いている。
 ふと、小屋の入り口を見ると、痩せ男が外に這い出したところで息絶えていた。その背中には、深々と、未来の隠しナイフが突き刺さっていた。どれほど怖い思いをしたのか……。岳は、娘にかけてやる言葉を失った。
 三人の遺体を林の奥に運んだ。同じ土気色となった死者の顔には、善や悪もなければ過去も未来もなかった。生きる、ただそれだけに価値がある世界だった。二人は穴を掘り、丁寧に埋葬した。
 岳は、カラスが群がり始めた惨たらしい闘いの痕に目をやった。急に虚しさが襲ってきた。村を救う? そんな立派なものではない。私は、妻の恨みを晴らすために闘ったのだ。だが心の暗雲が晴れることはなく、人間の命を引きちぎった記憶だけが残った。憎むべきは刈棲魔だったのか……。彼の言葉が、鉛のように重く、胸に沈んだ。
 岳は、長い、長い闘いから解放され、雪上車を駆った。だが、残酷な血で染まった大地が、どこまでも追いかけてくる。刈棲魔が語った桜の最期を想うと、溢れる涙で雪原が歪んだ。ふと、遠くで桜が微笑んでいる。だがその笑みには、ねぎらいもなければ、尾を引く憎しみのかけらもない。優しい眼差しは、ただ遥か彼方のオレンジ色の輝きを見つめている。
 この闘いは、決して無意味ではなかったと、岳は自分に言い聞かせた。
 遠く海の水平線がオレンジ色に輝き始めるころ、岳は倒れ込むように、ミネルバにたどり着いた。
 未来が、父が狩りで大怪我をしたと、警備チームの人々に助けを求めた。すぐに正人が出てきた。様子を聞きつけたのか、ロンも駆け出してきた。
「よく戻ってこられた! 本当に良かった――」
 正人が涙を浮べ、岳の手を握った。二人の様子から、目的は果たしたことを悟ったようだ。岳も、感謝の心を込めて、正人の目に深くうなずいた。ロンが心配そうに鼻を鳴らしながら、岳の頬をなめている。顔に血の気がないからか、いつもより温かく感じる。
 すぐに岳は、病室に担ぎこまれ、医療チームの元看護師に消毒と止血を施された。
 その時、胸元から一枚の写真が落ちた。あれから肌身離さず持っていた、未来が小学一年のころの家族の写真だ。未来がそれを拾い、じっと見ている。
「お父さん、ずっとこの写真を胸にしまって、私を茜として育ててくれたのね……」
 未来の頬に、優しく涙が伝っていた。
 それから未来とロンは、寝ずの看病をしてくれた。岳は生死の境をさまよいながら、一晩中妻の名前を呼び続けていたらしい。手を擦り続ける娘の愛情が薬に勝る免疫力を与えたのか、重大な感染を免れながら傷口は回復していった。
 食事を運んできた未来に、岳は声をかけた。
「ありがとう。お陰で助かった。でも何よりも安堵したのは、記憶が戻ったお前が、その衝撃を乗り越えたことだ。いつか一緒に、桜とおばあちゃんの骨を、この海の見える丘に埋めてやろう」
 刈棲魔との決闘からふた月ほどが経ち、松葉杖を突きながらではあるが、岳は歩けるようになった。
 風の噂で、悪のカリスマがいなくなったギャング団は、内部抗争から崩壊し、奴隷は解放され、あの地下鉄は善良なホームレスたちの住処に取って代わったということだ。

 茜が未来に戻ってからも、篠笛の音は変わらなかった。全員が集まる大広間で、未来の森を渡るそよ風のような旋律に、みな酷寒の辛さを忘れた。岳はなぜか、その音色を聴くと涙が出てくる。
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