第7話 デナリの奇跡

文字数 17,714文字

 第6章 デナリの奇跡

 1

 じわりと飢餓が忍び寄る村の最大の課題は、食料の確保だった。
 食料調達チームを、さらに強化することとなった。体力のある者を選りすぐり、チームの中に特殊部隊が設置された。彼らは「狩人」と呼ばれ、5人一組で6チーム、総勢30人の精鋭部隊だ。
 選ばれたリーダーは狩猟に造詣の深い長老で、若い頃、クロスボウ競技の世界大会まで行ったという実績を持っていた。ヨーロッパの狩猟で広く使われるクロスボウは、日本ではクロスボウを販売する社名をとって「ボウガン」と呼ばれる。
 狩人の腕は確かで、林から飛び立つ山鳥や猛禽まで仕留めることができたが、やがて矢で射るほどの大きな鳥はいなくなった。カラスだけは生き残っていたが、村の年寄りから止められていた。ある時、弓で落した若者が、その後顔中穴だらけになって死んでいるのが見つかり、それ以来カラスに矢を向ける者はいなくなった。
 主な仕事は、廃墟となった民家や店などから、残っているわずかな食料や、這い回る虫や小動物などを確保することとなった。それでも、雪に埋もれた廃屋にもぐり込み、暗闇の中で食料を探すのは大変な労力だった。だが最も危険なのは、せっかく掘り出した食料を、人間の姿をした獣たちに力ずくで奪われることだった。男女を問わず、最後の人間の尊厳を捨て、獣と化した人間たちもいた。
 食料は一度村の調理場に集められ、火を通してから食堂で平等に配られる。あらゆる植物の根や茎が穀物となり、廃屋の床下に生える雑草や、樹木の葉っぱが野菜の代わりとなった。最も枯渇していたのは動物蛋白だった。稀に、ビルの地下で生き延びてきた、今にも死にそうなホームレスを見つけることもあるが、誰一人として邪悪な行動に走る者はいなかった。その時が本当に、神が人類を見捨てる時なのだと、誰もが自分を戒めた。
 どこまでも続く雪原に犬や猫の動物の姿を見ることはなく、廃屋の中で屍を食い散らしながら生き長らえたネズミたちが、生き残った人間の御馳走となっていった。
 やがてそのネズミたちの姿も見えなくなった。硬い雪を掘り起こし、凍った土を掘り進んでいくとやせ細ったモグラを見つけることがあり、狩人は喜びの涙を流した。時おり土の中から、一時の冬眠のつもりが永眠となってしまった蛇が出てくることがあった。だが嫌悪感を持つ者はなく、雪の上で黙々と皮を剥いだ。
 原始の環境に投げ出された人間は、獣たちと変わることがない行動に、何の矛盾も感じなくなっていった。いよいよ食料の調達が困難を極めてきた時に、現場で信じられないことが起った。

「おーい、大変だ! みんな出てこぉーい!」

 廃屋の周りで見張りをしていた長老が、吹き溜まりの影でたった今惨殺されたようなホームレスの死体を発見し、廃屋の中で食料を探している仲間に知らせた。
 ホームレスの死体は全身が刃物でえぐられたような深い傷があり、顔面は肉が剥ぎ取られ原形を留めていなかった。
 まだ姿が見えない一人を除き、3人の狩人が集まってきた。
「うぇー! これは酷い――」
 4人は、内臓が空っぽになっている奇怪な死体を凝視し、得体の知れない恐怖に青ざめた。
「いくら飢餓に襲われたとしても、人間がここまでやりはしないだろう。これは何か他の動物に襲われたに違いない」 
 真っ白いあごひげを蓄えた長老が、説得力のある声で呟いた。
「ということは、まだどこかに狼とか大きな動物がいるということですね?」 
 若い狩人のメンバーが、目を輝かせた。
 と、その時、立ち並ぶ廃屋の向こうから喉を引き裂くような悲鳴が上がった。

「おい、あれは一樹(かずき)の声じゃないか!」
 
 まだ1人、一番若い一樹が戻っていなかった。
 4人はとっさに戦闘態勢をとると、悲鳴の方角へと向った。長老は照準用スコープが装備されたボーガンを構え、他の3人は蛮刀を持っていた。だが、それ以上は何の気配もなかった。廃墟の街は元どおりに静まり返り、白銀の世界に薄闇が漂い始めていた。
 壊れた看板が垂れ下がり元商店だったことをうかがわせる建物に近づいた時だった。建物の陰から獣が何かを咀嚼するような凄まじい音が聞こえてきた。4人は武器を構え、回り込むようになだれ込んだ。目に飛び込んできたのは、何かを貪る小山のような動物だった。動物はおもむろに振り返り、一旦身構えたが、身を翻すと地響きを残す勢いで山の方向に走り去っていった。
 4人は一瞬のできごとに、呆然と立ち尽くした。巨大な動物が去ったあとに恐る恐る歩を進めた。脳裏で否定しようとしていた光景が、長老の視界に広がった。4人は息を飲んだ。散らばった遺体に絡みつく衣服から、それが一樹だということは疑いようもなかった。周りには一樹が商店の地下から探し出したものと思われる様々な缶詰が散乱している。その中に、ひと際目を射抜いてくる壮絶な光景があった。手指だけが絡みついたまま、中ほどで変形した蛮刀が雪に埋もれている。一樹が最後まで、得体の知れない獣と闘ったことを物語っていた。
 4人は涙を流しながら、一樹の遺骸を丁寧に集め、麻袋の中に入れた。一樹が命がけで掘り出した缶詰をリュックにいれると、無言で現場を後にした。
 4人は、村に近い小高い丘の上に向った。一樹が眠る麻袋に牛肉の缶詰を一つ添え、丁寧に埋葬した。一樹が必死に握り締めた蛮刀を、墓標として立てた。
 それぞれが黙祷を終わらせたあと、長老が口を開いた。
「みんな見たな。あれは間違いなく熊だ。だが昔この辺りの山に棲んでいたツキノワグマとは明らかに違う……」 
 長老はツキノワグマの倍近くはある、白っぽい熊の姿を思い出していた。同時に、あれを一頭仕留めれば、ミネルバの住人がどんなに喜ぶかと、想いを巡らした。
 長老は村に戻ると、他の狩人チームと運営会議のメンバー全員を集め、緊急の報告会を開いた。
 亡くなった一樹には、病弱な母親がいた。会議の初めにその母親が招かれた。 
「息子さんはとても優秀でした。我々の最も重要で最も危険な仕事である狩人チームの模範となる仕事をしてきました。だが、不幸なことに仕事中に熊と見られる巨大な動物に遭遇し、果敢に闘った末に一命を落とされました。異変を感じすぐ駆けつけた時には、すでに心臓が停止しておりました。安らかな死に顔でした」 
 話し終えると狩人の長老は、優しく母親の肩をなでた。これは息子さんの働きですといって牛肉と鮭の缶詰を母親に手渡し、部屋を送り出した。
 次に長老は、凄惨な事件の詳細について報告した。
「それは、もしかして北極グマではないでしょうか?」 
 報告に耳を傾けていた正人が、少し前、北海道から犬ぞりで南を目指していた一団が、食料補給のためミネルバに立ち寄った時に聞いたという話を紹介した。今、村で飼われている10頭のハスキー犬は、その時の食糧のお礼にと残していったものだという。

 ***

 北海道の寒冷化は凄まじく、連日マイナス50℃という大寒波が圧し掛かっていた。病人はおろか老人や子供たちはほとんどが亡くなった。海面低下でカムチャッカや樺太と陸続きになり、海氷の南下でオホーツク海にたくさんのアザラシやセイウチが現われるようになった。恐ろしいことは、それを狙うシベリアやアラスカの北極グマが出現し、死に絶えたヒグマに取って代わり、手ごろな人間を襲い始めたことだ。
 海面は130メートルも下降していたが、中央部の水深が450メートルもある津軽海峡は陸続きとはならなかった。両岸は氷で覆われたが、中央部は巨大な川のような深い群青のうねりを見せていた。だが、大寒の一時期だけは、狭(せば)まった海峡が流氷でつながる。酷寒と猛獣の牙から逃れようとする人々は、本州に渡るため函館港を目指した。だが揺れ動く氷雪の海峡は想像を絶する危険を孕み、途中で多くの人が黒い海に呑まれていった。幸運と体力に恵まれた者だけが海峡を渡り切ることができた。幸い彼らは、代々オホーツクで犬ぞりツアーの会社を経営していた人々で、寒さには強かった。厳寒の中でこそ真価を発揮する屈強なハスキー犬たちのお陰で、海峡を突破することができた。そこで彼らが見たものは、冷たく光る広大な雪原の彼方を、同じように南を目指す北極グマの親子たちだった。

 ***

 正人の話しが終わると同時に、会議室にどよめきが起こった。
「薄暗がりでしたが、確かに私たちが見た動物は白っぽい熊でした。今の話と合わせると、あれは北極グマに違いありません。この地域にも棲息し始めたと考えるべきです。昔、温暖化の時代には保護動物として特別扱いされましたが、人間を襲うとなれば話は別です。私たちの食料として狩猟対象に加えるべきかと思います。それには、これまでとは違った武器と、狩人メンバーの特別な訓練が必要です」
 長老の意見に反対する者は誰もいなかった。
「そのグループの一人が、別な興味深い話もしておりました」
 再び正人が、ふと思い出したということを付け加えた。
 オホーツクの海辺から来たというその人の話しでは、昨年、海岸沿いに北の方から犬ゾリの一団がやってきて、通りかかったその人に片言の英語で、隊長が手に怪我をしたので薬がないかと訊いてきた。その人はオロナイン軟膏の瓶をかき集め、皆で使ってくれと手渡した。大変喜んだ品格のある隊長は、日本は食料難で大変だろうけど、イヌイットの村に来ればクジラ漁の方法を教えると言い残し、皺が刻まれた浅黒い顔に満面の笑みを浮かべ引き返していったという。
 その時、松葉杖で体を支えながら、岳が立ち上がった。
「昔はどこの国も、クジラは大切な蛋白源だったと聞いております。それが、乱獲で衰退した。自然との共生を忘れなければ、残された人類の救世主となるかもしれません」
 あれから3年が経ったが、岳の左脚には後遺症が残った。今は警備チームを引退し、EHS(環境・健康・安全)のリーダーとして働いていた。
 次の日から長老は、主なメンバーを集め、銃を使わない熊猟の方法を練り上げていった。
 猟銃を使ったらどうかという案も出たが、弾薬にも限りがあり、ギャングが復活した時の緊急用として残すことになった。結局、北海道のアイヌ民族が最後まで守り通したという狩猟方法の弓を使用することになった。取り扱いの容易さからボウガンを主力としたが、新たに入隊した3人の和弓の有段者は、「まさか本当の狩猟に役立つとは思いませんでした」と感動していた。
 和弓は長くて一見不便そうに見えるが、下3分の1のところを持つようになっているため、身を隠して行射する場合、座射と呼ぶ片膝をついた態勢で射ることができる。高段者ともなるとボウガンよりも強力で正確な矢を射ることができた。
 だが、白熊に有利な雪原で、1頭を仕留めるのは容易なことではなかった。おとり役が白熊を引きつけ、雪原に掘った穴から一斉行射するという、正に命がけの猟となった。
         
 2

 雪原がきらきらと輝く晴れ渡った朝、未来はロンを連れ、友達となった同い年の朱莉(あかり)と、釣竿を持って海に出かけた。身体が弱っている岳に魚を食べさせようと思った。朱莉は、警察だった父を早くに亡くし、母と一緒にミネルバに避難してから10年ほどが経つのだと言った。
 氷に覆われた海は危険なので、村では釣りは禁止されていた。だが二人は、氷の下には大きな魚がたくさん泳いでいるはずだという好奇心が先立ち、何はともあれ行ってみようということになった。
 未来は、岳から釣りの極意を教わっており、釣り場さえあればどんな魚でも釣り上げる自信があった。
 今は波が打ち寄せることもない浜辺に着いた二人は、真っ青な空の下に広がる白銀の世界を見渡し、空気を胸いっぱい吸った。吐く息が瞬時に凍りつき、毛皮のフードに小さな氷柱(つらら)が下がった。二人はお互いに顔を見合わせ笑い合った。
「ロンって、私にも懐いて可愛いね」
 朱莉がしゃがみ込み、ロンの背中を優しくなでている。
 ロンも、飼い主の友人には気を許すのか、朱莉の顔をペロペロとなめていた。
 氷で覆われた海岸線は、130メートルの海面の下降により、浜辺から2キロメートル近く後退している。かつては海底だったところが雪と氷で化粧され、芸術的とも思われる姿を現していた。海岸線より、はるかかなたに見える群青色の水平線だけが、今は遠い世界となった太平洋の雄姿を見せていた。
 二人はフィールドアスレチックのような水のない海底を踏破し、海岸線にたどりついた。振り返ると、遠く浜辺の丘の上には、雪に埋もれた温泉街のホテルが連なっている。
「だめだね。これでは釣りなんかできないよね……」 
 見渡す限り真っ白に広がる厚い氷の上で、朱莉はがっかりした表情を未来に向けた。
「あそこに行ってみようよ。あの岩に何か食べ物があるかもしれないわ!」 
 あきらめ顔で南の方に目をやった未来が、氷の上に突き出す大きな岩を指差し、声を上げた。ロンも興味を持ったのか、尻尾を強く振っている。
 そこは、村の自由行動エリアから外れていたが、二人は巨大な岩が持つ未知の誘惑に逆らうことはできなかった。
 二人はごつごつとした地肌を晒してそびえる黒く大きな岩を見上げた。海面が低下する前はこの岩は海底深くに沈んでいたのだと思うと不思議な気がした。岩の窪みや亀裂を覗いてみたが、生き物を見つけることはできなかった。ところどころに小さな貝が密集してへばりついていたが、中は干からびていた。
 その時、岩の反対側から、ロンの興奮したような吠え声が聞こえてきた。二人は急いで、岩の陰に回った。岩から少し離れたところで、ロンが氷に鼻を擦りつけながら跳ね回っていた。
「朱莉、あれは何だろう? あそこの氷の色何か変じゃない」 
 未来は、異様な光景に目が吸い寄せられた。ロンが前足で掻き続けている氷が、薄っすらと黒く光っていたのだ。
 二人が恐る恐る近づいてみると、何と直径三メートルほどの黒く光るところは、海の中の色だった。覗きこむと、海底へと続く濃い藍色の世界が透き通った氷をとおして揺らめいている。二人は、足元に迫る深い海の重みに圧倒されながらも、声も出せずに中を覗いていた。その時だった。

 氷のすぐ下を、大きな黒い影がゆっくりと横切っていくのが見えた。

 ロンが再び吠え始めた。
「朱莉、見えた? ロンもあれを見て驚いたんだ」
「見えた。何、あれ――」
 朱莉が、目を皿のようにして未来を見た。
「あれは魚よ! 間違いないわ。大きな魚よ」 
 未来はかっての経験から、それが魚だと確信し、大きな声を上げた。
 二人は感動の余り抱き合った。
 ロンも、自分の手柄が嬉しいらしく、二人にじゃれつき、飛び跳ねている。 
 二人は交代で、未来が岳から受け継いだマキリを使い、透き通った氷に穴を開け始めた。
「このナイフ変わってるね。柄が大きくて使いやすい!」
 マキリを握った朱莉が、珍しそうに眺めている。
「その柄は桐でできていて、落しても沈まないのよ」
「へえー、水に浮くナイフか――」
 やがて人間がすっぽりと入るほどの穴が開いた。時おり中から水しぶきを上げ海水が吹き上がってくる。
「わぁー、すごい!」 
 二人は忘れていた大自然の飛沫を浴び、冷たいのも忘れ、はしゃいだ。未来は慣れた手つきでリールロッドを組み立て、釣の準備に入った。朱莉は、興味深かそうにそれを覗き込んでいる。
 未来は静かに、ルアーを結んだラインを穴から海底に降ろしていった。青く澄んだ海の中で、小魚を象ったルアーがきらめきながら沈んでいくのが見える。10メートルほど降ろしても未だルアーの重みを感じる。中は相当深いようだ。ラインをゆっくりと上下させた時だった。ガツンという衝撃が手に走り、ロッドが弓なりになった。
 ラインが強力な力で海底へと引っ張られる。未来はもぎ取られそうになったロッドを素早く両手で持ち直すと、負けずに立てた。だが大海の野生の力は凄まじく、ロッドの先が今にも氷の穴に引き込まれそうになる。海水で濡れた穴の周囲は足が滑り、一歩先の穴は地獄の入り口に見える。
「朱莉、手伝って! 早く!」 
 未来は、何が起こったのかわからずに目を白黒させている朱莉に助けを求めた。二人がかりでロッドを必死に立てる。ロンは狩猟本能が蘇ったように、低い態勢で穴の周りを駆け回っている。
「未来、これ何! どうなってるの?」 
 魚釣りが初めての朱莉は、必死にロッドを支えながらも何が起こったのか、まだピンとこないようだ。
「魚がルアーに喰いついたのよ! でもこんな力は初めて。かなり大きいわ」
 未来は、声が上擦っているのが自分でもわかった。
 海底に引きずり込もうとする力がやや緩やかになってきた。ラインは、50メートルは出ているはずだ。リールロッドは、魚がかかると瞬時にローターに逆転防止がかかる。だが、魚の引きがドラグの設定荷重をオーバーするとスプールが空転し、勝手にラインが出ていく。糸切れを防ぐためだ。ロッドが軽くなる瞬間にリールを巻き上げる。これも岳から教わったことだ。
 1時間ほどの格闘の末、やっと大海に棲む逞しい生命が姿を現した。氷の下で旋回する黒い背、銀色の腹、全長1メートルはありそうな大きな魚だった。
 ロンも、茜の裾に咬みつき、踏ん張っている。二人がかりで、やっと魚を氷の上まで引き上げた時は、体力の限界だった。
「これ、鮭じゃない!」
 朱莉が、ふらふらになりながら叫んだ。 
 氷の上で元気に跳ね回る大きな魚は、紛れもなく、遠い昔、スーパーマーケットの魚売り場に吊下がっていた鮭だった。海の温暖化で幻となった鮭が、再び戻ってきたのだ。
 鮭は、本能的に海への道がわかるのか、必死に穴の方へと逃げようとする。可哀そうだったが、未来は覚悟を決めた。
「朱莉、ちょっとの間、こっちを見ないでね――」
 未来はロンと一緒に穴から離れ、鮭の締めにかかった。
 暴れる魚に圧し掛かり、マキリをエラの内側に刺しこもうとした時だった。

 背後で、朱莉の小さな悲鳴が上がった。

 振り向いた時は、神隠しにでも遭ったように、氷原から朱莉の姿が消えていた。ロンが、朱莉の匂いを嗅ぎ分けるように穴に近づくと、迷うこともなく、黒いうねりに飛び込んでいった。
 未来の頭の中は真っ白になった。
 呆然と見下ろす地獄の入り口で、信じられないことが起こった。
 朱莉の体が、押し上げられるように、氷の穴に現れた。未来はとっさに穴を跨ぐと、渾身の力で朱莉を引き上げた。直後に、白い影が、ゆっくりと沈んでいくのが見えた。
 未来は悲しみの涙を堪え、朱莉に心臓マッサージを施した。朱莉は、咳き込みながら海水を吐き出し、息を吹き返した。目を閉じたまま、朱莉が語った。
 朱莉は穴の近くで足を滑らせ転んだ。穴の周りは表面が融けて緩やかなすり鉢状になっていた。朱莉は吸い込まれるように、暗い海中へと落ちていった。意識を失う寸前、大きな白い手が伸びてきた。向こうに、うっすらと太陽が見えている。不思議な力が、その光に向かって、ぐんぐんと押し上げてくれた。
 それがロンだと知った朱莉は、狂ったように泣き叫んだ。
 未来が笛を取り出した。氷原を流れていく篠笛の音が、ロンの魂を、天へと運んでいった。
 村まで鮭を引きずってきた二人は、警備チームにしかられながらも、弱った父に食べさせたかったことと、沖まで行かずに魚を釣り上げた経緯を説明した。
 朱莉が海に落ち、助けようとしてロンが亡くなったことは、日をおいて岳に話すことにした。
 岳も左脚を引きずりながら外に出てきて、未来たちが釣り上げたという魚に目を見張った。最初は信じられないという顔をしていたが、変形したルアーフックを確認するや、よくやったと二人の肩を叩いた。自分のための冒険だったことを知ると、目に光るものを湛えていた。
 すぐに、元釣り師たちが集まり、未来に現場を案内させた。
 ロンを失った海を見るのは辛かったが、男たちは、時おり黒い背びれが横切る氷の穴を見て、肩を叩き合って喜んだ。
 この土地に詳しいと言う男が口を開いた。
「この周辺は温泉地帯で、海底温泉が眠っていると言われてきました。氷で海流が止まり、海底から湧き出した温泉が拡散しないまま浮上し、厚い氷を融かしたのだろうと思います。魚たちは、プランクトンを目当てに、遠く沖の方からもこの暖流に集まってきているに違いない」
 その日は、獲れた新鮮な鮭の塩焼きが、岳を始め、他の病人や老人たちに配られた。ミネルバに、久々に人々の明るい笑いが帰ってきた。
 いよいよ岳に事の詳細を話さなければならない時がきた。朱莉もわきで正座している。未来が切り出そうとした時だった。

「ところで、ロンの姿が見えないが――」

 岳が怪訝そうな表情を見せた。
 未来と朱莉は、床に突っ伏し、慟哭の中で岳に詫びた。岳は、二人を責めることもなく、ただ哀しみの表情で遠くを見ていた。
「そうだったか……。ロンも15歳になっていた。人間でいえば80歳。最後の最後まで、私たちの役に立とうとして生涯を全うした。朱莉さんも、せっかく助かった命だ。ロンの分まで元気に生きてください。それがロンへの何よりのねぎらいとなるでしょう」

 次の朝早くから、海の現場で建設チームによる作業が始まった。
 海底温泉の熱で薄くなった氷の部分をすべてノコギリで切り取り、周囲を頑丈な柵で囲った。直径5メートルはある、氷上の釣堀が出現した。
 ミネルバは新たに漁業チームを立ち上げ、釣り漁を開始した。
 未来と朱莉は、屈強な男たちに交じり、最初のメンバーとして認められた。二人の快挙は、しおれかかっていた村の女性たちに、大きな希望をもたらした。
 村では真の男女平等を目指していた。この出来事をきっかけに、女性にとってハードルが高かった戦闘や狩りも含め、すべての仕事は平等に分配されるようになった。希望するたくさんの女性が、格闘の訓練や猛獣狩りに参加するようになった。
 わずかでも魚が獲れるようになってからは、村全体に明るい活力が現われた。病人も減少してきたようだ。飢餓の中で命と引き換えに倒した熊の肉や、土の中から掘り出したネズミや蛇を食べて飢えをしのいでいたころの顔に較べると、再び人間らしい優しさが戻ってきた。

 3

 ギャング団が崩壊し、生き残った人間たちがこの村で力を合わせるようになってから10年の月日が流れた。未来は、ミネルバ運営会議のメンバーとなり、組織の発展に尽くしてきた。
 
 ついに、アラスカへ出発の日がやってきた。
 未来は仕事部屋で、出発までの1時間に、身の回り品の整理を始めた。
 村の住人も3千人を超え、たんぱく源の安定した確保が急務となった。ミネルバ運営会議は、クジラ漁を学ぶため、アラスカのイヌイット村に渡ることを決定した。その先遣隊の隊長を選任する段になり、未来は自らその重要かつ危険な任務を引き受けた。父、岳が健全であれば必ず買って出たであろう役を、自ら継いだのであった。

 城壁の前では、副隊長の朱莉を含む10人の隊員が、犬ゾリに、食料や武器、それに日本の防寒具やナイフなどの贈り物を積み込み、出発の準備をしていた。
 犬ぞりは、負荷に余裕を持たせ、10頭5人ずつの二隊に分かれる。体重40キロのハスキー犬10頭のけん引力はおよそ400キロ。北極までの距離を考えれば、決して余裕のある構成ではない。犬たちとの温かいコミュニケーションと、操縦者であるマッシャーの腕にかかっている。

 岳が作ってくれた英会話ノートを整理していると、1枚の写真が挟まっていた。それは、空手着を着た岳と、孤独な目を光らせる狼ヘアーの少女。裏を見る。「茜、14才」と書いてある。今の自分の目とは明らかに違う、15年前の自分の写真だ。
 岳は、いつか新しい地球が生まれる時、文明が崩壊した世界で、茜という少女が逞しく生き抜いていたことを、後世に伝えたかったに違いない。そして今、人類は新しい文明の糸口をつかむところにきた。

 未来はこの10年の、村の歩みをたどってみた。

 生きる環境は、縄文人が生き延びた氷河期と変わりはないが、氷の中には頂点を極めた近代文明が残っている。大地に眠るその遺産から本当に必要なものだけを掘り起こし、人類が陥った様々な欲望の産物を「自然共生」のふるいにかければ、必ず新しい文明が復活するはずだ。
 最も重要な課題はエネルギーだった。近代文明は化石燃料により開化し、皮肉にもその化石燃料に息の根を止められた。
 先ずは雪に埋もれている風力発電設備の復活に着手した。幸い村からそう遠くない所に大きな風力発電の鉄塔が並んでいる。半年後には600キロワットの電力を村に送る電源ケーブルの敷設工事が完成する予定だ。この計画がうまくいけば、お互いに笑顔を見ながら食堂で夕食が食べられ、病人や老人の部屋だけでも暖房することができるかもしれない。
 食料問題も解決の兆しが見えてきた。蛋白源を海底温泉の釣り場と狩人の白熊狩りに頼ってきた。狩人が白熊を追って沖に出た時、偶然、クジラの群れ発見した。ミネルバでもクジラ漁ができるようになれば、村の食料事情はかなり改善されるだろう。
 今、最後の課題は地下に野菜栽培の工場を作ることだ。この辺りの永久凍土の厚さは約20メートル。そこまで掘り下げれば湿った土が出てくる。氷河の中の巨大な「温室栽培プラント」もそろそろ完成するだろう。後は、プロの農業チームが土壌改良を施し、低温でも栽培できる野菜を開発すれば、皆が新鮮な野菜に舌鼓を打つ日が必ずやってくるはずだ。
 村も今は、中世ヨーロッパの城の様相を見せている。我々の最大のテーマはこのミネルバをどの方向にもっていくのかということだ。これまでの常識を超越する、新たな文明の創設が必須だ。
 これまで村では、共生の文化を作り上げ、一定の効果を上げてきた。だが、共同体が酷寒の原始を生き抜くためには、実は文明のころよりも高度な技能と独創的な着想が必要だということが分ってきた。
 文明のころはあらゆる能力の向上のため、競走というツールに頼り過ぎ、やがて本質を見失った。村では、個人が得意とする能力を最大限に活かすプログラムを作り、トータルで力を発揮できる異脳者集団を目指している。
 一方では、「人間の幸福」も永遠のテーマだ。人間はDNAに「妬み」というやっかいなものが刻み込まれ、これが微妙に悪さをする。今、新たな「幸福の尺度」の概念の中で、それをプラス思考に昇華する研究会を開いている。
 社会が巨大化すれば、また新たな人間の欲望が渦を巻き始めるはずだ。その時、再び破滅への道を選択するかどうかは、足元にある文明の残骸を見て判断するだろう。
 外部から悪の脅威がなくなってから、最大の課題は内部から悪が生み出されないようにすることだった。だが住人が1000人を超えたころから、様々な事件が起き始めた。恐れていた殺傷事件は、村追放という死を意味する極刑を知っていても起きた。人間は誰しも、欲望に根差した闇の部分を持っている。地球温暖化は、人類がその闇がもつ誘惑に負けた結果だ。しかし、全ての欲望を削ぎ落せば、人々は面白おかしく生きていくことはできないだろう。やはり私たちは、人間として、崇高なものを目指し続けるしかないのだ。
 社会の歪が、刈棲魔というモンスターを生み出した。私たちはその真の原因を見て見ないふりをしてきた。それがどういう結果を招いたかは、皆、家族が流した血の色の中に記憶したはずだ。
 村では様々な事件の教訓から、人に思いやりを持てる社会の醸成を目指した。人間の信頼関係こそ、悪を封じ込める最大の武器だと信じた。その結果、その後大きな事件もなく平和が続いている。だが慢心は禁物だ。すべては上に立つ者の本質にかかっている。
 ただ、あまり出来すぎた社会というのも息が詰まるものだ。かたつむりのような殻を破り、未知の美しいものを求めようとする若者の自由を奪ってはいけない。極限のサバイバルを生き抜いて知ったことは、人間の幸福は器の中にはないということだ。
 組織の運営方法は、この村がスタートしたときから変わっていない。各チームの代表で構成された運営会議ですべてのことを話し合い決めていく。今は、食料調達、調理、警備、医療、建設、漁業、農業、教育、それに岳が創設したEHSチームがある。やがて社会がグローバル化すれば、疫病の対策も必須だ。これからは文化芸術なども必要になるだろう。
 各チームリーダーはほとんどがこの東北の出身だが、たった1人、5年ほど前東京からたどり着いた人間がいる。それは、地吹雪がゴウゴウと唸る、凍えるような夜だった。
 馬2頭を引き連れ、村の扉をたたき続ける人間がいた。見ると、顔中凍傷でぼろぼろになった男が、「ここにタケルさんはいませんか?」と尋ねた。
 未来が詳しく話を聞いてみると、男が語った上野アメ横街でのファイティングストーリーは、紛れもない父の岳のことだった。
 東京も食料が尽き、ビルの谷間に、凍りついた屍が重なった。男も死の睡魔に引き込まれようとする寸前、岳の笑顔が現われた。男は渾身の力を振り絞り北の地を目指した。途中で野生化した馬を乗りこなし、ついにこの村にたどり着いたという。
 それが、かっこいいアーミーカットの、今の狩人隊長だ。「俺は若いころ、『アウトローファイト』で優勝した」というのが彼の口癖だ。今は岳と、年の離れた親友として昔話に花を咲かせている。

「隊長、旅立ちの準備が整いました」

 ドアの向こうから、朱莉の声が響いてきた。
 未来は首のブルーダイヤにそっと触れ、創造の10年を心に刻み、立ち上がった。

 城壁の前の広場に、白熊の毛皮で身を包んだ11人の使節団が整列した。両脇に、正人が率いる警備団とアーミーカットの騎馬隊が控える。11人の女性は皆、格闘技、狩り、漁の経験者から選りすぐられた者たちで構成され、各々愛用のナイフで武装している。未来は岳の魂が宿るマキリを身に着けた。その勇姿に、文明のころの女性のイメージは、欠片も残っていなかった。
 2000人ほどの見送りの人々が集まっている。端の方に、岳の笑顔も見える。足が不自由でも、まだ顔には精悍さが残っている。
「皆さん、寒いところお見送りありがとう。私たちは北極海のイヌイット村を目指し出発します。目的は、クジラ漁を学び、食料問題を解決するためです。命がけの旅となりますが、全員力を合わせて任務を終わらせ、必ずこのミネルバに戻ってきます」
 未来はよく通る声で挨拶を終えると、元気よく皆に手を振った。精悍な顔の隊員たちも、精一杯笑顔で手を振っている。
 だが隊員たちは笑顔の陰で、なぜ11人もの人間がこの酷寒との闘いに挑戦するのかを知っていた。生存率1割といわれる過酷な道程で、最後の1人になっても使命を果たし戻ってこなくてはならない。こぼれるような笑みの下で、全員の目には覚悟の光が宿っていた。

 未来が篠笛を取り出した。

 笛の音が、静かに響き始めた。皆、目を潤ませ、その音色に聴き入っている。古(いにしえ)から蘇った旋律は、真白な大地を伝い、まだ見ぬ世界へと消えて行った。
 マッシャーの一人である朱莉の一声で、よく訓練されたハスキー犬たちが一斉に走り始めた。先頭のソリには純白に朱の円を染め抜いた国旗が掲げられている。5台の犬ゾリ隊は雪煙をあげ、海岸線へと続くなだらかな傾斜を駆け降りると、北を目指し、一直線に疾走した。見る見る城壁の人々は蟻のようになり、やがて、見えなくなった。 

 4

 未来たちが出発してから、3年が経った時だった。

「おおー、使節団が帰ってきたぞ! 城門を開けろー」

 見張り台で、遠く海岸線を見渡していた警備チームの一人が、北のほうから雪煙を上げながらミネルバに向かって来る犬ゾリの一団を発見した。喜びの銅鑼が鳴り響いた。岳も足を引きずりながら、城門に向かった。先頭のそりには、ボロボロの日の丸がはためいている。飢えと寒さで疲弊した村の中が、にわかに活気づいた。
 隊員の家族たちが、城門に駆けつけた。
 犬たちにはすぐに魚の内臓が与えられた。寒さと疲労で灰色の目を泳がせる隊員たちが、出迎えた人々に倒れ込むようにして城の中に入っていった。飼い主の懐かしい匂いに、ハーネスが解かれた犬たちがはち切れんばかりに尻尾を振っている。
 隊員たちの家族や友人が、凍傷で見分けがつかなくなった隊員の顔を一人一人さするようにして見極めると、それぞれの居住場所に引き取っていった。
 だが信じられない現実が待っていた。最後に残るはずの未来の姿がなかった。
 未来が可愛がっていた猫たちが、前足をそろえ、城壁の隅でじっとたたずんでいる。家族が帰ってきた喜びにむせび泣く人々の中で、岳は呆然と立ち尽くした。
 家族との再会を確かめ合い、やっと息をついた副隊長の朱莉が近づいてきた。
「お気の毒です……何と説明したらいいのか。未来隊長は1年前、北極海で行方不明となりました。私も、未来さんには命を助けられました……。でも未来さんは、どこかで必ず生きております」
 朱莉が、涙ながらに話した内容は次のようなことだった。

 ***

 難関の津軽海峡を越え、陸続きとなった千島列島からカムチャッカ半島に着くまでに1ヶ月を要した。氷に閉ざされたとはいえ、カムチャッカはロシアの対米軍事戦略の拠点であり、原潜基地が点在する。隊は夜間に、海岸線を離れ静かに北上した。海氷で覆われたベーリング海に入り、アリューシャン列島をアラスカ半島へと向った。
 自然にとって最大の脅威だった人間が淘汰され、動物の世界に本来の生態系バランスが戻っていた。それまで絶滅の危機に瀕していた北極グマやシベリアトラ、それに北極ギツネやシベリアオオカミなどが、豊富になった海や氷上の生物を求め、ベーリング海に勢力を延ばしていた。
 隊がアラスカの地を踏んだのは出発してから3ヶ月後のことだった。地平線すれすれに移動する太陽の光が、水晶を散りばめたような広大な雪原に反射し、きらきらと輝いている。はるか遠くに、アラスカ山脈に連なる、先住民族が「偉大なもの」として崇めてきたデナリ山の頂が見えてきた。
 氷上を駆ける6500キロの旅は、正に白魔との闘いだった。顔や耳に凍傷を負った隊員たちは皆、それを獣脂で固め、精悍な光りを放っていた。だが隊員たちにはすでに、獣を狩る牙はなく、残された食料はキツネ一匹の乾し肉だけとなった。
「アンカレッジがもうすぐのはずだ。何か食料が見つかるかもしれない」
 隊長が、地図を見ながら全員を励ますように声を上げた。
 しばらく進むと、ビルの連なりが見えてきた。アンカレッジだった。だが、街の光景を見て、皆、呆然とした。すべての建物は厚い氷に閉ざされ、おびただしい凍死体が路上を埋めていた。
 私はその時、それまで張り詰めていたものが一挙に崩れ、目の前の景色がゆっくりと傾いていきました。
頭部を撃つ衝撃を覚え、隊員たちの叫び声が遠くに聞こえます。すぐに隊長が抱き起こしてくれるのがわかりました。私は皆に隠していたのですが、両足の凍傷から何かに感染したらしく、もう寒さと闘う体力は尽きておりました。
「未来隊長、どうか私をここで眠らせてください。私の体をこの毛皮ごと焼いて、皆の命の糧となり、この地に来た証として、骨だけを埋めてください」
 隊長は毛皮の手袋を外し、ひび割れて血が滲む手を私の頬に触れました。母のような、命の温もりが伝わってきました。
「朱莉、何を言うんだ。これまでだって、一緒に助け合ってきた。置き去りになどできるわけがない。何も心配するな。必ず全員で、北極海のクジラを見よう!」
 隊長の目から、熱いものが私の頬に滴るのがわかりました。私は毛布に包まれ、そりに括りつけられました。
 隊長が、皆にルートの変更を提案しました。
「朱莉だけではなく、全員が体力の限界にきている。地図によると、アラスカ湾バルディーズ港に出て、あのアラスカ山脈を縦断すれば、海岸ルートの約半分でバローに着けそうだ。皆、力を合わせ、全員が北極海を望もうではないか!」
 反対の声など出るはずもなく、誰もが、自分が生き残るのではなく、誰か一人でもクジラ漁を学んで帰るという使命に燃えていた。
 ハイウエイのあとがうっすらと残る雪原を、アラスカ山脈に向っていた時だった。向こうから髭だらけの顔が血に染まった白人がよろよろとやってきて、そりのわきに倒れこんだ。血の臭いに興奮したのか、犬たちが吼え始めた。隊長が駆け寄った。
 男は英語で何かを話すと、最後に白い息を大地に残し、事切れた。
 隊長の顔に緊張が走った。
「今男は、『この道は危ない。娘が連れていかれ、妻は殺された』と言った。生き残った略奪者集団の根城があるのかもしれない」
 隊長の指示で、男を雪原に埋め、ルートを変えることにした。
 隊はハイウエイを外れ、見渡す限り真っ白な荒野を手探りで進んだ。隊員の不安と疲労が極限に達しようとした時だった。

「隊長、奇妙なものが見えてきました?」
 
 朱莉からマーシャを引き継いだ先頭のソリを操っていた隊員が犬の手綱を引くと、列の中央にいる未来隊長に声をかけた。
 朱莉の朦朧とした視界にも、奇妙な造形が浮んできた。隊は、恐る恐る、象をもひと呑みにしそうな巨大な氷の蛇に近づいていった。それは、直径1メートルを超える、巨大なパイプラインだった。
 隊長が、延々と頭上を延びていくパイプラインを見上げながら、言った。
「これは確か、以前、岳から教わったものだ。アメリカ最長と言われ、バルディーズから北極海のブルードベイまで延びている原油のパイプラインだ。これをたどれば、バローまで最短で行ける」
 鉄道のような堅牢な架台に設置されたパイプは、耐震措置のためかスライドし、蛇行する姿はまるで宇宙を駆ける大蛇のようだ。

「なんと、この巨大な鉄管は日本製だ……」

 隊長が複雑な表情で、架台のプレートを見つめていた。
 この途方も無いような原油が都市に送られ富を生み出した。同時に、二酸化炭素を排出し、地球崩壊の引き金となった。そのテクノロジーが祖国から提供されたことが、未来隊長の胸を締めつけていたに違いない。ただ、このパイプラインが、隊の生死を分けたことは確かで、文明の最期の贈り物だった。
 隊は、銀色の蛇に導かれるように、アラスカ山脈を越えた。麓に点在する町は氷雪に覆われ、生存する人はいない。小高い山が続き、それを縫うように鉄の蛇は延びていく。架台の陰に潜むトナカイが、隊の飢餓を救った。
 遠くに、雪原を切り取るように横たわる大きな川が見えてきた。白銀の川面に流れは見えないが、北極海へと注ぐユーコン川に違いない。だが、向こうに見える橋を見て愕然とした。破壊された橋桁が無惨に垂れ下がっている。川面の中央には黒く長い亀裂が入り、地獄の淵が覗いている。
 隊長が、覚悟を決めたように口を開いた。
「今我々の前に立ち塞さがるのは、最後の難関となるユーコン川だ。偉大なる川は、我々を試している。氷河と一体化すれば、必ず対岸へと導いてくれる。目指す北極海はもう少しだ。気を許すな!」
 隊長の声が、氷原の彼方に響いていった。
「オーッ!」という一団の叫びとともに、犬ゾリ隊は氷河へと挑んでいった。
 それから1ヵ月後、使節団は北極海を見渡すイヌイットの村にたどり着いた。小高い雪原の中央に、流木とクジラの骨で組み立てられた、王の住まいと思われる一際大きな住居が根を下ろしていた。その周りに、人々が暮らす、圧雪と氷で作られたイグルーが、はるか遠くまで点在している。
 隊長は、若い国王にミネルバの現状を説明し、クジラ漁の修行を願い出た。国王は昔、父が北海道で日本人に助けられたことを覚えていた。使節団を歓迎し、一団が定住できる、内部に獣の皮が張られた広いイグルーを与えてくれた。
 未来隊長は1年もすると、イヌイットの銛打ち名人と同格の腕を持つまでになり、毎日のようにイヌイットの漁師と一緒にウミヤックを操り北極クジラを追っていた。
 イヌイットの船は、1人乗りのカヤックとクジラ漁に使うウミヤックがある。4、5人が乗り込めるウミヤックは、木で組まれた丈夫なフレームにセイウチの皮が張られる。
 その日は1日かかってもクジラの姿が見えず、皆が引き上げようとしていた時だった。
 突然、連隊の最後の、未来隊長が乗るウミヤックの後方に、20メートルもありそうな巨大な北極クジラが潮を吹きながら浮かび上がった。
 未来隊長と同乗した隊員の話しによると、隊長は反射的に銛を構え、黒光りのする巨体に渾身の力を込めて銛を放った。銛は、鈍い音を残し黒い壁に吸い込まれたが、クジラはびくともせずに再び海底へと沈み込んでいった。騒ぎを聞きつけ、引き返したイヌイットたちが放った5本の銛は、クジラが残した大きな渦に虚しく消えた。
 一度打ち込まれた銛は抜けることはない。未来隊長のウミヤックはクジラに刺さった銛のロープに引きずられ、氷山の間を、水しぶきを上げて走った。
 海底に向う一直線のロープが、微かな煙を上げながら未来隊長の皮手袋を滑り始めた。皮の焼けるにおいが冷気に漂った。もの凄い力だ。手を貸そうにもバランスが崩れ、身動きが取れない。未来隊長は腰を落とし、必死にロープを握る。
 200メートルのロープが最後になろうとした時だった。未来隊長は何を思ったのかマキリを口にくわえ、両手でロープを握ったまま凍てつく海に飛び込んだ。
 海底へと引き込まれていく寸前に見せた未来隊長の顔には、恐れの色は微塵もなく、むしろ目に慈悲の光を湛えていたという。
 しばらくして、きらきらと黄金色に輝き始めた海面に、銛の結び目から切られたと見られる長いロープと、未来隊長のものと思われる左手の皮手袋が漂っていた。
 北極海のクジラ漁は、手練の銛打ちが何人も命を落とす危険な仕事であるが、イヌイットの人々は、海の底までもクジラを追い、北極海の精霊となった隊長を称え、イヌイットの英雄の一人として記念碑に刻んだ。
 だが、鋭いロープの切り口を手に取った隊員たちは、未来隊長が亡くなったことがどうしても信じられなかった。必ずどこかに流れつき、生き延びていると……。ただ、なぜ未来隊長が、最後までロープを離そうとしなかったのか、本当のところは誰もわからなかった。

 ***

 岳はこの話を聞き、一緒に行ったイワナ釣りで、「お魚さん、重りのついた釣り糸を引きずりながら、仲間と一緒に生きていけるのかな……」と心配していた、茜の優しい横顔を思い出した。
 岳は未来が着けていたという、手の平が破れ、血で黒く滲んだ皮手袋を握りしめた。おそらく未来は、ロープを握る手が焼かれていくわずかな時間、任務を果たして帰還することも脳裏を過ぎったに違いない。けれどもその瞬間、未来の心が、あの美しき野性の茜に戻ったのだ。
 ただ、茜が、ロープを切って力尽きたとしたら、マキリは茜の手を離れ、海面に浮いてきたはずだ。
「これ、未来隊長が大切にしていたものです」
 最後に朱莉が、袋に入った篠笛を差し出してきた。
「飢えと寒さで力尽きそうになるたびに、笛の音で励ましてくれました。とても不思議な神秘的な音色に、皆、勇気づけられました。ありがとうございます」
 岳は、笛を握りしめた。涙が止めどなくこぼれ落ちた。
 茜は、必ずどこかで生きている。いつか地球のどこかで、新たな文明が復活した時、篠笛を吹く指導者のことが語り継がれるだろう。岳も、この村に生涯をかけることを、妻と娘、そして茜に誓った。
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