第1話 プロローグ

文字数 4,534文字

 序章

 カーテンウォールに襲いかかる火焔のような熱気は、内部が真空になった二重の防弾ガラスで遮断されていた。
 ここは、世界有数の半導体デバイスメーカー・デルタコーポレーションのアジアの生産拠点である日本デルタ。会議室は屋外とは対照的に、張り詰めた冷気が漂っていた。
 福島県K市郊外にある最新鋭工場では、今は大半が兵器産業向けの電子機器を生産している。重厚な壁全体が巨大ディスプレイとなっている南側は、室内と屋外の隔たりがない。建物の周辺は先端が霞むほどに太陽電池パネルが敷き詰められている。その向こうの丘の上には、風力発電の鉄塔がまるで植林をしたように連なっている。
 すでに石炭は国際合意で使用禁止となり、無くなりかけた石油の大部分は各国の軍が握っていた。この状況を予測できた企業のみが、買い占めていた太陽光発電設備のエネルギーで稼動していた。
 今から30年前の2016年11月、危機的な状況となった地球温暖化を食い止めるため、国連パリ協定が発効された。
 その3年後、狡猾な生存戦略が刷り込まれた新型コロナウイルスによる感染症が発生し、パンデミックへと拡大した。決定的な治療薬やワクチンもないまま、世界の人々は見えざる敵との闘いに突入した。経済への打撃は甚大で、二酸化炭素排出量は減少したが、多くの犠牲者の上に成り立った悲しい結果だった。有効なワクチンが行きわたり、やがて収束へと向かったが、世界経済の立て直しは困難を極め、再生可能エネルギーへの投資は滞った。
 ヨーロッパをはじめ、多数の国々が目指した二酸化炭素排出量ゼロの2050年までにあと4年となったが、世界の排出量はゼロには程遠いものだった。ただ、大幅に排出量が減ったにもかかわらず、気温が上昇し続ける原因は、多くの人が知らなかった。
 レイ・カーツワイルが提唱したシンギュラリティは、予測していた2045年より3年も早くやってきた。だが、ほぼあらゆることに最適な判断を下せるようになったAIも、地球温暖化防止に関してだけはなぜか無言を貫いていた。
 24時間体制で稼動する日本デルタは、異常な暑さと不穏な社会情勢の中で社員の士気は落ち、品質問題が噴出していた。
 営業本部を置く東京本社は、創業以来ものづくりに貢献してきた工場長をクビにし、ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した副社長の権堂(ごんどう)を送り込んできた。
「明日からマネジメントチームは全員会社に泊まり込みの態勢をとりたいと思うが、異論のある者はいるか?」
 いかにもグローバル社会を闘い抜いたという国籍不明の風貌を持つ権堂が、巨大なドーナツ型のテーブルの向こうから15人のマネージャーを鷹のような目で見回した。
「権堂さん、それは名案でございます」
 数人の老獪な取り巻きたちが狐のような目を権堂に向けた。
 彼らは人事権を持つ役員で、イエスマンを演じる一方で、配下には虎の威を借り、無理難題を押しつけていた。
 400人の社員を、20人のマネージャーが統率していた。そのうち5人が、自宅で家族の安全を守らなければならないという理由で休暇を取ってから、すでに1ヶ月が経っていた。
 家族がいつ殺されるかわからないという状況では、会社で重責を担う立場でも、家族の安全を優先させるのは当たり前のことだ。だが東京から単身赴任でこの地に来ている権堂と配下の役員たちはまるで意に介していない。
 おまけに彼らは、市内でも特別区と呼ばれる、万全の警備体制をもつ堅牢なマンションに住んでいた。社会が荒廃し始めてから、高級官僚や企業経営者などの富裕層は、身の安全を守るために結束するようになった。全国に点在する特別区は、まるで昔のSF映画に出てくる要塞のような威容を見せていた。
「兵藤(ひょうどう)君、何か不服そうな顔をしているが、君は我が社の環境安全の責任者だ。家の安全は誰か仕事のない暇な人間に任せて、会社の防衛体制をしっかりやってもらわないと――」
 権堂が、威嚇するような視線を岳(たける)に向けてきた。
「工場長、泊まり込みはいいとしても、その言い方はないと思いますが」
 父が仕事を失い自殺したのは、岳が小学五年の時だった。その後母は、あとを追うようにして亡くなった。「仕事のない暇な人間」という言葉は、どうしても許せなかった。
「なに、君はこの私に意見するつもりか――」
 権堂の目が、眼鏡の奥から冷たい光を放った。
 その時、会議室のドアが開き、グレーのパンツスーツに身を包んだモデルのような秘書が入ってきた。まるで昔のハリウッド女優のような魅力を見せつけているが、誰も見向く者はいない。秘書が権堂に魅惑的な唇を近づけ、耳打ちした。
 権堂は眉間に縦皺を刻み、秘書の顔を力任せに払いのけた。
「会議中は、ビジネスに直結するもの以外は取次ぐなと言ってるはずだ。今後は気をつけろ! 兵藤君、奥さんから急ぎの電話だ」
 天井をにらみながら床に倒れこんだ秘書は、まるで人間の動きのように立ち上がると、何もなかったように消えていった。

 岳が会社を飛び出して自宅にたどりついた時はすでに、住宅街の奥のほうで火の手が上がっていた。
 犬小屋にロンの姿が見えない。もしやと思い、家の中に駆け込んだ。
「桜、大丈夫か? 未来(みく)は無事か? ロンはどこにいる?」
「私は大丈夫。未来はロンと一緒に納戸に隠れているわ」
 妻の桜が、果物ナイフを片手に声を震わせていた。
 ガラス窓が破壊される音がすぐそこに近づいてくる。怒号や悲鳴も上がっている。団地の住人で組織した自警団が応戦しているに違いない。自警団は、数千人が住むこの住宅団地の、まだ職を持ち収入のある人々の寄付で維持されていた。屈強な若者を中心に活動する、文字通り命がけの仕事だった。
 突発的に発生した1メートルの海面上昇は、想像以上に被害をもたらした。巨大化した台風による高潮はその三倍に達し、10メートルを超える高波が岸壁に襲いかかった。
 海水に呑み込まれた沿岸都市は、津波と変わらない惨状となった。残酷な爪痕は社会全体に黒い影を落とし、干ばつの割れ目のように人間社会を分断した。全国で目を覆うような事件が同時多発的に発生し、警察はその対応に忙殺された。自衛隊は被災地の復旧作業と、日本海に漂流船で上陸する難民の処理に追われた。政権は成すすべもなく、無政府状態と化した。市民は自警団を組織し、命がけで悪の牙に対抗せざるを得なかった。
 山々と、のどかな田園地帯に囲まれた岳の家族が住む東北内陸のK市の状況も一変した。産業や居住基盤が崩壊した海抜ゼロメートルの沿岸部から移動してくる難民に混じり、都会から略奪者集団が押し寄せてきた。歴史と共に栄えていた穏やかな町も、暴力の洗礼に荒廃の一途をたどっていった。富裕層たちがいち早く移住した高原の別荘地なども、すでに同じ状況らしい。
 突然、玄関のチャイムが鳴った。ヘルメットをかぶり、鉄パイプを手にした2人の男が立っていた。一瞬、たじろいだが、1人は見覚えのある若い自警団員だった。
「兵藤さん、大丈夫ですか? 大方は制圧しましたが何人かがこの辺りに逃げ込んだようです。鍵を掛け、外には出ないように」
 頬を血に染めた若者が安全を確認し、踵を返そうとした時だった。

 「あっ、手に怪我をしているわ。大丈夫?」

 桜が心配そうに、声を上げた。
 年配の自警団員が、左手を隠しながら振り向いた。生きていれば自分の父ぐらいだろうか。大丈夫ですと言う無理な笑顔に滲む深い哀しみと疲れのあとが、岳の胸を突き上げてきた。桜は、遠慮する男をリビングに招じ入れた。若者は「よろしくお願いします」と言って、数人の仲間と走り去っていった。
 幸い手の甲の傷は浅く、桜は消毒を施し、包帯を巻いた。男がヘルメットを外し、水を一口飲むと、愁いの表情で口を開いた。
「東北がこんなことになるとは思いもしませんでした。忘れもしない2011年3月、太平洋沿岸部に、千年に一度という巨大な地震と津波が襲いかかりました。私が通っていたS市の大学はまだいいほうでしたが、それでも研究施設はすべて破壊されました。ただあの大惨事でも、現在のような略奪や暴行事件はなかった。あのころは助け合って生きて行こうという、日本人の精神文化がまだ残っていたのでしょうか……」
 岳が生まれる前のことであるが、確かに、世界各国から賞賛と驚きの声が上がったと、伝え聞いたことがある。当時は自衛隊や警察が機能していたことは明らかだが、それだけではなかったということが、男の話しから伝わってきた。男は、丁寧にお礼を述べると、去っていった。
「岳、今日はもう会社に行かないで。未来と2人では恐くて――」
「わかった。今日は一緒にいよう」
 岳の脳裏に報告書の期限やアメリカのヘッドオフィスとのテレビ会議が過ぎったが、今にも泣きそうな顔で見上げる未来を見て、それはすぐに打ち消された。
 ロンは未来を守るように寄り添っている。だが耳をピンと立て、「GO!」の一声がかかれば、すぐにでも飛び出さんとするかのように、目は鋭く輝いていた。
 その夜、事態収拾の連絡が入った。この日は、略奪者集団より人数で勝った自警団が彼らを首尾よく制圧したようだ。だが自警団の方も、必死に闘った中年の失業者が二人犠牲になったという悲しい内容だった。 家族は、代わりに闘ってくれた犠牲者に黙とうを捧げ、手当てをした男が無事だったことを祈った。 
「お父さん、恐い人たちはまた来るの?」
 未来が、怯えた声で岳を見上げた。
「大丈夫だ。今度襲ってきた時はお父さんも闘うから心配するな」
 岳の脳裏に、返り血を浴びた自警団の若者や、必死に立ち向かう年老いた人々の顔が浮かんだ。自分は仕事があるという理由だけで、金だけは出すが、体を張って家族のために闘ったことはない。だいたい自分は本当に闘えるのであろうか……。確かに学生時代は空手部に属し、県大会まで行ったことがある。だがそれは、ルールに守られた競技にすぎないのだ。
「岳は仕事があるんだから、無理しないで。いざとなったら私も闘うわ。未来とロンは何としても守らなければ――」
「お前こそ無理しちゃだめだ。彼らもいずれ気がつくはずだ。追い詰められた人間同士がお互いに傷つけ合っても、何の解決にもならないことに」
 岳はそうは言ってみたが、いずれは自分も、飢餓という名の檻の中で、命のやり取りをしなければならない日がくるだろうと思った。ぞっとするような虚しい覚悟だった。
 両親を亡くした後、幸いにして岳は母の実家に引き取られた。優しかった祖父母も、今はこの世にはいない。祖母は、ひがみで固まった岳に、真っすぐに生きろと諭してくれた。自然を愛した祖父は、渓流釣りの極意を教えてくれた。岳が、誰も見向きもしない環境安全の仕事を選び、それを天職だと疑わない性格は、おそらく祖父母から学んだ事が心の奥にあるからだろう。

 翌日、団地内の安全を確認し、岳は会社へと向かった。
 早朝の車窓を、荒廃しつつある町並みが流れていく。桜と知り合った、まだ少しは平和が残っていた時代を、懐かしく思い出した。


 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み