第2話 沈みゆく大地

文字数 12,703文字

 第1章 沈みゆく大地 

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 2031年、岳は東北地方都市のF大学・共生システム理工学類に入学した。多くの国が2030年までに二酸化炭素排出量の半減を目指してきたが、途上国などは逆に増加し、結果は惨たんたるものだった。気候変動による熱波や洪水はさらに勢いを増し、世界に大混乱を巻き起こしていた。だが、岳が地球環境コースを専攻したのは、人類のためなどという大げさなものではなかった。
 少年のころ祖父に教わった釣りが好きな岳は、里山の川の石がぬめり始め、ヤマメが釣れなくなったことに気づいた。山深く分け入った源流も、魚影は薄かった。それは、水温が上昇し、ヤマメやイワナが棲みにくくなったのだと分かった。もう一度、大イワナが川面をジャンプする自然に戻したいという、素朴な動機だった。
 大学4年の後期、カリキュラムの隅で小さく主張している「ガイア文明論」という選択科目に目が留まった。
 同級生が、都市環境デザインや環境経営論などに群がる中、目立たないこの講座に集まったのはわずか7人だった。
 まばらな教室に向って教授が口を開いた。
「私はこの講座で、地球自然と人間の共生を説いてきましたが、残念ながら過剰な開発が温暖化を生み出し、地球は今、人間に逆襲しようとしております。技術革新による環境改善を否定しませんが、これからお話することは、技術力だけでは温暖化を止められないという事実です」

 ガタンと椅子の音がして、2人の学生がドアから出ていった。

 5人が残った。教授は顔色も変えず、穏やかな笑みを浮かべ、一冊の古びた本を出した。表紙にフランス語で「パンセ・著者ブレーズ・パスカル」と書いてある。
「これは私がフランスに留学していた時に、教授から贈っていただいたものです。日本でもぜひ広めてもらいたいと。しかし日本では、耳を傾ける人は誰もいませんでした」
「環境について、どんなことが書いてあるのですか?」
 学生の一人が質問した。
 教授が荒っぽい訳で申しわけないがと、日本語の冊子を配った。
「残念ながら、パンセは環境問題について直接は触れておりません。ただ、これほどまでに人類が持続不可能な開発を進めた原動力となったと思われるデカルトの哲学を、彼は『私はデカルトを許せない』と、デカルトの思想の本質を批判しております」
 岳は、デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉を自分なりに解釈していたが、教授の考えを問うてみた。
「デカルトの思想がなぜ環境破壊につながったと?」
「良い質問です。やはり原点は『我思う、故に我あり』というあの有名な言葉になりますが、彼は著作『方法序説』の中で、合理的理性主義を主張しました。この思想が後に自然破壊へと進んでいったと考えられます」
 1人だけ参加していた女子学生が手を挙げた。
「先生、いま確か理性とおっしゃいましたが、私は感情的な性格なので、母から理性的な人間になりなさいと言われて育ちました。理性がなぜ環境破壊に?」
 皆、小さな笑みを漏らし、女子学生を振り返った。彼女の怒ったような視線とぶつかり、岳は慌てて目をそらした。
「ここでいう理性は日常私たちが使う理性とは少し見方が違い、哲学用語として、そうですね――、一言で言えば科学と解釈してください。わかりますか?」
 教授が5人の顔をぐるりと見渡した。
 全員が何となく理解した様子を見て、教授が続けた。
「デカルトはアニミズムに象徴される森林や川さえも、人間が科学の力で支配できるという物質的自然観を打ち立てたのです」
「でもなぜ急に、ソクラテスから始まる崇高な古代ギリシャ哲学を否定するような思想を持つようになったのでしょうか?」
 女子学生が、新たな疑問の表情を向けた。今度は皆、彼女に驚きと尊敬の目を向けた。なぜか、岳は再び彼女と目が合った。
「人類のターニングポイントとして重要な点ですね。当時の宗教を支えていたのは、ソクラテスからプラトン、アリストテレスへと継承された、信仰を旨とするスコラ哲学でした。デカルトはそれに反旗を翻しました。もちろん、神学者たちからは非難されます。しかしデカルトの思想を歓迎する世界もあったはずです。デカルトが言う理性、先ほども説明したように科学技術は膨大な富を生み出す装置と成り得たのです。デカルトは決して方法序説の中で領土や富の拡大を目論んだわけではありません。国の為政者や貴族は、科学技術が、国家を建設し、それを防衛するための軍事技術に極めて有効なツールとなることに気づいたのだろうと思います」
「デカルトの思想は実学に近いということでしょうか?」
 男子学生の質問は、岳も同じように持った疑問だった。
「いいえ、デカルトも真摯な哲学者であったことは間違いありません。けれどもパスカルは、最後まで神の存在、いわゆる見えないものへの畏怖と洞察を捨てませんでした。それが有名な『パスカルの賭け』ですね」
 岳は、急にひらめいたことを口にした。
「デカルトの思想にパスカルの哲学が融合すれば、温暖化は避けられたと?」
「もしかしたら、という想いはありますね。けれども二十年の差は大きかった。パスカルが世に出たときはすでに、ヨーロッパは産業革命へと進む準備が整っておりました。それでもパスカルはあきらめません。パンセの中で、人間は目の前に絶壁があると知ってもそれを隠す障壁で覆い、自ら盲目の安心を得て絶壁に向うものだと、今も人類に警告し続けているのです」
 受講生たちの深い溜息が、教室内に漂った。教授が続けた。
「『人間は考える葦である』と言ったパスカルの言葉はあまりにも有名です。これは人間の弱さと偉大さを同時に表しております。温暖化は、人間が高度な頭脳を持つが故に引き起こしたものです。しかし、人間の幸福度がGDPに比例し、温暖化はそのGDPに比例するという表裏一体のパラドックスを喝破することは、聖書を書き直すほどに困難です。ただ、11年ほど前、想像を超えるパンデミックが発生しました。いち時はそれが起因となり、世界は憎悪と相克の坩堝と化しました。だが、自らが憎しみの連鎖を断ち切り、真の平和を願う人間がいる限り、神は見捨てませんでした。やがて分断された世界は一丸となり、感染も収束したのです。パスカルは、人間の叡智を信じ、最後まであきらめるなと、時空を超えて語りかけているのです」
 岳は、ここで授業終了のチャイムが鳴ったのを覚えている。

 岳は、大学を卒業すると、地元に誘致された外資系企業・日本デルタに入社した。所属はEHS部門。EHSとは、Environment Health and Safetyの略で、グローバル企業では、各国で抱える地球環境問題と、社員の健康と安全に対処するため専門部隊を擁している。日本ではあまり重要視されない傾向にあるが、アメリカやヨーロッパでは開発部門と同じように活躍の場が開けていた。

 その後、「ガイア文明論」の縁で、一緒に講義を受けた女性と結婚した。海辺の町で育ったという岬桜(みさきさくら)は、大らかな瞳と、水泳で鍛え上げた均整の取れた容姿は学内でも評判だったようだ。
 友人たちだけで挙げた結婚式では、古武士のような風貌の兵藤とは、どうみても釣り合いがとれないと、大いにひやかされたものだ。

 翌年、娘、未来(みく)を授かり、酷暑と闘いながら、月日は流れた。

 仕事も順調に進んでいたある日のこと。一度、列島から逸れた大型台風が、再び相模湾から上陸したという速報が流れていた。
 岳は、娘の誕生日祝いもあり、珍しく会社を定時で切り上げた。
 社屋を一歩出ると、サウナのような熱風がまとわりつく。体温を10℃も上回る気温となった今、「日本列島、ついに40℃超えに突入!」などとニュースが伝えていたころが懐かしい。
 陽炎のような熱気の中に我が家が見えてきた。車を降りる。玄関のわきの犬小屋が揺れた。ロンが、待っていたように飛び出してきた。尻尾を精一杯ふりながら駆け寄ってくる。大きな耳をピンと立て、キツネ顔の優しい目で岳を見上げている。中型犬だが、縄文芝犬の血を引くらしく、引き締まった体は狼を連想させる。愛犬は飼い主に似ると言われるが、ロンを見ていると、さほど背も高くはなく、身軽な自分の分身のような錯覚を覚える。
 暑さのせいか、いつもより舌を長く出し、息遣いが荒い。岳は、痩せてきたロンの背中を優しくさすった。
 地球規模での食料危機が現実のものとなっていた。原因は、農業地帯を頻繁に襲う洪水と干ばつだ。野菜は高騰し、人々は山菜や昆虫を食べるようになった。
 昨年のある日、桜と未来が郊外に食料の昆虫採集に出かけた。その時、ぬいぐるみのような子犬が、ヒューム管の中でか細い声を上げていたという。未来が潜り込んで、やっと手にしたのがロンだ。
 最初はブルドックの赤ちゃんのような顔をしていたが、成長するにつれ、優しさも兼ね備えた精悍な顔となった。顔と腹が真っ白で、頭部から背中にかけてはくっきりとしたきつね色をしている。通常柴犬は巻尾だが、ロンの尻尾は太刀尾と呼ばれ、刀のように緩やかなカーブで天に向かっている。
 ロンの鳴き声で気がついたのか、玄関に桜と未来が出てきた。ロンがパッと身を翻すと、未来の方に駆け寄っていった。夜は一緒に寝ている未来とロンは、一心同体のようだ。
 未来がしゃがんでロンの首をなでながら、岳を見上げた。
「パパ、お帰り! 今日は私も、お母さんとたくさん仕事をしたんだよ」
 無邪気な未来の声で、仕事の疲れがいっぺんに吹き飛んだ。
「え、どんな仕事だい? おっと、その前に、ロンに水をやったほうがいいんじゃないかな」
 岳は、妻に視線を移す。今は、屋外の蛇口はどこでも配管が外されている。深夜に略奪者が盗水する事件が後を絶たないからだ。キッチンの蛇口から、ちょろちょろと出る水もお湯のようだ。
「中でゆっくり話すわ。雨が降ってきそう。未来、ロンのリードをはずして」
 桜が、皮膚を刺すような西日を覆い始めた黒い雲を眺めながら言った。
 暑さは幾分弱まったが、何かの到来を予感させる夕暮れ前のひと時だった。
 その時、上空からオレンジ色の宅配ドローンが降りてきた。
 ドローンが、玄関わきの自動荷受け装置の近くに静止した。巻き起こる生暖かい風が首筋にまとわりつく。レーザー検知装置が点滅し、ボックスの扉が開いた。同時に荷受け台がせり出してくる。ドローンは一通の郵便物を落とし、飛び去っていった。郵便物がボックスに吸い込まれ、扉が閉まった。 
 岳は二人の肩に手を添え、玄関に向かった。ロンは水が飲めることが分かったのか、喜びの尻尾を振りながらついてきた。ドアを開ける。ロンが足元をするりと潜り抜け、最初に家の中に入った。
 ロンは、夜間は家の中で暮らす。
 気温が45℃を超えたあたりから、発汗機能が脆弱な牛や豚が激減し、畜産業は衰退した。水道の水と同じで、裏で精肉工場とつながっていると噂のあるプロの犬猫捕獲者が狙っているからだ。
 桜が、ロンの食器に水を注いだ。ロンが尻尾を振りながら、美味しそうに舌を動かしている。家族のだれもが癒される光景だった。
「ところでさっきの、お母さんと頑張った仕事ってなんだい?」
 岳が二人の顔を交互に見た。水を飲み終え、元気を取り戻したロンも、何かを言いたそうに目を輝かせている。
「今日、実家からポプラの苗が届いたの。お父さん、ポプラの品種改良に成功したんだって。家の周りに10本、それと町内の会長さんにも90本あげて、ロンも一緒に、二人で公園の空き地に植えてきたのよ」
「それは良くやった! それにしてもお義父さんよく頑張ったね。これで低迷していた森林再生が一挙に進むはずだ」
 岳は、桜と未来に、感謝の笑顔を向けた。
 二酸化炭素の排出を抑える最も有効な手段として、世界が選んだ道は再生可能エネルギーへの転換だった。ただ、もう一つ重要なことがあった。あまり知られていないが、二酸化炭素は非常に安定した物質で、すでに大気に累積された二酸化炭素を除去しない限り、温暖化は継続する。内外で様々なテクノロジーが考案されたが、どれも決定的な解決策とは成り得なかった。遅すぎたとは思われるが、世界は確実な方法として、大規模な森林再生に動き出していた。
 大学農学部でバイオエタノールを研究していた義父の研究グループは、政府からの依頼もあり、効率良く二酸化炭素を吸収する樹木改良の課題にも取組んでいた。
 二酸化炭素を最も多く吸収する杉は、吸収率が最大になるまでに30年を要する。それでは遅すぎる。そこで目をつけたのがポプラだ。ポプラは杉の次に吸収率が高く、10年で最大値を示す。だが、生長が早いだけ、炭素の固定密度に難があった。長年研究していた義父のグループが、ついにポプラの品種改良に成功したのだ。ポプラは、砂漠でも植樹が可能だ。これで、温暖化を止めるという夢のような話も、にわかに現実味を帯びてきた。 
 テーブルにつくと、桜が「お待たせ!」と言いながら、久々のキャベツの千切りが添えられたワンプレートの料理を運んできた。テーブルの中央には、ひび割れたコッペパンが3つ並んでいる。
 ロンが、部屋の隅のお皿の前でお座りをし、床の上の尻尾を振りながら、こちらを見ている。
 岳の前に置かれた料理を見て、未来の口元が歪んだ。
 昔は岳の大好きなカツ丼や牛丼が並んだものだが、今はピンからキリまである昆虫料理が定番だ。
「パパ、暑いね――、エアコン、まだ直らないの?」
 未来が、額の汗を拭いながら口を開いた。
「そうだね、修理屋さん、手が回らないらしい」
 気温が、エアコンの外気保障温度を超えたあたりから、家庭のエアコンが機能停止するトラブルが続出した。改良型も開発されたが、恐ろしく高価で、主に業務用として出回っていた。
「ロンもごはんだよ! 今日は大好物よ。元気を出してね」
 桜が、キャベツの芯をロンのサラの中に入れた。ロンは目をキラキラさせ、喜びの尻尾を振っている。体全体で嬉しさを表しているが、鼻を近づけるだけでこちらを窺っている。ロンはいつのころからか、未来が口をつけるのを待ってから、安心したように食べ始めるのだった。
「これ、本日おすすめって言うから、思い切って買ってきた」
 桜が、キャベツの上に鎮座した「おすすめ品」をちらりと見ながら言った。桜の皿には、岳のものより小ぶりのものが載っている。
 それにしてもインドネシアで養殖に成功したというコオロギは巨大だ。日本の可愛らしいコオロギ料理は、今や高級レストランのメニューとなった。けれども岳は、あの切れ目の入ったフランクフルトのようなアフリカ産の芋虫のから揚げから較べれば、まだ食欲はわいてくる。
 未来には特別、好物の蜂の幼虫の炒め物が並んだ。未来が目を輝かせながら皿を見つめている。最初は、蜂の赤ちゃんが可哀そうだと言って泣いていたものだが、かといって大きなバッタを丸飲みにするわけにもいかず、やがて食べられるようになった。
「未来、お誕生日おめでとう。それから、10年間のお勤め、本当にお疲れさま。さあ、温かいうちに食べよぉ!」
 桜が、4歳になった未来に笑顔を向けながら言った。ロンも、祝福の言葉がわかるのか、一緒に二つ吠えた。未来が箸を進めるのを見ると、美味しそうにキャベツの芯を食べ始めた。
 ドローンが運んできたのは、行政が手配した誕生日祝いのメッセージだった。今は少子化が著しく、子供の数が全人口の一割ほどにも満たない。子供は国家の貴重な財産となっている。それにしても、もう少し血の通った祝福の方法はないものだろうか。
「ありがとう、覚えていてくれたんだね。以前は、10年勤続者は表彰され記念品までもらったらしいけど、今は会社もそれどころではない」
 テレビには、神奈川県から東京に向った台風の爪痕が生々しく映し出されていた。屋根が吹き飛んだ住宅に、風雨が容赦なく吹き込んでいる。
 画面が、地盤沈下で住宅地より3メートルも高くなった荒川堤防に移った。人々が、雨具を風にバタつかせながら、増水した荒川河口に向う濁流を、恐怖の表情で見守っている。
 キャスターが、台風は日本海に抜ける見込みで、増水は収まる模様と解説していた。岳はホッとして、茶褐色に光る大きなから揚げに箸をつけた。ずしりと重みのあるコオロギを口元に持っていった時だった。

 画面の異様な光景に釘付けになった。

 橋桁をも呑み込む勢いで流れ去る濁流の向こうから、突然、泥水の壁が競り上がってきた。目を疑うような光景だ。奔流を呑み込みながら迫って来た黒い牙は、見る見る堤防を超え、見物していた人々を呑み込んだ。
 直後に、カメラが流されたのか、惨状がぐるりと回り、画面が真っ暗になった。
 再び、画面いっぱいに、荒川の濁流が商店街を呑み込んでいくドローンの映像が映し出された。
「ついに荒川堤防決壊!」というテロップが目に飛び込んできた。一体何があったのだろう――。
「パパ!」という未来の声にハッとすると、コオロギがテーブルに転がり、脚がばらばらに折れていた。家族全員が箸を握ったまま、想像を絶する映像に、茫然となった。
 いつの間にかロンもテレビの前に来て、画面を食い入るように見つめている。縄文時代から人間と共に生き抜き、オオカミのDNAも色濃く残す柴犬は、生存の危機を察知することができるようだ。
 川の逆流映像は、3・11大震災の津波が押し寄せる状況と酷似していた。だが、地震の兆候はない。岳の脳裏に嫌な予感が走った。
 間もなく、東京湾の水位が異常に上昇しているという速報が入った。カメラが東京湾に移った。にわかに上昇を始めた海面は、波も立てずに膨らみ始め、津波とは違った不気味さを漂わせている。その巨大な海水の塊が、夕日を浴びながら荒川の河口を逆流していく様子が映し出された。ついに海面が上昇したのだ。
「岳、キリバスはどうなったかしら?」
「キリバスはすでに移住を完了している。これはそんなレベルのものじゃない! 世界の沿岸部が大変なことになる――」
 いつにない岳の語気の強さに、未来が泣き出した。
 学生のころ聴いた、キリバス共和国の名誉領事となった日本人の環境講演を思い出した。
「両側を海に囲まれた細長いキリバスは、海面上昇から逃れることができません。次にくるのはどこでしょう――」
 日本の援助を切望する、赤道直下の島しょ国を代表する日本人の予言は的中した。  
 堤防決壊の被害は甚大なものだった。東京都は、約八割が雨水と汚水を一緒に排水する合流式下水道だ。豪雨と海水というダブルの水量は、地下にある雨水貯留施設の能力をはるかに超え、行き場のなくなった汚水はマンホールの蓋を噴き上げる。街は鼻をつくような悪臭が立ち込めているという。
 台風が遠のくにつれ荒川の水位が下がり、やがて溢水は収まった。いち時は2メートルほども膨れ上がった海面は徐々に引き、最終的に1メートルの上昇で落ち着いた。
 海面が1メートル上昇すると海岸線は100メートル接近し、強風で押し寄せる波の高さは3倍の3メートルに達すると言われている。日本経済の中枢を握る大都市の多くは、海抜ゼロメートルから1メートル地帯に集中しており、台風の度に海水が都市部を襲うことになる。汚水の氾濫だけで終わるはずはなかった。
 その夜、9時のニュースで、突然襲いかかった災害の緊急番組が放送された。200百年に1度の豪雨を想定して建設された荒川堤防が決壊したのは、偶然重なった海面上昇が原因との結論が出されていた。
「まず、この急激な海面上昇の原因は何なのでしょうか? いったいこれからどうなるのでしょうか? 世界は――」
 ニュースキャスターが目を丸くして、急遽駆り出されたと思われる環境の専門家たちに発言を促した。岳はその中にGレボのグレッグの姿を見て驚いた。 
 岳が大学生のころ、学内でヨーロッパの環境活動家による温暖化防止講演会が催された。その時の講師がグレッグだ。当時岳は、あまり興味はなかったが、「温暖化は何としても止めなくてはならない、そして必ず止められる」という彼の真摯な考え方に感動し、それ以来たまに情報を交換していた。
 Gレボとは、ドイツを拠点に世界の森林再生を推進する国際環境NGO・グリーンレボリューションの略称で、グレッグが、その代表を務める。地球温暖化問題が顕著になった時、国連は気候変動の科学的根拠を明確にするためIPCC(気候変動に関する政府間パネル)を設立した。IPCCは一貫して、途上国の森林破壊を訴えてきた。グレッグはそれを信じ、温暖化を否定する人々の冷笑をものともせず、たった一人で植樹活動を始めたという。
 まずT大の環境学者が口火を切った。
「グリーンランドの氷床の一部が崩壊したと考えられます。原因は北極から大西洋を縦断しているプレートから生じた地震です。このプレートはグリーンランド沖を南下し、300キロ離れたアイスランドに抜けております。以前からアイスランドでは北極では珍しい地震が伝えられておりました。今回のアイスランド報道では、北側で津波が確認されておりますので、グリーンランド沖の海底でプレート境界型地震が発生したことは間違いありません。グリーンランドの、高さ二千メートルの氷床が融け始めたのはもう40年も前のことです。無数の亀裂が発生し、崩壊するのは時間の問題だった。グリーンランドに到達した地震波は氷床を大きく揺さぶり、亀裂が拡大した。その後襲った津波により、崩壊した氷床が北極海に雪崩れ込んだと思われます。再び地震が発生し、すべての氷床が崩壊すれば海面は7メートル上昇する。世界の沿岸都市は壊滅します。一刻の猶予もないのです」
「何とかならないのでしょうか。都市が崩壊すれば暴動が起きます。このまま指をくわえて見ているしかないのですか?」
 キャスターが色めき立った。
 たまたま会議で来日していたというグレッグが口を開いた。
「実は日本政府から温暖化対策についてGレボに要請が入ったのは二週間前のことでした。異常気象による洪水被害が後を絶たず、このままでは国家の存続に係わると判断したのです。私は、30年近く前、パリ協定が発行されると同時に、日本を始め世界に、今すぐ世界の森林を再生しなければ手遅れになると叫んできました。しかし、本腰を入れる国はどこにもなかった。目の前に本当の危機が突きつけられて、世界もやっと気がついた。残された道は一つ。一刻も早い地球規模の森林再生です。我々に時間はないのです。今すぐにでも官民一体で着手しなければなりません。日本の大学で学ばせていただいたご恩を返すためにも、最大の協力を惜しみません」
 環境省の広報担当者が、厳しい表情を作り割り込んだ。
「我々は、何もしてこなかったわけではない。日本が誇るあらゆる環境テクノロジーを駆使し、世界の二酸化炭素排出量の削減に貢献してきた。再生可能エネルギー比率も、今は50パーセントに達している。日本を始め先進国の二酸化炭素排出量は確実に減っている。しかし、途上国の増加分がそれを打ち消している。我々先進国ではどうしようもない現実だ」
 確かに日本は、省エネや先端技術で世界のエネルギー戦略にイノベーションを起こしてきた。IEA(国際エネルギー機関)の発表では、一時は400億トンと言われたエネルギー起源の二酸化炭素排出量は、現在は半減している。
 グレッグが小さくうなずきながら、口を開いた。
「日本の環境技術は世界の誰もが認めております。ただ、テクノロジーで削減できるのは排出量に限られます。しかし、温暖化に関与しているのは、これまで累積された3兆トンに及ぶ二酸化炭素なのです。たとえ世界の排出量がゼロになったとしても、累積分をなくさない限り、温暖化は何百年と続くのです。今夜、政府の緊急会議の場で、森林再生の具体的な案について話そうと思います。それは想像を絶する計画になりますが、人類に残された最後のチャンスになることは間違いありません」
 グレッグの話に反論する参加者は誰もいなかった。
 日本列島は1メートルの海面上昇で大きく変貌した。砂浜が消えた海岸線がこれほど不気味なものだとは、誰もが予想していなかった。潮の匂いが押し寄せる海面すれすれの建造物が大量に現れた。いよいよ沿岸部生活圏の被害が現実のものとなった。それは世界同時の危機だった。
 翌日の朝、グレッグから、Gレボ会議参加の誘いがあった。
「お久しぶり。今日の夜東京で、日本の仲間とミーティングを開く。兵藤さんも参加してみないか?」 
 岳は午後から会社を休み、品川のGレボ東京オフィスに向った。
 5人の専属スタッフと、全国から20人ほどのアシスタントメンバーが集まっていた。彼らの真剣な自己紹介に、岳は目を見張った。
 林業の最前線で働く若者、最後の人生を賭けようとする鬼気迫る老人、一流企業から抜け出してきたサラリーマン、幼児をあやしながら真剣な目を向ける女性、それに婦人会代表のような眼力を備えた女性。社会のあらゆる階層の人々が、この地球を救おうとする壮絶なオーラを発していた。
 先ずグレッグは、地球が断崖絶壁の危機にあることを説明した。
「今、地球は非常に危険な状態に向かおうとしております。巨大台風は、10メートルの津波と同じ被害をもたらすでしょう。何としても二酸化炭素濃度を下げなければなりません。残された道は森林再生しかない。だが、25年ほど前のパンデミックは多くの犠牲者を出すとともに、辛うじて進んでいた植樹計画を大きく狂わせました。残念ながら目標の半分しか進んでいない。初期には、ダボス会議やGAFAも協力してくれたが、今はそれどころではないようだ」
 あちこちでメンバーの溜息が聞こえた。グレッグが続けた。
「この海面上昇は、世界のリーダーたちにも脅威を与えたことは間違いない。この危機をチャンスと捉え、一刻も早く、世界の国々は森林再生に手を打たなければならないことを訴えていく。幸い先日の会議で首相が、日本は、温暖化抑制の最前線と言われているアマゾン熱帯雨林の再生に全力を尽くすと約束してくれた。あとは日本政府から国連をとおして各国の政府に働きかけることと、Gレボの各国の拠点が、資金調達のキャンペーンを張ることになる」
 日本は国土面積の67パーセントが森林で、すでに植林のスペースは限られている。アマゾンの熱帯雨林消失面積は、ちょうど日本の森林面積の二倍に当たる5千万ヘクタールだ。これまでも日本はこの地に様々な援助をしてきた。
 大学生の出席者から「質問!」という声が上がった。
「もし植林の資金調達が宙に浮き、このまま温暖化が進めばどうなりますか?」
「二つのシナリオが考えられる。一つは、海面が数10メートル上昇し、すべての国は国家機能が失われる。もう一つは、すでに甚大な被害をもたらしている豪雨による水害です。始まりは40年ほど前ですが、原因は海の温暖化による水蒸気の増加です。海から来るか、空から来るか、いずれにしても水害により文明は消滅します」
 会場に張り詰めた空気が流れた。
「状況はよくわかりました」林業機械の企業経営者が口を開いた。「グレッグさんの森林再生計画を詳しく説明していただけませんか」
 グレッグが、大きなディスプレイにデーターを映し出した。
「現在の世界の二酸化炭素排出量はおよそ二百億トン。森林の二酸化炭素吸収量は年間1ヘクタール当たり16トン。12億5千万ヘクタールの森林を再生すれば、この二百億トンを吸収することができます。これを主要五十カ国で割ると二千五百万ヘクタール。ちょうど日本の森林面積に等しい。五十カ国が十年でこの森林再生事業を成し遂げれば、これ以上の温暖化は回避できます」
「それでも現在の状況は続くということですか?」
「そのとおりです。二酸化炭素の半減期は数百年と言われている。産業革命以来累積してきた三兆トンは人類の未来について回ります。但し、再生可能エネルギーが百%になり、二酸化炭素排出量ゼロを実現した時は、復活した森林がこの累積分を吸収し、やがてはもとの地球に戻るでしょう」
 グレッグが、思案の表情を浮かべ、続けた。
「問題は資金です。苗木費用として1国当たり5兆円。その施工費を、土地の補償費も含め、一国当たり年間6千億円を見込んでおります。総工費550兆円、確かに天文学的数値になりますが、世界の軍事費が、トップ5カ国を合わせただけで年間100兆円を超えることを考えれば、実現不可能な数字ではありません。世界が生き残りをかけて一丸となれば、決して荒唐無稽の夢物語ではないのです」
 見るからに疲れ切った表情の女性が、遠慮がちに手を挙げた。
「これだけAIが発達しても、なぜAIは温暖化を止められないのですか?」
「鋭い質問です。AIは理解しているのだと思います。もし適切な判断を下し、人類が物質文明から自然文明へと舵を切りなおした時は、同時に自分たちの終焉が来るということを――」
 会場にどよめきが起こった。女性が、再び口を開いた。
「よくわかりませんが、それでは、現代のクローン技術を使い、二酸化炭素を抑制する人間社会を作っていくことはできないのでしょうか。夫は休みもなく道路工事に駆り出され、熱中症で亡くなりました。真っ先に死ぬのは、炎天下で働く人々なのです――」
「ご主人は確かにお気の毒です。しかし、クローニングを支配する人々が温暖化阻止派とは限りません。もし法の秩序が崩れた場合、むしろ冷酷な兵士の大量生産につながる可能性の方が高い。もしかしたら、遠い未来に、人類進化の過程で見えざる手が働くかもしれません。しかしそれが、人間にとって幸せなのかどうかは、私にはわかりません……」
 会場がシーンとなった。
 グレッグがコップの水に口をつけ、神妙な顔で続けた。
「実はもう一つ重大なシナリオがあります――」
 その時、会場の係員が、予約時間が切れたことを伝えた。
「また皆様とお話しできる機会はあると思います。その時にまたご説明したいと思います」 
 グレッグの話しは中断されたが、力強い言葉で会議を終了した。
「みんな、頼んだよ。日本が受け持つアマゾン熱帯雨林の再生はこのプロジェクトが成功するかどうかの鍵です。一緒に頑張ろう!」
 グレッグは大きな手で、出席者全員と握手を交わすと、あの人懐っこい笑顔を残し去って行った。
 岳は帰りの新幹線で、女性が言った、クローン技術の利用という驚くべき発想を思い出していた。さすがにそれはタブーだとしても、グレッグが触れていた、「進化の見えざる手」という言葉が、なぜか脳裏の片隅に残った。
 明日からの過酷な仕事に備え、岳はシートに身をゆだねた。
 闇に包まれた車窓を見ていると、ふと思い出した。グレッグが最後に言い残した重大なシナリオとは何だったのだろう? もし自分が考えていたケースと同じだったとしたら、温暖化どころの話ではない――。
 急に疲れが襲ってきた。今日は、もう考えるのはよそう。目を閉じると、家族の姿が脳裏に浮かんできた。やがて、眠りに落ちた。

 その後も、気候変動の脅威は容赦なく押し寄せてきた。両極の氷は滴るほどに融け、太陽光による熱膨張で、海面の上昇が加速していった。

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