第5話 サバイバル

文字数 29,734文字

 第4章 サバイバル

 1

 西の空がオレンジ色に染まるころ、二人はK市にたどり着いた。心配なのはロンのことだった。ロンの鳴き声で、急に茜の記憶が戻ることも考えられる。
 歩きながら、それとなく訊いてみる。
「私は、犬を飼っているんだ。茜は犬が好きかい?」
「犬……、ううん、わからない」
 茜が、目をくりくりさせながら顔を振った。だが、その目がなぜか輝き始め、岳はドキッとした。
 ついに我が家に着いた。何も変わらない。住んでいた家族だけが、大きく変わった。
「ここが私の家だ――」
 岳はそれとなく、茜の反応をうかがった。
「奇麗なお家ね! 私、一度でいいからこんな家に住んでみたかったんだ」
 岳は愕然としたが、内心はホッとした。ただ、ロンが目の前に現れたらどうなるだろう。それが一番心配だ。
「ちょっとここで待っていてくれないか。家の中は荒れ放題だ。すぐに掃除をして、茜の部屋も準備するからね」
 玄関のドアをそっと開ける。不思議だ。ロンの気配がない。食べ物が尽きて、餓死してしまったのだろうか。
 リビングの隅の、ロンの段ボールハウスにそっと近づく。未来が作った、赤い屋根まである立派なものだ。あれっ、ロンがいない。用意した食べ物はすべてなくなっている。だが、たった今までそこにいたような、温もりを感じる。
 家じゅうを探し回る。台所、浴室、トイレ、押し入れまで覗いたが、どこにもいない。再びリビングに戻った時だった。出窓の隅で、何かが動いた。痩せこけてうずくまる、変わり果てたロンだった。吊り上がり気味の目は力なく下がり、尻尾に動きはない。余りにも寂しい思いをしたのか、コミュニケーションが取れなくなってしまったようだ。
 そっと近づく。怯えた目に、微かな温もりが戻ってきた。だが、前脚が震え、立つことができないようだ。そっと抱き上げる。あまりの軽さに、涙が込み上げてきた。毛並みの艶が失せ、指にあばら骨を感じる。段ボールハウスの入口に静かに置くと、懐かしそうに中に入り、顔をこちらに向けた。クウッという安心した鳴き声を上げ、わずかに尻尾を動かすのが見えた。
 急に食べ物は無理だろう。岳はロンの水飲み器に半分ほど水を注ぎ、入り口に置いた。ロンの目に、やっと生きようとする光が差してきた。水に舌を伸ばすのを確認し、次の作業に入った。
 家族の写真などを見つけて記憶が戻れば、茜は発狂するに違いない。記憶喪失というのはおそらく、そういう重大な状況に陥らないための自己防衛なのだろう。岳は、家族の写真をすべてかき集めた。
 次に、二階の未来の部屋に駆け上り、マグカップやストラップを付けたリュックなど、未来が愛用していた物をすべて段ボール箱にまとめ、写真と一緒に屋根裏に押し込んだ。
 ふと見ると、机の端に、篠笛とその横に家族三人が写った写真が立てかけてあった。岳は涙を堪え、この一枚の写真だけを、身に着けた。
 茜は、それがロンとは気づかずに、優しく抱き上げた。ロンは喜び、痩せた尻尾を精一杯振っている。ロンの嬉しそうな目は、未来に再会できた喜びに違いなかった。
「この犬、名前はなんていうの? なんか、私にすごくなついてくれて嬉しい」
「ロンというんだ。家族の一員として、面倒見てやってくれないか。ロン、新しい家族だよ。名前は茜だ。仲良くやってね」
 ロンが、「ワン!」と、やっといつもの鳴き声を上げた。
 その夜は、残っていた、まだ食べられそうな食料をテーブルに並べ、ささやかな夕食を囲んだ。ロンは、干からびたキャベツの芯を前にして、目にいつもの輝きを見せた。茜は、未来が好きだったアスパラの瓶詰を、珍しそうに食べていた。
 岳の体力は限界を超えていた。頭部の傷が膿み出したが、病院は瀕死の重傷者や、熱中症の患者でごったがえし、どこもパンク状態だった。珍しく開いていた街外れの薬局で、消毒剤や化膿止め軟膏を買い込み、自宅療養を余儀なくされた。
 茜は、元々自分の部屋である、二階の未来の部屋で安心したように暮らし始めた。ロンはそれが当たり前のように、夜は茜の布団に潜り込んで眠った。茜も、やっと心が通う友達ができた安堵か、表情にも未来を思い出させる無邪気さが戻ってきた。
 びっくりしたのは、茜が、未来が愛用していた篠笛を吹き始めたことだ。桜が、自分が使っていたものを未来に与え、先生の代わりに教えていた。だが、茜が奏でる笛の音は、これまで聴いたことがない旋律だった。本人も、どこで覚えたのか分からないという。まるで誰かが、笛に乗り移って奏でるような、時空を超えた世界に誘う、幻想的な旋律だった。 
 すでに冬は死語となり、三月に入ると北海道でも四十五℃を超え、東京、大阪、名古屋の三大都市圏の内陸部では五十℃に達した。このままでは真夏には国内全域が五十五℃を超える勢いだ。
 桜が植えた10本のポプラは、近くの電柱ほどの高さになり、家族を優しく見下ろしている。その下に、形見の髪を埋めた、目立たなく石を置いただけの、桜のお墓がある。
 桜が亡くなった時は、温暖化などはどうでもいいと思ったものだ。けれども、活き活きと育ったポプラを眺めていると「あきらめないで」と、どこからか妻の声が聞こえてくる。岳は、雨水を溜めては木の根に水をやった。一途に温暖化に立ち向かい、最後は咽を涸らして旅立った妻が、美味しいと言って微笑む顔が脳裏に浮かんだ。
 頭部の傷が完治し、体力が回復するのに一年近くかかった。岳は自給自足の態勢を固めるために、畑作りを始めた。
 汗だくになり、鍬で土を起こしている時だった。茜がベランダから声をかけてきた。
「岳、これから、地球温暖化の特集番組が始まるよ」
 世界の植林活動が本格化してから二十年ほどが経っていた。効果がそろそろ現れてもいいころだった。
だが、番組の内容は期待を残酷に裏切った。北アフリカや中東は、火焔のような熱波が襲い、温暖化というより地球過熱化というべき状況だ。海面が上昇し、油膜でぎらつく波の上にそびえる上海やドバイの高層ビルは、まるで文明の墓場のような残酷を曝している。
 沿岸都市からやっと難民キャンプにたどり着いた人々も、熱帯から放たれた蚊がもたらしたマラリアやデング熱の餌食となり、生きる屍となった。
 日本全域に建設された1メートルの防潮堤はすでに海に沈んでいる。すべての川は高潮の度に海水が逆流し、都市は、腐敗した魚や海藻の生臭い臭いで埋め尽くされている。太平洋の波に呑み込まれた東京では、倒壊した建物の残骸や家具が、ビルの谷間で行き場所もなく漂流している。
 病人や老人などの弱者たちが熱中症や衰弱で命を失い、日本各地の死体安置所は夥しい数の骸で埋め尽くされている。社会インフラを支えていた労働力も弱体化し、このままでは、生き残った富裕層もただ死を待つだけの存在となるだろうと、ニュースキャスターが喚き立てていた。 
 国立環境研究所の主任研究員、急遽依頼があったという海洋研究者、それになぜか国立感染症研究所の研究員がテーブルにつき、本題に入った。
 キャスターが切り出した。
「産業活動も軍需意外は停滞し、自動車も、動いているのは自衛隊の車両ぐらい。世界の二酸化炭素排出量は激減しております。それに森林が復活し、累積された二酸化炭素も確実に減っている。なぜ温暖化は止まらないのでしょうか?」
 いかにも洋上から駆けつけたという雰囲気の、真っ黒く日焼けした海洋研究者が口を開いた。
「シベリアの永久凍土からメタンの放出が発見されたのは九十年も前の事です。メタンは二酸化炭素の二十五倍の温暖化効果がある。だがこれはカウントされない温室効果ガスです。その後、三十年ほど前には、アイスランドの融けた氷河から大量のメタンガスが発見されました。もちろんこれもカウントされません。同じ状況が地球上の広範囲で起きております」
 海洋学者は、ここまでは序章ですと前置きし、驚くべきことを話し始めた。それは、岳も恐れていた、海洋が持つ最大の恐怖。海底に眠っているメタンハイドレートの脅威だった。人類に突きつけられた最後のパンドラの箱かもしれない。
「すでに北極の温暖化は海底に達し、東シベリア近海ではメタンハイドレートの分解が始まっているのはご承知のとおりです。ただし、分解したメタンの大半は海水が吸収するので大きな問題にはならない。ところが半年ほど前、以前からメタンハイドレートに群がるベニズワイガニで有名な富山湾で、海が真っ赤になるほどベニズワイガニが発生しました。すぐに学者が調査に入ったところ、海底から膨大なメタンハイドレートの粒子が立ち昇っているのを発見したのです。直系百メートルほどの粒子の柱がマリーンスノウから数え切れないほど立ち昇っている。これは、砂れき層の下で眠っていたメタンガスが温度上昇により浮上し、マリーンスノウから出現すると同時に水圧によりメタンハイドレートに変化する。海水に吸収されることなく海面まで浮上したメタンハイドレートは、メタンガスとなって大気に拡散します」
 海洋学者が、薄暗い深海で、ライトがとらえた映像を紹介した。
「これは三重、愛知県沖東部南海トラフの水深千メートルの海溝に眠るメタンハイドレートの姿です。このまま海洋の温暖化が加速されれば、世界有数の埋蔵地帯である日本近海のメタンハイドレートが崩壊することは間違いありません」
 ニュースキャスターの顔色が変わった。
「その崩壊までは、どのぐらいの余裕があるのですか?」
「その前に、海水の温度について少々。海面表層はすでに33℃まで上昇しておりますが、2千メートルの深海には、1℃前後という手の切れるような冷たい水が広がっております。これはなぜか。北極の凍結寸前の海水が、深海へと沈み込むからです。そしてメタンハイドレートは、この極低温と水圧により安定しておりました。それが、海洋大循環が減速し始めてから、深海温度が徐々に上昇してきたのです。聖域と言われた南極の海底にも蟹が棲みつくようになりました。このまま海の温暖化が進み、海底の温度上昇が3℃を超えた場合、ほぼ無尽蔵と言われる海底のメタンハイドレートの崩壊が始まる。メタンは10数年で分解し、二酸化炭素となる。人類は窒息死という最悪の局面に遭遇する。私の調査研究結果では、すでにこの悪魔のサイクルは始まっているということを示しております」
 海洋研究者の表情には、わずかな逡巡も見られなかった。
 岳は、深海のメタンハイドレートが崩壊するか、森林の復活が海洋の温暖化を止めるか、まさに人類が滅亡の岐路に立たされていることを肝に銘じた。おそらく、グレッグが最後に言いたかったことは、このことだったのではないだろうか……。
「最後に国立感染症研究所から、シベリアで起きている異様な状況を説明していただきます」
 残り時間5分という中で、キャスターが早口で紹介した。
「融解が進むシベリアの永久凍土から、3万年前の巨大ウイルスが発見されたのはもう何十年も前の事です。そして今、北極圏で非常に致死率が高い感染症が広がりつつあります。すでにCDCも解体され、日本の感染研も間もなく閉鎖されます。これ以上の情報を提供することはできませんが、これから予想されることは――」
 ここで、ちょうど番組は終了となった。スタジオも、それどころではないという雰囲気が支配していた。茜がポツリと口を開いた。
「大昔の伝染病みたいに、顔が誰だか分からなくなって死ぬのって、茜、嫌だなぁ……」
 茜は何かの本で、天然痘のことを知っていたのかもしれない。これまで誰も気がつかなかったが、もしかしたら感染症も、温暖化が引き起こす重大災害の一つかもしれない。

 K市も、街はじわじわと暴力と破壊の様相を見せ始めていた。
 岳は毎週のようにM県警窓口に電話し、妻と義母の殺害事件の犯人とS市に本拠を持つギャング団の関係を伝えるも、「しばらくお待ちください」のオーム返しだった。凶悪犯罪多発による治安崩壊が起きていることは明らかだった。
 岳は、巨大な悪の組織に独りで挑まなければならないことを覚悟した。茜を守り、妻の恨みを晴らすには、本当の暴力に対抗できる力が急務だと悟った。
 あの時、自分がもう少し強ければ……と、桜を助けられなかった悔しさは日を追うごとに募っていく。岳は生き方を大きく変える決心をした。いつでも命のやり取りができる精神力を備え、闘える体に鍛え上げる。自分と家族のための、本当の人間のサバイバルが始まるのだと胸に刻んだ。 
 まだ手に入るどこかの国の芋と、やっとかすみ網で獲ったすずめの焼き鳥で、二人は夕食を終えた。岳は茜の目を真っすぐに見て、口を開いた。
「茜、少し話がしたいのだけど、いいかな?」
 茜は黙ってうなずいた。ロンも、好物の芋を食べ終わると、茜に寄り添い、聞き耳を立てた。
「この街も、茜と出会ったあの廃墟の街と同じになるのは時間の問題だ。自分の身を守り、食料も自分で確保しなければならなくなるだろう。茜は女の子だけど、無法地帯ではそれが災いとなる……分かるな。明日から、おまえを男の子として育てたいと思っている。食料を得るために、狩猟や釣りなども教えなければならない。私に万一のことがあっても、一人で生き延びられるよう、闘う訓練も必要だ。だが学校に行っていれば、茜はまだ中学一年生だ。私が先生になって学習も継続しよう。どうだ、わかってくれるかな」
 岳は、一つ一つ噛み砕くように話した。茜はじっと岳の目を見ていた。微妙な歳に差しかかる茜にとって、男の子になるということは、よほどショックに違いない。
 小学校はすでに全面閉鎖となり、中学校も高校入試を控える三年生を対象に継続されていた。それも閉鎖に追い込まれるのは時間の問題だ。高校だけは、熱心な教師を中心に授業が継続されていたが、女子生徒の姿はなかった。
 警察機能がこれほど脆弱なものだったとは誰もが信じられなかった。だが、それは当たり前のことだ。警察官の配置は、平和なころの、その町の人口や事件発生等の治安情勢を勘案して決定される。穏やかだったこの町でさえも殺人事件が毎日のように発生する今、日本全土で警察官の絶対数が足りなかった。
 さらに警察官は、真っ先にギャングたちの餌食となった。唯一武力を持つ自衛隊も、日本全域の海面上昇による被害の復旧作業に駆り出され、頼ることができなかった。もっとも恐ろしいことは、この沿岸部から始まった略奪と暴力は、世界の全域で、同時に進行しているということだ。
「わかった。私、岳の言うことを聞いて強い人間になる!」
 茜は丸い目をくりくりさせながら、口を一文字に引き締めた。
「よぉーし、それじゃ明日から一緒に頑張ろう!」 
 岳は茜の肩を、優しく叩いた。ロンも、尻尾を元気に振りながら「わん!」と、ひと声吠えた。きっと二人の話を理解したのだろう。
 茜は今でも、過去の記憶はまったくないようだ。ただ夜中に、悪夢にうなされながら、「やめてー!」という悲痛な叫び声を上げたことがあった。やはりあの忌わしい記憶が、心の奥底に潜んでいるのだろうと思った。
 岳は茜のための学習プログラムを作り、午前中を学習の時間に当てた。いつかまた、世界の国々とコミュニケーションを持つ時代がくるかもしれないと、英語も教えた。
 家の周りの空き地を耕し、野菜作りを始めた。見よう見まねで施肥と苗植えをしてみたが、農業がこれほど難しいものとは思わなかった。それでも、農協がタイから輸入したという毒のないキャッサバ芋の苗木を手に入れ、収穫期に土の中から塊となって顔を出した時は二人で歓声を上げた。もちろん、ロンも喜んだことは言うまでもない。今では、家の周りはすべてキャッサバ芋畑になり、貴重な主食となった。茹でた芋で飢えを凌ぐことはできたが、たんぱく質がいつも不足していた。まだ郊外の鶏卵工場が細々と操業しているので卵は口にすることができたが、目が飛び出るほど高価になった。病気や疲れた時の、薬の代用のようなものとなった。
 茜は岳の指導によくついてきた。だが、毎日の勉強と空手の練習に疲れるのか、夜は部屋の隅で、一人で本を読むことが多くなった。あの篠笛の不思議なメロディーも聴かなくなった。
 すでに豚肉や魚の流通はなく、カエルの蒸し焼きや草むらを這う昆虫の炒め物が夕食のご馳走だった。徐々に茜の笑顔が少なくなってきた。
 その日岳は、偶然畑の土から顔を出したモグラをつかまえた。体の割には手が大きく、人間のように五本の長い指があった。殺すのは可哀想だったが、育ち盛りの茜にはどうしても必要な蛋白源だった。自分はそのまま焼いても食べられそうだったが、肉だけを切り取ることにした。長い尻尾があればネズミと変わらないモグラの解体は、自然と眉間に皺が寄るのがわかった。
 夕食のテーブルを見るとすぐに、茜が口を開いた。
「あれ、めずらしいね。これ、何の肉?」
 岳は一瞬、返答に詰まった。心にもないことが口を突いた。
「何でもいい。黙って食べなさい!」
 ロンが、ビクッと反応した。気まずい空気がテーブルを覆った。
 それを打ち壊すように、茜がキッとした目で口を開いた。
「私、もう何でも気にしないよ。ネズミだってヘビだって」
 岳は、噛み砕いていたモグラの骨を、思わず噴き出しそうになった。

 茜が、急に悲しそうな顔になり、続けた。

「昨日、ロンと一緒におばあちゃんの家に遊びに行ったら、猫の姿が見えなかった。お庭で、煙が上がっていた。行ってみると、おじいちゃんと二人で泣きながら、何かを焼いていた……」
 近くに、老夫婦が住んでおり、二人が可愛がっていた猫を見に行くのが、茜とロンの楽しみの一つだった。
「この暑さだ、きっと飼い猫が死んで、天国に送っていたんだよ」
「そうか、そうだよね……」
 岳もそう信じたかった。二人は、ただ黙々と、口を動かした。
 突然、茜が沈黙を破るように声を上げた。
「前に、魚釣りを教えてくれるって言ってたけど、いついくの? 茜、お魚も食べてみたいなぁ」
 岳は驚いた。この暑さで渓流釣りのことはすっかり忘れていた。源流まで行けば、まだイワナがいるかもしれない。
「よぉーし、明日、いっしょに魚釣りに行ってみよう」 
「え、本当、嬉しい!」
 沈んでいた茜の顔がパッと輝いた。それまで部屋の隅でうずくまっていたロンも、尻尾を振って駆けてきた。
 夕食後、岳はさっそく、釣竿の手入れにかかった。 
 二人は久々に、ワクワクする気持ちを抱きながら、眠りについた。

 2

 東の空がうっすらと白み始めたころ、岳はガレージの物々交換でやっと手に入れた250CCバイクの後ろに茜を乗せ、まだ静まり返っている街を後にした。ロンは可哀そうだったが、熊の標的になるので、家に残してきた。
 K市郊外の北東には磐梯朝日国立公園が広がり、標高1800メートル級の高い山々がそびえている。岳が少年のころは、里山を流れる清流でもヤマメが釣れた。周辺は山菜の宝庫ともいわれていたが、今は遠く他県からも入山し、タラの芽や山ウドは根こそぎ採り尽くされていた。目指すは、イワナが棲んでいるかもしれない、奥深い源流だ。 
 早朝の山岳へと続く道路は、農家の小型トラックだけが時おりすれ違うだけで、閑散としていた。
 沿道には成長途上のポプラ並木が続き、里山へと続く休耕地は若い杉林で埋め尽くされていた。グレッグの後を継いだGレボの代表によると、日本でも、5人の成功者が、合わせて10兆円を植樹活動に寄付した。半分は日本政府を通し、アマゾンの熱帯雨林再生に利用されたという。せめてもう5年早ければという想いもあるが、その英断に感謝し、一刻も早く温暖化が収まることを祈るしかない。
 バイクは、山々の静けさの底を揺さぶるような排気音を残し、徐々に勾配を増す道路を進んでいった。以前はこの辺りでも魚影が見られたが、温暖化が進むにつれ、イワナは姿を消した。
 山の中腹あたりでも、季節を問わず街中とは5℃の温度差があり、涼しい風が顔をかすめていく。まだ4月だというのに、むせ返るような街の熱気とは違い、ひんやりとして澄んだ空気は気持ちがいい。後ろの茜も、遠い記憶に山の景色が残っているのか、気持ち良さそうに、流れていく山々の風景に見とれている。
 山間を縫って峠へと続く道路を一時間ほど登っていくと、大物のイワナが棲む源流地帯に着く。以前は夏でも枯葉で覆われた雪がところどころに残っていたものだが、今は北側の尾根でさえも雪が積もった形跡はない。渓流の釣りは難しく、飢餓となった今でも釣り人の姿はなかった。
「さあ着いたよ。ここから山に入ってみよう」 
 岳は、家族で一度来たことのある、道路の右側の、渓谷を望める小さな駐車場にバイクを停めた。
 二人は、自然木の形をした鉄製の手摺りにつかまり、はるか下の、川が岩を舐めるように流れている光景を覗き見た。少し上流には橋があり、道路の左側に連なる深い山間から流れてくる支流が、心地良い音をたて本流へと流れ落ちている。
 駐車場の脇には、あちこち塗装が剥げ落ちた大きな山岳地図が建てられており、横には一休みにちょうどいい平たい岩があった。
「先ずはここで朝ごはんだ」 
 二人は、その岩に腰をかけ、途中のコンビニで買ったおにぎりとゆで卵の袋を開けた。
「わぁーい、嬉しい、お米のおにぎりだ!」 
 茜は味噌焼きおにぎりを両手で持つと、白い歯を輝かせた。
 コンビニはほとんどがギャングに乗っ取られていたが、暴力に対抗できるスタッフを揃え、維持している店もあった。今日の店も、屈強な若者たちが警備をする中で、大勢の客が詰めかけていた。米の流通は富裕層のための闇ルートに限られ、今やコンビニのおにぎりは、高価ではあるが人々の命をつなぐ貴重な食料となっていた。
 二人は、味噌焼きと醤油焼きの二つのおにぎりを、笑顔を交わしながらほおばった。何ヶ月ぶりのご馳走だった。
 鳥の声が聴こえる渓谷の中で、遠くの稜線が明るく輝き始めるのを眺めていると、一緒に山を歩いた、未来を背負った桜のことを思い出した。胸に突き上げてくる熱いものを、岳はおにぎりと一緒に飲み込んだ。
「今日はあの支流と本流の合流点を攻めてみよう」 
 流れが合流する場所は餌も豊富で、釣果が期待できた。今日の釣は以前の趣味ではない。岳は、体の芯から漁師になったような感覚が湧き上がってくるのを覚えた。
 岳は、二人の釣道具一式を入れたリュックを担ぐと、茜の手を取り、一歩一歩深い谷に沿って降りて行った。
「いいか茜、私の手をしっかり握っているんだ。離したらだめだよ。それと空いた手で細い木をつかみながら体重を支えるんだ」
 山で遭難するのは、ほとんどが急斜面を降りる時だ。足を滑らせ尻もちをつき、両手がフリーになったら最後、まず助からない。そのまま谷底まで真っ逆さまだ。
 茜の手指から、少女のものとは思えない力が伝わってきた。毎日励む空手の練習で、全身がバネのように鍛えられていた。
 そこは、今は他県から来るプロの釣師もいないらしく、人間が移動した形跡はなかった。
 体をすっぽりと隠す鬱蒼とした濃い緑の中は、ブナの幹から湧き出す樹液の匂いや、地盤や草木から発散する湿った空気が漂い、まるで地球の胎内に踏み込んだような錯覚を覚える。ここに来ると、地球も一つの生命体なのだということがよく理解できる。
 文明のころ、自分も人を蹴落としながら、無機質な階段を昇り詰めた。せめてその途中で、人々がこの大自然を振り返る優しさがあったなら、後戻りができないほどの環境破壊は起きなかったのではないかと、虚しい思いが過ぎった。
 二人は斜面を、一歩一歩注意深く降りていく。自分の手には大きすぎる軍手で大自然と格闘している茜の顔に、木漏れ日が青葉の雫と同じ光りを映し出していた。
 薄暗い樹林の間を抜けると、急に視界が開け、勢いよく水が走る音が聞こえてきた。
 渓谷の透明な日差しが、岩間で跳ねる真っ白い水しぶきに、まばゆく反射している。
「わぁーきれい! 気持ちいいね」 
 川原に出てほっとした茜が、両手を突き上げ、真っ白い歯を見せている。岳は、青空を切り取るような渓谷の中できらきらと輝く茜を見て、この子なら立派にサバイバルの狩猟生活に立ち向かっていけると確信した。
 猟師になった気持ちで山々を見渡すと、美しい渓谷の様々な音や匂いの中にも、野生の脅威が漂ってくる。岳は足元からふつふつと、狩猟本能が湧き上がってくるのを覚えた。 
 岳は茜と一緒に川岸の大きな岩陰に腰をおろし、釣の準備を始めた。
 茜は目を丸くして、岳が広げた様々な釣道具を見つめている。
 不意にその目が、岩に続く砂地の一点に釘付けになった。
 岳は、その視線の先を見て一瞬緊張が走った。砂地にくっきりと残った鋭い爪跡は明らかに熊のものだ。
「茜、よく見つけたね! この辺りは月の輪熊の生息地帯だ。珍しいことではないが、気をつけたほうがいい」
「でも岳、あの足跡小さいよ。可愛い小熊さんじゃない?」
「そ、そのとおりだけど、水を飲む小熊を近くで親熊が見守っていたということだ」
 茜は納得したようにうなずいた。岳は、まだ少女の茜から、小熊が可愛いという素直な気持ちを奪ったことに胸が痛んだ。
「最初は毛ばりでやってみよう」
 岳は50本ほど入っている透明な毛ばりセットの容器を取り出した。
「わぁー、きれい! 虫の標本みたいだね」
 茜が、目を皿のようにして喜んでいる。
 確かに白、黒、黄、茶など様々な色の虫に似せて作った毛ばりは、一見本当の羽虫に見える。
「それじゃイワナと毛ばりについて説明しよう」
 茜が興味深そうな目を向けた。
「イワナはヤマメやハヤと違い、魚の形をした獣と考えたほうがいい。事実、大きなイワナはねずみや蛇まで食べる」
「えー、うっそー!」
 輝いていた茜の顔が、恐怖に歪んだ。
「渓流の主をその目で見れば、茜も納得するさ。今日はそれを狙ってきたんだ。今から怖がっていてはだめだよ」
 岳は、柔らかい眼差しで続けた。
「もう一つ、イワナだけが持つ得意技がある。イワナはサケと同じで、水量さえあればかなり大きな滝も遡ることができる。もし泳ぎ切るほどの水量がない場合、イワナは途中の岩場から岩場へと器用によじ登り、滝の上流に到達することができる。イワナはこのすぐれた運動能力によって、大昔から生き続けてきたんだ」
「へぇー、イワナって面白いお魚なのね、どうして上流へと上っていくの?」 
「一つは、棲息の条件である15℃以下の冷たい水を求め上流を目指すということ。もう一つは、私たち人間が追い詰めたのかもしれない。温暖化で水温が上がったこともあるし、開発で自然環境が破壊された。その結果、イワナは川の獣と化し、自然が残る渓谷の奥へ奥へと遡上したんだと思う」
「そうなんだ……。イワナも生き延びるために大変なんだね。縄文時代にも人間はイワナを獲って暮らしていたのかな?」 
 茜は小首を傾げ、古代に想いを馳せているようだ。
「そのとおり、縄文時代は稲作漁労文明といって、お米を作って魚を獲って暮らしていた。そのころは川の水量も多く、魚もたくさん獲れたはずだ――」 
 そこまで言って岳は、縄文時代より過酷な現在の日々に、身震いした。
「次は毛ばりについて説明するよ。毛ばりは鳥の羽根で作られており、軽く撥水性があるため水面に浮く。毛ばり釣りはこの性質を利用し、あたかも水面を飛び交う羽虫が誤って着水してしまうという動きを作ってやるんだ。川面を虫が飛び交う季節は水中からイワナがそれを狙っている。最初に一番大きなのが飛びついてくるのは人間の世界と同じかもね。ラインと呼ぶ釣り糸も普通と違うんだ。見てごらん、先の方ほど細くなっているだろ。毛ばりを遠く正確に飛ばすために、カウボーイが使うムチのようになっているんだ」
 岳は、馬の尻尾を寄り合わせて作ったテーパーラインを見せた。
「へぇー、毛ばりって、学校のお勉強みたい」
 茜は細い腕を組み、目を白黒させた。
「実際にやってみるのが一番だ。よく見ているんだよ」
 岳は、真っ白い羽根で作った毛ばりを、ラインに結びつけた。
「わぁ、本当の虫みたいだけど、大きな針が見えているのね」 
 茜は、羽虫の尻から覗く黒い大きな針が気になるようだ。
「ラインもそうだけど、水と同化して、意外とイワナからは見えないんだ。その代わり人の影には敏感だ。一度気づかれると、まる1日は出てこない」

 3

 岳は、サバンナで豹が獲物を狙うときのように、岩陰をつたい、渓谷の緑を写す流れに近づいた。茜もそれに続く。人が近づかない渓流はイワナがどこに潜んでいるかわからない。川岸のごつごつした石の間のたまり水のようなところに、尺ものが黒い背を見せ休んでいることもある。
 腰を屈め、岩陰を注意深く、上流へと進んで行く。切り立った崖を左に曲がると、砕け散る水の音とともに、高さ10メートルほどの滝が見えてきた。見上げる滝口は眼下に迫ってくるような水量を持ち、その流れは一直線に滝壺へと落下している。滝壺は相当深いらしく、落ち込みに広がる白い泡立ちの周りは暗く淀み、深淵の凄みを見せていた。
 二人はやっと滝の左手に連なる大きな二つの岩の陰にたどり着いた。ここからは滝壺に棲むイワナに気づかれることなく、竿を繰り出すことができる。
 岳は対岸の、木々の葉が陽光を遮る暗い水面を凝視した。滝壺の底から湧き上がるような水流が、岩の窪みで渦を巻き、川面の白い泡もゆっくりと回転している。異物のような泡が、その下で息づく主の存在を隠すように。
 岳は右側面から水平に、その泡を狙って毛ばりを打った。毛ばりは水面と垂れ下がる樹木の葉のわずかな空間を走り、まるで生きた羽虫のように舞いながら渦の中心に着水した。

 と、数秒の間があったか。

 水面下で魚体のにぶい光が揺らめき、そのまま反転し毛ばりに向かう姿を、岳はとらえた。
 イワナが疑似餌を吐き出すタイミングはコンマ2秒。反射的に右方向に竿を合わせる。強い衝撃が右腕に走った。一瞬、魚体の全貌を水面近くに見せた魚は、そのまま滝壺の底へと吸い込まれていった。竿が弓なりにきしみ、穂先が水中に引き込まれる。片手では追いつかず、両手で必死に竿を立てる。茜も何かを叫びながら、いつの間にか岳の腕に小さな手を添え、力を込めていた。
 わずか5分が1時間ほどに感じる格闘の末に、姿を見せた魚は50センチほどの大イワナだった。このぐらいになると渓流竿で水中から抜き上げることは不可能だ。持ってきたタモ網も小さすぎる。竿を立てながら下流の河原へと引きずり上げてくる。浅瀬に現れた、黒光りのする背の一面に浮かぶ白い斑点が、滝壺の主の威厳を見せつけている。
 茜は大きな石の間を暴れ回るイワナの、あまりの獰猛な形相に悲鳴を上げて後退さった。肉食魚の口は、ネズミ一匹ぐらい軽く呑み込めるほどに大きい。
 岳は素早く魚体を押さえつけると、足元から石を拾い上げ、頭部を狙った。乾いた石が赤く染まっていく。哀しさを帯びた茜の悲鳴が胸を刺す。イワナは全身を痙攣させ、動かなくなった。岳は血に染まった手と石を流れですすいだ。
 岳はこの残酷な行為を、茜には見せたくなかった。お魚さんが可哀想そうだと泣きじゃくる茜に、岳は優しく語りかけた。
「猟師は、食べるために生き物を殺すことを『しめる』と言って、とても重要なことなんだ。獲物の鮮度を保ち、残らず食べることによって、殺生の罪は許されると考えられている」
「でも茜、赤い血を見ると何かドキドキして怖いの……」
 岳はハッとした。赤い血が怖いと言うのは、あの時の忌まわしい記憶に違いなかった。すぐに、話題を変えた。
 岳は、腰からマキリを取り出した。
「変わったナイフだね。その紐、どうしてつけてるの?」
 刃より木柄の方が長いナイフを、茜が珍しそうに見つめた。目に、もう涙はなかった。
「ああ、これは元々海の漁師が使うものなんだ。海で落しても沈まないようにできている。でも、川だと流されてしまうからね。これはもう手に入らない貴重なものだ。茜が一人前の釣師になったら上げるよ。さあそれではイワナの捌きかたを教えよう」
 岳は、剃刀のように切れるマキリの切っ先をイワナの腹に当てた。
 釣った魚の内臓を現地で取り去るというのも鮮度を保つには重要なことだ。腹を割き、内臓からえらまですべて取り去り、背骨の下の血アイもきれいに洗い流す。内臓は川の流れに放ってやる。それは別な魚の餌になる。えらからはたくさん血がでるので流れのなかで取り去る。但し、イワナはすでに死んでいても、水の中では反射的に筋肉が反応し、流れへと飛び出すことがあるので油断はできない。最後に、塩を腹にすり込み、防菌のため笹の葉で全体を覆ってから新聞紙でくるむ。
「どうだい、イワナを釣ってから処理までの一通り、覚えたかな?」 
 岳は、作業の手元を真剣に見ていた茜に笑顔で尋ねた。
「うん、だいたい分かった。茜にも早く釣らせて!」 
 茜の目がキラキラと輝き始めた。狩猟本能は女の子にもあるのだと、岳はこのとき知った。
「よぉーし、やってみよう! 但し、毛ばりは十分訓練をしてからだ。茜が今日トライするのは、初めてでも釣れる餌釣りのほうだ」 
 岳は、餌釣りの仕掛けを作り、それを取り付けた竿を茜に持たせた。
「岳、釣り糸って針のところだけ細いのね。どうして?」 
 茜は、釣り糸のハリスをつまみながら岳を見上げた。
「いい質問だ。釣り糸を川に垂れると、釣り針は川底の石や流木によく引っかかるんだ。そんな時、強く引くとそのハリスと呼ぶ細いところで切れることになる。それで仕掛けをすべてなくしたり、竿を折ったりしないで済むんだ。稀に竿が折れそうになるほどの大物がかかることがあるけど、その時もハリスのところで切れる。魚は逃げちゃうけどね」
「わかったわ。ハリスがなくて、竿の先で釣り糸が切れちゃったら、お魚さん、いずれ死んじゃうかも。可哀想だよね……」
 茜は、イワナが重りのついた5メートルの釣糸を引きずりながら、仲間と一緒に元気に泳ぎ回ることができるのだろうかと心配しているのだろう。
 岳は、口にくわえた長い釣り糸が流木に絡まり、白い腹を見せて流れにさまよう哀れなイワナの姿を想像した。悲しそうな表情を見せた茜の、生き物に対する深い愛情に改めて感心した。
 茜の心にあるものは、共に大自然で生きようとする一頭の野生なのかもしれない。だがこれからやってくる命がけの狩猟の世界で、その美しき野生が裏目に出ないか、一抹の不安も過ぎった。
「ところで岳、餌はどこにあるの? この針に魚が好きそうなものをつけるんでしょ?」 
 茜が怪訝そうな顔で見上げる。
「これから捕りに行くんだ。さぁ、少し川下に移動するよ」 
 岳は、竿を片手に岩を越えていく茜を、訓練のため手を貸さずに見守った。
「岩を登るときは、竿を岩に立て掛けてから、両手で岩をしっかり掴み、登るんだ。岩のてっぺんにはよく蛇がいるから気をつけろ。登り切ってから竿を引き上げるんだ」 
 茜は、以前三人組みに襲われそうになった時、素早く屋根裏によじ登った運動神経を持っていただけあって、背丈の3倍もある岩の登り降りも果敢にこなしていった。
 二人は、川原が広がる浅瀬の場所に出た。
「さあ、ここが餌場だ。先ずは一休みだ」 
 二人は、太陽の光をたっぷり吸収し、心地よく温まっている大きな石に並んで腰をおろした。
 陽光が遮られた対岸は切り立った崖になっており、亀裂に力強く根を張った木々の緑が川面を走る風に揺れている。黒く光る川は崖の下を洗うように流れ、少し下流の岩盤を舐めるように落ち込んでいく。落ち込みの下流でゆっくりと渦巻く淵は、いかにも大きなイワナが潜んでいそうだ。
 その時、茜が突然、キャッと悲鳴を上げ、岳のほうににじり寄ってきた。目がすぐ脇の大きな石を凝視している。岳も、茜の視線の先、臼のような石の上に載っている赤茶色の塊に目が吸い寄せられた。よく見るとその塊はゆっくりと渦を巻くように動き、胴体に規則正しく並ぶ大きな斑点模様が強烈な毒気を発散している。

「赤マムシだ!」

 岳は茜の手を引き、とぐろの中から現れた鎌首から目を話さず、一歩一歩後退した。マムシの攻撃範囲は最大でも1メートル、追いかけてきてまで噛みつくことはない。でも、知らずにあの上に腰かけたとすれば――。
「蛇のいないところにイワナは棲まない。でもマムシだけは気をつけなくっちゃな――」
 岳は自分の注意不足を率直に謝った。
 茜はもう蛇には慣れたようで、けろりとした顔で釣りの準備を急かした。
 餌釣りの説明に入った。声を潜め、右手のほうを指差す。
「茜、あそこを見てごらん。あの落ち込みのすぐ下流だ。大きな岩の周りで渦巻いているところ、わかるね。あそこには必ず大きなイワナがいる。これから釣り餌にする川虫を捕るから、声を出しちゃいけないよ」 
 岳は口の真ん中で人差し指を立てた。茜は無言でうなずく。浅瀬に入り、手網を差し入れながら川底の石をひっくり返した。
「これがイワナの大好物のオニチョロだ」 
 手網にへばりついた、お世辞にも美しいとはいえない六本足の黒っぽい虫を指でつまんで茜に見せた。
 茜はうっかり悲鳴を上げそうになったが、手を口に押し当て耐えている。確かにこの虫を初めて見る人はびっくりするだろう。おまけにこの虫はすばしこく動き回る。鬼みたいな形相でちょろちょろ動くからオニチョロというのかどうかは分からないが、とにかくイワナはこの虫には目がない。
 釣師の間では、3センチほどの大型のカワゲラ幼虫をオニチョロ、腹が黄色く小型のものをキンパクと呼び、どちらもイワナの最高の餌とする。
「いいかい、よく見ておくんだよ。つぎからは自分でやってもらうからね」 
 岳はオニチョロを針につける方法を教える。
「針先をオニチョロの口に当てると噛みつこうとして口を開ける。そこを狙って針をすばやく差し込むんだ。針の曲がりに沿って突き通し、お尻の先端から針を貫通させる。針は見えていてもかまわない」
 餌もつけ、茜の初陣の準備は整った。二人は腰をかがめ、川原を静かに、ポイントへと近づいていった。
「餌釣りは毛ばりと違いポイントを狙って投げてはだめだ。ポイントの手前に餌を流し込むのがコツなんだ。この場合は落ち込みの手前に入れて、そのまま流れに任せるのがいいだろう」 
 岳は茜から離れたところで、茜の手の動きと渦を巻く淵を交互に見ていた。
「あぁっ、岳! 何か引っかかったみたい」 
 餌をつけた針が、真っ白な泡の中に吸い込まれていったかと思うと、すぐに竿が弓なりになった。落ち込みの下に流木などが隠れている時など、よくあることだが、それとは違うことがすぐにわかった。弓なりのまま、竿の先が激しく動き始めた。茜が両手で竿を支え、岩場で踏ん張っている。
「わぁー! 岳、何か釣れたみたい、凄い力よ!」 
 茜は、しっかりと竿を立てながら後退し始める。一瞬、川面で魚が跳ね上がった。確かに大きい。落ち込みの真下で餌を待ちかまえていた尺もの(30センチ)が食らいついたのだ。
「よーし、焦らなくていい、そのまま浅瀬まで引っ張ってくるんだ。竿は絶対に寝せちゃだめだよ」 
 竿を寝せると、一瞬で針が延びるか、魚の口が切れる。どちらにしてもバレる(魚が逃げる)。
 岳は、水しぶきを上げ動き回る魚に、素早くタモ網を入れた。
「よくやったな! 茜」
 岳は、目を真ん丸くして竿を必死に握り締めている茜の指を、1本1本外してやった。
 尾びれの大きな見事な尺ものイワナが、野生の光を飛び散らせながら網の中で暴れている。茜は、初めての獲物を上気した顔で食い入るように見つめている。それは紛れもなく狩人の目だった。
 2匹目の処置は、すべて茜が行った。
「今日はこのぐらいにしようか」
 渓谷の日暮れは早い。岳は、こがね色に輝き始めた、天空にそびえる峰々を仰ぎながら、茜に笑顔を向けた。朱に染まり始めた光りの中で、普通の少女に戻った茜の横顔も輝いている。
 岳は、すぐそこに、桜の気配を感じながら、沈み行く太陽を見つめた。二人は陰り始めた渓谷を後にした。

 4

 二人は、すでに日陰となった斜面を一歩一歩登って行った。今度は茜も自力でついてきた。
 再び谷底から、道路が走る文明の空間に出た時、岳は不思議な違和感を覚えた。以前はほっとする安心感があったが、今は何かが違う。県境を行き来する車はなく、人間の匂いがなかった。静まり返った路面のアスファルトは、いたるところにひび割れが入り、それを持ち上げるように雑草が広がっている。
 開発という名で人間が侵食した山々の傷を、再び大自然が呑み込もうとしているようにも見えた。
 茜は、足取りも軽く何かの歌を口ずさんでいる。岳も肩にずしりとくる久々の獲物に満足しながら、二人は広い道路の真ん中を下っていった。カーブを曲がり、駐車場が見えてきた時だった。

 幸福感が一変するような光景が目に飛び込んできた。

 岳は、背筋の汗が急速に冷え込むのを覚えた。二人の足が止まった。
 ホームレスのような格好の大きな男と小さな男が、大きなドライバーでバイクのサイドバッグをこじ開けようとしている。大きな男が、わきから頭の大きさほどの石を拾い上げてきた。これはまずい! バイクごと叩き潰すつもりだ。
「茜、ここで待ってるんだ」
 岳は走った。走りながら、男たちに向って叫んだ。
「やめろー! 何をするんだ!」
 男の動きが止まった。ゆっくりと岳の方を振り返る。男は、死の世界から蘇ったような目で岳をにらんだ。口をわずかに歪め、石をそのまま足元に落とした。ズシンという響きが岳の腹まで届いた。
 いつの間にか、茜が岳の横に並んで、小さな男を心配そうに見つめている。よく見ると、バイクに手をかけているのは未だ少年だった。ふと横を見ると、今朝おにぎりを食べたあの大きな石に、枯れススキのような髪の間から、こちらに恨めしそうな視線を送る女が座っていた。その背中に、口を開けたまま首をのけ反らした幼児が括りつけられている。どうやら、この人たちは家族のようだ。家族は無言の威圧感を持って、岳と茜をにらんでいる。どの目も死んだように冷たい。
 岳は、この不気味な静寂を切り裂くかのように声を上げた。
「あなたたちはこのバイクをどうするつもりだ? 金目のものは何もない」
 岳は、父親と思われる大きな男を正面から見据えた。
 肩まで伸びた、油脂で固まったような髪。深く皺が刻まれた顔の中で光る異様な目。男はドライバーを握り締め、じりじりと距離を詰めてくる。その時だった。

「おじちゃん、何か食べ物おくれよ!」
 
 少年が、掠れた声を全身から絞り出した。懇願の目が岳を射抜く。茜は憐みの目で、その少年を見つめている。
「健太、何を言うんだ! 恥ずかしいことを言っちゃいけない」 
 我が子の率直で悲痛な言葉を聞いた父親の目から、みるみる暴力の匂いが消え失せ、ドライバーが足元に転がった。
「すみません……。子供たちに、もう一週間も満足なものを食べさせてないものですから……」 
 石の上から母親が、すでに動かない背中の子供をあやしながら、今にも崩れ落ちそうな声を上げた。
 ふと、すえたような臭いが漂う父親の服装に目をやった。ところどころ肌が覗く煮染まったような上着の胸ポケットの、大手企業のロゴが目に入った。忘れもしない、岳が勤めていた会社の取引先のものだった。
「わかりました。ただ、私たちも職を失い、今は自給自足で食いつないでいる身です。お上げできるものといえば、たった今釣ってきたイワナしかない。それでよければ、一匹差し上げます」 
 岳は、人一倍プライドが高かったはずの父親と、やせ細った妻と息子の姿を見て、我が身の幻と対面しているような錯覚を覚えた。
「あなた、せっかくだからいただいたら。イワナはとても栄養があるのよ。この子も蘇るかもしれないわ……」 
 女は背中の子に頬を寄せると、逡巡する夫に、諭すように話しかけた。
「えっ、イワナ、釣ってきたんですか? 凄いなー」 
 少年が目を輝かせ、足踏みをした。
「よし、決めましょう。二匹ありますから、一匹置いていきます」 
 岳は背中からリュックを降ろし、中に手を入れた。
 家族の六つの瞳が、その手に集中する。
「岳、大きい方、上げるんだよね」 
 茜が、くりくりとした目を向け、小声で言った。
「――うん、もちろんだよ」
 岳は一瞬でも、リュックの中で逡巡した手を恥じ、大きい方を取り出した。
 それを見た家族が全員、オーッという声を上げ、目を皿のようにした。茜が、両手にずっしりと重いイワナの包みを抱えると、恥ずかしそうにする少年に手渡した。最初は驚きの輝きを見せていた少年の目から、みるみる涙が溢れてきた。
 茜は気になっていたのか、幼児のところに行った。母親も目頭を抑え、涙を堪えている。のけ反ったままの幼児の頭部を静かに母親の背に添わせ、汗で濡れた髪を優しく撫でてやると、幼児は薄っすらと目を開け茜に微笑んだ。女の子だった。それをじっと見ていた父親が、急に大声を上げて泣き出した。それは追い詰められた獣の、哀しい叫びのように、深い山々に木霊した。
 岳もなぜか涙が止まらなかった。
 それは同じように、繁栄の日々の末にたどりついた、自分の姿だった。けれども、この家族は幸せだと岳は思った。汗と泥に塗れてはいても、家族が一緒の姿は美しい。例え野垂れ死んだとしても、桜と三人で、歩き続けたかった。
 茜の手に、いつの間にか笛が握られていた。父親の慟哭をいたわるように、透明な音色が風となり、樹林の間を流れていった。あの不思議な旋律が、人と自然を融け合わせた。
「本当にありがとうございました」 
 家族は、動き出そうとするバイクの横に並んだ。岳は、お元気でと言って、バイクを発進させた。バックミラーに、いつまでも手を振る家族の姿が見えていた。
 バイクの後ろで、茜は疲れたのか、背中に顔をうずめている。
「岳、良かったね、2匹釣れて。でも、あの時、子供が声を上げなかったら、お父さん、私たちを殺すつもりだったのかな……」
「家族が生きるため、その覚悟だったかもしれないね」
「岳も、私たちが生き残るために闘った?」
「闘ったと思う。茜を守るために……」
「人を殺してはいけないって、テレビで言ってたけど、今は違うのかなぁ」
 人間が生きるために、家族の目の前で殺し合う、そんなことが許されるはずがない……。だが岳には、現実を覆すいかなる言葉も見つからなかった。
「一つ言えることは、憎しみで人を殺してはいけない、ということかな」
 飢餓は人間の憎悪を掻き立てる。岳は、修羅から慈愛へと変化していった父親の目を思い出していた。地獄と紙一重の局面を、子供たちが救ってくれた。今、世界の子供たちが、同じ境遇に立たされている。ただただ、無事を祈るしかなかった。
「茜、着いたよ」
 岳はバイクを敷地の奥に停めると、そっと茜の肩を叩いた。
 その日は久しぶりに、こんがり焼いたイワナの塩焼きで楽しい食卓を囲んだ。何年ぶりの、人間らしい食事だった。ロンも、骨まで焼き上がったイワナの頭を美味しそうに食べていた。
 次の日から、茜の課題が一つ増えた。10メートルほど離れた畑の隅に水を入れた茶碗をおき、毛ばりがふわりと器の水面に着水するまで、来る日も来る日も竿を振り続けた。
 岳は、空手の修行に没頭した。特に、武器を持った相手を一撃で倒すことができる、蹴り技の鍛錬に集中した。
 空手の蹴りは、拳の7倍の威力がある。ただ、刈棲魔のように、岳より頭一つ大きい相手を倒すには、地上から繰り出す蹴りでは顔面には届かない。空手には飛び二段蹴りという大技がある。刃物との闘いを想定した技で、飛び上がりながら中段に放つ蹴りで刀を誘い、一瞬の隙を狙い空中から上段蹴りを炸裂させるものである。だが、飛び二段蹴りは最強の極意ではあるが、失敗すれは死につながるという大きなリスクもある。あのとき新幹線で、ナイフを持った偽保安員を倒せたのは、幸運だったのかもしれない。
 刈棲魔を想定した背の高い巻き藁を庭に立て、毎日血の滲むような鍛錬を続けた。靴のつま先に鉄芯を仕込み、闘う肉体へと変貌したが、技が上達すればするほど、脳裏を占める刈棲魔の影もまた巨大化し、闘いの恐怖が消えることはなかった。

 5

 郊外に、カラスが群がる廃棄物置場が広がっている。昔は野良犬が餌を漁っていたものだが、今はその姿はない。男女の区別がつかないほどに髪が伸びた若者や、腰が曲った老人たちが、ガラクタやゴミの中から一心不乱に食べ物を掘り返していた。岳はやっと、バイクの点火プラグを探し当てた。
 家に着いた時は日が暮れていた。リビングに入ると、茜がフロアで、珍しくテレビに釘付けになっていた。テレビはニュース主体の国営となり、民放はラジオのみで、すでに娯楽番組はなくなっていた。
 茜が振り返り、歓喜の声を上げた。

「岳、ついに二酸化炭素濃度の上昇が止まったみたいよ!」

 脇でお座りしていたロンも、興奮したように二回吠えた。
「え、本当か!」
 岳も、ロンを挟んで茜の横に並んだ。
 耳を疑うようなニュースがテレビから流れてきた。疲労の色を浮かべたキャスターが、それでも精一杯に感動を滲ませ、同じ言葉を繰り返していた。
「ついに二酸化炭素濃度の上昇がストップしました!」
 キャスターが続けた。
「政府報道官が先ほど発表した内容によりますと、昨年の平均値499ppmをこの一年間維持しており、二酸化炭素濃度の上昇は停止したと判断しました。ただし、今後気温が下がるかどうかは不明です。海面は上昇し続けており、このままでは3メートルを超えるでしょう。沿岸部にはさらに1千万所帯の避難勧告が出されました。新たな情報が入り次第お知らせいたします」
「岳、これって、温暖化はストップしたということ?」
「まだ予断は許さないけど、世界の森林再生がついに効果を現したことは間違いない。しかし、海面の上昇は続いている。南極とグリーンランドの氷床が解け続けているに違いない。もしグリーンランドの氷がすべて解ければ、海面は7メートル上昇し、世界の沿岸部は壊滅する。温暖化地獄は避けられても、人間同士の殺戮地獄がやってくるだろう」
 二酸化炭素濃度は、日本の最西端にある沖縄与那国島の気象庁観測所で測定され、1997年に366ppmを記録してから毎年2ppm前後の増加を伝えていた。1年間わずかの上昇も見られないということは、温暖化が暴走を始めると言われる500ppmぎりぎりのところで落ち着いたということだ。
 岳はこのことを、真っ先に桜に伝えたかった。家族一緒に喜び合えたらどんなに良かったか……。グレッグの森林再生に懸けた闘いに、心の中で感謝した。
 だが、岳の脳裏には、依然としてメタンハイドレートの恐怖がこびりついていた。二酸化炭素濃度の上昇が収まったとしても、一度放出した二酸化炭素は何百年と大気に留まることになる。海の温暖化は進行し、深海の温度は上昇し続けるに違いない。世界の海底に眠るメタンハイドレートの崩壊が始まれば、再び桁違いの二酸化炭素が世界を覆うだろう。ここから先は、人知が及ばない地球の意思なのだと、岳は思った。

 四季がなく、生きることだけが目的となった暮らしは、月日が経つのを忘れてしまう。それでも、妻のお墓に、菜園の収穫とコップ一杯の水を供え、迎えたお盆は5回を数えた。11歳となったロンは、人間で言えば60歳。元気に振る舞ってはいるが、この暑さではさすがに、毛並みに疲れの色が見えるようになった。
 老人や病人などの弱者は、ほぼ死に絶えていた。生き残ったのは野獣と化した暴徒やギャングたちと、その暴力に対抗できる力を持った大小の共同体だけだった。
 地方行政はすでに崩壊していたが、自衛隊に守られた中央政府は、依然として機能を維持していた。内閣府には、核戦争でも生き延びられる備えがあることは古くから噂されていた。巨大な地下要塞の中で、幻の文明にしがみつきながら権力を温存しているのかもしれない。それは時おり見かける、昔のSF映画に出てくるような装甲車が、上空にミサイルを搭載したドローンを従え、廃墟の街を悠然と横切って行くのを見ても想像がつく。どこの国も同じような状況だろう。
 茜は、文明のころであれば中学校を卒業する歳になった。茜がこれまで岳から学んだ実践の学問は、昔の高校入試の勉強とはまるで違う、生き残るための智恵だった。
 岳は手作りの卒業証書を茜に与えた。イワナの干物と茹でた栗をお皿に載せ、ロンも一緒に、ささやかなお祝いの夕食を囲んだ。喜ぶ茜の顔を見ていると、桜のことが思い出され、二重に涙が溢れてきた。
 暑い日が続いているが、灼熱地獄は影を潜めたようだ。だが生き残った人々にとって、それを率直に喜ぶには、温暖化が残した傷痕はあまりにも過酷過ぎた。軍事機能だけが残ったとしても、この先、町や社会が復活することなど考えようもなかった。
 すべてが分断された暗黒の社会で、暴力は善悪を超えて生き抜くための手段となった。茜を立派に育て上げるという信念だけが、岳の心を奮い立たせていた。それが妻への、せめてもの供養だと思った。
 朝もやの残る街は、すえたような臭いを残し、ひっそりと静まり返っていた。
 二人が乗ったバイクは、荒涼とした風景を突き破るように、廃墟の街を疾走する。褐色の顔に狼ヘアー。黒色の戦闘服に編み上げの革靴。引き締まった腰に下がるサバイバルナイフ。二人は戦士のように生まれ変わっていた。最後の人間の叫びのような排気音を残し、岳は山岳地帯へとハンドルを切った。
 15歳になった茜も、今では厳しい空手の修行を経て、男に負けない格闘家に成長していた。というよりも、茜はどこから見ても男だった。
 身を守るため男として生きていくことを決意し、ひたすら修行に励んだ茜は若武者のような風貌を備え、瓦礫の中から欲望の目をぎらつかせる男たちを刺激することはなかった。
 二人はバイクを山麓の藪の中に隠すと、今日も朝日が輝き始める山頂を目指した。
 二人は、1年の半分を山岳地帯で過ごす。高さ50メートルを超える熱帯雨林の中は、街中よりはるかに過ごしやすかった。大型化した獣が目を光らせていたが、壊れた人間たちの狂気よりは未だましだった。一度、ロンを連れてきたことがあるが、オオカミと化した野犬の群れに襲われ、危なく餌食となるところだった。それ以来ロンは、家の留守番役となった。
 二人は沢水を飲み、岩魚を食べ、木の根を噛み砕きその汁を吸った。魚や山菜は街に持ち帰り、物々交換で、塩やガソリンを手に入れた。
 峠へと伸びる道路はすでに車が通った形跡はなく、木の根に破壊されたアスファルトの路盤は、周りから押し寄せる雑木に征服されていた。生息地を分断するものがなくなった動物たちは、本来の獣の世界へと戻っていった。人間の活動が途絶えた山岳地帯は大きく変貌し、街の崩壊とは逆に、原始の匂いが漂う大自然への回帰を誇っていた。
 海面上昇により世界の海域は拡大し、膨大な水蒸気が山岳地帯に大雨を降らせた。北半球の原生林は熱帯雨林へと変化した。アフリカの砂漠地帯でさえも、緑豊かな森林地帯が蘇ったと、政府が軍事衛星からの情報を伝えていた。
 東北地方はボルネオのような赤道直下の気候となり、里山から山岳地帯に至るまで濃い緑で覆われた。馬や牛などの家畜は温暖化で小型化したと伝えられていたが、自然の生態系に組み込まれた動物は大型化していった。目の前に飛び出すカエルは猫のような大きさになり、それを餌とするシマヘビやアオダイショウはニシキ蛇のように大きくなった。アマゾンの密林と化したこの大自然は、人間の作った文明が、どれほど自然を委縮させていたのかをまざまざと見せつけていた。
 二人は、谷の中腹に突き出た広い岩場に着いた。
「茜、ここで火を起こして待っていてくれないか、すぐに戻る」 
 岳は釣竿の準備を整え、するすると谷底へと降りていった。気候変動により水温は上昇したが、イワナの一部は進化し、大型魚として生き残っていた。
「どうだい、うまく火が点いたかい?」
 間もなく、2匹のイワナを手にして岳が戻ると、茜は真剣な顔で木の摩擦から火を起こしていた。
 これは昔、由緒ある神社の神事に使われていた「舞い錐法」と呼ばれる道具だった。錐状の細い棒に連続した回転を与え、木と木の摩擦熱で起きた微かな火でオガ屑を燃やし、それを枯葉に移し、小枝から枯れ木へと火を成長させ焚火を作る。使い捨てライターやマッチが闇ルートの高級品となった時に、岳と茜が見様見真似で作ったものだ。
 マキリで細く削った木に塩をまぶしたイワナを刺し、岩盤の中央でパチパチと音を立てる焚火に焙った。 10分もするとイワナが塩とともに焼ける香ばしい匂いが樹林の中へと漂っていった。二人は主食として乾燥保存しているキャッサバ芋のかけらを食べながら、熱々のイワナの塩焼きを頬張った。久々の御馳走に二人の顔がほころぶ。その時だった。

 二人の笑顔が凍りついた。

 岩陰からのっそりと黒い塊が姿を現わした。巨大な熊だった。茜がとっさに食べかけのイワナを岩の向こうに放った。熊は一瞬斜め後方に上体を躍らせると空中でイワナをくわえ、あっという間に呑みこんだ。その巨体からは想像もできない俊敏さを見せつけた熊は、首をゆっくりと捻り、威嚇するように唸り声を上げた。岳は立ち上がった。同じようにイワナの食いかけを投げてみたが今度は見向きもしない。燻ぶる焚火を回り込むように、低く唸りながら距離を詰めて来る。剝いた牙から涎が滴る。黒光りのする全身から、今にも襲いかかろうとする殺気が漂う。岳は真正面から熊を見据え、腰を落とし、蹴りの態勢に構えた。茜は岳の斜め後方に控え、静かに愛用のナイフを抜く。
 岳はマタギから聞いていた。熊は襲いかかる瞬間、必ず胸の三日月を見せると。間合いが三メートルを切った。低い態勢から、熊の目がぎらりと光った。次の瞬間、咆哮が谷間にとどろき、熊が躍りかかってきた。眼前に鋭い爪が迫る。一瞬のチャンス。岩盤に残像を残し、前蹴りが三日月上部に吸い込まれていった。喉元に食い込んだ鉄芯が、一瞬熊の意識を奪う。黒く鋭い爪が空を切り、巨体が地響きを残した。と同時に、背後から風のように影が走り、熊に覆いかぶさった。茜が渾身の力で、白い三日月にナイフを突き立てた。真っ黒な体がビクンと痙攣した。二人は血に染まっていく熊を必死に押さえつけながら、力が失せていくのを待った。流れ出した熊の命が岩盤に吸い込まれ、やがて、息絶えた。
 二人は熊の前にひざまずき、丁重に合掌した。
「茜、よくやった。お前はもう一人前だ」
 岳は、熊の分厚い脂肪層の下にある肋骨の隙間を縫って、心臓の壁を一突きにした茜の手捌きに感心した。
「熊が可愛そうだったけど、殺さなければ私たちが餌になってしまう。岳は動物を殺しても、それを大切に食べれば悪いことではないって教えてくれた」 
 姿は男に見えても、やはり心は女の子なのだ。茜は、返り血を浴びた顔を拭いながら、憂いを帯びた横顔を見せていた。
 岳は、完全に血抜きを終えてから、熊の遺骸を背に担ごうとした。だが43歳の年齢は正直だ。とても1人で担がれるものではない。左右の前足をそれぞれ二人で担ぎ、一歩一歩引きずるように、谷を登っていった。
 来る途中の道路で見かけた、山沿いに建つログハウスへと向かった。そこで熊を解体しようと考えたのだ。
 廃屋と見られるログハウスは、なぜかすべての窓に板が打ち付けられていた。壁には一面にツタの葉が生い茂り、屋根にも届こうとしている。
 
「茜、気をつけろ。いつもの五感を忘れるな――」

 古びたドアをこじ開けようとした茜に、岳は左右を窺いながら声を低くした。
 五感とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触角の五感覚で、人間は文明の発達とともにその鋭さを失った。だが現在の、自らも野獣となって命のやり取りをしなければならない世界では、この五感だけが頼りとなる。
 茜は無言でうなずくと、音も立てずに中へと入っていった。
 ほどなくして、茜がドアから顔を出し、岳に手招きをした。どうやら中には誰もいないらしい。岳も熊を引きずりながら中へと踏み込んだ。中は薄暗く、静まり返っていた。
 確かに人や動物の気配はない。だが、岳は入った瞬間、微かな異臭を感じた。背中から漂う熊の生血の臭いとは違う、すえたような臭い。だがそれは、動物の屍を連想させるものではなく、むしろ何かが息づいている臭いだった。
 目が慣れてくると、一つの大きな部屋となっているログハウスの中の全貌が浮かび上がってきた。奥にはキッチンコーナーがあり、地下に通じるような、床のはめ込み式のふたが目に入った。
 岳は背中の熊を床に降ろすと、キッチンに近づいた。ふたの金具に手をかけ、静かに開ける。すえた臭いがむせかえるように湧き上がってきた。この臭いだ! 息を止め、中を覗く。暗闇に、階段が延びている。異臭とともに立ち上ってきた冷気は、広く深い地下室を連想させた。

「おーい、誰かいるのか?」

 岳は地下室に顔を入れ、声をかけた。だが、返答はなかった。やはり地下室に迷い込んで死んだ小動物か何かの腐臭だったのかと思い直し、ふたを閉めかけた時だった。

 下から人間らしき呻き声が響いてきた。

「水をくれ」と言っているように聞こえる。やはり人間が生きていた。
「茜、中に人間がいるようだ。助けよう。だが、信用はできない。私に何かがあったら、かまわずに逃げろ。いいな」
 茜は無言でうなずいた。岳は一歩、一歩、階段を降りていった。
 この手の罠は珍しくはない。だが、目に入ってきたのは、自分にも忍び寄る人間の哀れな姿だった。
「大丈夫ですか? 今、水をくんできますから――」 
 岳は、地下室から引き上げてきた老人を床に寝かせ、介抱を始めた。茜は山の中に水を探しに行った。
「あぁ、ありがとう。助けてくれて本当にありがとう」 
 1週間近く何も食べていないという老人は、茜がくんできた谷川の冷たい水をゆっくりと飲み干すと、幾分目に光が蘇り、二人を交互に見つめた。部屋の中央に置かれた大きな熊の遺骸を見つけると、目を丸くして驚いた。
 岳は老人に、このログハウスに立ち寄った経緯を説明した。老人は二人を信用したらしく、ぽつぽつと自分のことを話し始めた。
 老人はK市で大きな建設会社を経営していたそうだ。商売の最盛期には、山が好きな自分の趣味と実益を兼ねてこのログハウスを建てた。だが、地元の産業が崩壊するとともに、会社の整理を余儀なくされた。
遅くまでかかった取引先への挨拶回りから帰ってみると、略奪者たちの餌食となった家の中は、大地震が直撃した後のように荒れ果て、家族は二人の孫も含め全員が殺されていた。庭の隅に穴を掘り、すべての遺体を埋葬すると、愛車のベンツに、ありったけの食料と秘需品を積み込んだ。幸い床下に隠してあった猟銃と弾薬は無事だった。略奪者が再び襲ってくる前にと、その日の夜のうちにここにたどり着いたという。
 それから自給自足の生活を始め、1週間ほどが経った時だった。明け方、道路脇の駐車場に停めてあったベンツの盗難防止装置の警報音で目が覚めた。小窓から覗くと、3人の男が山道を登って来るところだった。老人は愛用の猟銃、豊和M1500を取り出した。何頭もの熊や猪を仕留めてきたが、人間だけは殺したくなかった。だが、近づいた男たちの目は殺気を帯び、抜き放った蛮刀が朝日に反射していた。やむを得なかった。入り口に侵入する手前で二人を撃ち殺した。ボルトアクションで三発目をリロードし終わった時、もう一人を見失った。老人はすぐに地下室に隠れた。あきらめて引き上げてくれることを祈った。だが間もなく、残酷な光が差し込んできた。老人は涙を堪え、トリガーを引いた。
 老人は、車で里まで降り、農道の脇の木立にベンツを隠すと、キーを抜いて歩いてここに戻ってきた。それから二年ほどは、猟銃で山の動物を狩り、庭のかまどで焼いて食べた。やがて弾薬が尽きた。ネズミや蛇捕まえて飢えをしのいでいたが、まもなく死を待つのみの身となり、地下室でブルーシートに包まった。
 幸いなことに老人は、熊の解体方法を熟知していた。岳は、立ち上がることができない老人の指示に従い、熊の解体作業の準備に入った。
 ブルーシートを広げ、熊をその上に引きずり上げる。これだけでも汗が噴出してきた。茜も真剣な顔つきで手伝っている。
「ああ、ちょっと待ってくれ。熊は山の神からの授かりものだ。解体の前に、魂だけは山の神に送り返さなくてはいけない」
 老人が、マタギから聞いたというケボカイの儀式を教えてくれた。
 岳は、老人が言うとおりに、熊を仰向けにし、北枕で寝かせた。
「ほぉー、見事な腕だ。アバラ三枚目に水平な刃傷が残っている」
 老人が、二人の顔を交互に見た。

「アブラウンケンソワカー、アブラウンケンソワカー」

 老人が唱える静かな呪文が、山間に滲み渡っていく。岳は塩をふり、クマザサで熊の腹を祓いながら、魂が山に帰れるよう祈った。
「熊がまた、山で生まれ変われるといいな……」
 茜がぽつりと言った。
 熊をそのままの形で、いよいよ皮を剥ぐ作業に入った。岳は教えられたとおりにマキリの刃を入れていった。爪を付けたまま前後の足の皮を剥ぐ時が一番苦労した。すべての皮を剥がされた熊は白く厚い脂肪で覆われ、北極グマのようになった。熊の脂は手荒れや火傷の薬にもなると聞き、丁寧に削ぎ落し大きな鍋に取り分けた。次に肉の切り分けに入った。
 背肉に刃が入り始めた時だった。それまで目を細めて眺めていた老人が、ぎこちなく上半身を起こすと、岳に掠れた声をかけてきた。
「わしにその肉を一切れ食べさせてくれんか?」 
「えっ、これを生で、ですか?」 
 岳は驚き、マキリの動きを止めた。茜の顔にも心配の色が走った。
 おそるおそる、血の滴るロース肉を一切れ、老人の手の平に載せた。
 分厚い熊の背肉は赤身の中にたくさんの脂肪を含み、熊が食料不足に陥っても長期間生き延びられるようになっている。老人は、飢えた狼が餌にありつけたように、無心に肉にかぶりついている。老人の歯は、生肉を噛み切るには弱く、全身の力で咀嚼しているように見えた。人間が生きようとする、逞しい格闘の姿だった。岳と茜はそれを見て安心すると、再び解体作業に入った。
 二人はほぼ1日をかけ、肉の切り分けと臓物の処理を終えた。
 秋口へ向かおうとする山間の日没は早く、辺りは薄暗くなりかけていた。老人はやっと胃袋が落ち着いたのか、鼾をかき泥のように眠っている。その顔は、熊の命が乗り移ったように、薄っすらと血の色が差していた。
 岳は、神聖なる山の神との格闘に、全身の力を使い果たした。
「茜、今日はここに泊めてもらおう」
 岳は、同じように疲れきった背中を見せ、ナイフの脂をボロ布で拭っている茜に声をかけた。
「ワーオ、やったぜ!」 
 振り返った茜の顔に、疲れを吹き飛ばすような笑顔が戻ってきた。
 ひとたび山に入ると、2週間は山奥の洞窟や岩の隙間で、大自然がはらむ恐怖に怯えながら野宿することになる。茜はたとえ1日でも、頑丈に造られたログハウスの床板で休めることが、とても嬉しいらしい。
 三人は、すでに形のない神となった熊を真ん中に、それぞれが時計の針のように横たわった。殺戮を忘れ、自然の恵みに感謝する、一時の平和だった。
 まぶたの裏に桜の顔が浮かんできた。岳は、何もできないまま過ぎた五年を詫びた。やがて、木の匂いに包まれながら、涙と共に眠りに落ちた。
 岳は、山間に響き渡る鳥たちの鳴き声に目を覚ました。東側の窓の隙間から差し込む朝日が、熊の肉の塊を神のお供物のように照らし出している。マキリを振るった腕の筋肉をほぐしながら、岳は部屋の中に目を凝らした。
 老人は死んだように眠っている。ふと、茜のほうを見ると寝袋が空だった。岳は飛び起き庭に出た。鼻孔をくすぐる肉の焼ける匂い、ひんやりとした山間に青い煙がたなびいている。庭の隅に据え付けられた大きな石のかまどで、串に刺された肉片が炎の中で油を滴り落としていた。
 茜が、髪をタオルで拭いながら沢から登ってきた。庭の下には、山肌から滲み出す清水が集まり、小さな川となって心地よい音を立てていた。
「おはよう、茜。朝食の用意をしてくれてたんだね。ありがとう」 
「ああ、さっぱりした。冷たい水が気持よかった!」 
 茜は、昨日の仕事で顔や手にこびり付いた血や脂を川で洗ってきたのだ。
 三人は、かまどの周りに腰を降ろした。
 文明のころは見向く人もいなかった熊の肉が、今は貴重なご馳走だった。こんがりと焼き上がった獣の肉は、美味しいという感覚を超え、熊の持つ強烈な滋養力が、原始を生きる肉体に染み渡ってきた。
 別れの時がやってきた。岳は、肉と脂を半分ずつに取り分け始めた。茜が気味悪がっていたグネグネとした臓物も、腹を減らして待っているロンのことを考え、半分持って帰ることにした。
 臓物の中を手探りしていた老人が、口を開いた。
「これは、熊の胆といって、乾燥させれば万能薬になる。これはあんたが持っていきなさい」
 老人が、一握りほどの臓器を取上げ、茜を見た。岳はそんな大切なものならと辞退したが、老人は、自分はもういいと乾燥方法を丁寧に教えてくれた。
「本当にお世話になりました。無理だけはしないで。お元気で」 
 岳は、丁寧に一宿のお礼を言った。
「おじいちゃん、元気でな……」 
 茜は最後まで男の身振りを崩さず、老人の肩に手を触れた。

「お嬢さん、ちょっと待ってくれないか――」

 二人は、老人が茜を「お嬢さん」と呼んだことに驚き、顔を見合わせた。
 老人が、屋根裏部屋に上って行った。
「岳、ここで三人一緒に暮らせたらいいね……」
 茜が、太い丸太の温もりに手を触れながら、ささやいた。
「そうだね……」
 岳もふと、ここに留まることができれば、老人もどれだけ安心できるだろうと思った。おそらく茜も同じ思いなのだろう。だが自分には、どうしてもやらなければならないことがある。その使命だけが、生きる原動力だった。茜は、岳の横顔から何かを感じ取ったのか、それ以上は言わなかった。
 老人が、小箱を手にして戻ってきた。
「女の子は、目を見ればちゃーんとわかるさ」
 老人は茜を見ると、意味ありげな笑みを浮かべ、続けた。
「わしは、仕事、仕事で女房を温泉に連れていくこともできなかった。会社を畳んだ時、感謝の気持ちにと、とっておきのネックレスを手に入れた。だがそれを見せる前に、妻の無惨な姿と対面した。それがこのネックレスだ。妻の思い出に取っておいたものだが、これをあんたにあげるよ」
 老人は、ずしりとするような宝石のネックレスを、干からびた手から茜に渡した。冷たい光を帯びるチェーンに輝いていたのは、目も覚めるような大きなブルーダイヤだった。
 そんな大切なものはいいですと、茜は頑なに辞退した。岳も、奥様の形見として持っていたほうがいいと説得したが、老人は、いずれ山賊が襲ってきて奪われてしまう運命だといって、無理やり茜の首にかけるのだった。
 手を振る老人の目に、寂しさと安堵が入り混じった涙が光っていた。

 それから半年ほど経ったある日。二人は、昆虫と山菜を採りに山に入った。昆虫は、生き残った人々の貴重な蛋白源となっていた。
 陽が落ちる前に山を下り、遠くにあのログハウスが建っていた山が見える農道を通りかかった時だった。
木立のわきに、フロントのエンブレムがなければベンツとは判別できないほど無残に破壊された白い車を見つけた。
「これ、もしかして、あの時のおじいちゃんのベンツじゃない!」 
 茜は、すべての窓ガラスが割られ、今は無残な姿を晒している、過ぎ去った文明の残骸を心配そうに見つめていた。
 岳は、遠くに連なる峰々を眺めながら、自分に言い聞かせるように言った。
「そうとは限らないさ。きっとあの老人がどこかに隠して、今でもピッカピカに磨いているよ……」 
「そうね、おじいちゃん、熊の肉を食べて元気になって、好きな山歩きをしているよね、きっと」 
 茜が、心配をふっ切るように明るい表情を作った。岳も、老人の無事を祈りながら、朱に染まりかけた深い山々を仰ぎ見た。
 路面には、夕日を反射する車の残骸が、どこまでも続いている。まるで果てしない文明の墓場のようだ。大自然が、破壊の代償として人間に突きつけた、地獄への道標のようにも見えた。
 茜が篠笛を取り出した。魂を揺さぶるようなあの音色が、優しく山々に木霊した。

「岳、今、涼しい風が頬をかすめていった。錯覚かしら……」

 茜が、日焼けした腕を擦りながら、目をくりくりとさせた。
「いや、錯覚ではない。山から吹き降ろしてきた風は、確かにひんやりとしていた。不思議だ――」
 なぜか最近は、朝晩はどこからともなく涼しい風が吹き渡ってくることが多くなっていた。
 二人はバイクを駆り、寒々とした農道を家路へと急いだ。

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