第7話:こんな事ってあるの?

文字数 1,724文字

 自民党の団結の回復を第一に党務をこなす櫻内のもと、党内は徐々に平和なムードが漂うようになった。こうして、あっという間に、1980年6月、次男の桜田賢二の1歳の誕生日となった。この頃、健介は、しっかり言葉を話すようになり弟の賢二が、伝い歩きしてるのを心配そうに見ていた。

 ところが1980年、予算審議が本格した国会では、社会党、公明党、民社党3党から提出された予算修正の申し入れに対して自民党が拒否し予算委員会の審議が、10日間にわたってストップしたりして緊迫の国会運営が続いていた。

 1980年3月6日、ロッキード事件児玉・小佐野ルートの検察側冒頭陳述で「被告の小佐野賢治がロッキード社のクラッターから受け取ったとされる20万ドルは、ラスベガスで浜田が、負けた450万ドルの分割払いに充当された」事実が明らかとなった。

 浜田幸一は、自民党国民運動本部長を辞任。野党は浜田の議員辞職を要求して攻勢を強めるが、ここから与党内にも主流派に対する批判的な動きが再び、顕在化した。4月10日、浜田は自民党離党と議員辞職願を提出し翌日、辞職が認められた。

 いったん火がついた反自民、非主流派の流れは誰にも止められなかった。5月14日15時、日本社会党、公明党、民社党は国会内で国対委員長会談を行い、席上、社会党の田邊誠が「大平内閣の失敗を追及し、参院選で自民党と対決するため、内閣不信任案を提出したい」と口火を切った。

 同党は、浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑、KDD事件などに象徴される政治腐敗、物価高を招いた経済政策の失敗、イラン問題などに見られる外交問題での自主性の喪失などを理由に挙げた。

 公明党の大久保直彦国会対策委員長は「公明党は社会党に同調するが、できれば民社党と同一歩調をとりたい」と述べた。これに対し民社党の永末英一国会対策委員長は「わが党は、中央執行委員会がまだ態度を決めてないので待ってほしい」と態度表明を保留。

 内閣不信任案は、5月16日の衆議院本会議に緊急上程された。ところが、自民党執行部は、非主流各派の対応を探った結果、「大したことにならない」と判断した。

 これを受け5月15日、自民党幹事長の櫻内義雄は記者会見で「わが党の現存勢力に無所属からの同調者を加えると、相当の余裕をもって不信任案を否決する見通しだ」と述べた。大平派最高幹部で党総務会長の鈴木善幸も同日、同派の総会で「党内の説得工作は行わない」との強気の態度を表明。

 民社党は、20時半から緊急中央執行委員会を開いて対応を検討するが、夜半から三役一任の形で幹部会議に移った。「同調やむなし」とする佐々木良作委員長と、「万一可決されれば解散、総選挙につながる」として反対を主張する春日一幸常任顧問との間で激論が交わされた。

 全日本労働総同盟会長の宇佐美忠信の意見も聞くなど、ぎりぎりの協議を続けた。そして、1980年5月16日2時、「提案理由が民社党の基本路線を損なうものでなければ同調する」との結論となった。5月16日午前9時、公明党と民社党は会談。

 公明党からは大久保直彦が、民社党からは永末英一と大内啓伍政策審議会長が出席し意見調整を行った。そのあと三氏は社会党の田邊誠国会対策委員長、武藤山治政策審議会長と会い、不信任案は社会党の単独提出することで一致。公明・民社は不信任案に賛成することを確認。

 午前10時39分、社会党は衆議院に不信任案提出手続きをとった。一方、自民党は、同日午前9時15分に役員会を開き協議に入った。安倍晋太郎政調会長が「党内統一に力を注ぐべきで、除名、解散の強硬論は不適当」と強い調子で主流派を批判。

 ひとまず「党内一致で不信任案を否決」でまとまった。マスコミ各社は否決をみじんも疑わず、朝日新聞などはこの日の夕刊の一面に「内閣不信任案否決へ」「自民、結束を確認」という見出しを掲げるほどであった。

 同日13時3分、衆議院議院運営委員会において亀岡高夫委員長が「本日の本会議は午後3時半開会とする」と発表。自民党の反主流派は、浜田の証人喚問とKDD事件のため国会に綱紀粛正委員会を設置することを求め、大平正芳首相の回答を求めた。
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