第5話:桜田が、マイコン・オタクになる
文字数 1,720文字
これを見たいために柴山は、9月初旬、朝早く、家を出て、本厚木から小田急線に乗って新宿経由で秋葉原へ行った。そして、TK80をじっくり見て、思わず写真を取ろとすると店員からカメラのフィルムを没収された。
その時、TK80の販売価格を聞くと88500円で、このキットを動かすためにメイン記憶装置、信号を映し出す「出力」ためのモニター「テレビ」、とデーターを取って置くための装置が、データ入力装置が必要で、合計金額は、最低30万円~50万円もかかると考えられた。
ちなみに、その当時、データを記憶して保持しておく装置は、なんと、カセットテープレコーダーを使っていたのだ。そして、その装置は、しばらく、
装置が、安定して動くために暖機運転してから出ないと作動しないと言う、どんでない装置だったのだ。
どれでもBASICのプログラムを書いた、マイコン雑誌や何冊もの書籍が出て、それが、かなり売れた。そして、マイコンオタクが、そのプログラムをキーボードから入力するとブラウン管に小さなカラーのマークが出て、前後左右に動いた。
さらに、動くスピードを変えたり、色を変えたりと、一般の人が見たら、この人、頭おかしんじゃないかという事を数時間変えて、英語で、パスコンに入力し、1字も間違え無ければ、ゲームと称し、動き、マニアの連中は、拍手喝采となったのだ。
多分、これを見た、まともな日本女性だったら、きっと、彼らを見たら、ちょっとした変態と思ったに違いなかった。それもコンセントを入れて直ぐに動くのではなく、各装置が、温まるまで、最低2,30分暖機運転が必要なのである。
何と気難しい、例えていえば、気位の高いお嬢様の様な、初代の日本の小型コンピューターの卵だったのである。その卵を愛情深く、気長に、暖めて、卵からにわとり「現在のパソコン」に育て上げたのは、いわゆる、オタクと呼ばれる男たちだったのである。
とにもかくにも、現在のパソコンの卵、当時は、マイ・コンピューターをもじって、マイコンと呼ばれていた、そんな連中を暖かく迎え入れてくれて、大事に育ててくれたのが、1976年9月に誕生した「Bit・INN」だった。
場所は、秋葉原駅電気街口の目の前にある、ラジオ会館の7階にあり、変態気味のマイコンオタクが、突拍子もない質問を、じゃんじゃんしていたが、それに対して、懇切丁寧に、説明したり、指導したりしてくれたのだ。
もちろん、自作のプログラムの評価やプログラムが動かない原因追及については、夜を徹して、行ってくれた。それはまるで、NHKの熱血ドキュメンタリーの「プロジェクトX」を彷彿とするようなシーンばかりだった。
熱い男達ばかり「たまに変態みたい若者もいた様だが」、集まり、解決できるかどうかわからないような、無理、難題を夜を徹して追求し、解決する涙の出るような日々だったのである。
その後、1976年10月に、桜田も以前から交際していた仕事をしている里村電気の次女の里村秀美さんと厚木の結婚式場で、参列者48人で、盛大な結婚式を揚げ、新婚旅行は、宮崎と鹿児島へ2泊3日で、出かけて行った。
そして、1977年4月に、桜田夫妻に、長男の桜田健介が誕生した。という事で、ちょっとフライング気味の子供誕生であったが、里村家では、大喜びして、盛大に誕生バーティーを開いた。そして健介は、腕白で、生傷が、絶えなかった。
桜田良介は、結婚後も毎月の様に、秋葉原に出かけ、「Bit・INN秋葉原」の日本電気「NEC」の社員とよれよれのジーンズと、ぼさぼさ頭の貧乏そうなヒッピーのような身なりのマイコンオタクを相手に熱い議論に参加していた。
そして、やがて桜田良介もマイコンオタクになっていったが、自分では、正統派、マイコンマニアと思っていた。そんなところに、きれいなお嬢さんが、来るわけでもなく、面倒くさそうだと思っても笑顔の日本電気「NEC」の女子社員が、応対していた。
しかし、決して、議論に巻き込まれない様に、ただ、ひたすら愛らしく、まるで、お嬢さんのような言葉づかいで対応し、わからないことは、可愛い笑顔で、担当の技術系、社員に任せることにしていた。
その時、TK80の販売価格を聞くと88500円で、このキットを動かすためにメイン記憶装置、信号を映し出す「出力」ためのモニター「テレビ」、とデーターを取って置くための装置が、データ入力装置が必要で、合計金額は、最低30万円~50万円もかかると考えられた。
ちなみに、その当時、データを記憶して保持しておく装置は、なんと、カセットテープレコーダーを使っていたのだ。そして、その装置は、しばらく、
装置が、安定して動くために暖機運転してから出ないと作動しないと言う、どんでない装置だったのだ。
どれでもBASICのプログラムを書いた、マイコン雑誌や何冊もの書籍が出て、それが、かなり売れた。そして、マイコンオタクが、そのプログラムをキーボードから入力するとブラウン管に小さなカラーのマークが出て、前後左右に動いた。
さらに、動くスピードを変えたり、色を変えたりと、一般の人が見たら、この人、頭おかしんじゃないかという事を数時間変えて、英語で、パスコンに入力し、1字も間違え無ければ、ゲームと称し、動き、マニアの連中は、拍手喝采となったのだ。
多分、これを見た、まともな日本女性だったら、きっと、彼らを見たら、ちょっとした変態と思ったに違いなかった。それもコンセントを入れて直ぐに動くのではなく、各装置が、温まるまで、最低2,30分暖機運転が必要なのである。
何と気難しい、例えていえば、気位の高いお嬢様の様な、初代の日本の小型コンピューターの卵だったのである。その卵を愛情深く、気長に、暖めて、卵からにわとり「現在のパソコン」に育て上げたのは、いわゆる、オタクと呼ばれる男たちだったのである。
とにもかくにも、現在のパソコンの卵、当時は、マイ・コンピューターをもじって、マイコンと呼ばれていた、そんな連中を暖かく迎え入れてくれて、大事に育ててくれたのが、1976年9月に誕生した「Bit・INN」だった。
場所は、秋葉原駅電気街口の目の前にある、ラジオ会館の7階にあり、変態気味のマイコンオタクが、突拍子もない質問を、じゃんじゃんしていたが、それに対して、懇切丁寧に、説明したり、指導したりしてくれたのだ。
もちろん、自作のプログラムの評価やプログラムが動かない原因追及については、夜を徹して、行ってくれた。それはまるで、NHKの熱血ドキュメンタリーの「プロジェクトX」を彷彿とするようなシーンばかりだった。
熱い男達ばかり「たまに変態みたい若者もいた様だが」、集まり、解決できるかどうかわからないような、無理、難題を夜を徹して追求し、解決する涙の出るような日々だったのである。
その後、1976年10月に、桜田も以前から交際していた仕事をしている里村電気の次女の里村秀美さんと厚木の結婚式場で、参列者48人で、盛大な結婚式を揚げ、新婚旅行は、宮崎と鹿児島へ2泊3日で、出かけて行った。
そして、1977年4月に、桜田夫妻に、長男の桜田健介が誕生した。という事で、ちょっとフライング気味の子供誕生であったが、里村家では、大喜びして、盛大に誕生バーティーを開いた。そして健介は、腕白で、生傷が、絶えなかった。
桜田良介は、結婚後も毎月の様に、秋葉原に出かけ、「Bit・INN秋葉原」の日本電気「NEC」の社員とよれよれのジーンズと、ぼさぼさ頭の貧乏そうなヒッピーのような身なりのマイコンオタクを相手に熱い議論に参加していた。
そして、やがて桜田良介もマイコンオタクになっていったが、自分では、正統派、マイコンマニアと思っていた。そんなところに、きれいなお嬢さんが、来るわけでもなく、面倒くさそうだと思っても笑顔の日本電気「NEC」の女子社員が、応対していた。
しかし、決して、議論に巻き込まれない様に、ただ、ひたすら愛らしく、まるで、お嬢さんのような言葉づかいで対応し、わからないことは、可愛い笑顔で、担当の技術系、社員に任せることにしていた。