第30話 船上デートは波乱に揺れて(2)-2

文字数 2,686文字

「仕事、辛いですか?」
「辛くない仕事なんてありますか?」エリカさんは笑った。「でもね、失敗したなって思うことも時々あるんです」
「……どんな?」
「高校卒業してすぐに働かずに、四年生の大学なり短大なり、あるいは専門学校でも、とにかくもう少し勉強してから社会に出た方が良かったのかも、って」なんだかんだ言っても学歴の壁が厚いことを日々実感するんです。お給料も昇進の速さも、全然違ったんです。「あの頃は、職場でいい人見つけて、さっさとお嫁さんになるんだって、そんなことを軽いノリで考えていたから、バカですよね」
「結婚……」
 僕が呟くと、エリカさんは慌ててちょっとだけ大きな声を出した。「違うんですよ! 田中さんにプレッシャーかけたいわけではないんですよ。大丈夫ですから。結婚はとっくに諦めがついているんで」
 ……結婚はとっくに諦めがついているんで? それ、どういう意味?
 面食らうぼくの前でエリカさんはワイングラスを一気に空にした。飲みすぎじゃないだろうか。
 このディナーコースは皿が変わるごとに異なるワインがサーブされる仕組みらしく、グラスを空にするとすぐさまお替わりが注ぎ足されてしまう。配分を考えて飲まないと危険だと気付いたぼくはちびちびとやりながら様子を窺っているのだが、一方のエリカさんは皿ごとに数杯のワインを軽々と流し込んでいる。
 絶対に飲みすぎだ。
 そんなことを思いながらもぼくはエリカさんを止めることもできず、そして自分勝手な気持ちから思わず、
「エリカさん、結婚諦めているんですか?」と、問い質していた。問わずにはいられなかった。「でも、前に子供は欲しいって言っていませんでしたっけ?」
 貧血で病院に担ぎ込まれた次の日だ。エリカさん、そう言ったじゃないか。
「子供?」と、エリカさんの言葉の語尾が上がる「ええ、欲しいです……」
 欲しいですとも。欲しいです。「でも、どんなに欲しがってもタイミングってものがあるじゃないですか」
「…………」
 筋腫のことを言っているんだろうか。
 それは確かに、エリカさんのタイミングは普通の人より厳しいかもしれないけれど……。
 戸惑うぼくを前に、エリカさんは首を振った。
「私の都合は、そのまま私の我儘ですから。もういいんですよ」
 もういい?
「もしかして……」と、ぼくは言った。「過去に何か、ひどいことを言われたんですか、その……」
 男の人から。
 エリカさんは酒ですっかりと潤んだ瞳でぼくを見つめ、首を傾げた。そして、ふふ、と微笑むだけで何も答えず、新しく注がれたワインを口に含む。
 結婚は諦めている。
 ぼくのことは好き。
 子供は欲しい。
 与えられたヒントがうまく繋がらずにぼくは混乱した。これって、どういうことなんだ。エリカさんの人生設計、どうなっているんだ?
 そんなことを思った瞬間に、ぼくは嫌な気持ちに包まれた。
 あの夜、確かに気持ちを確認したあの夜から何一つ変わっていないエリカさんの態度。以前と変わらず淡白な態度をとられている理由。
 ぼくのことは好き。ぼくに好きでいてもらいたい。でも、付き合う気はない。そして、結婚する気もない。ぼくはただ、ぼくの「好き」という気持ちをエリカさんに弄ばれているだけなんじゃ、ないだろうか。
「田中さん、どうしたんですか? 黙ってしまって……」
「あ、いや……」
 ぼくが狼狽(うろた)えているうちに最後のデザートが運ばれてきて、一緒にコニャックが注がれた。デザートにまでお酒が出た!
「ああ、チョコケーキにコニャック……合いますねえ」
 そう言いながらエリカさんは嬉しそうにデザートを口に運び、コニャックを美味しそうに飲み干していく。
 その様子を見ながら、途端にぼくは気付いた。そう思った。
 エリカさんはぼくのことを田中さんと上の名前で呼び、言葉遣いもまだ他人行儀だ。ああ、まあ、ぼくだって他人行儀だけど。いや、だけど、ぼくは、エリカさんのこと、下の名前で呼んでいるし……。
 どうして? とぼくは気付きの後で思った。
 エリカさん、でも子供は、欲しいのだよね? それってどうする気なの?
 直後にぼくの思考が暴走した。
 それって誰の子供が欲しいの? この流れだと欲しいのはぼくの子供じゃないってことになる?
 瞬間的にぼくの心はささくれ立った。それでも懸命に「思い込みだ」「根拠のない妄想だ」と自分を諭そうとした。けれども心のブレーキが壊れたのか、黒い感情にどんどん自分がむしばまれていくのを感じる。
 どうしよう。
 途方にくれる自分の横で、アイラがじっとぼくたちを見つめていた。こういう時に限ってアドバイスをくれる気はないらしい。
 どうしよう。
 呼吸が苦しくなって深呼吸を繰り返した。それでもこの状況はまだマシだったのだ。本当の事件が起きるのは、だってこの後だったから……。
──食後は、どうぞデッキで夜景をご堪能下さい。
 ぼくたちはそう言われて船の外に出た。暑い日中が嘘だったかのように涼しい風が吹いていた。
 何かがおかしい。
「あら?」と、エリカさんが言う。「随分と港から遠ざかりましたねえ」
 ぼくは港を見つめた。小さく街の明かりが線になっている。
 線になっている?
 夜景と言うからには港から見える街の明かりでも堪能するのだとばかり思っていたのに、肝心の港は遥か彼方で堪能するにはちょっと物足りない。
 ……ってかこの船、いつの間に移動したんだ?
 てっきり港の周りを少し動く程度のクルーズだと思っていたぼくは、
「あの」と、慌てて近くのクルーに声をかけた。「夜景って?」
「はい」と、声をかけられたクルーは手を空に向ける。「満天の星空です。今日はとても天気が良く、雲も出ていませんので」
 ぼくはつられて空を見上げた。陸地の明かりから遠く隔てられた海の上で見上げる星。天の川が流れ、無数のきらめきが降ってくるかのようだった。ぼくはすぐに北極星を見つけ、妙な胸騒ぎを覚えた。
「ああ、綺麗ですね」
 と、横でエリカさんがのんびりとした声で呟いている。デッキには他にも大勢の客がいて、みんな思い思いに星空を堪能している様子だった。って、そういうことじゃない。
 陸地から遠ざかったことは、わかった。
 それならいつ、陸地に戻るんだ?
 ぼくはスマホの時計を確認した。このままだと終電を逃してしまう。そんな不安を覚えた時、エリカさんがくしゃみをした。
「エリカさん、中に戻りましょうか」
「そうですね」
 そうして中に戻った時、近付いてきたクルーに言われたひと言にぼくは凍りつくことになる。
「それでは田中様、お部屋までご案内します」
 ……何を、言って。
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登場人物紹介

田中匡樹(たなか・まさき):

 駆け出しのWEBデザイナー。北辰神社を訪れたことで運命がひん曲がる。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち』

迫孝明(さこ・たかあき)

 田中匡樹のクリケットの師匠。

 江莉佳の父。

 石見徹矢の古くからの知り合いで、北辰神社の神主とは小学校時代からの顔見知り。

 駅前でハンバーガーショップを経営する。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

晴陽(はるひ)

 田中匡樹が召喚した。一の巫女。太陽を司る。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

ゴン:

 北辰神社の神使。狐。

 人とは少しズレた感覚を持っている。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

北辰神社のお正月

ギン:

 北辰神社の神使。狐。

 ゴンに比べると良識的。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

北辰神社のお正月

神主

 北辰神社の宮司。かなりの自由人。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

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