第32話 七の巫女、メイ(3)

文字数 3,198文字

 正直言ってしまうと、エリカさんに前夜の記憶がないというのは想定外だった。覚えていないなら覚えていないでエリカさんにとっては大変喜ばしいことだと思うものの、その反面で「昨夜のことですが」を枕詞にしようとしていた当初の予定が狂ったことも間違いなく、その結果どう切り出すにもうまくいかずに相も変らぬポンコツっぷりをぼくが発揮したのは予定調和だったのか。
「前に……」と、喋り出した瞬間からとにかくそれは大失敗だった。「病院帰りに、子供がほしいってエリカさん、言いましたよね?」
「?」
 当然ながらエリカさんは怪訝な顔をした。「何をいきなり、どうしたんですか?」
「あ、だから、その、なんていうか……」と、間違ったことに気付いたぼくは目を泳がせた。「その時、ぼくは『わからない』って答えたはずなんですが」
「そうでしたね」と、エリカさんは笑った。「生まれてくる子供がスライムなのは可哀想なんですよね?」
「あ、あははは、そんなことも言いましたっけ?」……いやな汗が出てきた。どうしよう。
 と、焦って何かを見失いかけたものの、
「でも、それが?」
 エリカさんが首を傾げたのに促され、ぼくは軽く咳払いをしてから答えた。
「あれから随分経つんですけど、もう一度そのことをぼくなりによく考えてみたんですよ」
 その直後、エリカさんの肩がかすかに強張り、震えたのをぼくは見た。
 もしもそれがエリカさんの期待の表れだったのであれば、「子供が欲しいです」「だから結婚してください」とぼくが言うだけできっとスムーズに話が進んだのだろう。けれどもぼくというスライムはこういう時ほど遠回り、茨の道を防具なしに突き進む仕様になっている。
 そして、ぼくは断言していた。「子供は、いらないです」と。
 瞬時に蒼褪め立ち上がりかけたエリカさんの腕を、言った直後にぼくは大慌てで掴んだ。「ちゃんと、最後まで聞いてください!」
「聞きたくありません」
「でも聞いてください」
 ぼくは半ば叫ぶようにそう言っていた。「最後まで、聞くだけでも」
 エリカさんの顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。それはそうだろうと冷静になった今ならわかる。子供を欲しがる女性に子供なんて「不要」だと言うことがどれほど残酷なことか。しかしぼくはここから始めてしまった。だから、ここから意見を押し通すしかなかった。
「これは、ぼくの決意なんです。決意表明です」
「どういうことですか」
 逃げ出そうと思えば逃げ出せただろうに、それでもエリカさんはぼくの隣に座り続けてくれた。いや、あの時のエリカさんはぼくと同じで混乱していて正しい判断が下せなかったのかもしれない。それが結果的にぼくの味方になった。
「考えてもみてください」と、ぼくは言った。「健康な男女の間にだって子供ができないことがあるんです。ましてやエリカさんの場合」
「筋腫のことですか」
「ハードルが上がっていることは事実です。そこは認めてください」
「もちろんです。わかっています。だから……」エリカさんは呟いた。呟いたあとで大きく目を見開いた。
「私、もしかして昨夜、何か言ったんですか?」
「ぼくは、ぼくにできる努力は全部しますけど」
「…………」
「それでも子供ができなかったら……」
 好きな人の子供だから可愛い、と言うエリカさんの価値観は主体が歪んでいた。ぼくはあれを言われた瞬間からそれに気付いていた。「

子供は要らないって、言いたいんです。

です」
「…………」
「そもそも、おかしいですよ。子供って誰のために作るんですか。エリカさんは誰の子供だったら愛せるんですか? 相手のために子供が欲しいなら、相手が要らないって言ったら、それでいいんですよね? ぼくは子供に固執しませんよ。ぼくにとって子供は絶対条件じゃないんです。そして、そうではなくて、エリカさん自身が本当に自分自身のために子供が欲しいと望むのであれば、最後の最後には諦めるという覚悟をしてほしいんです」
「…………」
「あの、ですね、エリカさん!」
 エリカさんのもうほとんど泣いているような顔を見て、完全にぼくは動揺した。「ぼく、チョコミントのアイスは嫌いなんですよ」
「知ってますよ、なんですか、いきなり」
「でも、エリカさんは好きですよね。チョコミントのアイス」
「それがなんだって言うんです。話を変えるにしても唐突すぎですよ」
「ぼくも何が言いたいのかわからなくなってきました……」ぼくも困ったように視線を泳がせた。「でも、チョコミントが好きか嫌いかなんて、考えてみたら大した問題じゃないですよね。でも、価値観がずれているかどうかは言葉に出したからわかるんですよ。言葉にしないとわかんないんですよ。言葉にして初めてぼくたちは同じ土俵に立てるんですよ。だからですね、だからですよ……」
 ぼくもちょっと泣きそうだった。
「話し合うチャンスくらい、ぼくにもくださいよ。喋ってくれないとわかんないんです、ぼくは鈍感なんだから」
「…………」
「子供のことだってそうだし、ぼくたちのこれからの関係のことだって、話し合う前から距離を置かれたら、こっちはどうしていいのかわかんないんですよ」
「私、やっぱり昨夜何か言ったんですね?」
「そんなの何でもいいですよ、もう」
「何でもいいんですか」
「よくないです!」
「どっちですか!」エリカさんは泣きながら笑った。
「エリカさん、しつこく聞いちゃいますけど、ぼくのこと、好きなんですか?」
 エリカさんはぼくを見つめ、涙を拭いながら頷いた。「好きです」
「ぼくも大好きです。だからお願いだから、ぼくのことそばに置いてくれませんか?」
「なんですか、その言い方……」
「ずっとずっと、ぼくはエリカさんと一緒にいたいです」
「……もしかして、プロポーズですか?」
「プロポーズしてもいいんですか? でもその前に、せめてぼくのこと、下の名前で呼んでくださいよ」
「…………」
「あと、手とかも繋ぎたいです。いい年したおっさんが恥ずかしいんですけど、恋人同士みたいなことしたいんです。ちゃんと段階を踏んで、話し合いを重ねていきたいんですよ。だから、あの、だから……」
 ぼくが言い終える前にエリカさんは吹き出した。ぼくは呆気に取られてエリカさんを見つめ、エリカさんが口元を押さえながら笑うさまを見守った。
 こんなに一生懸命喋っているのに、どうしてこのタイミングで笑われなければいけないんだろう。ぼくはやっぱり最弱スライムのままなのだろうか。そんな情けない気持ちがこみあげてきた時、ようやくエリカさんが口を開いた。
「そうですね。私たち、まだスタートラインにも立っていませんでしたね」
 そう言って、エリカさんはぼくの手を握った。
 ……間違いなく、その時のぼくたちはとてもいい雰囲気だった。お互いにじっと目を見つめ合い、無言の中に何かを通じ合わせた。きっと、そのまま邪魔が入らなければキスくらいはしただろう。いや、わからないけど。
 しかし、そのお邪魔虫は場のムードなんかお構いなしにぼくの気持ちに割り込んできたのだ。
 拍手の音が耳元で聞こえたのは、握られた手に自分の手を重ねようとした時だった。ぼくは驚いて振り返り、そこに小さな巫女の姿を認めた。
 メイだ。
 最後の巫女がそこにいた。
 にこにこと微笑みながら拍手をしていたメイはぼくの視線に気付き、「おおっと!」と言いながら手を止めた。そして白い歯を惜しげもなくぼくに見せ、勢いよく手を振った。
「ああ、あたしにはお構いなく、どうぞどうぞ続きをどうぞ!」
 ぼくは宙に浮いていた手で自分の顔を覆い、俯いた。
「どうしたんですか?」と、エリカさん。
「いえ、急に恥ずかしくなってきて……」
「…………」
 耳元でエリカさんが笑う声が聞こえた。
「あれ? 続きはいいの?」と、メイが惚けて言う。
 ぼくはむっとなって、叫んだ。
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登場人物紹介

田中匡樹(たなか・まさき):

 駆け出しのWEBデザイナー。北辰神社を訪れたことで運命がひん曲がる。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち』

迫孝明(さこ・たかあき)

 田中匡樹のクリケットの師匠。

 江莉佳の父。

 石見徹矢の古くからの知り合いで、北辰神社の神主とは小学校時代からの顔見知り。

 駅前でハンバーガーショップを経営する。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

晴陽(はるひ)

 田中匡樹が召喚した。一の巫女。太陽を司る。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

ゴン:

 北辰神社の神使。狐。

 人とは少しズレた感覚を持っている。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

北辰神社のお正月

ギン:

 北辰神社の神使。狐。

 ゴンに比べると良識的。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

北辰神社のお正月

神主

 北辰神社の宮司。かなりの自由人。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

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