第32話 七の巫女、メイ(2)
文字数 2,306文字
酔いに任せてとんでもないことをぶちまけたエリカさんは、実に清々しい気持ちで次の日の朝を迎えたそうだ。思うに、胸の裡 にあった澱 みを全部吐き出したことで知らず重荷から解放されていたのだろう。けれども、その爽快感も現実を認識するまでだった。
まあ、現実を認識したというよりも、現実が理解できないと認識した、と表現した方が正確なんだろうけど。見知らぬ豪華な部屋にいることに気付いたエリカさんは、その瞬間に仰天してベッドから飛び跳ね、そして慌てふためいて目についたドアを開けたのだ。
シャワールームだった。
それから、床で縮こまっているぼくを見つけて悲鳴を上げる。
幽霊でも出たかのような鋭い悲鳴に驚いて目を覚ましたぼくの最初の仕事は、とにもかくにも錯乱するエリカさんを宥めることから始まった。
「田中さん、なんでそんなところに」
「いや、他で寝る場所もなくて」
「え? でも、ベッドの前にソファーだってあったわけですし」
「いや……」と、そこまで答えてぼくは目を丸くした。ぼくはその夜、確かにソファーで寝たはずだ。
そう思った直後に思い出した。この船は人間の認知によって作られた仮想の産物なのだ。そして前夜は……そうだ、そうだった。エリカさんの寝息にドギマギしてしまって眠れるどころではなかったぼくは、あろうことかこんなことを思ったのだ。
「これならシャワールームのほうが快眠できるに違いない」
……と。
つまり、ぼくの認知だけでこうもあっさりと空間が歪んだことになる。あんまりだ。こんな認知の世界はやはり危険すぎるぞとぼくはぼくで思ったわけなのだが、一方のエリカさんはエリカさんでそれどこではなくパニックを起こしていて、
「まさか船内で一泊なんて聞いていませんよ!」と、叫んでいた。「それにこんなに豪華な部屋、私、払えません……」
ネタを明かせばぼくらは実験モルモットなわけなので、きっと料金を払う必要もないんだろう。けど、流石にそれを説明するわけにもいかずにぼくも困り果てた。
「それに」と、エリカさんは呻く。「どうしたらいいのかしら? 服だってこのままでしょう?」この格好で朝から電車に乗るのも恥ずかしいわ……。
と、言いながらぼくを見た。
その間に漂った無言の状態をどう表現すればいいのか、それはぼくにもわからない。エリカさんはたっぷり一呼吸を置いた後で、目を丸くした。そして、
「どうして田中さんはスウェットなんかに着替えているんですか!」
と、怒ったというわけだ。
もちろん怒られる筋合いは一切ないのだが、理不尽だろうが何だろうが怒られれば人は竦みあがってしまうわけなので、「えっと、その、着替えは……」と、ぼくはしどろもどろに適当な言い訳でその場を取り繕おうとした。着替えに関してはユウゴくんから事前に渡されていたのだが、それを説明するとさらにややこしいことになりそうで、
「部屋に入ってから、クルーから渡され……」
「ああ!」
けれども、言い訳の全部を言いきる前にエリカさんが再び声を上げた。「そもそも、部屋にはどうやって来たんですか?」
「え?」
と、ぼくも声を上げた。「まさかエリカさん、覚えていないんですか?」
言われてエリカさんは、「いやだ……」と両手で頭を抱えて首を振る。「全然覚えてない」
ぼくはほっとした。
「そうですか、それなら良かったです」
「良かった? どういう意味ですか?」
蒼白になるエリカさんに、ぼくは慌てて首を振った。「変な意味じゃないですよ!」
「変な意味? とは?」
「…………」
ぼくたちはそろって沈黙し、またしてもその気まずさを耐えねばならなかった。
「まあとにかくですね」と、ぼくは言った。「エリカさんは酔っぱらってそのまま寝てしまったんで、その……」
「そんなに酔っぱらっていたのですね……」エリカさんは嘆いて頭から手を離した。「そういえば、食事の記憶もないかもしれません」
「二日酔いは大丈夫ですか?」
「二日酔い?」
「……大丈夫そうですね」
あんなに酔っぱらって二日酔いにならないなんて、ずるいよ。どういう体質なんだよ。
「エリカさん、とりあえず着替えて朝食に行きませんか? シャワーを使われるならお先に。ぼくも使いたいので」
「シャワー、ですか……」
エリカさんは独り言のように呟いた。「そうですね。浴びてきます」
言ってよろよろと立ち上がり、シャワールームに向かおうとしたエリカさんはそこで、「ん?」と首を傾げてぼくを見た。「田中さんが先に使われたらよかったのでは?」
「ぼくが先に使って汚したシャワールームなんてエリカさんに使わせられますか」
「あら、そんなこと言って」と、エリカさんは豪快に笑った。「私が使った後のシャワールームで変なこと考えませんよね?」
「? 変なこと?」
きょとんとぼくは目を丸くした。
それを見たエリカさんは、その瞬間にどうしてか残念そうな顔になった。そして
「なぁんだ」と、鼻で笑うように呟いた。「恥じらったのは私だけですか」
「…………」
三度の沈黙の後、ぼくは沸騰した。なんてこった!
おかげでぼくは、顔を真っ赤にしながらシャワーを浴びる羽目になってしまった。エリカさんはどうしてそんな余計なことを言ったんだろうか、もう。
その後は無事に朝食にありつき、船が港に戻りまでの残りの時間をデッキの上にあるパラソル付きのテーブルで過ごすことにした。やたらとおしゃれな見た目のオレンジジュースをサービスされ、それを前にいよいよぼくの方は決意を固めていく。
海風を感じながらごくりと一度、唾を飲み込んだ。大きく息を吸い、一気に吐き出すようにして、言った。
「エリカさん、話があります」
まあ、現実を認識したというよりも、現実が理解できないと認識した、と表現した方が正確なんだろうけど。見知らぬ豪華な部屋にいることに気付いたエリカさんは、その瞬間に仰天してベッドから飛び跳ね、そして慌てふためいて目についたドアを開けたのだ。
シャワールームだった。
それから、床で縮こまっているぼくを見つけて悲鳴を上げる。
幽霊でも出たかのような鋭い悲鳴に驚いて目を覚ましたぼくの最初の仕事は、とにもかくにも錯乱するエリカさんを宥めることから始まった。
「田中さん、なんでそんなところに」
「いや、他で寝る場所もなくて」
「え? でも、ベッドの前にソファーだってあったわけですし」
「いや……」と、そこまで答えてぼくは目を丸くした。ぼくはその夜、確かにソファーで寝たはずだ。
そう思った直後に思い出した。この船は人間の認知によって作られた仮想の産物なのだ。そして前夜は……そうだ、そうだった。エリカさんの寝息にドギマギしてしまって眠れるどころではなかったぼくは、あろうことかこんなことを思ったのだ。
「これならシャワールームのほうが快眠できるに違いない」
……と。
つまり、ぼくの認知だけでこうもあっさりと空間が歪んだことになる。あんまりだ。こんな認知の世界はやはり危険すぎるぞとぼくはぼくで思ったわけなのだが、一方のエリカさんはエリカさんでそれどこではなくパニックを起こしていて、
「まさか船内で一泊なんて聞いていませんよ!」と、叫んでいた。「それにこんなに豪華な部屋、私、払えません……」
ネタを明かせばぼくらは実験モルモットなわけなので、きっと料金を払う必要もないんだろう。けど、流石にそれを説明するわけにもいかずにぼくも困り果てた。
「それに」と、エリカさんは呻く。「どうしたらいいのかしら? 服だってこのままでしょう?」この格好で朝から電車に乗るのも恥ずかしいわ……。
と、言いながらぼくを見た。
その間に漂った無言の状態をどう表現すればいいのか、それはぼくにもわからない。エリカさんはたっぷり一呼吸を置いた後で、目を丸くした。そして、
「どうして田中さんはスウェットなんかに着替えているんですか!」
と、怒ったというわけだ。
もちろん怒られる筋合いは一切ないのだが、理不尽だろうが何だろうが怒られれば人は竦みあがってしまうわけなので、「えっと、その、着替えは……」と、ぼくはしどろもどろに適当な言い訳でその場を取り繕おうとした。着替えに関してはユウゴくんから事前に渡されていたのだが、それを説明するとさらにややこしいことになりそうで、
「部屋に入ってから、クルーから渡され……」
「ああ!」
けれども、言い訳の全部を言いきる前にエリカさんが再び声を上げた。「そもそも、部屋にはどうやって来たんですか?」
「え?」
と、ぼくも声を上げた。「まさかエリカさん、覚えていないんですか?」
言われてエリカさんは、「いやだ……」と両手で頭を抱えて首を振る。「全然覚えてない」
ぼくはほっとした。
「そうですか、それなら良かったです」
「良かった? どういう意味ですか?」
蒼白になるエリカさんに、ぼくは慌てて首を振った。「変な意味じゃないですよ!」
「変な意味? とは?」
「…………」
ぼくたちはそろって沈黙し、またしてもその気まずさを耐えねばならなかった。
「まあとにかくですね」と、ぼくは言った。「エリカさんは酔っぱらってそのまま寝てしまったんで、その……」
「そんなに酔っぱらっていたのですね……」エリカさんは嘆いて頭から手を離した。「そういえば、食事の記憶もないかもしれません」
「二日酔いは大丈夫ですか?」
「二日酔い?」
「……大丈夫そうですね」
あんなに酔っぱらって二日酔いにならないなんて、ずるいよ。どういう体質なんだよ。
「エリカさん、とりあえず着替えて朝食に行きませんか? シャワーを使われるならお先に。ぼくも使いたいので」
「シャワー、ですか……」
エリカさんは独り言のように呟いた。「そうですね。浴びてきます」
言ってよろよろと立ち上がり、シャワールームに向かおうとしたエリカさんはそこで、「ん?」と首を傾げてぼくを見た。「田中さんが先に使われたらよかったのでは?」
「ぼくが先に使って汚したシャワールームなんてエリカさんに使わせられますか」
「あら、そんなこと言って」と、エリカさんは豪快に笑った。「私が使った後のシャワールームで変なこと考えませんよね?」
「? 変なこと?」
きょとんとぼくは目を丸くした。
それを見たエリカさんは、その瞬間にどうしてか残念そうな顔になった。そして
「なぁんだ」と、鼻で笑うように呟いた。「恥じらったのは私だけですか」
「…………」
三度の沈黙の後、ぼくは沸騰した。なんてこった!
おかげでぼくは、顔を真っ赤にしながらシャワーを浴びる羽目になってしまった。エリカさんはどうしてそんな余計なことを言ったんだろうか、もう。
その後は無事に朝食にありつき、船が港に戻りまでの残りの時間をデッキの上にあるパラソル付きのテーブルで過ごすことにした。やたらとおしゃれな見た目のオレンジジュースをサービスされ、それを前にいよいよぼくの方は決意を固めていく。
海風を感じながらごくりと一度、唾を飲み込んだ。大きく息を吸い、一気に吐き出すようにして、言った。
「エリカさん、話があります」