第10話

文字数 7,362文字

 米飯、豆腐とニラ入り味噌汁、ツナオムレツにミックスベジダブルソテー……床頭台の、引き出した天板上の朝食をロバ先生のどよんとした視界に入れ、ぽつんとベッド端に腰かけた前で牛乳パックにストローを刺し、先割れスプーンを差し出したところ、回路がどうにかつながったらしいロバ先生は、のろ、のろとそれを手にした。
 どうぞ、食べてください……また後で来ます……――
 それだけ言って、自分は106号室を出た。ディアを真似てみようとも思ったのだが、どうしてもいら立ちが先に立ってしまう……見ているだけで、リハビリをしたくてたまらなくなる……――
 早く戻らないと……――
 逆時計回りの配膳車より先に、とデイルームの大型モニター前を横切って自室に急ぐ。こっちとあっち、行き来しなければならないのが大変だが、かといってロバ先生と四六時中というのも……もっとも、ノラのうめきを耳にしていると、ここ以外ならどこでもよくなってくる……しかし今はまだ、勝手な行動を慎まなければならない。自治会長選挙の結果と、それでどう変わるのか見定めてから……自分の朝食をかき込んで106号室にとって返し、霧の中をさまよう食べ方のロバ先生を急かす。配膳車の回収に間に合わなかったら、世話をしているこっちの評価にも響きかねない。
 おかず、これまだたくさん残ってますよ、ほら……――
 しかしロバ先生は食が進まないらしく、ようやく半分くらいで先割れスプーンは動かなくなってしまった。まあ、いいだろう……とにかく、返すのさえ遅れなければ……自分は食べ残しごと食器とトレイを返却し、また北西の端へと息を荒くした。自分がいなければディアが一緒に返してくれるだろうが、そういうことはしてほしくなかった。
 無事に配膳車への返却を終え、テレビをつけて自分は寝床にへたり込んだ。急ぎ足での何十メートルの往復で、これでは……このまま社会復帰したら、働くどころか通勤さえ一苦労だ。自宅で座ってできる仕事、なんて選択肢は、自分にはないのだから……一休みしたら、壁腕立て伏せから始めよう……無駄に騒がしい朝の情報番組が、奥のうめき、あちらの壁際に座るディアを紛らわせる。
 元・自治会長が再選されれば、これまでの日常が続く……――
 気だるくぼやけ、消えそうになるそれをつなげていく……もし、ジャイ公が勝利したら……あの公約の半分、三分の一でも果たされればと思うが……どうせならいっそのこと、何もかもぶっ壊してくれれば……そうすれば、ロバ先生やノラから解放されるだろう……こめかみがどくどくと脈打ってきたとき、テレビが見えるように開けていた間仕切りカーテンの向こうからディアが話しかけてきた。
「……奥の子、落ち着かないわね」
 えっ、と眉を曲げ、自分は奥をうかがった。そういえば、昨日辺りからもぞもぞしているような……適当にうなずくと、ディアはさらに続けた。
「ずっとうめいて、つらそうよね……どうにかしてあげたいけど……先生はどう? 朝食は、ちゃんと食べた?」
 ええ、まあ……――
 半分くらい残したのは、こちらのせいじゃない……横顔を向けると、テレビがじゃりじゃりと騒がしくなる。奥からまたうめき声がし、あちらへと寝返った。
「……どうなるのかな、選挙……」
 つぶやきなのか、問いかけなのか……何とはなしに自分は、壁際のほこりに目を細めた。部屋の掃除はディアに任せており、やった後は一応きれいになっているのだが、いつのまにか繊維クズやら毛髪やらがたまってしまう……――
 どうして、介護の仕事なんかやってたんですか……――
 選挙の話を避けようとそんな問いをし、口にしてしまってから、なんか、というのはまずったと思ったが、ディアは質問そのものに意表を突かれたらしく、目を沈めてしまった。
「……向いているとは、思ってなくて……」
 か細い声はテレビにかき消されそうだったので、自分はそちらに耳を傾けざるを得なかった。
「……そういう仕事しかなかったから……いまだに無資格だけど、経験があるからってあの子の世話を任されたの……」
 ディアは奥をちらっと見て、眉間のしわを悩ましげに深めた。
「……今でも正直、好きでやっているとは言えない……だけど、放ってもおけなくてね……ごめんなさい……」
 それは懺悔にも聞こえた。どう返したらいいのか分からず、自分は黙っているしかなかった。それは、そうだろう……他人の下の世話やら何やら、そんなものを喜んでやる人間がいるものか……ましてや、ロバ先生やノラみたいな相手なら……ふと、101号室での足音がよみがえる。あれがディアだったとしたら、罪悪感からではないか……顔を巡らせた自分は、浮かび上がった目と合った。
「……あなたが手伝ってくれるから、こうしてやっていられるんだと思う。独りだったら、きっとまた……」
 自分は、ぎこちなく視線を外した。こっちは、あんたを利用しているだけだ……ノラとかかわりたくない、ロバ先生とも縁を切りたいんだ……いたたまれなくなり、トイレに行く振りをして通路に出るや、マール、マール、マール……徳念がこの行き止まりに押し寄せてくる。それはどこかはずみ、胎動していると感じられ、手すりにつかまった自分を運んでいった。
 共同トイレ奥の個室で腰を下ろし、パンツとブリーフ越しの冷たい座面に震えながら指を組み、前屈みになって自分はようやく肩の力を抜いた。やはり、ここが一番落ち着く……だが、さっきの話のせいで頭がぶすぶすし、いたずらに立ちこめていく……そういえば、ウーパーもここに入っていたっけ……この冷えきった、狭苦しい空間で何を思っていたのか……と、壁越しに何やら問わず語りが聞こえてくる。
「真偽は分かりませんが、一般論として性暴力は重大な人権侵害です。決して許されることではありません。――」
 徳念と混じった黒ヤマネコの、ビターなカフェ・ラテ風のそれが響いてくる。これでは、元・自治会長へのネガティブ・キャンペーン……ジャイ公に分があると踏んだのだろうか……フォロワーの不揃いな足音と巡っていくうち、この構造物の重心がずれていくように感じられた。
 そうした感覚は、時が刻まれるにつれて強まっていった。奉仕活動では何とジャイ公がごみ袋片手に取り巻きとフロアを回り、濁った猫なで声で自身への投票を呼びかけていく。北館だけでなく南館までぐるりと、どう思われていようが売り込む図太さは大したもの……奉仕活動参加者も当然その対象で、掃除を始める前に自分もちょっとした選挙演説を聞かされる羽目になった。
 もっともそれは序の口、ホップ・ステップ・ジャンプのホップだった。配膳車が昼食を回収してまもなく、ミッチーが、これからデイルームで演説があるぞ、と有無を言わせない口ぶりで回ってきた。奥からのうなり声が高まり、ミッチーが岩塊でも投げつけんばかりにそちらをにらんだので、自分は居住まいを正して、はい、と返事をした。ノラのせいでとばっちりを食ってはかなわない……――
「じゃあ、遅れるなよ!」
 出っ歯をのぞかせて舌打ちし、どっと片引き戸が閉められる。その間、壁際で膝を抱えていたディアには目もくれなかった。奥のうなりは潮のごとく引いてうめきになり、あえいでもぞもぞと身をよじった。自分は億劫がる腰を上げ、黒サンダルをつっかけた。
「大変だね……」
 そういたわるディアにうなずき、部屋を出て自分は手すりにつかまった。デイルームに向かう、傾き、曲がったストライプ柄がいくつか見えた。
 また、寝床を勧めようか……――
 ディアは朝食、昼食ともほとんど残しており、いくらか上向きだった調子を崩していた。ジャイ公が自治会長になるかもしれない、それが原因だろう。しかし自分は、結局足を引きずって歩き出した。体調が悪いから、とそのまま居座られでもしたら……あそこは自分のテリトリー、湿気っていようがダニか何かに刺されようが、寒さをしのいで休める場所なのだから……マール、マール、マール……デイルームにはすでに十数人がばらけており、大型モニター前にはジャイ公、ミッチーやフォックスら取り巻きが陣取ってる。その脇にこわばったのっぺり顔が、店頭のスタンド看板さながらに立たされていた。
 ウーパーが指を組んだ、小さな両手越しの下腹部を自分はそれとなくうかがった。病衣の上から分かるほどではない。それにしても、ここの貧しい食事でちゃんと育つのだろうか……ともかく、これでまたゾンビが増えるかもしれない……自分は嫌な気分になった。ゾンビなのだ、ゾンビの子なのだ……生まれてこない方が、むしろ幸せなのではないだろうか……――
 ぐずついてきた腹をさすって時計を仰ぐと、くねくねした歌声が聞こえてくる。ケロノがいつもの場所から、甘えるように喉を震わせていた。新しい明日だのアップデートだの、相も変わらず陳腐な歌はジャイ公におもねっているらしく、ちら、ちら、とそちらに流し目をしている。
 やがて大半が北館の聴衆は間を空けて並び、その数は全被収容者の半数をゆうに超えた。エレベーター側に立つ南館の面々は、ジャイ公が何を考えているのか、どうしようというのか、という不安げな表情をしており、概してのぼせた目つきの北館側とは対照的だった。腕組みをしたジャイ公はそれらを眺め、ミッチーらに目配せして鼻を膨らませた。
「皆さん! お集まりいただきありがとうございますっ!」
 腹の底からのどら声、生配信をスタートさせるテンションでこぶしが振り上げられる。そしてジャイ公は、声高に公約を語り出した。指導局に掛け合って北館のエアコンの設定温度を上げ、食事の献立を南館並みにする、過剰収容で不足している寝床も確保する等々、とりわけ北館側が喜ぶ話が大半で、取り巻きから拍手があり、北の聴衆が前のめりになるほどかがり火さながらに燃え盛った。立ちこめるすえた熱気に自分はむせそうになり、うまい話だと思いながらも巻かれていく……――
「オレはやる!」突き上げられる、むっくりした右こぶし。「レイプ魔なんかには負けない! オレはやるぞっ!」
 北館の面々から、油が跳ねるような拍手――湯気の立つ目は、ジャイ公をいっぱいに映していた。デイルームまでもが、どくん、どくん、と高鳴っているようだった。南館側の多くはしわ寄せを心配している顔だったが、素朴に拍手している者もいれば、おべっかそのものといった叩き方のケロノもいる。にんまりとし、両こぶしを突き上げる主役の横でウーパーは下腹部をかばい、他人事という顔をしていた。
「ようし! それじゃ、景気づけするぞ!」
 ぱんっ、と手を打ったジャイ公に、ミッチーが特大サイズのギフトボックスを手渡す。中には色とりどりの、けばけばしいキャンディ包みが、ぎっしり……一見したところ二百か三百、もしかするとそれ以上ありそうだ。そこにショベルカーを思わせる手が突っ込み、ぐわしっとわしづかみにする。
「ブランドのプレミアムチョコレートだぞ! ブランドのプレミアムっ!」
 そしてジャイ公は最前列から一人ひとりに、よろしくな、頼むぞ、と気前よく配り始めた。これは、買収では……しかし、そんな指摘はどこからもなく、それどころか自ら手を差し出す始末……ブランド、というのが本当かは知らないが、口にする機会のない者にはチョコレート一粒が黄金一塊と等価値に感じられなくもない……――
「オレはやるからな! よろしく頼むなっ!」
 汗ばんだ熱い手が、数個のチョコをこっちの手に押し付ける。ぎらぎらの笑顔に圧倒され、自分は言葉未満の声を返しただけだった。ゴールド、ブルー、シルバー、レッド、パープル……手の中でぎらつく、キャンディ包み……南館の聴衆にもしっかり握らせ、ジャイ公は豪快に手を振って一同に呼びかけた。
「これからフロアを一回りする。一緒に来てくれ!」
 ミッチーがウーパーを追い立て、ぎらつきを握る者たちが数歩ずつ遅れていく……マール、マール、マール……間を空けた行進はデイルーム西側から北館を回っていき、先頭のジャイ公が遠慮なく片引き戸を開け、ずかずかと入っては投票を呼びかけていく。開けっぱなしのそこを後からのぞくと、誰もがキャンディ包みを手にしてあっけにとられている。
 オレはやる、オレはやる、オレはやる――
 どら声の連呼に徳念がブレンドされ、シュールな合唱になっていく……右や左に姿勢がゆがみ、足を引きずっていく流れは、北西の角部屋を抜かして北通路に入った。こうして歩くだけでもゾンビには重労働にも等しく、前からも後ろからも荒い息遣いが聞こえてくる。引っ張られていくうちに間隔が狭まり、とうとう左手首の黒輪が一斉に鳴り出したが、ジャイ公はひるむどころか左こぶしを突き上げ、いっそうどら声を張り上げた。
 近付くな、かかわるな、重症化リスクが……――
 そうしたアラートは、オレはやる、オレはやる、というシュプレヒコールで化学反応を起こして、熱烈な歓声に聞こえてきた。ウォッチを押さえ、いつスピーカーから天の声がとどろくかとびくついていた自分だったが、もうどうにでもなれと声を出し、こぶしを突き上げた。罰せられるときは、自分だけじゃない……どんどん熱くなって視界がかすみ、霧の中を歩いている心地で叫ぶたびに鬱憤が薄れていく……東通路を下る先頭はエレベーターホールを通過し、106号室を素通りしてその次を開け、我が物顔で入っていく。
「レイプ反対! レイプ反対っ!」
 そう訴えながら、やはり南館でもチョコを押し付けていく。困惑されようが眉をひそめられようがお構いなし……レイプ反対、レイプ反対、オレはやる、オレはやる――熱に浮かされ、たぎる血のままに自分も声を上げ続けた。
 東南の角に差しかかったところでなぜか行進が早まり、どら声がメガホンから拡声器レベルになって、レイプ反対、レイプ反対、とがなり立てる。遅れて角を曲がった自分が目にしたのは、ぎりぎりとしわを引きつらせる老ヒツジ面……そのそばで、片引き戸が中から閉められる。
 あそこの部屋は確か、黒ヤマネコの……――
 選挙運動をしていたのだろう……と、対立候補めがけて、ジャイ公の手から毒々しい色彩が飛ぶ。
「レイプ反対っ! レイプ反対っ!」
 豆まきさながらにチョコをぶつけられて悲鳴を上げ、元・自治会長はゆがんだ右側によろけた。いい気味だ……燃え上がるシュプレヒコールにたじろぎ、通路の壁を背にした獲物は吠え立てるジャイ公、その近くでうつむくウーパーをにらみ、紫がかった唇をわななかせた。
 レイプ反対っ! レイプ反対っ! レイプ反対っ!――
 ひとしきり暴れると群れはまた動き出し、散々辱められたみじめな姿が残される。熱情に酔ったゾンビの列はフロアを一回りし、息を切らしながらデイルームに並んだ。間隔を取ったことでウォッチは静まり、空のギフトボックスを小脇に抱え、荒く肩で息するジャイ公は脂ぎった笑みでガッツポーズをキメた。
「ありがとう、みんな! オレはやるぞ! 投票よろしくなっ!」
 耳を聾する拍手が応え、自分もそれにおぼれていった。とにかくやってほしい……もうろうとした頭には、それしか浮かばなかった。興奮のうちに集会は終わり、手を振るジャイ公がウーパーを連れ、ミッチーらと去って、聴衆は火の粉のごとく散っていく……自分も遅れて、熱に浮かされたまま歩き出した。
 そういえば……――
 ロバ先生のことが浮かぶ。食後しばらくしたら、トイレ……白けた気分で足を向け、106号室を嫌々のぞいて……――
 はっ!?――
 衰弱し、横たわった老ロバそっくりだった。裸足のままパイプベッド近くに倒れ、途方に暮れた顔のロバ先生……生きてはいる、けがは……近付いたところ、ねっとりとした糞尿の臭い……下半身からのにじみに自分はうめき、ウォッチを気にしながら声をかけた。
 ちょっと、大丈夫ですか……ほら、起きて、起きてください……――
 どうにかしようと押したり、持ち上げようとしたり……アラートが鳴り出し、かき乱されながらロバ先生を四つん這いにさせて、さながら四つ足に直立を教えるごとく、パイプベッドを支えにさせ、ぐいっと腰を持ち上げて、ようやく立ち上がらせることができた。幸いにして、骨折などはしていないらしい……寝たきりになったら一生面倒見ろよ、というミッチーの言葉が遠のいていく。それにしても……――
 勝手なことをするから、こんなことになるんだ……――
 口の中でののしり、ぐたっとしたロバ先生を横目でにらむ。自分が来るまで待っていれば、倒れることも漏らすこともなかっただろう……ともかく、汚物とかを始末しなければ……――
 自分はバケツなどを用意し、立たせたままストライプ柄のパンツ、それからそろそろとブリーフを下ろして、うわっ、としかめ面を背けた。尿取りパットいっぱいの尿、そして泥状の便……その一部は、ギャザーからあふれている。やってくれたものだ……そのパットをバケツに入れ、二重三重に折ったトイレットペーパーで肛門から拭く。泥状便の、ぬろぬろした拭き心地が気色悪い……とりあえずきれいにし、新しいパットを入れたブリーフ、パンツを腰まで上げる。漏れで多少汚れてはいるが、そう目立たないし、そのうち乾くだろう……デモの疲れもあって、手間は少しでも省きたかった。一仕事終えた自分は後ろに下がり、騒がしいウォッチを押さえて、はっとした。
 凍て空の下、びしょ濡れで震えている……そんな哀れな背中が曲がっていた。
 自分は後ろによろめき、さらに一、二歩離れた。アラートがやみ、静かになった室内に外から徳念が響いてくる……マール、マール、マール……――
 仕方ないだろ……――
 こんなふうに手を煩わせるから……そう思いながら、自分はよじれそうになった。たまらずバケツを提げ、汚物処理室に逃げ込む。汚物ごと尿取りパットを捨て、バケツを何度もゆすいで……今やあの興奮はすっかり冷め、ちりちりと痛む腹と寒気とで震えがひどくなっていく……なぜ、こんなことを……何のために……その脳裏に鈍色の影がちらつき、少しずつ形として迫ってきた。
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