第9話

文字数 7,188文字

 がほっとむせ、悪臭こもる暗がりでもがき、必死に這い出して……どっ、どっ、どっ、と胸が震え、汗ばんだ肌に寒気が走る。
 また……――
 底冷えのする闇の奥から、摩耗の息遣い……自分はまた寝床に潜り、そちらを背に縮こまった。はっきりと夢を見るわけではない、何か見たとしても覚えてはいないのだが、泥に埋もれていくような苦しみだけは……しかも日を追うごとにひどくなっていく。疲れのせいだろう……病を押してのリハビリに加え、ロバ先生の介護……早朝のトイレ誘導から始まって、朝昼晩の食事の世話、エレベーターの操作パネルをいじったりしないようにして、日によってはシャワー浴やリネン交換……昨夜は歯磨きをする気力もなく、ロバ先生を寝かせると早々に床に就いた。ディアはディアでよろよろとノラの世話をしており、自分がやると言った手前もあって頼るつもりはなかった。
 それにしても……――
 壁際のかすかな寝息に耳をそばだて、自分はぎゅっと掛け布団に包まった。ディアは声をかけたあのときも、その後もこの寝床で休もうとはしなかった。居候みたいなものだし、遠慮しているのだろうが……いずれにせよ、自分が社会復帰すれば、この寝床はディアのものになるだろう。そのためにもリハビリに専念しなければ……ウーパーの体調はまだ戻らないのだろうか……横になっていられず、自分は床頭台を手探りした。
 T字カミソリとフェイスタオルを持って出た通路は、薄暗くぼやけていた。マール、マール、マール……日中より音量の低いそれが、骨身にしみてくる。
 ……――
 あの晩のことがよみがえり、足がすくむ……皮肉にも催してきた下腹部を引き締め、手すりを両手でつかんだ自分は、ほどなく共同洗面所で角型鏡の前に立った。
 思わず目を背けそうになる、そんな顔だった。
 青ざめた顔は煤け、目元は黒ずんでいて……頬には、治りきらない引っかき傷……昨日より、日を経るごとにひどくなっていく……この病に冒される前はどうだったか、どうにも思い出せなかった。目の焦点をぼかし、しょっ、しょっ、とひげを剃ったら、清潔感というよりも生気が薄れてしまった。
 冷水で顔を洗い、かすかに震えながら戻った自分は、行き止まりの隅にしゃがんだ。
 朝まで、ここにいよう……――
 洗面用具を脇に置き、膝を抱えて……ディア、何よりもノラがいるところに入りたくはない。身を縮めながら徳念にさらされ、うつらうつらしているといつもの号令がかかり、明るくなったフロアがもぞもぞとうごめく。
 そうだ、ロバ先生……――
 ぼわっとした頭に浮かび、自分はふらふらと立ち上がった。起床時間前のトイレ誘導では、いつも尿取りパットはびっちょり……取り替えるのが遅れたら……――
 息を乱して106号室に入ったところ、仰向けのロバ先生は口を半開きにしていた。いびきもかいておらず、血の気のなさもあって遺体と間違ってしまいそうだ。輪投げのごとく声をかけ、数ミリずつ近付くとまぶたが動き、わずかに開いたので自分は安堵した。
 朝ですよ、起きてください――
自身のウォッチを背中に隠し、掛け布団を無造作にはいだところ、ぬふっと悪臭……股の湿ったパンツが目に飛び込む。これは、尿だけじゃない……とにかく、早いところどうにかしなければ……スピーカーからの脈動に焦り、タイムリミット間近の時限爆弾を持て余して自分は手振りをした。
 早く、早く起きて! 漏れてますから、今すぐトイレに行かないと! ほら、サンダル履いてください!――
 やっとのことで起き上がりはしたが、くしゃくしゃの白髪頭は垂れたままだった。もたもたしていたら朝の体操が始まってしまう……参加できなかったら、自分の評価は……語調を強め、躍起になるもロバ先生はうつむくばかり……互いのウォッチが鳴り出し、とっさに下がった自分は相手をにらんだ。アラートがのぼせた奥まで響き、ぎりぎりと歯がみして……こみ上げるものが噴き出す寸前、遠慮がちなノックが聞こえた。
「どう? 様子は……」
 部屋をのぞき、壁に手をつきながら入ってくるディア……自分は憤った顔を背け、ウォッチを押さえながら奥に離れた。ディアはおおよその状況を察したらしく、パイプベッドの足下側にふらつきながらしゃがんだ。
「お、おはようございます……」
 掛け布団に手を置き、ディアは顔をのぞき込んだが、相手の反応はなかった。
「あの、どうされましたか……」
「……死にたい」
 ぽたり、とロバ先生は漏らした。隅の自分は水をかけられたようになり、ディアはぐらついて倒れそうになった。
「……死にたい、ですよね……」
 パイプベッドを支えにし、ディアはたどたどしく、それでもかみ締めようとするように口にした。自分はただ、ふたりを見ていた。外からあおり立てる音楽をよそに、そこだけの時が重ねられていく……と、それぞれのウォッチが騒ぎ出して、よろけたディアが床に膝をつく。ロバ先生は左手首の黒い輪に目をやり、おもむろにベッドから足を下ろした。
「せ、先生、どちらへ?」
「……帰らないと……」
 アラートを誤解したのか、裸足でよたよたと部屋を出ていこうとする。
「そ、それでしたら……あの、わたしがご案内します。ええと、その前に身だしなみを整えましょう。寝起きのままですから……」
 ああ、とロバ先生は鈍くうなずき、黒サンダルを履かされた。その腰に手を添えたディアは替えの尿取りパットを一枚持ち、こんなふうに対応すればいいよ、という顔をこちらに向けて、アラートに構わず付き添っていく。後を追わない自分の前で、片引き戸は緩やかに閉まった。
 他人の世話どころじゃ、なかったくせに……――
 強制終了されはしたが、あのオンライン面会からディアは持ち直す、というよりも変わっていくようだった。奇形のさなぎがもがき、少しずつ皮を破っていくみたいに……それに何やらかき乱される自分は、ディアのそばにいたくなかった。
 何が支援団体だ……勝手にすればいいんだ……――
 部屋を出た自分はディアたちとは反対、デイルーム側から行き止まりに戻った。奥のうなりを無視し、床頭台に洗面用具を戻して通路に立つ。すでに被収容者の大半が並んでおり、タクト大振りの楽曲が終盤に差しかかった頃にジャイ公たちが顔を見せた。
 今朝のどら猫面は妙に張り詰め、殴り込みを控えたやくざを思わせた。ミッチー、フォックスも言葉少なに朝の体操を待っている。そして一仕事終えたディアが戻ってきて、自分はぺこっと苦々しく頭を下げた。
『それでは、今朝も元気よくリハビリ体操を始めましょう!』
 快活な声が響いてもウーパーは姿を見せず、今日も一日ロバ先生の面倒を見るのかと自分はうんざりした。スピーカーからのかけ声に合わせて腕を振り、膝を曲げるゾンビたち……ジャイ公のそれはいつになく力んでおり、指導員に褒められると、ありがとうございます、と慇懃に返していた。
 そうして朝の体操が終わり、発酵しすぎた糠床っぽい汗臭さがデイルームに流れ出す。ジャイ公はなぜか部屋に引っ込み、いぶかった自分は、はあ、はあ、と肩を上下させるディアを背にミッチーらの後に続いた。
 大画面を占める社章の前に並ぶ、頭を下げた青い無表情……寒色半纏姿の自治会長、黒ヤマネコらが最前列の南館側は、いつもと同じく透明な仕切りボックス入りだったが、北館側はところどころ狭く、アウトラインも乱れていた。過剰収容にもかかわらず一定のスペースに詰め込もうとするからであって、それが姿勢のゆがんだ面々を一段とみっともなく見せていた。
 早く終わってくれ……――
 まだ一日は始まったばかりだが、血管を石膏が流れるみたいにだるい……徳念を聞かされていると、なおさらひどく感じられて……自分が最後列で苦っていたところ、ジャイ公がなんとウーパーと北館の最前列の横に付いた。引き出されてきたのか……ストライプ柄の間から見える、そびえるジャイ公の背を前にうつむく、ずんぐりとした後ろ姿に自分は視線を注いだ。朝礼に出られるのなら、ロバ先生の世話だって……うかがう視界は、ほんのり明るくなった。
「皆さん、おはようございます!」
 腕組みのヘッドが活を入れ、説教臭い訓示を垂れ始める。巷ではゾンビが増えており、この施設でもやむなく定員以上に受け入れている……血税が投入されているのだから、一日も早く社会復帰できるようにたゆまぬ努力を……鞭をしならせ、びしゃっと脅かしてはいたが、打ってきそうなほどの熱意は感じられない。微熱で潤み、かすんだ目で自分は頭をひねった。考えてみれば頭数と儲けは比例するのだから、誰も社会復帰しない方が好都合なのではないか……だが、このまま過剰収容が進んでいったら……垂れた頭への訓示が終わり、列の左右に立つ指導員の事務連絡も済んで、ようやく終わりかともぞもぞしたとき、ぬっとジャイ公が挙手をした。
「ジャイ公、じゃなくて1945番」
 ヘッドの黒グローブに指差され、許可されたジャイ公はこちら側に向き直った。上目遣いに一瞥、もしくは斜にうかがう被収容者たち……過剰収容への不満ではないか……南館批判も飛び出すに違いない……そう踏んでいるであろう南館側の列は、ほとんど関心を示さなかった。がっちり腕組みのジャイ公はそれらを見渡し、鼻の穴を広げて溜めてから一気に吐き出した。
「3301番は、妊娠しているっ!」
 拡声器で増幅したようなどら声がとどろき、えっ、と自分は耳を疑った。デイルーム中の視線がジャイ公、次いでうつむいたウーパーに集まる。ディアでさえも目を丸くしていた。
「ほ、本当なのか」
 寝耳に水らしいヘッドが問いただすと、ジャイ公はさも深刻そうな顔で、はい、とうなずいた。指導員の片方がウーパーに上衣の裾をめくらせ、下腹部を確認して、舌打ちとも嘆息ともつかない声を漏らす。妊娠は間違いないらしい……――
「ゾンビが、妊娠なあ……」
 腕組みのままヘッドは、あきれ果てたと言わんばかりのため息をついた。ゾンビの赤ん坊……それはつまり、ゾンビが増えるということ。社会のお荷物が……非常識だ、無責任だ、身勝手だ、ゾンビなのに……ストライプ柄の構造はそう語っており、自分としてもそれらを認めないわけにはいかなかったが、それよりもこの火刑台に集まったような空気には覚えがあった。あのとき……臨時集会を思い出し、自分は人知れずおののいた。それにしても、相手は誰なのだろう……入所前のことだったのか、それともまさか、ジャイ公では……――
「相手は自治会長だ!」声を張り上げ、ジャイ公は指差した。「レイプされたんだ! レイプうっ!」
 いびつな病衣の列が揺れ、名指しされた自治会長は色をなした。はく製のヒツジ面が角のねじれた雄ヤギに寄った。
「で、でたらめを言うなっ!」
 これほど怒りあらわな自治会長は、自分は初めてだった。ジャイ公は腕組みを崩さず、ミッチーとフォックスが脇から、マジかよ、信じられねえ、などと騒ぐ。南館側は嘘だろうという表情だったが、北館側は興奮気味にざわついており、自分の胸もいつしか高鳴っていた。
「それは、私には関係ない!」
 一歩踏み出した自治会長の、傾いた骨組みが右に振れる。激情に震える顔の、突っ張るしわからは血が噴き出しそうだった。
「よくもそんな……名誉毀損だぞっ!」
「そう訴えているんですよ、被害者が」
 ジャイ公はにらみ返し、ウーパーをじろっと見た。
「言うことを聞け、聞かないとひどいことになるぞ。そう脅されたんだよな?」
「……はい……」
 下腹部で両腕を重ね、ウーパーはあえぐように答えた。列はまた揺らめき、北館側から火の手が上がり始める。騒ぎ出しはしなかったが、日頃の恨みや妬み、過剰収容のストレスから青い病身の内部で火勢は強まっていく。
「3301番の妊娠は――」黒ヤマネコが口を入れる。「間違いないようですが、父親のことは本当なのですか?」
 もちろん、とジャイ公が断言し、違う、と唾を飛ばした自治会長が前のめりに一、二歩出る。南館の列から離れるほど、箔が落ちていくようだった。
「トラブルは困るな」
 固い腕組みをしたヘッドの苦々しい、しかし半笑いっぽい声が間に入る。スモークの曲面では、にらみ合う双方と口を半開きにしたゾンビの並びがゆがんでいた。
「自治会でよく話し合ったらいい。こっちは長居できないのでね」
 言うが早いかヘッドら指導員は社章に一礼し、エレベータードアの向こうに消えてしまった。監視カメラはあるものの、目の前からいなくなったことでこちら側はいよいよ高ぶっていく。自分はふと、横目でディアをうかがった。線の細い横顔はこわばり、野火を前にしたようだった。
 マール、マール、マール、マール……黒ヤマネコが音頭を取り、急遽集会が開かれることになった。南館は半信半疑そうな顔が大半だが、北館側は口から熱い息を吐き、両目をうずうずと燃やしている。自分も例外ではなかった。あいつに、自治会長に思い知らせてやれるのなら、何だっていい……――
「それでは……」
 と、真っ暗な大画面前の黒ヤマネコが、離れてにらみ合う自治会長とジャイ公、ウーパーにあらためて確認したが、証言は変わらず、嘘だ、本当だ、という応酬で自治会長の顔がゆがむほどこちら側は食い入り、日頃ばらばらのものが深く組み合わさっていく……あちら側はというと面倒にかかわりたくないのか、それともレイプという単語にひるんだのか、ただ傍観しているだけだったので自治会長の旗色は悪くなる一方だった。
「立場に物を言わせてレイプなんて、とん、でも、ない、奴だっ!」
 びし、びし、びし、と釘で看板を打ち付ける調子でジャイ公が指を差す。
「レイプ魔なんかに自治会長をやらせておけるか! 今すぐ辞任しろ、レイプじじいっ!」
「いっ、いい加減にしろっ! お前、お前は、私を貶めたいんだろう! だから、こんな大嘘を……第一、証拠はどこにある? DNA鑑定でもしなければ立証できないぞ!」
「往生際が悪いな! 被害者がそうだって言ってんだから、間違いないんだよっ!」
 ピィー、ピィー、ピィー――
 ヒートアップし、つい近付く双方に水をかけるウォッチだが、焼け石に水でたちまち蒸発し、すえた臭いの人いきれと混じってデイルームに立ちこめていく。もっと、もっとやれ……のぼせるほど鼓動は早まり、自分は周りと燃え上がっていく……――
「クビだ、クビっ!」
 ジャイ公がわめき、ぎろっと観衆を見回す。
「自治会の規約にあるよな、過半数の賛成で解職できるって! おい、みんな! ここではっきりさせようじゃないか! 権力を悪用してレイプ、そんな犯罪者は許せないって奴、手を挙げろっ!」
 すぐさまミッチー、そしてフォックスが挙手――メガネザル、コアラ、チンパン……北館側のほとんど、自分も斜めに右手を突き上げた。意外なことに南館側からも少なくない挙手があって、頼りなげなそれらは、悪用、レイプ、犯罪者といったワードに引っ張られているらしかった。
 勝負あり、だった。
 自治会長もとい451番は角をへし折られた顔をし、あぶられているかのように身もだえした。勢いのままの問いだったが、賛否はれっきとしたものとして居座った。
「……解職のようですね」
 黒ヤマネコが仕方なさそうに認めると、どうだと言わんばかりにジャイ公が吠え、ばちばちばちばちっと派手に手を叩く。ミッチーらが拍手を加え、それにつられてデイルームの西側は沸き立った。
「選挙だ!」
 両のこぶしを突き上げ、ジャイ公が宣言する。
「自治会長選挙をやるぞ! おれは立候補する! 自治会長になって、みんなをハッピーにするぞ!」
 北館側から、また熱に浮かされた拍手――南館側は今さらながら狼狽の色も見られたが、異論を差し挟む者は誰もいなかった。
「こっ、こんなことは認められないっ!」老ヒツジ面がようやく、苦し紛れに鳴く。「きちんとした手続きを踏んでいないものなど、無効だ!」
「文句があるなら立候補しろよ」ジャイ公がせせら笑う。「信を問うってやつだ。やましいところがないんなら、ごちゃごちゃ言ってないで勝負しろよ。男らしくよお!」
 そうだ、その通りだ、とミッチーが野次を飛ばし、北館側のあちこちから同調のつぶやきがある。南館側はただただ引きずられ、このままだとジャイ公の無投票当選になりかねなかったことから、元・自治会長は立候補宣言に追い込まれた。
「他に立候補される方は、いらっしゃいますか?」
 黒ヤマネコが確かめたが、名乗りを上げる者はいない。投票は明日、候補者はこの二名……急展開の集会はそうして散会になり、興奮冷めやらぬデイルームでジャイ公は元・自治会長をレイプ犯だの何だのと罵り、おれが自治会長になったらこうするぞ、と一席ぶって注目を集め、少し離れたところではウーパーが下腹部をかばい、ぼんやりうつむいている。それらを呪わしげににらみ、右に、右に揺れながら離れていく元・自治会長……そんなとき自分の横で、ぐったりとした動きがある。ディアが疲れきった足取りで歩き出し、ジャイ公と取り巻きをよろよろと避けていく。
 あっ、ロバ先生は……――
 自分はうつろなウーパー、そして取り巻くストライプ柄越しにジャイ公をうかがった。妊婦でもあるし、とても世話を任せられる雰囲気ではない……落胆はしたが、それほどでもなかった。あの自治会長が解職され、ジャイ公と一騎打ち……どうなるのかは分からないが、予想外のそれ自体が風穴に感じられた。何かが変わる……ひょっとすると面倒から解放されることだって……マール、マール、マール……ジャイ公を中心とする密度は増し、構造は強まっていたが、たくさんのウォッチは黙ったままだった。
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