第3話

文字数 21,122文字

 行き止まりに近付くほど薄暗くなり、少しずつ鳥肌が立ってくる。リハビリ体操による火照りは、今やすっかり冷めていた。148号室の片引き戸を陰った目でにらみ、ステンレス製の取っ手に手を伸ばして……がらがら開けたそこでは、吹きだまりじみた室内が照明であらわになっている。吹き出物状に変色した壁紙……床の端や隅にたまったほこり……奥でだらしなくスクラムを組んだトイレシート――その真ん中の一枚にぼわっと淡黄色があり、刺激臭が鼻腔に爪を立ててくる。奥の間仕切りカーテンの中から、鼻にしわを寄せたうなり声……好き勝手に出しやがって……重症化リスクのこともあるし、こんな奴と同じ部屋にはいられない。近寄りたくもない……自治会長にかけ合ってみよう……バケツに汚れたトイレシートを放り込み、新しいシートを敷いて、自分は汚物処理室とを往復した。
 がたっと壁際に、半ば投げ出すようにバケツを置くとうなり声が高まった。こみ上げてくるものを抑え、飲み込んで、自分は壁腕立て伏せを始めた。ノーマルな人間に戻らなければ……しかし回数を重ねるほど息苦しくなり、大胸筋や上腕三頭筋が弱音を漏らしてくる。臭い汗がにじみ、カウントがふとあやふやになって……それでも何とかやりきり、壁に寄りかかって生暖かい息を吐く。悪臭の染みついた部屋が、いっそうじめじめしたようだった。窓もないし、ここは換気が悪過ぎる……――
 たまらず通路に出ると、マール、マール、マール……徳念に乗って、口当たりのいいカフェ・ラテ風の声が南から流れてくる。デイルームを経て北館に差しかかったそれは、一定間隔を保って練り歩く男女十名弱……声はその先頭――先ほど朝礼で見かけたベージュ地ギンガムチェック柄、センター分けの黒髪ロング女性のもので、次第に近付いてくるほどほの甘い問わず語りがはっきりしてくる。
「――不平不満よりも良いところに目を向け、感謝の心を持ちましょう。たくさんの人の助けがあればこそ、こうして闘病生活を送ることができるのです。この病に打ち勝ち、健全な人間に戻るべく努力することに専念すべきではないでしょうか。――」
 がらっと隣室が開き、ジャイ公とミッチーがにやけた顔を出す。SNSにアップされた女子の自撮り動画を眺める、そんな目つきの前で黒髪ロングは角を曲がり、フォロワーを引き連れて北通路に消えていった。左手首のウォッチに3108とあった、若作りで見た目三十代後半くらいの、どことなくヤマネコ……黒いヤマネコを思わせる容姿は、肌の青白さが一種異様なムードを醸し、肩甲骨にかかる黒髪から魔女を連想させもした。ウォーキングしながらオピニオンを発信しているらしい。不要な接近を禁じるルールに則ったやり方……エクササイズにもなって、一石二鳥というわけか……――
「ああ! ヤリてえっ!」
 吠えるどら声に自分は、勃起を見せられたように硬直した。聞こえなかったふりをしてうつむいていると、卑猥な話をしながらふたりは引っ込んだ。あんな手合いとウーパーが同室なのだから、配慮も何もあったものじゃない……戻ろうと開けた片引き戸から徳念が流れ込み、奥でもがくような寝返りがあった。
 自分は間仕切りカーテンをぴっちり閉め、リモコンで床頭台のテレビをつけた。ちょっとふらついて、寝床に腰を下ろす……13インチくらいの小さな画面はニュース番組で、国内のゾンビ病発症者数が増加傾向だと深刻そうに伝えていた。街頭インタビューで多くは、治療薬もワクチンもないので怖い、患者には施設できちんと病気を治してほしい、と不安を口にしていたが、エンターテインメント参加者気分ではしゃいでいる者もいた。自分も、ほんの少し前まではあっち側……ゾンビは人間を襲うとか、かまれると感染するといった話におびえ、そのくせどこか高揚していたのに……目玉がむくんだように重く、しばたいて自分は電源を切り、リモコンを投げ出した。リハビリの続きをしよう……四つん這いから片膝を立て、よいしょと立ち上がったところで朝食の時間だと放送が入る。
 朝食……――
 きゅうと胃袋が鳴って、途端にたまらなくなる。奥でも焦れったそうな動きがあった。あいつも腹が減るのか……ろくに動きもしないくせに……自分は部屋を出て西通路を見つめ、角から北通路をうかがった。あちこちの部屋から幾人か、おそらくは食前の手洗いに出ては戻ってくる。腹の虫に急かされていらいらしていると車輪の音がして、ぬっと北東の角から、成人男性の背丈より高いラックが現れる。指導員に先導されるそれ――配膳車は牽引ハンドルを握った、細面のコアラ似の被収容者に引かれ、部屋の前で止まるたびに出てきた被収容者が順々に食器、コップの載ったトレイを取り出し、ありがとうございます、と頭を下げる。あのコアラは、業務を手伝わされているのだろうか……そのとき背後の147号室からジャイ公とミッチーが出てきたので、自分は壁の手すり沿いに行き止まりへと引っ込んだ。
 西通路に差しかかった配膳車は、にこにこ顔のジャイ公たちに八段ある横っ腹を向けた。牽引ハンドルを握るコアラの息はやや荒かったが、汗ばんだ朴訥そうな顔は誇らしげだった。
「147号室、朝食ぅ」
 面倒そうな声をくぐもらせる指導員に、ありがとうございます、とジャイ公が愛想良く頭を下げ、配膳車からトレイを取り出して部屋に戻る。遠目に見たところだと、外食チェーンストアの定食と比べて遜色なさそうだ。ミッチーも同じく頭を下げ、遅れてウーパーがおどおどと手順を繰り返す。
「2049番、いらないのか?」
 指導員が室内に声をかけると、ミッチーがへらへら出てきた。
「食欲がないらしいですが、とりあえずこちらで預かっておきますよ」
 ミッチーはディアの分らしいトレイを取り出し、にやにやしながら戻った。様子をうかがっていた自分は指導員に呼ばれ、おずおずと配膳車に近付いた。自分のはどれだろう……まごまごしていると、ナンバーと同じ番号札があるトレイだと急かされる。
 すみません……――
 頭を下げて取り出したそれは、冷めかけた米飯を筆頭に、だらっとわかめの浮かぶ味噌汁、もやしがほとんどの野菜炒め、コップ七分目の薄い麦茶……そこに使い古された先割れスプーンが添えられている。ジャイ公のそれと比べて見劣りする一汁一菜、あまり食欲をそそらない献立……国や自治体からの交付金、給付金に加えて被収容者からは支援金の一部を食費、水道光熱費として差し引いているのに、これか……顔に出たのだろう。評価が上がればメニューも変わるぞ、とスモークシールド越しのささやきがある。
「手っ取り早い方法は、施設に寄付することだよ。そうすれば評価が上がる。君のそれを松竹梅の梅とすれば、寄付をしている南館の多くは松だぞ、松。それより豪華な弁当のデリバリーもある。ただし、千円、二千円なんてはした金じゃだめ。相場としては、まあ……」
 指導員は厚い右手指を全部立て、こちらに突きつけてきた。
「五桁からだね。そこのジャイ公もいくらか寄付してはいるようだけど、それでも南館に移れるほどじゃない。身内や知り合いに手紙を書くか、デイルームで電話をかけてみたらどうだい? ただし、オリエンテーションで話があったように、誰それがどうとかって個人情報を漏らすのはダメだぞ。ちゃんとこっちでチェックしているからな」
 そんな当てはなかった。察した指導員は冷たく笑い、戻ろうとする自分を呼び止めた。
「奥の分も持っていけよ。一応、あれからも食費もらってるし」
 瞬いた自分は、とりあえずトレイを床の端に置いて2540の番号札を探した。あった……それはなんと米飯に味噌汁をかけた、いわゆる猫まんまで、それ以外は先割れスプーンさえ見当たらない。汚らしいそれを見ている自分に指導員は、あれはゴクツブシだから、と笑った。
「食って寝て出すだけ。お前も、もしかするとああなるかもよ」
 そっぽを向いて待機するコアラが、ふふっ、と鼻で笑う。こわばった自分を残し、指導員の指示で配膳車は動き出した。
 ああ、なる……――
 重症化の原因は、生活習慣、遺伝など挙げられているものの、今のところ解明されてはいない……そうした中で発症者、とりわけ重症者に近付くのが高リスクとささやかれるようになって……猫まんまを震わせながら自分は奥に近付いた。うめきが急かす調子になり、間仕切りカーテンの下から今にも出てきそうな気配にトレイが傾く。トイレシートの手前に急いで置き、よろっと離れて自分の分を取ってきたところで糸引くような臭い――グロテスクな姿に上ずった声が漏れ、ふらふらと後ずさる。フケだらけのぼさぼさ髪を垂らし、カタツムリみたいにカーテンの下から這い出したそれは両ひじをつき、がちゃ目の青黒い顔を突っ込まんばかりの手づかみでくちゃくちゃ……もうちょっと這い出たら腰から下、あの見たくもない尻まで見えそうだった。顔を背けた自分は自身のテリトリーに入り、間仕切りカーテンをしゃっと閉めた。
 あんなのは人間じゃない……人間なものか……――
 テレビをつけて虫唾の走る咀嚼音を打ち消し、あぐらにトレイを置いた自分は、先割れスプーンをきちんと握った。水をケチったのか米はぱさぱさ、味噌汁はインスタント並み、ほとんどもやしの野菜炒めは大味……何よりも、部屋に染み付いた糞尿の臭いで食は進まなかった。液晶画面はスポーツを映し、本邦のプロテニスプレイヤーがコートを駆け、巧みに打ち返してポイントを取るたびに拍手喝采……チャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばしたとき、寝床の足下側で間仕切りカーテンが波立ち、がちゃ目がのそのそ入り込んできた。
 うわッッ!――
 仰天した自分はトレイをひっくり返してしまい、具と汁とでたちまち寝床が汚れる。ずりずり下がる自分の前で、四つん這いはシーツだろうと床だろうと構わずにべろべろ……火がついたように鳴り出すウォッチ――自分は間仕切りカーテンの外、通路に転がり出て左手首を押さえた。
 こっちの食事を奪いにきたのか……――
 ウォッチが静まってから病衣の汚れを手や袖で拭き、壁の横手すりにふらっとつかまる。マール、マール、マール……青い足は、自然とエレベーターの方へ……デイルームでは二台の配膳車が縦列になっていて、それぞれのそばには被収容者――片方はコアラ、もう片方はぎょろ目でメガネザル似が立っており、何やら雑談していた黒ずくめのコンビがこちらを見とがめる。
「何か用か。用もないのにぶらつくのはルール違反だぞ」
 こちらがへどもどしていると、相方がマニュアルを読むトーンで付け加える。
「昼休みなら出歩いても構いません。ルールはきちんと守ってください」
 声は高めのようだったが、くぐもっていて性別はさだかではない。指導員はどうにも見分けがつかず、ヘッドさえときどきあやふやになる。しばらくしたら食器とトレイを回収に行くから戻っているように、と言われ、自分は小さくなって頭を下げた。そうして回れ右する途中で目に入ったあちら側、南館はこちらよりも明るく、春を感じさせる空気感で過ごしやすそうだった。昼休みになったら自治会長に相談しよう。それでだめなら、指導局に……――
 北西の角を右折し、自分は共同トイレに入った。小便器が三据並び、その向かいに個室二室と端の掃除用具入れ……ひっそり、ひんやりとした空間で奥の小便器を前にちょろちょろ……ふにゃふにゃの先から出るそれは、消えそうな薄さだった。
 洗った手を備え付けのペーパータオルで拭き、ごみ箱に捨て、のそっとトイレを出たところでぶつかりそうになる。黒ずんだ青いロバ……ロバ先生……もやのかかった瞳、ふらふらの前のめりの後ろには、影のようにウーパーが付いていた。
「手すり、つかまって、手すり」
 ウーパーはこちらに目もくれず、ため息じみた指示を出す。しかし、ロバ先生はつかまらずにふらつき、よたよたと角を曲がっていく……どこへ行くのか知らないが、トラブルが起きないようにくっついているのだろう。それなりに大変そうではあるが、それでも……みじめさがいや増し、ぬかるみにはまった足取りで自分は戻った。
 入室するや、摩擦係数の高い息づかいが奥から聞こえる。こちらの食事を奪っておいて、そんな態度か……手前の間仕切りカーテンの内側では、天気は下り坂だという予報がつけっぱなしのテレビから流れ、椀と皿、コップがみっともなく転がっていた。シーツに染みは残っていたが、どうやら念入りになめ取ったらしく米一粒見当たらない。唾液が付いているかと思うと虫唾が走り、ふつふつとのぼせてくる……あいつをどうにかしないと……食器類をつまんでトレイに載せ、毒づきながら奥の分を引き上げる。
 そうして通路で待っていると、配膳車がまたコアラに引かれてきた。指導員の姿はない。隣室のジャイ公、ミッチー……はあ、はあ、と急いで戻ってきたウーパーが、セルフサービスよろしく食器類とトレイを返却する。空になったディアの分もミッチーの手で返された。自分もそれらに倣い、配膳車がデイルームの方に消えてまもなく、あちこちから歯ブラシとコップを手に被収容者が出てくる。シグナルを出し合って混雑回避しているかのような動き……それを横目に通路の壁にもたれ、背中を手すりでこすってしゃがんだ。
 こんな環境じゃ、まともに闘病なんてできやしない……――
 部屋移動が無理なら、通路で寝起きしたっていい……とにかくあいつとの関係を絶たなければ……隣からジャイ公がミッチーと出てきたので、自分は膝を抱えてダンゴムシになった。マール、マール、マール……ふたりは歯磨きに行ってしまい、自分はとりあえず室内に戻ったが、途切れ途切れのうなりで居心地が悪くてたまらない。
 自分はテレビのボリュームを上げ、壁のリハビリメニューの脇に両手をついた。壁腕立て伏せを、いち……にぃ……やがて、ひいひい言い出す筋肉、ぎし、ぎし、ときしむ関節……胸が苦しくなり、二十を経て、三十を超えたところで自分は壁にもたれかかった。たかが壁腕立て伏せなのに……あえいでいると、にわかにフロア――北館が、腹ごなしを始めた感じがする。あちこちの部屋から、引きずったりちぐはぐだったりの足音があっちの方へ……そして、がらっと隣から大股歩きが近付いてきて、片引き戸がノックもなく開けられた。
「おい」
 ミッチーが戸当りに手をつき、たちの悪い生徒指導的な目つきで室内をざっと見て、紫煙を吐くように続ける。
「もう済んだのか、部屋の掃除」
 えっ、と戸惑うとミッチーは露骨にあきれ、左右の腕をぐるり、ぐるりと回すジャイ公を振り返った。
「常識だろ」首をストレッチし、ジャイ公はさも当然そうに言った。「自分の部屋は自分できれいにする。みんな、やってることだぞ」
 ほうき、ちりとりで床掃除、ちり紙で床頭台やテレビを拭くそうだ。購買部から雑巾、洗剤などを購入して行う者もいるという。そんな話、指導局から聞いていない……ジャイ公は腕組みし、新入りだから仕方ないよな、と訳知り顔で言った。
「これから奉仕活動だ。ついてこい」
 ジャイ公はハンバーガーのパティっぽい背中を向け、ミッチーが無精ひげのあごをしゃくる。通路ではウーパーが腕を抱えており、ミッチーから三歩ほど後ろの自分に続いた。
 がんばろう自分、と微笑む掲示板の前には二十名前後の、うつむき加減の被収容者がばらばらにいた。重たげに曲がった背中、左右にゆがんだ背骨や骨盤、青くうっ血した感じの顔ぶれ……どれもが北館側で見かけたものだった。
「おう、集まってるな」
 顔役ぶったジャイ公が右手を上げ、ぼやっとした目が集まる。ぺこっと頭を下げ、へつらい笑いを返す者もいる。ジャイ公は品定めの目つきで一同をチェックし、監視カメラをちら見して、ぱんぱんと景気よく手を叩いた。
「それじゃ、今日も頑張っていこうか!」
 ジャイ公はこっちを振り返り、先輩風を吹かせながら説明し始めた。奉仕活動とは、有志による自主的な清掃……お世話になっている施設への感謝を表すことだった。自室掃除もその一環……心を込めてやろう、と張りきるジャイ公……それを上目遣いに見る参加者……本来これは、施設側でやることじゃないのか……――
「じゃ、担当を決めるぞ」
 ジャイ公のぶっとい人差し指の先がずいずい動き、脱衣所とシャワー室は、洗面所は、東通路は、北通路は、南館の方は……と割り振って、ミッチーがそれを繰り返し、参加者はそれぞれの持ち場にのろのろ歩き出す。
「おい、新入り!」
 かぎ爪じみたどら声に引っかけられ、自分はつい逃げ腰になった。
「お前は、トイレ掃除だ。相方の分までしっかりやれよ!」
 ちひっ、とミッチーが出っ歯をのぞかせて笑う。相方……どうやら、ノラのことらしい。自分はみじめな愛想笑いをし、共同トイレへとふらついた。通路では参加者が床を掃き、モップで壁のほこりを取り始めていたが、それらはすでにへとへとといったのろさだった。
 共同トイレ奥――掃除用具入れの中には、壁に床ほうき、ちりとり、モップ……反対側の壁には、洗濯ばさみでつるされたビニル手袋と雑巾二枚、ラバーカップがぶら下がって、下にバケツが置かれている。こういうことは、学生時代以来……振り返ると、ジャイ公が洗面台に寄りかかって現場監督風の腕組みをしていた。
「まずは、ほうきで端から掃くんだ。心を込めてな」
 緊張しながら言われた通り掃き、ちりとりでごみ箱に捨てた。続いてバケツにためた水を便器と小便器にかけ、ブラシでごしごしこする。かじかんできた手がもたつくと、しょうがないなとジャイ公が嘆息し、ブラシでこすり終わった便器を雑巾で拭いていく。すみません、と自分は恐縮した。正直、借りなんて作りたくはなかったが……便器磨きの次は、モップで床をぬっさぬっさと拭く。壁越しの向こうから、ミッチーのかさにかかった声が聞こえてくる。どうやらまたロバ先生がうろついていて、それが掃除の邪魔だからどうにかしろ、とウーパーを怒鳴っているらしい。隅々まで拭いた自分は、冷たい雑巾を絞って洗面台と角型鏡をきれいにした。
「オッケー、オッケー、それじゃ後片付けだ」
 洗面台に腰かけたジャイ公に従い、自分はバケツをすすぎ、手もみ洗いした雑巾をつるして掃除用具入れを閉めた。そこに目を伏せたウーパーが45リットルのごみ袋を持ってきて、洗面台下のごみ箱から使用済みペーパータオルなどを回収し、出ていった。
「お前、あのブスとヤれる?」
 まだ近くにいるだろうに、気にもかけないどら声……自分は口ごもった。
「あんな芋臭いガイジンなんか、まっぴらご免だっての。全然立ちやしねえ。ま、お前なんかあの化け物と同室だもんなぁ……かっわいそうに。それより、これでトイレ掃除はばっちりだな。ウェ~イ」
 こぶみたいな拳固でグータッチの構え……自分はウォッチを一瞥し、右こぶしをそっと突き合わせた。近付くだけでもリスクがあるらしいのに……右こぶしを引っ込め、さりげなく下がる自分……ジャイ公はトイレ内を見回し、はあ、と大きなため息をついた。
「便所掃除なんて冗談じゃねえよな。配膳車を引いたりとかもそうだけどさ、本来は施設の方でやることなんだよ。それなのに、自治会長の野郎がご機嫌取りしやがって……――」
 奉仕活動は自治会長の発案だ、とジャイ公は忌々しそうに語った。施設への感謝を表すという、つまるところ点数稼ぎは、寄付で評価の高い南館の被収容者ではなく北館の被収容者がやることになってしまったのだという。
「前はろくに掃除もされず、小便が飛び散り、クソがこびりついたままだったからな。ウィン・ウィンだろうぜ、指導局と南館の連中にとっては」
 眉根に深い溝を刻み、ジャイ公は腕組みに力を込めた。それを前にした自分の頭はくすぶり、むわむわと煙ってくる……ノラのことだってそうだ。病人が病人の世話だなんて……ジャイ公はペーパータオルで手をぐしぐし拭き、もうじき紙がなくなるな、と舌打ちしてごみ箱に投げ込んだ。
「あのクソ女、ちゃんと補充しろってんだ。おい、お前も洗えよ。さっさと行こうぜ」
 手を洗って、ジャイ公の後から出る。マール、マール、マール……もさもさとモップで水拭きし、雑巾で壁と手すりを拭くゾンビたちを見ていると、こちらの疲れもいや増していく。
「あっ、そうだ!」
 はぜるどら声にびっくりし、自分はふらついた。
「こっちの掃除もしなきゃな。お前、よく使うんだからよ」
 隣の汚物処理室だった。苦い唾をあふれさせながらモップと雑巾を使い、ノラの尿たっぷりのトイレシートも入ったごみ袋の口を縛って、指示通りにダムウェーターの呼出ボタンを押す。応答はなく、もう一度押すと不機嫌そうなくぐもった声が返ってくる。ごみを下ろします、とぺこぺこした自分は、ダムウェーターにごみ袋を入れ、扉を閉めて一階に送った。新しいごみ袋をセットして終わり、洗って冷たくなった手をこすり合わせる。むわっとした頭から肩、背中、腰を経て足先まで巡る血がジェルのようで、早いところ寝床で横になりたいという欲求が膨らんでいく。
「ご苦労さん。ここはお前の担当だからな、奉仕活動のたびにやるんだぞ」
 えっ、と目をむくと、自治会がそう決めたんだ、とジャイ公は渋面を左右に振った。
「あの2540番の専属だからだろ。マジでひどいよな、自治会長は」
 あいつの専属……腹がひりつき、じんわりとただれてくる……のし、のしと歩くジャイ公と掲示板前に戻ると、ミッチーがぶらぶらしており、掃除を終えた者たちが疲れた足取りで集まってくる。それらが互いに離れ、そっぽを向く中でジャイ公はウーパーを捕まえ、今すぐトイレのペーパータオルを補充しろ、と命令し、それが戻ってくるのを待たずに参加者を見回した。
「みんな、お疲れっ!」
 ぱんと厚ぼったい手を合わせ、ねぎらうジャイ公にどんよりとした目が向く。散らばっていた欠片が、雑に組み合わされる雰囲気だった。各所の掃除が終わったことを確認し、ジャイ公が解散を告げると一同はふらふらと散っていく。帰ろうとした自分は、どら声に襟首をつかまれた。
「午後は、キャンプがあるからな。またここに来いよ」
 キャンプ……テントでも張るのだろうか……考えるのも億劫で、おざなりにうなずき、自分は手すり伝いにずるずる歩いた。ようやく148号室の取っ手をつかみ、開けた途端、鼻の奥に異臭が突き刺さる。真ん中のトイレシートに形の悪い染み……疲れて帰ったら、これか……耳に障ってくる、奥からのうなり声……しばらくすると昼食……臭いの元をさっさと取り除かなければ……自分は黒煙じみた息を吐き、シートの端をつまんでバケツに放り込んだ。
 まだ掃除終わってないのか、オカマ! のろま野郎っ!――
 壁越しの、かみつくどら声……ミッチーも獲物に容赦なくかじりついている。ディアに部屋の掃除をやらせていたのだろう……トイレシート入りバケツの持ち手をつかむと、右にふらつきそうになった。早く休みたいのに……汚物処理室から戻って、新しいトイレシートで穴埋めをして……その間も奥では、石臼を挽くような喉の震えが続いていた。吠え立てそうになるのをこらえ、自分は間仕切りカーテンをしゃっと閉め、どさっと座ってテレビをつけた。
 リハビリ……リハビリをしなければ……――
 情報番組では各地の発症者数を比べ、司会者とコメンテーターがどこか他人事に不安がっている。自身もゾンビになるかもと恐れ、そのくせ、大丈夫だろうと高をくくっている連中……お前等だって、そのうちこうなるんだ……薄っぺらな顔、顔、顔を呪っているところに昼食の放送が入る。
 奉仕活動のせいで、腹はすこぶる減っていた。通路で待ちかねていると、配膳車がだんだんとこちらに近付いてくる。牽引ハンドルを握って、踏み込み、踏み込み、引っ張ってきたメガネザルの鼻の穴は広がり、青い肌からあふれる汗がつんと臭う。その後方から、家畜を使役するごとく歩いてくる指導員……147号室の面々――ジャイ公、ミッチー、そしてウーパーが昼食を受け取り、かろうじて形を保つディアがかすれ声で礼を述べる。その後の自分はことさら背筋を伸ばし、トレイを取って頭を下げた。
 ちんけな唐揚げと蝋細工っぽいポテトサラダ、その上から味噌汁をぶっかけたノラの猫まんま……ちらほらするわけぎが、何とも汚らしい……今朝の仕返しに唐揚げを口に入れ、トレイを奥にがしゃっと置いて、咀嚼しながら自分は間仕切りカーテンを閉めた。寝床にあぐらをかき、まずはわけぎの味噌汁をすする。ぱさついた米飯の次はポテトサラダ、麦茶……乾物じみた唐揚げ……テレビの街角グルメでの、やたら大げさなコメントの合間に、間仕切りカーテンの向こうから、んちゃんちゃと咀嚼音が聞こえる。
 そうだ、またこっちの分を狙うに違いない……――
 ぱくった唐揚げの分だけ少ないわけだし……ピッチを上げて椀と皿を空っぽにし、トレイをカーテンの下から出す。ほどなく床を這う音がそこに近付いて、かちゃかちゃ、べろべろ、べろべろべろ、としつこく続く。
 ワケギ一つ残ってないぞ……ざまあみろ……――
 口を拭ったちり紙をごみ箱に投げ、自分はごろりと大の字になった。視界の端でぼやけるカーテンレール……テレビからの軽薄な笑い声……消費期限過ぎのコンビニ弁当並みにまずい飯だが、胃袋はそれなりに満たされた。配膳車に返したらリハビリをしよう……いつしかとろけ、微熱に混じっていく自分……遠くで、なにやらごそごそと……――
 あっ――
 がばっと跳ね起き、のぞいたカーテンの隙間から青黒い尻の力みが見えた。暗かった昨晩と違って、はっきりと……腰を落としたノラがうめき、細った全身から絞り出すように踏ん張って――
 おっ、おい!――
 おろおろしているうちに、もろっ、ぼとっ、と落ちる。そしてノラはテリトリーに這い込み、むおっとした便臭が鼻腔になだれ込んでくる。ぞわぞわ血がのぼってくる自分は間仕切りカーテンに爪を立て、厚かましい汚物をにらみつけた。なぜ、こいつは糞尿をして、その後始末を自分が……マール、マール、マール……何のために生きているんだ、こいつは……こめかみからしびれ、二重三重にぶれる自分は歯がみし、ぐっと息を止めて、汚物をぐしゃぐしゃに包んだトイレシートをバケツに投げ込んだ。奥に投げつけてやろうか、と一瞬よぎったが……それで汚物が散らばったら、片付けるのは結局自分……通路に出て空気をむさぼり、揺らめく頭を垂れて汚物処理室へ……と、共同トイレから病衣姿がふらりと出てくる。そのゾンビはこちらに気付くと色の悪い顔を背け、壁と手すり際まで離れて行き違った。重症化リスクを考慮してだろうが、このバケツのせい、あるいは……後始末をしているうちに自分自身まで汚物になっていく気がした。
 始末し終わって戻り、奥の分も配膳車に返却……多少でもましになれば、と空調を見上げ、自分は臭い部屋を後にした。
 昼休みのフロアはのったりしていて、徳念も何となくスローテンポに感じられる。歯ブラシとコップを手に行き来する姿……デイルームには共同電話でぼそぼそしゃべり、それから数歩離れて待つ姿……カウンターのタブレットで注文する姿……アピってくるノイズ混じりの歌声を、自分は目の端でうかがった。壁際の椅子に腰かけ、うっとりと弾き語りする醤油顔のアマガエル……3691と表示されるその青年は気取ったヘアスタイルで、ファッションモデルがオススメしていそうなフラップサンダルを履いている。弾き語りといっても楽器はなく、いわゆるエア・ギター……しかも指の関節は、ぐねぐね曲がっていた。
 ケロノ、というあだ名が浮かぶ。こちらをちら見してケロノは声帯を震わせたが、にごった歌声は、ぶつ、ぶつ、と途中で切れてしまう。喉や腹の筋肉が衰え、スタミナも乏しい……指もそうだが、この病のせいなのだろう。だが、たとえそれらがなかったとしても、好きになれそうもない歌い手だった。とにかく努力、頑張ろう、不満よりも感謝云々と施設長のスピーチやヘッドの訓示、黒ヤマネコのモノローグなどをパッチワークした歌詞というのもあるが、それより何より水面に映る自身に見とれる印象にぞわぞわする。耳を塞ぎたくなった自分は監視カメラを横目でうかがい、掲示板のチェックを装いながらエレベーターを観察した。認証システム制御――暗証番号を入力しないとドアが開かないシステム……容易に外に出られそうもない……息苦しくなって離れ、空いたタブレットに自分はぼんやり近付いた。
 4、8、9、1、とタップすると、シンプルというかチープな画面に使える金額が出る。ここに入所させられたときの、なけなしの所持金とイコール……ゾンビ病患者認定されたので、そのうち政府から生活支援金が振り込まれるはずではあるが……購買部の取り扱い商品は、ちり紙に歯ブラシ、T字カミソリ、タオルや雑巾、生理用品といった物ばかりで、しかもかなり割高……例えば、ただの歯ブラシが千円といった具合だ。そういえば、と探してみると、紙パンツや尿取りパットと並んであのトイレシートのパックもある。ここにない嗜好品などは、差し入れしてもらうしかない。見上げた壁掛け時計では、長針が半を過ぎかけていた。
 自治会長と話をしなければ――
 自分は南館に足を向けた。煌々としたそこは暖かく、もちろん嫌な臭いなどしないが、こうした環境にゾンビという取り合わせは、どうにも薄気味が悪い。それはさておくとして、廊下の隅でもいいから寝起きさせてもらえないだろうか……そういや、自治会長の部屋はどこだろう……出くわした被収容者に上目遣いで尋ねると、迷惑そうにそっぽを向いたまま部屋番号だけぼそっと口にした。
 117号室……――
 南東の角部屋の前に立ち、自分は片引き戸をにらんだ。頭に熱がこもり、高まっていく……ノックして、しばらくしてからがらがら開き、右に傾いた老ヒツジ面が現れる。その寒色半纏姿の後ろは、ゆったりとしたベッド、木製の渋いテーブルと椅子、どっしりとしたキャビネットに大画面薄型テレビの、148号室とは雲泥の差がある個室……――
「何か用かね?」
 鼻先をそらした自治会長は、じろりとこちらをうかがって、手短に、とそっけなく付け足した。こっちの青みをうつされたくない、と考えてそうだった。
 言ってやる――火照りのままに自分は、別の部屋に移りたい、と切り出し、ノラ――2540番との生活がいかにひどいかを訴えた。吐き出すほどのぼせ、両手を振りながら我慢できない、世話なんてしたくない、重症化リスクがある、と語気を強め、最後には哀願っぽくなった。自治会長は片引き戸の取っ手の方を見ており、どれだけ聞いているのか分からなかった。
「大変なのは分かる」
 こちらを一瞥もせずに返した自治会長は、空きがないので移ることはできない、誰かが面倒を見てやらなければいけないのだ、と取り付く島がなかった。
 それが、なぜ自分なんですか!――
 かっとなると、自治会長は横顔を向け、そのまま後ろに回りそうになった。
「同室者と助け合う、それがここのルールだ。そうそう、あのシートがなくなる前にタブレットで注文しなさい。自分のナンバーではなく、2540でログインして――」
 互いのウォッチが鳴り出し、冷や水を浴びせられる自分……自治会長はため息をつき、もうじき昼休みが終わる、帰りなさい、と片引き戸を閉めてしまった。目の前を塞いだこれを思いっきり蹴って、怒鳴り込んでやろうか……しかし結局自分は静まったウォッチを下げ、鈍く痛む腹をさすりながらとぼとぼ引き返した。
 いつしか北西の角に差しかかっていた。さっきまで南館にいたことで、こちら側の陰気な薄ら寒さが身にしみる。マール、マール、マール……帰りたくない……手すりにつかまり、行き止まりとは逆方向に曲がると、向こうから時計回りに独白が近付いてくる。黒ヤマネコのウォーキングだ。
 同じ一日、泣くよりも笑った方がいい……嫌なことは自らを磨く、よい経験……――
 そうしたことを唱え、端に寄った自分の前を通っていく……香水か、ファミレスのワイン風のにおいが鼻をくすぐった。黒髪の後ろに連なったフォロワーの最後尾が北西の角を曲がって見えなくなり、ジャイ公とミッチーのいやらしい顔が部屋の中に引っ込む。
 ちょっと運動、するか……――
 自分はぐずつく腹をさすり、黒ヤマネコたちの後に続いた。前に倣って背筋を伸ばし、腕を振って歩幅を広げる。北通路を進んで右折、東通路を下って……南館には入らずに連なりから外れ、歌声がかすれたケロノの前を横切って西通路に戻った。疲れが増しはしたが、多少は体がしゃんとした気がする。
 148号室そばで壁と手すりに寄りかかり、休んでいるところに部屋番号とナンバーを呼び、届け物だと告げる甲高い声が車輪の音と回ってくる。そして角から、封筒や小包を載せたワゴンとそれを押すチンパンジー似の被収容者が現れ、147号室前でまた声を上げる。
「147号室、1945番! 届け物です!」
 恐れとへつらい混じりの声に片引き戸が開き、ぬうっと出てきたジャイ公はチンパンジー――チンパンからギフトボックスを受け取り、ご苦労さん、と偉そうにねぎらって引っ込んだ。チンパンは西通路を下って他の部屋に荷物を配り、手紙を渡したり逆に渡されたりしてデイルームに消えた。配達を任されているのだろう、配膳補助のコアラやメガネザルと同じく誇らしげだった。
 まだ臭うだろうが、少し寝床で横になろう……と、そのとき、さっきのギフトボックスを小脇に抱えたジャイ公がミッチーと出てきた。
「おう、キャンプやるぞ。ついてこい」
 ぱちくりするとジャイ公は、掲示板にも書いてあっただろうが、と渋い顔をし、通路の真ん中をのしのし歩いていく。ミッチーにあごをしゃくられ、自分は従うより他なかった。
 徳念を聞きながらまどろんでいるような、ぽっかりとした昼下がりのデイルーム……大型モニター前で雑談、猥談に興じるジャイ公たちからそれとなく距離を取り、顔をそらしているところに北館から一人、また一人と青味の濃い顔がふらふら、よろよろと集まってきて、視線を合わせることなく離れて並ぶ。その中には配達を終えたばかりのチンパンの他、コアラやメガネザルの姿もある。北館の被収容者、しかも男ばかり二十名弱……見回したジャイ公が、ぱんぱん、と手を打つ。
「それじゃ、キャンプを始めるぞ!」
 朝礼と同じく並んだ一同、最前列でミッチーの横に立たされた自分も注目するどら声の主は、ごつごつしたハートマークを胸の前に両手で作った。ミッチーら参加者も倣い、自分も状況を飲み込めないままこぢんまりと形作る。マール、マール、マール……――
「オーケー!」気を吐くジャイ公。「まずは、腕の曲げ伸ばしだ!」
 ハートをぐいっと頭上にやり、また胸の前、もう一度上げて、下げて……次は右上、その次は左上……キャンプとは、ブートキャンプ――エクササイズのことか……漂う眠気も吹き飛んで、辺りはくっきりとしたようだった。ハートを胸に、太ももを交互に上げて足踏み……両足を開いてスクワット……ハートを崩すなよ、とジャイ公から叱咤が飛ぶ。一本調子の徳念さえ、リズミカルにアレンジされたようだった。毎朝のリハビリ体操よりきつい……周りはふうふう言い、たびたびふらつく姿が目についたので、自分はできる方だなと熱い息をはずませた。
「努力だ、努力っ! 根性っ! 頑張れ、仲間がついてるっ!」
 唾も飛ぶ励ましにあおられ、汗ばむほど肌から青みが抜けていく気がした。辺りは酸っぱい脂臭であふれ、熱気と相まってむせそうになる。エクササイズはクライマックスから呼吸を整える段になり、ハートを思いっきり上げて息を吸い、下ろして吐き出す……もう一度深呼吸をして、胸でしっかりとハートマーク……――
「よーし、お疲れっ!」
 両手でVサインし、にまっと黄ばんだ歯を見せるジャイ公……はあ、と膝に手をつく自分にミッチーが右手親指を立ててきた。参加者の多くはへろへろで、しゃがみ込んでいる者もいた。
「みんな、今回もよかったぞ!」たわし頭を撫でつけるジャイ公。「オレのチャンネルにアップしたいくらいだ!」
 そしてミッチーからあのギフトボックスを渡され、個包装のクッキー詰め合わせをどんと一同に見せる。
「こいつはオレからだ。――ほら、一つ取れ」
 ずいっと差し出された、クッキーの詰め合わせ……恐縮しながら自分はさっと取った。他の参加者たちもにへっと笑い、頭を下げてクッキーを受け取る。その距離の近さに自分はウォッチを気にしたが、どこからも鳴り出しはしなかった。監視カメラでとらえているだろうに、スピーカーはだんまり……ルールは、重症化リスクは……――
「さ、みんな! 遠慮しないで食べてくれ!」
 手を振って促し、ジャイ公は一枚口に放り込んで、ざしゃっ、ざしゃっと咀嚼した。左右から遅れて自分も包装を切り、しゃれ込んだ庶民風のクッキーをかじる。味そのものは、そこらのお菓子売り場の物よりは上という程度だったが、こうしたものが自由に手に入らない今は、疲れていることもあってちょっとした感動を覚えてしまった。ジャイ公は参加者をピックアップしては、動きが良くなっているとかスタミナがアップしているとか褒めて青い頬を緩めさせていく。この顔色と病衣姿でなかったら、スポーツクラブでのレッスン後の一時にも見えるだろう……いつしか肩の力が抜け、妙な心地よさに浸る自分……ギフトボックスを抱えて談笑していたジャイ公は、ふっと苦々しげな憂い顔を見せた。
「それにしても、南の連中はずるいよなあ」
 絞め技をかけるように腕組みし、あれはマジでひどい、ああいうのは問題だろう、と首を振る。漠然としていたものの、参加者たちはそれぞれうなずき、そうだ、まったくだ、とぼやきも聞こえて、そうした空気にさらされているうちに自分も怒りがこみ上げてきた。ぼうっと浮かび上がる、自治会長……あんな化け物の世話を押し付け、糞尿の始末まで……ぬくぬくとして、悪臭もない南館の一番いい部屋で寝起きして……食事だって、上等なものを口にしている南館の連中……考えるほどのぼせ、ぼやけていく中でジャイ公だけがくっきりとしていた。
「また選挙があったら、そんときはよろしく頼むぜ!」
 ジャイ公は高々とギフトボックスを挙げ、威勢よく吠えた。
「この間は不正とかでしてやられたが、次はあのクソジジイに勝つ! みんなのために絶対勝たないとなっ!」
 最前列でミッチーが盛んに手を叩き、他もそれに加わっていく。人いきれに揺らめき、自分も知らず知らずのうちに拍手をしていた。ジャイ公なんて好きではない……好きではないが、自治会長に一泡吹かせてくれるのなら……――
 ピィーッ、ピィーッ、ピィーッ――
 一斉に警告するウォッチ――さらにスピーカーから、くぐもった声のかみなりが落ちる。
『ウォッチを鳴らすんじゃない! 評価が下がってもいいのか!』
 羽目を外してしまった一同は首をすくめ、ジャイ公はいたずらを見とがめられた悪ガキ面ではにかんで、監視カメラにぺこっと頭を下げた。
「それじゃ、今日のキャンプはこれでお開きだ。解散っ!」
 ぱんぱん、とジャイ公が手を打ち、参加者はかすんだ目つきのままばらけていく。マール、マール、マール……自分も帰ろうとポケットに空包装を入れ、踏み出すや――
「おい! おいおいおいおいっ!」
 飛びかかってくるどら声――振り返ったそこには、ジャイ公の渋面があった。
「ちょっと来い、新入り」
 ジャイ公は自分をカウンターまで連れていき、タブレットに4、8、9、1、と入力して、表示された金額をふんと鼻で笑った。
「ま、金があったら北館にはいないもんな。生活支援金が入ったら払えよ、入会金と受講料」
 え、と聞き返すとミッチーが、当たり前だろ、とあきれる。
「タダなわけないだろ。この画面から、こうして、こうすると、被収容者間の金のやり取りもできるからな。ジャイ公さんに振り込むんだぞ。1945番に!」
 安くない請求額だった。左右から迫られているにもかかわらず、ウォッチは一向に鳴らない……と、ジャイ公は視線を転じ、エレベーターの方にかんしゃく玉を破裂させた。
「おい! そこで何してんだっ!」
 にらみつける先ではロバ先生がエレベーター横の操作パネルをいじっており、近くに立つウーパーがのっぺり顔をこわばらせる。
「いじってんじゃねえよ、先公! 壊れたらどうすんだっ!」
 尻にかみつかれたように驚き、よろよろ向き直ったロバ先生は、迫ってくるジャイ公とミッチーにいっそう青くなった。両名はやたら吠えておののかせ、あざ笑ってこちらを振り返った。
「それにしても、ひっでえ青さだよな! 色移りしそうだぜ!」
「こいつ、元は教師だか教授だったらしいぞ」ミッチーが情報通ぶる。「その筋から聞いた話によるとさ」
 自分は目を丸くした。先生というのは思いつきだったが、実際にそうだったとは……それが、今やこのざま……――
「おい、ブス!」ジャイ公が牙をむく。「ちゃんとお守りしてろっ! 何度も同じこと言わせんじゃねえっ!」
「言っとくけどな、転んで骨折とかしたらお前の責任だからな」ミッチーがねちねち続ける。「年寄りはひ弱だからよ。骨折って寝たきりになったら、お前が一生面倒見ろよな」
 うつむき、半端に腕を組んで縮こまったウーパーは、いっそう青ざめたロバ先生が壁にすがり、手すり伝いに逃げ出したのを見てあたふたと後を追った。その後ろ姿をジャイ公たちは、役立たずだの要領が悪いだのとこき下ろした。
「とにかく、ま」こちらを差す、ジャイ公のぶっとい指。「踏み倒すなよ! いいな!」
 言い残してミッチーと去り、ぽつんと自分は残された。さっきまでとは打って変わってがらんとし、熱が引いたことで余計に寒々しい空間に響く、スピーカーからの斉唱……一本調子なそれはフロアの隅々まで響き渡ってここに集中し、自分をどんどん削っていくようで……マール、マール、マール、マール、マール……そら恐ろしくなり、自分は足をもつれさせながら逃げ出した。
 マール、マール、マール……反響するほどのぼせ、かすんでいく……見えない足かせのはまった足を引きずり、手すりを頼りに粘土質っぽくなった体を前のめりに運ぶ。共同洗面所で渇いた喉を潤し、むずかる腹部を抱えて共同トイレ奥の個室で腰を下ろす。四方を壁に囲まれたここでも、徳念は空気を震わせてくる……前屈みになっていきむと、ちょぽん、ちょぽっ、と緩いものが出た。腹には、鈍い痛みが残っている……ののしって腹圧をかけるとまた出て、むふっと悪臭が立ちのぼってきた。
 そうして時を置いたにもかかわらず、148号室はまだ濃厚に臭っていた。
 空調なんて、まともに動いてやしない……天井のそれをにらんだ自分は、こちらの間仕切りカーテンを閉めきって空包装をごみ箱に捨てた。寝床に倒れ込み、薄っぺらな掛け布団をかぶる。外からの斉唱も奥のうなりもごっちゃになり、暗がりに吸い込まれていく……――
 ピンポーン――
 チャイムで引き戻され、自分は何事かと跳ね起きた。
『4891番、いますか?』
 枕側のスピーカーから、くぐもった声――自分はうろたえ、正座をして、はい、と半分声を裏返らせた。一昔前の表計算ソフト風の口調は、昼休みに南館をうろついていましたね、と単刀直入に問いただしてきた。
『苦情が複数入っています。みだりに南館に立ち入らないように』
 自治会長に用があったから……しかし、下手に口答えして評価に響いては……押し殺した自分は、ストライプ柄の膝の上でこぶしを握った。
『聞いているのか』
 いきなり変わった語調に自分はすくみ、すみません、と謝った。ぶつっと通話が切られ、縞模様の隙間から視線が落ちていく……横たわって掛け布団をずり上げ、自分は屈葬のような格好になった。遠くから喉の震え、うめきが這いずってきて、やがてあの醜い四つん這いが……目をつぶるほどそれは明瞭になり、いつしか自分と重なって……――
 ああっ!――
 叫びを押し殺すと汗があふれ、病衣をべたつかせていく……暗がりにこもる、すえた臭い……頭からじんわりと、微熱が全身を蝕んでいく……消して、消してしまえばいい……いざとなれば、自分にはそれができる……あいつも、何もかも消してしまうことが……――
 夕食を告げる放送に揺さぶられ、自分は蒸れた寝床から這い出した。のぼせた頭がくらくらし、肉体から乖離してしまいそうだった。奥から、あえぎとも嘆息ともつかないものが聞こえる……顔をしかめ、のろのろ起き上がった自分は、カーテンで仕切られた狭い空間にしばしぼう然とした。
 これが、現実……――
 夢でも何でもなく、自分がとらわれているリアル……奥からのうめきに頭を振り、立ち上がった拍子にふらついて壁に手をつく。
 冗談じゃない……――
 黒ビニールサンダルで踏みしめ、自分は通路に出た。マール、マール、マール……回ってきた配膳車に頭を下げ、トレイを床の端に並べる。乾いた目に映る、雑に盛られた米飯、海洋ごみ然としたワカメの味噌汁、一袋六個入りで二百円前後の冷凍食品としか思えない白身魚のフライ三個とぐちゃぐちゃのコールスローサラダ、薄い汚水にも見える麦茶……それらを一緒くたにした、猫まんま……微熱で揺らめくそれらをにらみ、自分は通路端の監視カメラを背にし、遠ざかっていく配膳車をうかがって、猫まんまのフライ全部、さらにコールスローサラダを半分近く自身の方に移した。キャンプのせいで腹ぺこだし、あいつが食べた分はクソになる……ごろごろしているだけなんだから、そんなに腹が減るはずもない……なによりこっちは、あいつの分まで働いたんだ……――
 かさの減った猫まんまを奥に置き、間仕切りカーテンを閉めて食事をかっ込む。薄汚れたポリエステルのひだの向こうで咀嚼音が終わり、しつこく食器をなめる音が続いた。
 働かない奴には、食べる資格なんてない……――
 すっかり空になった食器とトレイを間仕切りカーテンの下から出すと、すぐさま這い寄ってきてなめ回す。何も残ってやしないぞ……鼻で笑った自分は、急に不安に襲われた。食事を取られたと気付くだろうか……そんなに頭が回るとも思えないが、気付かなかったとしても足りない腹いせに何かしでかすのでは――
 がしゃあっ――食器のひっくり返る音がして、ぐつぐつとうなりがわき上がってくる。とっさに腰を浮かしたところで間仕切りカーテンの波頭が砕け、ぼさぼさ髪を振り乱した異形がつかみかかってきた。興奮しているためか、いつもより素早い動きに自分は素っ頓狂な悲鳴を上げ、身をよじって振り払い、這って這って這って這々の体で取っ手に飛び付き、通路に転がり出ると、どんっと片引き戸を閉めた。扉越しにがりがり引っかく音がし、めったやたらに奇声が叩きつけられる。それらが途切れたかと思ったら、叫びとともに、どん、どん、どん、どん、どん、どん、と打ちつけられて片引き戸が震える。これは、頭をぶつけているのではないか……鈍色の取っ手をつかんだまま、自分は身を固くするばかりだった。
「なぁに騒いでんだぁっ?」
 どら声に驚くと、ひん曲がったしかめっ面がそそり立っていた。奥歯の虫歯にいらつくような顔のミッチーも……さらにあちこちからうかがう、病んだマネキン人形じみた顔……自分は取っ手を握り締めた。騒ぎを起こしたとなれば、指導局から大目玉を食らう……社会復帰が遠のいたら、それだけあいつの世話をしなければならない……――
「やい」ミッチーが口を尖らせ、カンナの刃状の出っ歯を突き出す。「何やってんだよ? あ?」
「と、突然、暴れ出したんです」
 そう口をついて出た。うそじゃない。こうなったのが食事のせいかどうかだって……――
「迷惑だな」
 電子式ライターの着火音っぽい舌打ちをし、ジャイ公は傍観者たちを振り返った。
「おーいっ! 指導だ、指導! 来てくれ!」
 北館にとどろく、どら声……マール、マール、マール……ストライプ柄のゾンビが、ふらふら、がくがく、中には壁を伝い、手すりにつかまるなどして集まってくる。五、六、七……頭数は十を超え、さらに増えていく……容姿や年齢は様々だが、近付いてくるほど顔からわずかな血色さえ薄れていくように見えた。
「しつけてやるよ」
 しっしっ、とジャイ公はこちらに右手を振った。
「どいてろ」
 取っ手から指が外れ、よろよろと下がる自分……見物人が集まったところで、ジャイ公はがららっと片引き戸を全開――こもっていた臭いが飛び出し、どら猫面がぐしゃと凶悪にゆがむ。
 あっ!――
 ぶくっとしたこぶしが青黒い顔面に炸裂し、ぶぎゃっと悲鳴が飛び散る。どしゃっと倒れた痩せぎすは足首をつかまれ、通路に引きずり出されて、蹴られてうつ伏せにひっくり返された。あの貧相な尻がわなないていた。じたばたする両手をミッチー、両足をジャイ公が押さえ、ぎゃあぎゃあわめくノラは昆虫標本さながらになる。ひどく色の悪い傍観者たちはいつになく目を大きくし、鼻の穴を膨らませて密度を高めていたが、それにもかかわらずどのウォッチも反応しない……後ずさった自分の背中が行き止まりにぶつかり、向こうから黒い影が面倒臭そうに歩いてくる。誰かが通報したのか、あるいは監視カメラ……到着した指導員は腰から手錠を取り出し、後ろ手にかけると立ち上がってノラを見下ろした。
「へへっ」ジャイ公は、人なつっこく笑った。「ご指導のお手伝い、しておきました」
「ああ、ご苦労さん」
 気安い口調に、にやっとするジャイ公……その足下では、ノラが甲板の魚みたいに身もだえしていた。
「うっせえわっ!」
 ジャイ公が脇腹を蹴ると潰れた悲鳴がし、自分は縮み上がった。げらげら笑うミッチー……指導員は苦笑をこもらせ、101号室まで運ぶようにと指示した。
 101号室?――
 指導員が先に立ち、ジャイ公が右足首をつかんで引きずっていく。その後ろからミッチーたちがぞろぞろ……追おうとした自分はつんのめり、がくっと膝をついた。思うように足が動かない……手すりにすがり、立ち上がって壁伝いにずるずると……マール、マール、マール、マール……何度も足がもつれ、脱げかける黒いサンダル……歩幅が狭くスローモーな、前後左右にふらつく葬列に似た流れは北通路と東通路がぶつかるところを左折し、北東の行き止まりのそば……148号室とはちょうど反対側の部屋の前で止まって、黒グローブの手が力を入れて取っ手を引く。開いたその室内にジャイ公が引きずっていき、手ぶらで出てくると、指導員は片引き戸を閉めて施錠し、病衣姿の青い一群に向き直った。
「お前たちも気を付けろよ、こんなところに入れられないように」
 さすがに息の上がったジャイ公以下、素直に頭を下げる一同……指導員はストライプ柄の間、壁によりかかった自分の前を通ってエレベーターに消えてしまい、また空っぽなまなざし、ぽっかりとした口になったゾンビたちはばらけ、ジャイ公もミッチーと帰っていく……独り残された自分は手すりにつかまり、おぼつかない足を動かして、閉ざされた101号室を見つめた。ここは、いわゆる懲罰房なのか……マール、マール、マール……徳念にかき消されているのか、中からはわめき声も何も聞こえてこない。一体、室内はどうなっているのだろう……じりじりと頭が溶け出し、かすんでいく片引き戸……自分はまた壁にもたれかかって、はあ、とあえいだ。
 悪いのは、お前だろ……――
 自分は、きびすを返した。次第に足取りが戻ってきて、手すりから離れられるようになる。やたらと臭く、ノイズがなくなった部屋で寝床に潜り、その肌寒さに身を縮めて自分は暗い熱をこもらせた。これは、指導……しつけ……これくらいやらなきゃ、分からないんだ……――
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