第12話

文字数 9,273文字

 フロアは日一日と変質し、崩れていった。毎日のように一人、また一人と過剰収容が進み、新入りの寝床確保を口実にコアラやメガネザル、チンパンらが南館に移ってきた。彼らが指導局の計らいで安物の布団セットを与えられ、ルームシェアしながら北館送りが出るのを待つ一方、北館では昼なお暗い通路にぐたっと座り、敷いたバスタオルに横たわる姿がそちこちに見られた。空調が切られ、冷え冷えとしたそこでは、咳やくしゃみが頻繁に聞こえて、ときにはいざこざからウォッチが甲高い警告を発していた。こちらは遠くからうかがうだけだが、あんな環境ではトラブルも起こるべくして起こるだろう。
 それにもかかわらず、あるいはそれだからこそなのか、北館の被収容者は評価を上げようと青白い目を血走らせていた。実際にそれで南館に移動になった者もいて、それはジャイ公たちと気の合いそうな男性が多かった。そうして取り巻きが増えるほど南館の面々は戦々恐々とし、北館に飛ばされないようにジャイ公一派におもねった。自分とて例外ではなく、寄付ができない分奉仕活動に励まざるを得なかった。
 北館に戻される、それだけは嫌だ……――
 夕食の豚モモ・和風ソテーを咀嚼し、自分は味わった。体の内も外もなじんでしまった今、あんなところに戻れるはずがない……床頭台のテレビからは、相変わらずゾンビの話題が流れてくる。昨日より発症者が増えた、減ったと一喜一憂する画面を消し、配膳車に返却して、泥が崩れるように横になる。どうにも体がだるく、歯磨きにも行きたくない……自分は掛け布団をかぶり、暗がりに這い込んだ。しっかり体を休めて、明日も頑張らなければ……すえた息苦しさもやがて遠のき、沈んでいくうちに誰かのかすかなうめきが……――
 荒ぶるいかずちがひらめき、浅瀬から自分は引きずり出された。腫れぼったい目をしばたき、もたつきながら片引き戸をそっと開け、塹壕からのように顔を出す。マール、マール、マール……熱のこもった頭に通奏低音、それに乗るどら声は南館奥、東南の行き止まりの方からで、角部屋前にジャイ公たちとディアが見えた。
「とっとと失せろ、オカマ!」
 とどろくどら声は、デイルームそばのここまで震わせた。片引き戸がいくつか開いたが、騒ぎを確かめるとすぐに閉まった。何をもめているのか……聞き耳を立てたところ、どうやら食事のことらしかった。
「……せめて、元の量に戻していただけませんか……」
 ミッチー、フォックス越しに訴えるディアの声はかすれ、あえぐようだった。
「……2540番も2049番も、どんどんやせていきます……3301番はお腹に赤ちゃんがいるのですから、できたら、南館と同じようにバランスの良い献立で――」
「ざッけんなよっ!」出っ歯を飛ばさんばかりのミッチー。「何様のつもりだよ!」
「権利は、義務を果たしてからでしょ」つり目を細め、フォックスがにやにやする。「努力もしないで要求って、それじゃ他の人は納得しませんよね」
 たじろぎそうなディア、立ちはだかるミッチーたちのウォッチが鳴り出す。それは警告よりもバカ騒ぎに近いようだった。
「だったら、お前が頑張れよ!」ジャイ公がまた牙をむく。「お前が他人の四倍、五倍、それ以上やればいいんだ。奉仕活動とかをな。簡単な話だろ」
「そ、そんな無茶な……」
「お前さ、甘えるのも大概にしろよ! 寄付はしない、ろくな奉仕もできないくせにくれくれって、どんだけ乞食なんだよ! ええ、このオカマ乞食!」
 左右から笑いと拍手がある。隅の監視カメラの前で、ジャイ公は群れの秩序を守ろうとかみついた。
「文句ばっか言ってないで、ちょっとは感謝しろ! お荷物なのに飯が食えるんだからなっ!」
 そしてジャイ公は、どんっと片引き戸を閉めてしまった。ミッチーとフォックスも罵り、嘲っていき、ウォッチも鳴り止んで徳念だけが響く。残されたディアはさながら、散々食いちぎられた死骸だった。
 ぼわっとした頭を引っ込め、自分はぬくもりのないベッドに潜った。ノラ、ロバ先生はどんどんやせ、ウーパーも……すえた臭いの暗がりが濃くなり、ずぶずぶと深まっていく……頑張るしかないだろう……結果さえ出せば、ジャイ公だって認めるしかないのだから……――
 騒々しさが流れ込み、またしても自分は引き戻された。部屋の外の、そう遠くないところから……片引き戸に忍び寄ってのぞくと、真っ黒な大画面を背にディアが正座をし、それをミッチーが離れてにらんでいる。そこにジャイ公がフォックスと現れ、はんっと嘲った。
「ハンストだって?」どら声が残忍に高まる。「飲まず食わずで訴えるってか。ウケるわ!」
 ミッチーたちもあざ笑う。膝の上にこぶしを置き、唇を結んで正面を見つめている。隙間からだが、遠目ではその姿はやつれ、青みが濃くなっているように見える。そのときエレベーターが開き、指導員が厄介そうに、どうする、とジャイ公を頼る。
「ほっときゃいいんですよ」
 ジャイ公は肩を怒らせ、腕組みでせせら笑った。
「どうせ、すぐに音を上げますって。――おい、オカマ。あいつらの世話をサボろうって魂胆じゃないだろうな」
「……2049番と2540番のことは、3301番にお願いしてあります……」
「あのウソつきがやんのか。そんなら、まあ勝手にしろよ。お前の分の食費が浮くわけだしな。言っとくが、これで何かあっても知らないからな。お前が始めたんだ、お前がっ!」
 ずんずんと指差されるディアは、暴風雨にさらされる灌木だった。ため息と嘲笑が交わされ、指導員とジャイ公たちが別れたので自分はさっと閉めた。我が物顔の足音が部屋の前を通り過ぎ、南館の奥に消えた後には、斉唱だけがどろどろと流れ続ける。もう一度隙間からのぞくと、ディアは姿勢を崩さずにいた。腹が底からうずき、くすぶる頭が煙っていく……――
 そんなことをしたって、聞き入れられるはずがない……――
 陰からにらんでいると消灯になり、座り込みが一飲みにされる。自分は真っ暗な室内をふらつき、ベッドに入って掛け布団をかぶった。空腹はつらい……そう長続きするものか……それよりも、評価アップに励んだ方がいいはず……ノラたちにとっても……眠ろうとしながら、自分は息苦しい暗がりにとらわれ続けた。
 何度か寝返りするうちに尿意を覚え、我慢できなくなって自分はベッドを出た。ベッドライトをつけ、片引き戸を少し開けたところ、デイルームの暗がりから何やらささやき声が聞こえる。目を凝らしてみると、正座からそう遠くないところに小柄な影がある。
 ウーパーだ。
 ほとんど聞き取れないが、どうやらハンストをやめさせようとしているらしい。しかしディアは動くことはなく、そのうちウーパーも消えてしまった。自分はこっそり部屋を出て、南館の共同トイレに足を忍ばせた。ぬくい便座に腰を下ろし、息をつく……腹圧をかけると、たまっていたものが断続的に出た。
 106号室近くまで戻ってきて、自分はデイルームの暗闇をうかがった。こちらからは分からないが、ディアは自分を見ているのだろうか……目を伏せ、こそこそ戻ってベッドに入り、デイルーム側を背に丸めた身を固くする。頭が、じりじりする……朝になれば、もういないかもしれない……寝て起きれば、いつもの徳念が巡っているだけ……――


 起床の音楽に叩き起こされ、自分はパイプベッドから転がり出た。かすんだ視界が揺らぎ、蝋になりかけのようで思うように動けない。
 依然としてディアはいた。フロアは惰性で動き出し、目やにの付いた青い顔が共同洗面所などに流れていく。大型モニター前で正座する姿は、初めこそいぶかられたが、すぐに視界の外に追いやられてしまった。
 マール、マール、マール……――
 南館の共同洗面所に並んでいるとあちらが騒がしくなり、黄土色っぽい悲鳴がしてウォッチがはしゃぎ出す。何事かと恐る恐るのぞいた先では、みじめに髪の乱れたディアがデイルーム端にやられ、その前でミッチーが息を切らしている。
「いつまでも居座りやがって」
 手に付いた髪を汚らしそうに払い、出っ歯の突き出た声が続く。
「端っこにいろ、端っこに!」
 その近くでフォックスが腕組みし、鎌状の目でにたにたしている。髪をつかまれ、あそこまで引きずられたのか……ディアは、がく、がく、と座り直し、髪を撫でつけて膝の上にこぶしを置いた。さらに血の気が薄れ、そのうち体ごと透けてしまいそうだった。もちろんリハビリ体操には参加せず、朝礼でヘッドが立ったときも壁際で正座したままだった。
「実に、嘆かわしことだ」
 腕組みのヘッドは憤り、斜め後ろのディアを顧みずにこき下ろした。
「あれはハンストだそうだ。ハンガーストライキ。まともに努力をしないで、もっとくれ、もっとくれってせがみ、思い通りにならないとああしてふて腐れる。そんなわがままを許してしまったら、一生懸命やっている君たちが馬鹿を見ることになる。そんなのは公正じゃない。きちんと努力をし、結果を出した者が報われる、世の中はそうあるべきだ。あんな態度は論外、最低評価だ」
 ヘッドは顔を伏せた一同を見渡し、黒ヤマネコに意見を求めた。
「おっしゃる通り」まろやか、かつ、どぎつく喉が鳴る。「正しいやり方とは思えません。意見があるのなら、適正な手続きを踏むべきです。こんなことをされては、何のために自治会があるのか分かりません」
 ヘッドはうなずき、次に振られたジャイ公が一同に吠える。
「そういうことだぞ。そんなわけだから、あのオカマが泣きを入れるまで誰も食べ物をやるなよ! 水もだぞ! 甘やかすとつけ上がって、そのうちみんなが割を食うことになるんだからな!」
 ミッチーらが、うんうんうなずく。その他大勢はおとなしく頭を下げていた。食事だけじゃなく、水も……それでは、脱水になってしまう……夏場に脱水で救急搬送、ときには死亡なんて話をネットで見かけたことがある。一切水分を摂らなければ、臓器の損傷やらもあって数日の命らしい……ましてや、病で衰えたゾンビ……早いとこ土下座でもするしかない……ヘッドは砂塵っぽく笑い、監視カメラでも見張っておこうと約束した。
「それでは、本日も頑張ろう!」
 頑張ろう!――頑張ろう!――頑張ろう!――
 ヘッドのかけ声に一同が従う。掲示板では、ポスターが微笑みをたたえている。自分はストライプ柄の間から正座をうかがい、帰室して床頭台のテレビをつけた。腰を下ろし、パイプベッドをきしませる。ゾンビはますます増えている……受け入れ先の施設が見つからず、中には放置される事例もある、とその報道番組は伝えていた。画面の向こうには、スピード感を持って対応すると記者団に語る、機械仕掛けのような内閣総理大臣……入所さえできない者に比べたら、ここにいられるのは幸運なのだろう……巷にゾンビの居場所はないのだから……火照った頭がぼやけ、自分は枕に顔を埋めた。
 腹がちりちりし、先割れスプーンを持て余して……と、部屋の前をのしのしと通っていく。そしてそれに従う、傍若無人な足音……――
 もう、食べ終わったのか……――
 片引き戸の隙間からのぞくと、張り詰めた正座の真ん前にジャイ公、その左右にミッチー、フォックスがあぐらをかいている。それぞれの組んだ足の上には、朝食のトレイが載っていた。
「ああ、うまいなあ! めちゃくちゃうめえっ!」
 嬉々としたどら声がとどろく。乏しい語彙のグルメリポーターばりのコメントに、ミッチーたちが合いの手を入れる。ほかほかの大盛りご飯、ずっしりの卵焼き、からっとしてぶ厚い豚ヒレカツ、具がごろごろのポテトサラダ……ナスと油揚げたっぷりの味噌汁……松竹梅の松に違いないそれらは、聞いているこちらもよだれが出てくる。ディアとジャイ公たちはかなり近いが、黒い輪は見て見ぬ振りをしていた。マール、マール、マール……デイルームは拍動し、流れる斉唱はいくらか速く感じられる……ディアは何も言わず、膝上のこぶしの間を見つめていた。自分は片引き戸を閉め、テレビの音量を上げた。食欲は、すっかり失せていた。
 ジャイ公のことだ、この程度で済むはずがない……――
 正座は崩れなかったが、取り巻きによる見張り以外は無関心だった。奉仕活動では、その一隅をのぞいて床掃除をし、昼休みには黙々と共同電話に並ぶ……ケロノは反対側の壁際で歌い、黒ヤマネコは、感謝、ポジティブ云々と唱えながらウォーキング……一度、さまよい出てきたロバ先生が正座に目をとめ、戸惑った顔でたよた近付いたが、連れ戻しに来たウーパーともども見張りに追い払われてしまった。
 ジャイ公たちの嫌がらせは、昼食、夕食でもねちっこく行われ、ディアはこぶしを固め続けていた。そういえば、ずっとあそこに正座していて、洗面所やトイレに立っていない……昨夜から飲まず食わずだから、なのだろうが……肌の青みが増し、黒ずんでいく姿は、そのうち塗り潰されてしまいそうだった。
 もうやめろ……頭を下げればいいだけじゃないか……――
 直接そう言ってやりたかったが、合わせる顔などあるはずもない。いきさつはどうあれ、この部屋を乗っ取って……ノラとロバ先生は食事を減らされ、ウーパーはハブ……薄れていくそれらを振り払おうとするほど、頭が熱くなってもうろうとしていく……――
 消灯時刻を迎え、一隅もろともデイルームはまた真っ暗になった。暗がりであえぎ、もがいているうちに翌朝がやってくる。
 ディアはあのままで、昨日よりも黒ずんでいた。
 それを見ないようにリハビリ体操をし、南館の最後列で自分はうつむいた。ヘッドは、ハンストに一切触れなかった。あの一隅など存在しないかのように……だが、毎食時の嫌がらせは続いた。自分は腹を壊し、朝食も昼食もほとんど残した。夕食は数口で終わり、どうにも落ち着かず取っ手に手をかけ、のぞいてみたところ、コップを手にしたウーパーがディアにこそこそ近付いている。
 水を飲ませようとしているのか……――
 指導員は配膳車と北館、南館それぞれを回っており、デイルームには二人以外いない。監視カメラはあるが、指導局に気付かれないうちなら……しかし、ディアは差し出されたコップに目をつぶって、首をふらふら左右に振った。ウォッチが発報し、ウーパーのおびえた目がきょろきょろして、こちらと合う――が、それはすぐにそらされ、薄暗い北館に消えてしまった。
 冷たい取っ手に手がしびれ、自分はそのままウーパーの消えた辺りを見ていた。当然だろう……ここに、こうしているのだから……視線を正座に移し、いつしか自分はにらみつけていた。
 そんなことを続けて、何になる……――
 ゾンビたちは寄りつかず、南館に移ろう、戻してもらおうと励むばかりだ。施設側にしたって、コストカットできたと喜ぶだけ……さっさとやめろ、やめてしまえ……一度はノラを投げ出したくせに……何度も便座に座って、汚泥状の便をちょぼちょぼ出すうち消灯になってしまった。
 三日目……ディアは、いよいよ風前の灯火だった。ヘッドは危うげな正座を一瞥し、厳かな社章の前でいら立たしげに腕を組んだ。
「先日あんなことがあったばかりだし、そろそろどうにかしてもらわないとな」
 そう丸投げし、ヘッドたちはエレベーターに消えてしまった。神妙に頭を下げたジャイ公は、でかい苦虫をかみ潰したような顔で一隅を振り返った。
「おいっ! いつまでやってんだっ!」
 踏みにじる足取りで近付き、ジャイ公は上から正座をにらみつけた。
「喉はからから、腹はぺこぺこのくせによ。つまらない意地張ってないで、とっとと部屋に帰れ。なんなら、あのウソつきも許してやる。ハブをやめてやるよ」
 ディアは膝の上のこぶしを見つめ、喉をかさつかせた。
「……ちんまりとか、全部やめさせてください……北館、うちの部屋の人たちも、南館と同じ待遇にしてもらえませんか……」
「おい、何様だよ!」どら声が激する。「お前らみたいな役立たずも、ってか! どんだけ図々しいんだよ! 要求する前にな、努力をしろ、努力をよ!」
「……役に立たなきゃ、いけないんですか……」
「あん?」
「体操や掃除をしようにも、できない人間だっています……あなたたちの評価に値しないからって、ひどい扱いをするのは違うと思います……」
「ひどい扱いなんかしてねえよ! なんで身の程をわきまえねえんだよ! 役立たずのくせによ!」
 おっしゃる通りですね、というふうにうなずく黒ヤマネコが最後列からも見えた。互いに離れたゾンビたちはうつむいたままで、北館側でさえ、早く朝礼が終わってくれないか、という気だるさが立ちのぼっている。マール、マール、マール……ディアは折れそうな背を突っ張らせ、うめくように、うなるように返した。
「人間であれ何であれ、命は生きるために生まれてくるのではないですか……役に立つとかじゃなく……これは、支援団体の人の受け売りですが……もう、やめてください……こんなことは……」
「やめてくだちゃ~いっ!」
 ジャイ公が小馬鹿にし、ミッチーたちが噴き出す。自分はうずく腹を押さえ、じんじんする目でディアをにらんだ。ロバ先生、ノラも……そうかもしれないが、だからどうだっていうのか……――
 いつまでもやっているわけにもいかず、朝礼は終わって自分は片引き戸を閉めた。頭がかっかし、震える肌の毛穴からどろっとあふれそうだった。そのうち朝食になり、腹をさすってトレイの上をぼやけさせていると、デイルームから異様なはしゃぎ声が聞こえてくる。両こぶしで支えるディアのすぐ前でジャイ公があぐらをかき、くっちゃくっちゃと咀嚼しては、うまい、うまい、と舌鼓を打ち、先割れスプーンでぶっ刺した肉塊を相手の口先に突きつけた。
「おら、ビーフハンバーグだぞ! デミグラスソース! 食べたいんだろ! 遠慮しないで食えよっ!」
 ぐいぐい押し付けられ、ディアの結んだ唇が汚れるさまに左右であぐらのミッチー、フォックス、さらにコアラにメガネザル、チンパンら取り巻きが薄笑いを浮かべている。
「おい、こいつの口をこじ開けろ」
 ジャイ公の命令――ミッチーがトレイを脇に置き、よいしょと立ち上がって、ディアのあごをがしっとつかむ。強引に開けられたそこに肉塊が突っ込まれ、ぶっと吐き出されて、のけ反ったジャイ公のトレイで椀や皿が揺れる。
「きったねえな、クソオカマっ!」
 取り巻きから追従笑いが起き、ミッチーに、ばすっ、と平手で後頭部を殴られてディアの長髪が乱れる。片引き戸の隙間から凝視するそこに、よろよろと誰かが入り込んできた。
「こ、こら、何をやってるんだ!」
 手すりを頼りにロバ先生が立ち、不良グループにかみなりを落とすように声を上げた。その近くでは、頬のこけたウーパーが青くなっている。騒ぎに引き寄せられたのか、それとも空腹で食べ物を探しに来たのか……いずれにせよ面長の青黒い老顔は、かみつかんばかりに険しかった。
「うっせえんだよ、ジジイっ!」
 ミッチーが詰め寄り、ぐらっと老体をたじろがせる。
「あっち行ってろ、クソぼけが!」
「こ、こんなこと、やめなさい」
 手すりを離さず、踏みとどまろうとする姿は、追い詰められた草食動物を連想させた。接近したウォッチが鳴り出し、双方をあおり立てる。ばら、ばらと見物人が増え、遠目にする中にはケロノもいて、その顔つきは歌詞でも考えていそうだった。
「うるせえって言ってんだろ……」
 ミッチーに胸ぐらをつかまれてロバ先生が及び腰になり、その脇でウーパーが下腹部をかばいながらおろおろする。はああっ、とため息をついてジャイ公が立ち上がると、辺りの熱量はぐんと高くなった。
「とっとと失せろ、老いぼれ」ぎらつく、どら声。「ぶっ殺すぞ」
「や、やめて、ください……」
 ディアが口元を拭い、食いしばるように訴える。
「乱暴は、しないでください……」
「ああんっ?」
 ジャイ公は矛先を戻し、正座の目の前にしゃがんだ。触れ合いそうな青黒い肌、青白い肌――とうとう左手首の黒輪が奇声を上げ、スピーカーからの斉唱と相まってフロアを沸き立たせていく。その怖気立つ熱にさらされ、見つめる自分は頭から溶け落ちていった。
「四の五の言ってないで、とっとと飲んどけよ! このオカマ野郎っ!」
 やせたあごをつかみ、がっと開けて、ジャイ公はコップを突っ込んだ。げほっとディアの口から、泥水色をした麦茶が噴き出す。
「てめえ、大概にしろよっ!」
 顔にかかったものを拭い、ジャイ公は逆上した。
「オカマのくせによ! てめえがどうなろうと知ったこっちゃねえが、みんな迷惑してんだよっ!」
 むんずと手づかみの米飯、ビーフハンバーグがディアの顔に押し付けられ、味噌汁が長髪からぼたぼたしたたる。ミッチーが大笑いで手を叩き、フォックスは冷ややかににやついて、その他はストリートパフォーマンスを見るみたいに立ち、あるいは部屋に戻っていく……デイルームは、どっ、どっ、どっ、どっ、と熱く高鳴り、北館、南館、フロア全体が拡張していくようだった。監視カメラは、そうした異様を隅から見下ろすだけ……止めようとするウーパーの下腹部をミッチーが蹴ろうとし、すくんだロバ先生は手すりにしがみついている。めまいに襲われた自分は後ろによろめき、片引き戸が閉まった。腹がただれて、汚物と漏れ出してしまいそうだった。
 う、うう……――
 頭はもとより目玉も溶け、焼かれているような体はこわばり、小刻みに震えていた。あの、101号室のときみたいに……崩れて膝と手をつき、うずくまってうめきが漏れる。外のどす黒いうねりが、この片引き戸を破ってきそうだった。
 もう、いい……――
 汚物が詰まった腹を抱え、がたがた震えながら自分は見回した。この部屋には、カーテンレールがない……カーテンレールは……――
 ぎらつく、鈍色――片引き戸の取っ手にとらわれ、ふらついた自分は壁にもたれ、ストライプ柄のパンツを脱ぎ始めた。もっと早く、こうするべきだった……冷たいコの字に通し、頭が通るくらいの輪で左右の裾を固結びにする。ベッド柵やトイレのドアノブで、と同じ要領……膝をつき、いびつな輪に頭を入れて、首にかかるのを確かめる。
 これで頚動脈と椎骨動脈が塞がれて……――
 後は、思いきるだけ……まぶたが暗く落ちて、淵をのぞく格好の前のめりは、今にもがくっと崩れそうだった。真っ暗な脳裏に浮かぶ、あのあわれな姿……――
 お前も今、楽にしてやる……――
 マール、マール、マール、マール、マール……終わるんだ、すべて……すべてが……――
 震える輪から汗まみれの頭を抜き、地を這うように自分はうめいた。終わりにはできる……できる、が……おぼろな頭を振ると、いくらかはっきりとする。熱い息を吐き、取っ手をつかんだそのとき、スピーカーから声が響き渡った。

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