第7話

文字数 5,483文字

 マール、マール、マール、マール……真っ暗な大画面を背に、いかめしく腕組みのヘッド……寒色半纏の自治会長、ギンガムチェック柄の黒ヤマネコら南の主立った被収容者による、すかすかの輪……その左右に立つ指導員、外側に散らばっている見物人……じき消灯時刻のデイルームに集まったそれら数十人の、普段はろくに合わせることのない目に囲まれた自分の左手首では、4891の表示にひびの走ったウォッチが外れないままだった。
「……つまり――」スモークシールド越しの、ヘッドのくぐもった冷笑。「食事中にうんこをされてブチ切れた、それに間違いないな」
 あちこちから漏れる、失笑……火に炙られているかのように苦しく、にもかかわらず震えの止まらない自分は、かじかんだ青い爪先を見つめていた。
「4891番、君の気持ちは分からなくもない」
 右にゆがむ自治会長が腕組みで言い、いかにも嘆かわしそうにため息をついた。
「だが、その部屋のことはそこの者で解決する、それがルールなんだ。確かに大変だろう、2540番の世話は。だからといって、勝手を許すわけにはいかない」
 そして自治会長は、自身がこれまで仕事でいかに苦労し、それに耐えて努力してきたかを語った。淡々とした口調ながら、それは賞状やトロフィーを誇るようだった。
「それに比べたら、これくらいで音を上げるのは、いささかだらしないのではないかな」
 鼻先が上向いた老ヒツジ面の横で、黒ヤマネコが深くうなずく。そう思うなら、代わりにやってみたらいい……こみ上げてきたものはしかし、声にするのもしんどいだるさに絡め取られた。もう、どうだっていい……どんな形でもいいから、逃れたい……この病からもノラからも、何もかもから……――
「自治会長のおっしゃることは、ごもっともです」
 黒ヤマネコがそちらをちらと見て、それからこちらに、これはあなたの課題です、と講釈を垂れる。病衣のギンガムチェック柄が、網にかけてくるようだった。
「すべては必然、あなたの成長に必要なことなのです。投げ出してはいけません」
 それらしいことが並べ立てられた後、ヘッドと自治会の面々とのやり取りを経て、くぐもった声のガベルが振り下ろされる。
「ペナルティとして、101号室入りとする」
 判決直後の法廷さながらにデイルームは静まり返り、マール、マール、マール……斉唱が冷厳に響き続ける。101号室……ノラが一晩放り込まれた……――
「警察に突き出されないだけ、ありがたいと思ってもらわないとな。そうそう、壊したウォッチの分は、生活支援金から分割で引かせてもらうぞ」
 左右から指導員に挟まれた自分は、ゆらゆらと道を空けるストライプ柄の間を歩かされた。見えない十字架を背負い、デイルームを出て北館に入るほど、けいれんみたいに震えてくる。マール、マール、マール、マール……――
 北東の奥、突き当たりそばの角部屋――101号室……――
 指導員の片方が解錠し、がらがらと片引き戸を開けて――自分はそそけ立った。室内は真っ暗闇……常夜灯の乏しい光も届かないのか、いくら目を凝らしても中の様子はまったく……どんっと背中を突き飛ばされ、つんのめった自分は闇に飲まれた。顔からしたたか打ち、痛む腕や膝が床の冷たさでぞくぞくっとしびれてくる。
 ガチャッ――
 後ろで施錠の音がして、自分はまったく光のない、鼻先すら見えない闇に閉じ込められた。縮み上がった体が次第に凍っていくようで、かちかちと鳴り続ける歯がこめかみをうがつ。その一方、頭からますます燃え上がって……――
 さ、寒い……い……こ、このままじゃ……――
 もだえながら起き上がり、やみくもに這って……片引き戸……壁でもいい……しかし、朦朧と伸ばした指先はかじかんでいくばかり……焦るうちに動きが鈍くなって、また床に倒れ込むとたちまち関節が固まり、手足の先からどんどん薄れて……――
 あ、あれは……カーテンレールは……――
 だが、真っ黒く塗り潰されたどこにも見えなかった。代わりになりそうなものはもちろんのこと、ただただ闇があるだけ……もはや自分は、がちがちに丸まることしかできなかった。凍えるままに震え、焼かれながらどれだけ経ったのか……こんな状況にもかかわらず、縮んだ膀胱がこらえきれなくなってきた。太ももで締め付けるほどそれはもがき、全身を突っ張らせていく。
 嫌だ、漏らすのは……――
 硬直しかけの筋肉を強引に伸縮させ、便器はないのかと這ったが、這っても這っても……すぐに動けなくなった自分は、なるべく冷やさないよう仰向けになり、腕を組み、足も組んで膀胱括約筋を引き締めた。
 もう少し……あと数分もすれば、きっと……――
 扉は開く……そう信じて、自分は数え始めた。一……二……三……四……酷熱と極寒、あえぐ膀胱にかき乱され、何度となく数え直してもそのときは一向に訪れない。二十九、三十、三十一……また数が煙ってしまい、途中からやり直す……十三、十四……突っ張ったままねじれ、締めつける五体に細かなひびが広がっていく。トイレで、便器でするんだ……しなければ……それもむなしく無残にひび割れていく顔面の、目尻からついにこぼれて……股間が決壊し、自分もそこから流されてしまった。ロバ先生どころか、ノラよりも劣った存在に思えた。股のべたべたした生暖かさ、はかなげな尿臭はすぐに薄れ、血も肉も、芯から黒焦げになったような頭まで凍りついていく……もはや、まぶたを上げることもできない……もう、いい……このまま……このまま、何もかも……………………………………――――
 遠くでかすかな、何かが……近付いてくるそれは足音のようだったが、指導員の黒ブーツとは響きが違っていた。ぺた、ぺた、という、自分と同じビニールサンダル……ためらいがちな、それでもそろそろと前に出る足取りは、少し離れたところで止まった。扉の、片引き戸の外にいるのだろうか……物見高い誰か、それとも……――
 ……――
 すっかり冷たくなった唇は、ゆがむこともできなかった。誰が心配するというのか……されるはずがない……自分は、ただの汚物に過ぎないのだから……――


 たゆたう暗闇から、いつしか……まぶたの隙間からのぞく、黒ずんだ虚空……――
「目が覚めたか」
 頭上から降る、くぐもった声……薄暗がりからあのフルフェイスヘルメット、無機的な防護服姿が浮かぶ。マール、マール、マール……傾いた視界の端、開け放たれた片引き戸からは、いつもの響きがわずかな明かりと流れ込んでいた。熱は峠を越えたらしく、頭の先から足の先、とりわけ股間がびっしょりの自分は、消化途中で吐き出されたようでもあった。生きて、いる……胸が膨れ、縮むたびに穴が広がっていく……また、あの日常が続くのか……――
「何だ、また漏らしたのかよ」
 仰向けの下半身に気付いたのだろう、指導員が乾いた苦笑を漏らす。あのようにさいなまれたせいか、どことなくぶれた体を動かして自分は起き上がり、パンツに広がった染みと濡れた床を見るともなく見た。そうしている間に交換された左手首では、4891という表示がくっきりと引き継がれていた。
「汚れたまま帰すわけにもいかないし、シャワールームに行ってもらえるかな」
 ため息混じりに指示され、自分は四つん這いからよろよろ立ち上がって黒サンダルを履き直した。闇が薄れた室内には何も見当たらず、単なる空間でしかなかった。こんなところに自分は、あれほどうろたえていたのだろうか……薄暗い床の汚れにとらわれていると指導員が、そのうち乾くだろう、と面倒から逃れようとする口調で急かした。
 後ろからスモークシールド越しに見張られ、生気のない通路を手すり伝いに歩く。ひょっとして、ノラもあそこで漏らして……もしかすると自分は、あいつの尿が乾いた床を這い回っていたのか……どうにもおぼつかない足を出すたび、薄く黄ばんだストライプ柄が内股にべたっとなった。
 血管が縮む脱衣所で汚れたものを脱ぎ、シャワーのハンドルを回すと消毒薬臭いぬるま湯がしょぼしょぼかかってくる。ちりっと左頬がしみ、自分は引っかかれたことを思い出した。頭から足先、股間とその周りを念入りに洗って、目をつぶった顔に浴びると引っかき傷がまた痛む。なぜ、まだ生きているのだろう……あいつの不幸も終わりにできたのに……――
 もうそれくらいで、とシャワーカーテン越しにくぐもった声がかかる。体を拭き、棚から取ったブリーフにインナーシャツ、ストライプ柄の病衣、そして黒サンダルを履く。薬品臭いバスタオルをリネン袋に入れ、ざっと髪にドライヤー……終わったと見て、指導員は出入口に移動した。
「それじゃ、部屋に戻って」
 起床時間前だから静かに、と付け加えられる。部屋……立ち尽くす自分に指導員はいら立ち、脱衣所から追い出した。
 マール、マール、マール、マール……サンダルの裏を擦り、フロアの北西へ……通路のほの暗さに染められながら、とうとう自分はあの片引き戸を前にしてしまった。聞き耳を立ててみたが、徳念のせいで中の様子はまったく分からない。
 入りたくない……――
 入るのが恐ろしい……あんなことがあったのに、同じ部屋のままなんて……どんな反応されるのか……もしかすると、自分はまたあいつを……だが、風邪の熱は引いたとはいえ、ぐったりしてもはや立っているのもやっとだった。開けた途端に騒ぎ出されたら……まだ起床前のフロアに目をやり、ためらっている間も自分はすり減って、怒りをかき立てられていく。うなられようが、わめかれようが、関係ない……こっちは被害者なんだから……取っ手をつかみ、はねのけるように開けて自分は目を丸くした。
 バケツやトイレシートのパック横――膝を抱えていた影が、通路から差し込む薄明かりに顔を上げた。
 ディアだった。
 どうして、ここに……戸惑っていると、相手は壁を這うように立ち上がって、ごめんなさい、と肩をすぼめた。薄闇が残ったままの奥では、逆立ったうなり声の針が震えていた。
「あの子の面倒見ろって……」
 陰影の濃いディアは奥に目をやり、1945番ことジャイ公にそう命じられたと言った。ということは、不在の間に糞尿の始末をしていたのか……ばつが悪くなり、自分は仕方なく頭を下げた。それで隣に戻るのかと思いきや、ディアは痛んだ長髪を撫で付けて言いよどんだ。
「……昨晩遅くにまた一人収容されてきて、わたしの場所を譲ることになったの……つまりその、寝るところもなくなってしまって……お手伝いさせてもらいますから、ここに置いてもらえませんか……」
 座り直して乞う中年の姿は、なんとも哀れだった。そのそばには、洗面用具やらで一杯の手提げビニール袋が身を寄せている。居場所がなくなったということか……通路よりは室内の方が寒くはない。南館に入り込むわけにもいかないだろうし、こんな部屋でも仕方がないということだろう……ディアを見下ろす自分はしゃべるのもおっくうで、適当にうなずいて手前の間仕切りカーテンの中に倒れ込んだ。
 多少狭くはなるが、あいつの世話をしてくれるのなら……それにしても、とうとう過剰収容……巷でゾンビは増える一方らしいし、それを野放しにもできないのだろうが……――


 寝込みを砲撃されたように飛び起き、うろたえた自分は、それが毎朝の蹂躙だとようやく分かった。ほっとする身から漂う、生命感のない臭い……そうか、シャワーを浴びて……寝床で眠ってしまったのか……くすぶった頭で間仕切りカーテンを開けたところ、壁際の薄い人影にぎょっとする。肩身の狭そうなディアが瞬きし、伏し目がちに頭を下げる。そういや、そうだった……まだしっくりこない自分は奥のうなりを耳にし、洗面用具を手に黙って部屋を出た。
 スピーカーからのアップテンポにせき立てられ、洗面所から戻っては並んでいく病衣姿……その終わり頃に悠々と並ぶジャイ公、ミッチーの隣には新顔があった。キツネじみた中年男の、その他大勢を小馬鹿にするような薄ら笑い……――
 こいつが、昨夜収容されたという……――
 それとなく横目でその新入り――フォックスをうかがっていると、重たげに背中を曲げ、腹の前で両腕を組んだウーパーの縮んだ影が入ってくる。そして自分を挟んで反対側、行き止まりのそばには、半死人じみたディアがようやく立った。
 やっと生きているディアに引きずられそうで、シェアを後悔しないでもなかった。とはいえ、奥にかかわりたくない自分としては、配下膳と排泄物の処理をやってもらえるのはありがたい……のろ臭いものの、やることはきっちりしている。それだからなおさら自分は、壁際で寝起きするディアに居心地が悪くなってきた。脱衣所から拝借したバスタオルを敷き、たたんだフェイスタオルを枕代わり……硬く冷たい床ということも考えれば、湿気ってノミかダニが巣くう寝床でもずいぶんましだろう。だからといって、このシングルサイズでくっつきたくはない……重症化リスクのこともあるのだし……結局その日もディアは壁際、バスタオルの上で体を丸め、自分は間仕切りカーテンの中で消灯を迎えた。奥からは、途切れ途切れのうめき声……寝付けずにいたところ、足下側でくしゃみがあって思わず身が縮まった。
 101号室に比べたら……――
 この部屋、床だって……かぶった掛け布団越しに奥のうめきが聞こえ、暗がりをやたらと胸苦しくさせた。だが、仕方ない……一日でも早くここを出るには……――

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