第8話

文字数 8,566文字

「臭いな、この部屋……」
 壁際に敷いたバスタオルの上で膝を崩し、昼食のトレイを載せたディアがつぶやく。先割れスプーンが止まった自分は、あぐらをかいた寝床からそちらを斜にうかがった。床頭台のテレビはゾンビ病患者の増加をセンセーショナルに特集し、コマーシャルのインターバルに入っている。その液晶画面が見えるように間仕切りカーテンを開けていたので、こちらの視線は相手のそれとかすった。
 すみません……――
 食器の間に目を落とし、ぼそっと唇を尖らせる……この部屋の問題は、何もかも自分の責任と感じられた。するとディアは慌てて、首を左右に振った。
「違うの、あなたが謝ることじゃなくて……その、そうじゃなくて……奥の子、もうずっとシャワーを浴びていないでしょう。それがかわいそうでね……」
 かわいそう……――
 思いがけない言葉に自分は戸惑った。臭いことは確かだが、そんなふうに思ったことはない……思えるはずもないし、第一、シャワールームまで連れ出せるはずもない……そんなやり取りをよそに、奥では一心不乱な咀嚼音がしている。ノラは間仕切りカーテン内にトレイを引き込むようになり、排泄もこちらが不在のときにやるようになって、ほとんど姿を見せなくなっていた。
 だったら、世話を投げ出すな……――
 自分はそれを飲み込んだ。くすぶる脳裏は黒ずみ、薄暗くなっていく……体調が悪くたって、かじりついていればよかったじゃないか……そうだったら、あいつの世話を押し付けられることはなかった……あんなことも起きなかったはず……――
 重症化リスク、ありますからね……――
 口から出てきたのは、そんな言い訳じみた言葉だった。すると、それはデマよ、と意外な答えが返ってきた。
「そういったエビデンスは、ない……海外では、いくつもの専門機関が否定しているの。だけどこの国では、ゾンビには近付くなって叫ばれているのよ」
 初耳だった。海外の大手メディアで報道されてもいるそうだが、にわかには信じられなかった。確かめようにも収容時に携帯電話を取り上げられ、テレビのチャンネルは限られている……ジャイ公たちは例外として、自治会長以下みんなでばらけ、そっぽを向き合っているのが間違いなのだろうか……そんなはずはない。あれだけたくさんの人間が間違っているなんて……自分が低迷しているのは、ノラのせいに決まっている……――
 そう、ですか……――
 そして自分は、もやしとキャベツのカレー炒めをもそもそかんだ。しばらくは各々の咀嚼音だけになった。麦茶を飲み、先割れスプーンを置いた自分にディアは舌をもつれさせ、ごめんなさい、と目を伏せた。
「あの子の世話を続けていれば、あなたに大変な思いはさせなかった……あの夜のことだって、ちゃんと伝えていたら……」
 ノラのこと、心を読まれたのだろうか……自分はどきりとし、あの夜って、とそちらに水を向けた。
「……あの、撃たれたときの……」
 言いにくそうにディアは口にした。かさぶたがはがれ、血のにじむ記憶に自分はしびれ、ぽつり、ぽつりと語られる、同じ目に遭ったという慰めに唇をかんだ。そうは言っても、あんな恥をかいてはいないだろう……奥で、ざら、ざら、と床をこするプラスチック音……食べ終わったノラが、トレイを間仕切りカーテンの下から押し出したのだ。自分はトレイを脇に置き、ぐずついてきた腹をさすって立ち上がった。
 マール、マール、マール……手すりにつかまり、前のめりでトイレへと足を引きずる。消化不良のまま腐り、たまっていく下腹部……鈍い痛みにゆがみ、脂汗のにじむ顔はいっそう青ざめているだろう。端から見れば、まさしくゾンビ……腐臭を漂わせる生けるしかばねそのもの……――
 どうして、自分は……――
 生きてしまっているのか……脳裏に、あのときの足音がよみがえる。現実だったのかさだかではないが、あれはディアだったのではないか……同室で耳にする足音でははっきりしなかったが、さっきのことでそんな気がしてくる……とはいえ自分は、本人に確かめるつもりはなかった。どうでもいいというより、恨めしいくらいだった。あのとき、あのままだった方がよかったのに……――
 ようやく共同トイレに入った自分は、奥の個室からよろけ出てきたウーパーに驚いた。トイレは男女別ではないのでおかしくはなかったが、両手で腹を覆い、手も洗わずに脇を抜けていくさまにあ然とした。体操のときの様子といい、ウーパーも落ちているのか……――
 手前の個室で尻を下ろすと、便座がひやっとする。ちょろ、ぢょろろ……さらに汚物が、ぼちゃぼちゃ落ちる。まだ痛みの残る腹を抱え、うな垂れて……どうやら出るものは出たらしいので肛門を拭き、そのトイレットペーパーと流れていく音を聞きながら息をつく。床面積は畳一畳にも満たず、棺にも似た壁に四方から圧迫されるのだが、ノラと離れたこの狭小空間が寝床以上にほっとするかもしれない。このまま、ここに……とさえ思ったが、ぶすぶすと焦げる脳裏が病のことをよみがえらせる。ここにいたところで、病からは逃れられない……打ち勝たなければ……そうして、ここを出なければ……しかし、そんなことが本当にできるだろうか……この状態から持ち直して、ヘッドやあの応援メッセージの青年と同じになんて……社会復帰したにもかかわらず再発、逆戻りという話もネットで目にしたことがある……そういったことにとらわれているうち、微熱の揺らめきにあのカーブが浮かんできた。切れ味は鈍そうな鎌を思わせるカーテンレール……あそこにこのパンツをかけて……何度となく考えたことにまた自分は耽った。
 南はずるいっ! 自治会ずるいっ!――
 吠え声で我に返り、何事かと耳をそばだてる。マール、マール、マール……いつ終わるともしれない循環を波立てる、傍若無人な濁流……――
 南はずるいっ! 自治会ずるいっ! 南はずるいっ! 自治会ずるいっ! 過剰収容、押し付けだっ!――
 どら声にあおられ、男たちが唱和……昼休みになったらしいフロアを時計回りに震わせていく。それらが通り過ぎてからトイレを出て、北東の角からこっそりうかがった先にジャイ公を先頭、その後に続くミッチー、フォックスら総勢十名ほどの背中があった。後ろからだと、左右の肩のずれ、背骨の湾曲、骨盤の傾きといったゆがみがよく分かる。見たところ、どうやら全員が北館の被収容者……昨日は昼過ぎと夕方に新入りが北館にねじ込まれ、今朝の朝礼で、自治体から要請があればさらに受け入れる、と聞かされたからだろう。北館に余分な寝床などなく、新しく入るたびに通路の端で寝転がる姿が増えていた。
 南はずるい……自治会ずるい……――
 反芻するうちに血がのぼり、熱くなっていく……施設の方針に唯々諾々と従い、北館に押し付けているのは自治会であり、南館の代表でもある自治会長……北館側の東通路では部屋からいくつも顔がのぞき、下っていく一行をそれとなくうかがっている。自分はふらりと陰から出て、わめき立てる流れに吸い寄せられていった。
「こら、先公っ!」
 とどろくどら声に驚き、自分は足を止めた。ロバ先生が吠えかかられ、エレベータードアを背に震えている。素足だった。また操作パネルをいじっていたらしい。もう何度目だろう……ウーパーは何をやっているのか……――
「いじるなって、言ってんだろぉ!」ミッチーが楽しげに恫喝する。「何遍同じこと言わせんだよ。壊れたらお前が責任取るのかよ、ボケジジイ!」
「弁償もそうですけどぉ」
 フォックスが後に続く。薄ら笑いで小首を傾げ、右肩が突っ張った腕組みだった。
「エレベーターがダメになったら、食事だって上がってこなくなるじゃないですか。みんなの迷惑、それってダメですよねぇ」
 他の男たちもあれやこれやと尻馬に乗り、エレベータードアにめり込みそうなほどロバ先生を追い詰めていく。そうしてジャイ公たちは肴にしているようでもあった。自然と密になり、群れているにもかかわらずウォッチは鳴らず、監視カメラは隅から眺めているだけ……並んだ部屋からの青い顔、熱っぽい目つきも同じだった。
「あの役立たずを連れてこい」
 ジャイ公が仲間の一人をウーパーのところに走らせ、おびえきった獲物をにらみつける。
「しかしまあ、こんなふうにボケちまってどうしようもないな。しかも、ゾンビにまでなるなんてよ。ただの厄介者じゃねえか。頼むからさ、この操作パネルをいじるのはやめろ。あ、それと小便漏らすのもな。すんげえ臭えからよ」
 ははっ、と群れから笑いが起こり、固く閉ざされたドアにすがるロバ先生をなぶった。そこに仲間が戻ってきて、体調が悪いとかで起きてきません、と報告する。
「冗談じゃないぞ!」ジャイ公が大げさに憤る。「無責任にもほどがある! 引きずってでも連れてきてやる!」
 そのときデイルームの方からおずおずと制止があり、ジャイ公がそちらをぎろっとにらむ。こちらからは死角になって見えず、しかも声が小さくて聞き取りづらいが、かすかに震えるそれはディアだった。隣室でのやり取りを耳にしたのだろうが、わざわざ首を突っ込んでくるなんてどういうつもりなのか……ディアがぼそぼそ言い、ジャイ公側が面白半分に吠えて自分ははらはらした。ディアに何かあったら、ノラの世話はどうなるのか……気が気ではなくなって、手すり伝いに何歩か近付いたところ――
「じゃあ、お前が責任持って面倒見ろよ、オカマ!」
 どら声で言い渡し、ジャイ公は南館へと歩き出した。そしてミッチーたち……南はずるい、自治会ずるい……マール、マール、マール、マール……傍観していた青い顔が引っ込み、よたよたと視界に入ってきたディアがロバ先生の手前でへたり込む。手すりをつかみ、寄っていくと緊張の糸が切れた両名の、いまだに残るこわばりが見て取れた。
 だ、大丈夫ですか……――
 とりあえずのこちらの声にディアは顔を上げ、微笑もうとしたが、それは痛々しい半べそみたいだった。チープな歌声に目を向けたところ、いつもの場所でケロノが酔いしれている。共同電話のところには、受話器を握る者と順番を待つ者……先ほどまでのやり取りにも居合わせたのだろうか。もしかすると傍観者はもっといて、東通路と同じく引っ込んだのかもしれない……――
 ピィー、ピィー、ピィー――
 鳴り出した黒い輪を右手で押さえ、自分は後ずさった。ディアがロバ先生の面倒を……そうなるとノラは……ウーパーの体調とやらは分からないが、ジャイ公の呼び出しを拒むなんてよっぽどなのか……とにかく、ディアにはあいつの世話をやってもらわないと……――
 考えているうちに煙り、まぶたがずり落ちてくる……ノラとロバ先生、どっちもなんて……無理をさせてディアが潰れてしまったら……かといって、あいつとはかかわりたくない……やむなく自分は、ロバ先生こと2049番はこちらでやります、と苦み混じりに言った。
 だから、あっちを世話を続けてください……――
 瞬きしたディアはほっとした顔になり、立て直すように腰を上げた。それから青ざめたままのロバ先生を慰め、ウォッチに騒がれながら手すりにつかまらせ、腰を支えて立ち上がらせた。
「それじゃ、お願いします」
 申し訳なさそうにこちらに頭を下げ、ディアは手すり伝いに北西の隅に帰っていく。やがてウォッチが鳴り止み、疲れた後ろ姿が北東の角をのろのろ曲がって見えなくなる。飲み食いすれば、出る……誰もいない間にノラはやっているはずだ……静かになったウォッチを後ろに回し、斜に距離を取った自分はロバ先生に右手を振った。
 ほら、帰りましょう。そっちですよ――
 そうして目と鼻の先の部屋に追い立てる。106号室を開けてやり、さながら柵の中へ急かすように……老いぼれたロバ面が手すりから壁を頼り、よろめきながら逃げ込むパイプベッドのそばには黒いサンダル、床頭台には手付かずの昼食が残されていた。外食チェーンストアの一番安い定食並みの自分に比べ、二百円くらい高そうに見える内容だった。ぎしっとパイプベッドに座らせ、室内を見回す。足を踏み入れたときからの、かすかなアンモニア臭……しわしわのシーツとベッドマット、ホウキ・ちりとりセットや尿取りパットのパックが並ぶ壁からも臭ってくるが、148号室と比べたらうらやましいくらいだった。
 食事を運んでやらないといけないのか……――
 ウーパーがやっていたように、あっちとこっちを行き来して……それだけじゃない。さっきみたいなトラブルを起こさないように見張って、時間を見てトイレにも連れていかなければ……面倒ではあるが、ノラなんかよりはましだろう。ぐったりと横になるロバ先生を離れて眺め、自分はあらためてそう評価した。
 その食事、食べるなら食べてください――
 それだけ言い残し、自分は部屋を出た。リハビリをしたくてたまらなかった。昼休みも終盤のデイルームでは、デモ行進を終えたジャイ公たちが水場に集まるけだものよろしくたむろしている。やはりウォッチは鳴っておらず、監視カメラも目をつぶっている。自分は気付かれないようにエレベーターホールを横切った。あれこれ気にしているこちらに比べて、ああしてふてぶてしいジャイ公らが頼もしくさえ感じられる。ああいった行動にもかかわらず高得点をキープしているのだから、ディアが言ったように重症化リスク説は間違いなのだろうか……上の空で北東の角を曲がった自分は、バケツ片手に汚物処理室に入ろうとするディアに出くわした。
「あっ、あの……ありがとう」
 薄日の微笑を浮かべられ、自分はいたたまれなくなった。むかっ腹さえ立った。ディアは尿臭のするバケツを後ろに回し、距離を取ったまま続けた。
「具合は分からないけど、3301番が元気になるまで頑張りましょう。先生、2049番の様子はどう? トイレは行かなくても大丈夫そう?」
 自分は伏し目でうなずき、脇を抜けて148号室に向かった。なぜ自分たちが、こんなことをしなければならないのか……ディアが――あいつが、意気地なしだから……もわもわする頭で開けた途端、奥から逆立ったうなり声が聞こえてくる。
 知ったことか……――
 そちらを背に腰を下ろし、寝床に潜ろうとしたところで無遠慮なノック――起き上がろうとする途中で、黒のフルフェイスヘルメットが焦れったそうに部屋をのぞく。
「985番はいるか」
 指導員は居丈高に問い、プラスチックバッグ入りタブレットを軽く振った。すぐに戻ってきます、と腰を低くしているところにバケツを提げたディアが来る。
「面会だぞ、985番」
 タブレットを突き出されたディアはびっくりし、とりあえずバケツを置いて、現実感のない顔で受け取った。
「やり取りはチェックしているからな。不適切な発言は慎むように」
 念押しして指導員は離れ、ディアがディスプレイをタッチ……するとスピーカーから、木漏れ日をほうふつとさせる声が聞こえてきた。寝床であぐらをかき、顔を背けた自分には見えないが、ディアは地獄で仏に会ったような声になり、涙ぐみながら健康状態や闘病生活について問われるままに語った。丁寧なしゃべり方から察するに、身内や親しい友人ではないらしい。やがて話は同室者のことに及んだ。
「いい人ですよ。いろいろ助けてくれるし」
 温茶を一口飲んだ後のような口調……自分の胸はさざ波立った。こっちは、あんたを利用しているだけだ……外からの徳念に意識を向けていたところ、あっ、とディアの悲鳴がある。どうしたことか、スピーカーの声は途絶えていた。ずかずかと足音が迫り、がらっと入ってきた指導員が有無を言わさずタブレットを取り上げる。
「不適切な発言はするなと言っただろ」
 くぐもったとげとげしさにディアはおろおろし、そんなことは言っていません、と弁明するも聞く耳は持たれなかった。奥のうなり声にちらとスモークシールドを向け、一方的に言うだけ言って指導員は出ていった。ディアは壁際で肩を落とし、何がまずかったのかさっぱりといった、霧に包まれた表情をしていた。奥のうめきは低くなり、何となく気まずい思いでいるとディアはふらっと腰を下ろし、相手は支援団体の人なの、と話し出した。
「……ここに入れられる前、老人ホームで働いていて……そのときの同僚がつないでくれたんだって……」
 反芻するように、あらためてかみ締めるようにディアは口にした。
「力になってくれるから、よかったらあなたにも紹介するよ」
 あいまいにうなずき、目の端でうかがう。介護の仕事をしていたのか……なるほどな……自分は両手をつき、のっそりと腰を上げた。
 ちょっと運動してくるので……少しそこで横になってもいいですよ……――
 相手を見ず、寝床を示して自分は部屋を出た。ディアがそうするかはともかく、口にしたことでちょっとは楽になった。いたずらに貸しを作られるのは面白くない……行き止まりの壁を前にし、壁腕立て伏せを始める。一……二……回数を重ねるほど汗ばみ、すえた臭いが立ちのぼる。何とか目標までこなし、壁をずり落ちるようにしゃがんで……――
 一休みしたら、今度はスクワット……――
 そのつもりだったが、腰はいつまでも重いまま……マール、マール、マール……じりじりと頭がぼやけ、黒ずんでいく……――
『北館の担当者、2049番の担当者に連絡します』
 スピーカーから響き、しばし口を半開きにして……はっとした。自分のことだ……――
『2049番が南館をうろついています。至急対応してください。繰り返します、2049番をどうにかしてください』
 ロバ先生が――通路の手すりにつかまり、もたもたと急いで……北東の角を曲がった先にその後ろ姿はあった。手すりにすがり、裸足でよたよたするみじめな背中……鈍臭い歩みに追い付くと尿臭がし、太もも半ばまでストライプ柄が変色している。
 ちくしょう……――
 かあっとなり、もうもうと煙っていく……こんなことなら、トイレに連れていけばよかった……なぜ出すんだ、なぜ……――
 地団駄踏みそうになるのをこらえ、自分は呼びかけ、横からのぞいた。しわのもだえる半べそは、こちらの声など聞こえていないようだった。
 漏らしてますよ! トイレ、トイレに行きましょう!――
 北でやってよ、と押しやる声がし、斜め後ろで隙間の閉まる音がした。自分は身を縮め、回れ右させようと乱暴に手を振った。近付いたせいでウォッチが鳴り出す。こちらの剣幕にロバ先生は後ずさり、よろよろと北館へ……並んだ片引き戸越しに感じるもの、あるいは通路で出くわすまなざしに自分はうつむき、左手首で騒ぐ黒い輪を押さえつつ、一刻も早くとひたすら追い立てた。
 小便漏らすなんて……こっちは違うぞ。あんな目に遭ったから……――
 やっとのことで北の共同トイレ、奥の個室に追い込み、汚れたパンツ、黄ばんだブリーフを下げると尿を吸って膨れ、びっちょりの尿取りパットが鼻をつく。
 ちょっとここ座って、ここ!――
 動かないように念押しし、自分は尿取りパットとブリーフをパンツで包み、汚れていないところを持って汚物処理室へ……ごみ箱とリネン袋に放り込み、手を洗ってから106号室、脱衣所と急いで回った。
 下半身裸の老人は、冷ややかな便座に座ったままだった。息を切らした自分はしゃがみ、細かなひびのようにしわばんだ足をつかんだ。色移りしそうで嫌だが、さっさと片付けないと、またウォッチが鳴り出してしまう……替えを左右の足に通し、ブリーフに尿取りパットを広げて入れ、黒サンダルを履かせて……――
 じゃあ、立って。下着とか上げますから……――
 うな垂れた相手の、枯れ野じみた後頭部を自分は見下ろした。何となく指導員っぽい気分がした。
「……すみません」
 しおれた声にぎょっとし、まじまじと自分は見た。この場から消えてしまいたい……そうした滴りだった。それは、そうだろう……かつては教鞭を執っていたらしいのに、今や……しかも小便を漏らして、他人の手を煩わせる……自分だったら一も二もない。カーテンレールにこのパンツをかけて……なのに、なぜこうして生きているのか……狭苦しい個室がますます狭まり、ロバ先生ごと自分を圧していく……ウォッチがしびれを切らし、金属的な警告音を発する。
 と、とにかく、立ってください……――
 ロバ先生を立たせ、ブリーフとパンツを上げた自分は、ウォッチを押さえつつ先に立って共同トイレを出た。何度も振り返り、106号室まで誘導……パイプベッドに座らせるや、ロバ先生はそのまま、がく、がくっと横に崩れた。疲れきった目は、どこにも焦点が合ってなかった。部屋から逃げ出し、手すりにつかまった自分はしゃがみ込んで……マール、マール、マール、マール、マール……むくんだまぶたがずり落ち、だんだんとぼやけていく。いっそこのまま、もうろうとしていられたら……だが、夕食の放送にそれは破られ、自分は砂を吐くようにあえいだ。重い……体が、ひどく重い……ロバ先生、のみならずそれ以外にも押し潰されそうだった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み