第13話

文字数 5,541文字

 北館の共同トイレは、最後まで血が通いはしなかった。
 何度となく掃き、こすって拭いた床や小便器を見回し、ひんやりとした空気を吸うと胸が冷える。あの薄手の病衣ではなく、ここに連れられてきたときのジャージ姿なのだが、それでもここは震えてきて、ぼうっと頭が熱くなる……また、ぶり返してしまったら……痛んだスニーカーの先を見ていると、そばの個室内で動きがあって、はっとする。
 自分はドア越しに声をかけ、静かに開けた。
 普段着のロバ先生が壁に手をつき、スラックスに股引、尿取りパット入りのブリーフが膝下で立っている。
 パンツ、パンツとか上げましょう――
 鈍い筋肉と関節を伸縮させ、自分はそれらを腰までちゃんと上げた。互いの左手首に黒い輪はない。もう警告されることはないし、青みが濃くなるとか動きが悪くなるといったことも今のところなさそうだ。仮に重症化リスク説が正しかったとして、放っておくわけにもいかないのだが……――
「すみません……」
 ロバ先生は、申し訳なさそうに言った。その青い面長顔はひげを剃ってさっぱりし、ロバというより老馬に近くになっている。自分は出来の悪い笑顔で応じ、手を洗って出ましょう、と促した。
 今もって、他人の下の世話などしたいとは思わない、が……――
 ちょろちょろとけち臭い水にロバ先生はぞくっとし、冷たいな、とつぶやいてさっと手を洗った。残り少ないペーパータオルで拭いてもらい、すっかり火の消えたような通路に出る。北館だけでなく南館も暗くなり、空調や暖房便座まで切られたフロアは抜け殻だった。あのおぞましい斉唱も流れていないが、耳を澄ませばまた聞こえてきそうだった。
「……みんな、帰ったのか?」
 不安そうな顔をし、ロバ先生がきょろきょろする。
 大体は……先生も、これから帰るんですよ……――
 一昨日、昨日、今日も何度か説明したことだ。そうか、と深いしわの雲間から淡い光が差す。ロバ先生だけじゃない……他のみんな、自分も今日限り……――
 この施設は閉鎖と決まった。運営会社が倒産したそうだ。
 あのとき、スピーカーからヘッドの厳粛な声で、これから重大な発表がある、被収容者全員静聴するように、とアナウンスがあって、その後に施設長のボイスメッセージを聞かされたゾンビたちは、あまりにも突然のことに立ち尽くし、あるいはひざまずくばかりだった。
 ゾンビ病患者増加により、政府は急遽〈脱施設〉を打ち出した。どの施設も定員超過になり、国の財政負担が急激に増したからだそうだ。これからは地域で共生、患者は在宅で闘病……法的根拠のない、官邸主導の要請ではあるが、それに伴って施設への補助の打ち切り、給付の大幅削減が行われることを自分たちは後にニュース番組で知った。このままでは儲けがなくなるどころか、損失を被りかねない……だから、運営会社は素早く手を打ったのだろう。
 退所の期限は三日後――今日の正午……――
 それを過ぎれば電気、水道、ガス、日に三度の食事もすべて止まり、指導員らスタッフもいなくなって、残っている者は警察に強制退去させられる……――
 放送が終わると、デイルームにいたゾンビたちはいつも以上に足を引きずり、背中を曲げてばらけていった。ジャイ公とその取り巻き連中も……そして共同電話に長い列ができ、受話器越しの困惑したやり取り、施設や政府への不平不満が聞こえてきたが、それでも南館の被収容者は、その日の午後、翌日のうちに貴重品だけ持って退所する者が多かった。入所時と同じように家具、家電の運搬を業者に依頼しようとした者もいたが、どこも混み合っていて諦めざるを得なかったようだ。
 そんなわけで、黒ヤマネコやケロノなどは早々と姿を消していた。それに引き換え、北館側は腰が重く、途方に暮れた顔も少なくなかったが、やがて一人、また一人と指導員に頭を下げ、エレベーターに消えていった。
 あ、そっちじゃ……――
 反対側に歩き出したロバ先生を止めようとして、自分はそのままにすることにした。行き先は分かっている。今は106号室に戻り、床で寝起きする自分とルームシェアしているが、あっちで過ごしていた記憶とごっちゃになるらしい。手すりにつかまってもらい、ふらついたときのために寄り添った自分は、目的地に着くと見慣れた片引き戸をノックした。
「あっ……」
 引き開けたウーパーが自分とロバ先生を見て、どうぞ、と下腹部をかばいながら横にどく。近くから見ても目立たないそれは、あまり発育が良くないのかもしれない。間仕切りカーテンを全開にした手前では、起き上がったディアが掛け布団をのっそりどかす。その目には光が、黒ずんだ肌には生気がよみがえりつつあった。ハンストを中断し、介抱されてここまで回復したのだ。水分しか受け付けなかった体も、今朝の朝食では味噌汁をかけた米飯を食べられるまでに戻っている。
 ディア、ウーパーとも病衣ではなく、上着を羽織れば、もしくは肌寒いがそのまま出ていける服装をしており、壁際や床頭台の手提げビニール袋には、コップや歯ブラシ、ちり紙といった日用品が詰められている。
「ちょうどよかった」
 ディアは枕元の、傷の目立つスマートフォンを挙げた。
「さっき連絡があって、もうしばらくしたら到着するって」
 自分は、ぺこりと頭を下げた。例の支援団体が迎えの車を出してくれるそうで、それに同乗させてもらうことになっている。ディアは長髪を撫で付け、出入口そばのロバ先生に身を乗り出した。
「先生、もうじきお迎えがきます。一緒に帰りましょうね」
 声をかけられた方は目を見張り、初めて知らされたという顔をした。こちらの帰り支度も済んでいる。私物は財布とフィーチャーフォンくらいだし、ロバ先生にしても家具を置いていくので日用品と尿取りパットだけだ。
「なら、いつでも出ていけるね。後は……」
 ディアは最後の難題、さざ波に似た奥のうめきに耳を傾けた。期限日まで残っていたのはディアの体調もあるが、間仕切りカーテンから出ようとしないノラのこともあった。
「帰る準備、できたのか」
 くぐもった、いら立ちのこもる声に振り返ると、黒い曲面にこちらが映っていた。ヘッドは離れて通路に立ち、虚勢を張るような腕組みで続けた。
「居残っていると、いつまでも片付かないんだ。こっちは再就職活動があるってのに……」
 はあ、とこちらは、申し訳なさそうにし、ヘッドはかすれたため息をこもらせ、肩を落として立ち去った。空気が抜けた後ろ姿だった。他の指導員は解雇されたのか、一昨日から見かけなくなっていた。
「……あの人たちも」しんみりとディアが口にする。「ここに生かされていたのね……」
 そうなのかもしれない……自分たちもそうだが、こんな形で放り出されてやっていけるのだろうか……こちらの不安を見て取ったのだろう、大変だよね、とディアが座り直した。
「……とにかく、どうにかやっていくしかないでしょうね……」
 ディアはかみ締めるように言い、解放された左手首を右手で撫でた。それからおもむろに立ち上がって、ふらつきながら靴を履いて奥に近付いた。
「ねぇ、もう出ていかないといけないの。あなたも一緒に行きましょう」
 しかし、間仕切りカーテンの中からは、切れ切れの震えが聞こえるばかりだった。ディアに促され、ウーパーが声をかけてみても変わりはない。出てこないのか、と後ろからロバ先生が気にかける。自分はくすぶる頭を下げ、足元のよどんだ影を見つめていた。
「あなたからも誘ってみてよ」
 困り果てたディアに言われ、自分はこわばった。微熱の奥が、またうずく……無駄に決まっているじゃないか……出てこないのだって、こちらのせいなのかもしれない……自分とノラとは、あれだけのことがあったのだから……――
 なぜ、生きているのか……――
 あんなに青黒く、四つん這いで、意思疎通もろくにできない……しんどそうにうめいてばかりで、この先どうなるのかさえさだかじゃない……もしかすると、一生あのままなのかもしれない……それなのに……――
 だが、それでも生きている……生きようとしているのなら……――
 うっすらとした目を上げ、額の汗を拭った自分は、ふらつきそうになりながら奥に踏み込んだ。
 おい……ここには、もういられないんだ……警察に引きずり出されるぞ……――
 これといって変化はなかった。そもそも、通じているのか……よろめきそうになって、自分は踏みとどまった。このままでは……このままにしておくわけには……――
 ……あの、悪かった、よ……本当に……だから、この人たちと行ってくれないか。自分は、一緒でなくてもいいから……――
 いつしか自分は、間仕切りカーテンのそばまで寄っていた。くすんだポリエステルが、波状にうねっていた。
 ……――
 中でもぞもぞとし、下から臭ってきたかと思うと波立って、ぼさぼさ頭がのそっと出た。下がった自分の前でノラは這い、這って壁に爪を立て、うめきながら膝立ちになって立ち上がろうとした。とっさにディアが近寄り、後ろから腰を支えたことでやせっぽちはどうにか踏みしめ、壁に食らいつくようにして立った。自分たちはその、下半身裸の立ち姿にしばらく言葉を失っていた。
「あっ、き、着替えましょうね」
 ディアはウーパーの手を借り、自分には後ろを向かせて、こっちの足上げて、次はこっち、とあたふたやった。もういいよ、と言われて見ると、ノラはグレーのルームウェアの上下、その上にダウンジャケットを着せられていた。
「指導局から返却してもらった物だけじゃ寒いから、わたしのダウンジャケットを貸してあげる。履き物は、ここのサンダルを借りていくしかないね。そうそう、首のそれ、外さないと」
 ディアはふけだらけの髪をかき分け、青黒い首からウォッチを外した。2540の表示が消えかけたそれは、ウーパーによって床頭台に置かれた。
「迎えはもうじきだし、このまま行っちゃいましょうか」
 そう言ってディアはノラの左腕を取ったが、足腰の衰えた体は右側に崩れそうだった。
「ちょっと、手を貸してくれる?」
 ためらったものの、自分はノラの右手側に立った。むっとする体臭が存在を濃くする。振り払われるのでは、とおっかなびっくり取ったダウンジャケット越しのそれは細く、もろそうでいて、しかし容易には折れなさそうだった。がちゃ目は正面を向いたまま、ふっ、ふっ、と荒い息でひたすら床を踏みしめていた。ディアの空いている手に荷物を渡し、ウーパーはロバ先生のしわだらけの手を取る。
 そうして148号室を一歩、一歩出て、ひっそりとした通路をエレベーターホールへ……おぼつかない足取りを左右から支え、すえた汗をにじませて慎重に踏みしめる自分はノラの体臭どころではなくなり、いち……にい……いち……にい……というディアのかけ声もあって、ぎこちなかった呼吸がだんだんと合うようになる。そして肩や腕、下半身から力みが抜けてきた頃には、支えているはずなのだが、支えられてもいるような、そんな不思議な感覚になった。
 ようやく到着したエレベーターホールでは、ぐったりと椅子に座っていたヘッドが立ち上がり、距離を取りつつ見世物のようにノラを矯めつ眇めつする。ノラを手すりにつかまらせ、ディアに任せて、自分は106号室から荷物を提げてきた。
「退所します。お世話になりました」
 ディアはヘッドに頭を下げ、ちょっと待っていてください、と断ってノラを自分に任せ、左手を手すりに沿わせながら南館の奥に歩いていった。足を止めたのは、南東の角部屋……硬いノック音が通路に響いたが、応答はなかった。まさか、ジャイ公が居残るとは自分も思っていなかった。
「困ったことがあったら……――」
 片引き戸越しにディアが支援団体の連絡先を伝えたとき、隣室からミッチーの出っ歯が飛び出す。
「うるっせえんだよ! さっさとうせろっ!」
 そして、どんっと片引き戸は閉められてしまった。まるで、沈む船からすくんで逃げ出せないネズミ……目元に憂いをにじませ、うつむいて戻ってきたディアにヘッドは、明日のうちに警察に引きずり出されるだろう、と黒い肩を冷ややかにすくめた。
「……行きましょうか」
 ディアは荷物を持ち、ノラの左腕を取った。ヘッドにロック解除され、開いたエレベーターに乗る、ディアとノラ、そして自分……ウーパーとロバ先生……ドアが閉じ、がくんと下りていく。エレベーター内もそうだが、もったいぶって開いたドアの先のひっそりとした一階フロア、正面玄関もまた、収容時とはまったくの別ものに見えた。ひるみ、ぐらつきそうになった自分は、ディアのかけ声に引っ張られ、いち……にい……と足を前に出していき、そっけなく自動で開いた玄関ドアから、ぞわっとする寒風に切りつけられた。
「あれよ」
 長髪を吹き乱されるディアの視線の先、正面玄関前に白のコンパクトミニバンがハザードランプを点滅、アイドリングしながら停車しており、支援団体関係者らしい人物が張り詰めた微笑で立つ。その後方、施設の敷地外にはゾンビを排斥する横断幕、プラカードを掲げた群れがあった。地平からわき上がる濁り、血の気を奪う寒さのせいか、それらの顔は色がひどく悪かった。研ぐような鈍色の風の音が鼓膜を震わせ、あの止めどないユニゾンがかすかに混じってくる。自分は微熱でかすみそうな目を凝らし、冷えきった地を踏みしめようとするノラの腕をしっかりとつかんだ。
(了)
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