第4話

文字数 12,367文字

 隣室のテレビの音も消え、ごりごりしたいびきが聞こえてくる……掛け布団にのしかかられた寝床は重苦しく、すえた臭いもこもってまんじりともできなかった。目をつぶるほどあの無残に引きずられる姿、飛び散るわめき声と悲鳴とがよみがえってきて、蒸れた暗がりで自分はまた身じろぎした。
 あれは自業自得……あいつが悪いんだ……――
 ぐずついていた腹に加えて膀胱もむずむずし、仕方なく起き上がった自分は、しみる寒さに汗臭いストライプ柄を震わせた。
 トイレ……そうすれば、眠れるはず……――
 黒のサンダルを突っかけ、壁に手をついて部屋の外へ……マール、マール、マール……薄目並みの明るさの、窓のない閉鎖空間が、引きずり込むような斉唱を巡らせている。自分は西通路のずっと向こう、ぼんやりとした南館の行き止まりに目を凝らし、そして左右に目をやった。この壁の外側があるとは思えなかった。振り返った天井の隅には監視カメラ……じっとしていると少しずつ消化されていく、そんな錯覚に襲われた自分は急ぎ、出入口そばのスイッチで明かりをつけて共同トイレに入った。
 無機質な空間の、奥の小便器の前で病衣のパンツとブリーフを下げ、引っ張り出そうとするも冷えた指の動きは鈍い……両手をにらみ、握って開いてこわばりを和らげてからもう一度……これは寒さのせいだろうが、いずれにせよリハビリをしっかりやらなければ……しょっ、しょっ、と切れ切れに出て、ぞくっと寒気がする。早く寝床に戻ろうと手を洗い、息を吐きかけてトイレを出ようとしたところで自分はぶつかりそうになった。
 985番、ディア――
 相手は成仏できない幽霊じみた顔で突っ立ち、何か言いたげに唇をもぞもぞさせたが、声を出すのもしんどそうだった。
 こいつが、世話を投げ出したせいで……――
 無視して脇を抜け、自分は部屋へと歩いた。重症化リスクのこともあるし、こんな夜更けにウォッチを鳴らしたくもない。
 戻って間仕切りカーテンを開け、ベッドライトで壁のリハビリメニューを浮かび上がらせる。そして自分は、壁腕立て伏せから始めた。一……二……あいつみたいになってたまるか……なめらかでない関節、萎えた筋肉に強い、はあはあと四十回こなし、一休みして壁スクワット……足腰から崩れそうになるのをこらえ、こちらもやり遂げて壁にもたれかかった。
 はあ……――
 蒸し焼きさながらに頭が熱い……もっとやりたかったが、無理をして朝のリハビリ体操に支障が出るのはまずい……寝床に入って丸くなると、また脳裏がもやもやしてくる。早くここから出たい……だけど、ゾンビのままでは……とにかくリハビリだ。病に打ち勝てば、ヘッドみたいに社会復帰できる……朝になったら、また頑張ろう……頑張るしかないんだから……――


 びくびくっと自分は跳ね起きた。心臓がどっどっとあえぎ、汗まみれの背中から小刻みに震える。また、あんな夢を……酸っぱい体臭にむせ、吐き気がこみ上げてくる。下着からすっかり臭い……汗を流して着替えたい……シャワーを浴びる日があるそうだが……ダニにやられたらしい首をかくと、隣室から獣のそれをほうふつとさせるあくびが聞こえた。もうじき起床か……寝床から這い出してベッドライトをつけ、伸びをして自分は掃き掃除に取りかかった。奥を気にせずやれるのは気楽だった。トイレシートを避けてやっていくと、たちまち長い髪やらほこりやらがこんもり……ちりとりでごみ箱に捨て、ぐたっと自分は横になった。ちり紙でテレビ、床頭台を拭くつもりだったが、思ったよりも疲れてしまった。
『被収容者の皆さん、午前六時になりましたぁ……』
 夜勤明けなのだろう、眠たげな声が響き、竹刀を指揮棒代わり調の音楽がどっと押し寄せる。T字カミソリ入りコップを手に、自分は共同洗面所への間の空いた列に加わった。顔を洗い、ひげをそり、口をゆすいで、戻った部屋に洗面用具を置いて通路に立つ。他の部屋の前にも青い顔が並んでいき、隣室は引き出される寸前にようやくディアがへろへろ連なって、リハビリ体操の放送が元気一杯スタートする。
 ウォッチとともに大きく腕を振って……微熱、倦怠感は相変わらずだが、暇があれば自主トレをしていることもあって動きは悪くない。モニタリングの点数もまずまずで、指導員からの、この調子で頑張るように、というコメントに自分はほっとした。
「985番、少しは見習ったらいいんじゃない」
 赤点のディアがいびられ、ぜえぜえと手足をみっともなく動かす。プラスチックバッグ入りタブレット片手の指導員は、その横のウーパーにも嫌味なため息をついた。
「3301番、もっとしゃんとできないのか!」
 大きな石でも抱えたような動きをし、息を切らすウーパー……横目にするジャイ公、ミッチーがあざ笑い、指導員はあれこれ小言を言って離れていく。リハビリ体操が終わると、被収容者たちはでかでかと映る社章、それを背負ったヘッドの前にいつもの分子構造を作った。
「皆さん、おはようございます」
 腕組みをし、やや上向きのスモークシールドからのくぐもった声は、社会復帰を果たした回復者から応援メッセージが届いている、と切り出し、社章に一礼、リモコンで画面を切り替えた。こちらを明るく見つめる、ふっくらとして血色の良い、いかにも健全そうな青年がそこに現れた。
『闘病中の皆さん、こんにちは』
 張りつやのある声……きらきらした青年は、一生懸命リハビリに励んで見事病に打ち勝ち、今は社会で活躍することができていると嬉しそうに語った。
『きっと病に勝てます。皆さんも頑張ってください!』
 ぐっと胸の前でガッツポーズをし、さわやかな熱を残して目指すべき目標は消えた。被収容者たち、とりわけ北館側は飢えた上目遣いをし、隣に食らいついてでもそれを満たそうとしそうで、自分もまた憧れとそれ以上の妬ましさとに焦がれていた。
「被収容者の皆さん」ヘッドが右こぶしを固める。「彼を見習って頑張ってください。努力は必ず実を結ぶでしょう」
 あの青年もヘッドも元はゾンビ……頑張れば、努力すれば、きっと自分もなれるはず……ならなければ……訓示は終わって事務連絡に移り、列の脇に立つ指導員の片方が、本日はシャワー浴の日だと告げる。
「南館と北館、それぞれ順番に浴びてください」
 入所時に浴びた、消毒薬臭いぬるま湯か……それでも臭い汗を流し、下着と病衣を新しくできるのなら……袖の上から自分は、左上腕をぼりぼりかいた。もう片方の指導員がホワイトボード――掲示板にマジックで書かれたものを指し、午後にデイルームで徳輪の集会が予定されている、と一同に勧める。マール、マール、マール……この、いつ終わるとも知れない斉唱の教え……参加すれば、評価にプラスになるらしいが……事務連絡が終わると、ヘッドは右こぶしを突き上げた。
 頑張ろう!――頑張ろう!――頑張ろう!――
 くぐもったかけ声に皆の声が続き、ありがとうございました、と頭を下げて朝礼は終わった。北館と南館、それぞれの部屋へとばらけていく被収容者……混雑を回避しようとしばらく待った自分は、何十キロも歩き通しみたいにのろ臭いディアを追い越し、北西の角に差しかかったところで横から呼び止められた。北通路の向こうから指導員が、右足首をつかんでノラを引きずるジャイ公とやってくる。
「相方のご帰還だぞ」
 ジャイ公の軽口に、自分はみじめな涙を浮かべた。うつ伏せのノラはぐったりとして、ずるずるとされるがまま……体操やら朝礼やらで忘れていた……忘れたままでいたかったのに……指示に従って自分が148号室を開け、ジャイ公が室内に放り出して、指導員が後ろ手の手錠を外す。
「二度とあんな騒ぎを起こすんじゃないぞ」
 指導員に言い捨てられ、自分は平身低頭した。ジャイ公は何度も手を、色移りしたものを払うようにしながら去る。室内をのぞくと、ノラは、がしょ、ぎぐっ、と関節をきしませてうつ伏せから四つん這いになり、うめき声をぼたぼた垂らしながら這って、やっとのことで奥の間仕切りカーテンの下から入り込んだ。ポリエステル製の囲いの中から、むせび泣きか怨嗟かという喉の震えが漏れ聞こえてくる。
 ……自分が、悪いんだろ……――
 そう思いながら自分は、部屋に入ることができなかった。マール、マール、マール……無意識に左手首の黒いかせをつかみ、爪を立てているところに朝食の時間を知らせるアナウンスがあり、配膳補助係と配膳車、指導員が回ってきた。
「2540番、様子はどうだ?」
 そう尋ねる指導員の声音には、嘆息が聞こえそうないたわりがあった。スモークシールドの中からそんな声があるとは思わず、自分は耳を疑った。
 あ、だ、大丈夫みたいで……――
 かすれ声で答えると、指導員は、そうか、とうなずいた。
「ゆっくり休ませてあげなさい」
 鈍くうなずき、ふたりの食事を受け取った自分は床にトレイを並べ、自身の分から猫まんまにちょっと足してトイレシートの脇に置いた。それから寝床であぐらをかき、先割れスプーンで食べ始めたが、奥では寄せては返すうめきが続くばかりだった。食べないのだろうか……気になって食が進まなかったが、それでも完食して自分はトレイを脇に置いた。依然として奥に変わりはない……――
 そのうち、食べるだろう……――
 気を紛らわせようとつけたテレビの情報番組では、メインキャスターがゾンビ病問題にオーバーリアクションを連発し、コメンテーターの面々がもっともらしい発言を競っている。チャンネルを変えるが、地上波放送のみのそれらは似たり寄ったり……仕方なくドラマの再放送を流しているうちに配膳車が回ってくる。
 奥はまだ食べていません……返却は次回でもいいでしょうか……――
 自身の食器とトレイを返し、自分は下手に出た。先ほどと同じ中身らしい指導員はすんなり認め、奥を気にしつつ移動していった。そうしてノラの分はそのままになったが、こちらが気を遣って間仕切りカーテンの中でじっとしていても一向に食べる気配がない。ぶつぶつとしたうめきを聞いていると頭が腫れてくるようで、たまりかねて自分は部屋を出た。
 放っておけば食べるだろう。こっちの分を奪うような奴だし……――
 リハビリも兼ね、腹ごなしに自分は歩き始めた。共同トイレと汚物処理室の前を過ぎ、101号室を見ないように北東の角を右折……共同洗面所での歯磨きを横目にデイルームへ……と、反対側の通路を北上する、メーキャップされた声が聞こえる。フォロワーを引き連れた黒ヤマネコのウォーキング……――
「情けは人のためならず。不平や不満からは悪い結果しか得られません。悪循環を断ち切りましょう。――」
 ほの甘いモノローグは徳念と溶け合い、北館に流れ込んでいく……そういえば、徳輪の集会があるのだっけ……微熱でぼやけた頭を上げ、自分は掲示板の緊縛チックな文字による告知、その時刻をチェックした。と、天井のスピーカーが咳払いをし、くぐもった声を出す。
『被収容者の皆さん、もうじきシャワータイムになります。北館、南館とも順番にシャワーを浴びてください』
 やっと、さっぱりできるのか……しかし勝手が分からず、自分はデイルームを横切って148号室近くまで戻った。それからフロアをうかがうと、どうやら東通路の部屋かららしく、そのうち北通路の向こうの部屋から被収容者が手ぶらで出ていき、クリーニングされた風情で戻ってくる。それがだんだんと近付き、角の149号室の番になった頃に隣室からウーパーがどこかに急ぎ、そのちょっと後にミッチーと出てきたジャイ公が室内に吠える。
「もたもたすんな、オカマ! ホルモン剤臭いんだよっ!」
 きっひっひ、とミッチーがせせら笑う。そして半歩、また半歩、と見えない鎖に引きずり出されてくるディア……だらりとした髪、眼窩から目玉がこぼれ落ちそうな顔……よれよれの姿は歩くのがやっとに見える。朝方よりもさらにひどい……そのうち、四つん這いになってもおかしくはなさそうだ……自分は焦点をずらし、隣室の面々が行くのなら自分もいいはず、と後に続いた。途中ですれ違った浴後の被収容者からは、むっとした薬品臭がする。それがあふれ出す室内に入っていくジャイ公たち……出入口そばでうかがう自分に指導員が気付き、横柄に手招きをした。
 遠慮がちに踏み入ったそこは、生暖かい脱衣所……ジャイ公とミッチーが脱いだものをリネンカートの袋に放り込み、男根丸出しの素っ裸で五室あるシャワールームの真ん中とその隣に入って、しゃっとカーテンを引く。全裸のディアも胸と股間を隠し、縮こまった前屈みでこそこそ端に入っていった。
 しゃしゃしゃとけち臭いシャワーを浴び、頭からがしがし洗うジャイ公たち……指導員に急かされた自分はそちらを背に裸になり、陰部を片手で隠しながらディアとは反対側の端に入った。
 トイレの個室並みに狭いそこは、消毒薬の臭いが立ちこめ、気管や肺まで殺菌されそうだった。ハンドルを回すと、臭いぬるま湯が防水仕様のウォッチにもかかってくる。濡れた青い肌はいっそう人間離れして見え、吐き気をこらえながら自分はシャワーを浴び続けた。
「お湯がもったいない!」指導員が声を尖らせる。「ぼけっとしていないで、早く洗って! シャンプーはプッシュし過ぎないように!」
 あたふたと自分は、シャワーラックのボトルから出したシャンプーで頭から顔、体とこすっていった。太ももから下を洗おうとして屈むと、よろっと倒れそうになる。しゃがんで足までやり、しゃわしゃわ流して……――
「洗い終わったら、さっさと出なさい」
 くぐもった指示に従ってハンドルを締め、出たところではジャイ公とミッチーがバスタオルでごしごし拭いている。血流が多少良くなったせいか、勃起したそれらから自分は目をそらし、脱衣所の棚に積まれたバスタオルを一枚取った。隅でこちらに背を向けたディアが、一秒でも早く逃げ出したい素振りで拭いていた。
「おい、オカマ!」脅すごとく、ジャイ公は一物を向けた。「なよなよやってんじゃねえよ。ったく、女の腐ったような奴だな」
 脇を拭きながらミッチーがあざ笑う。指導員はというと、壁際にただ立っているだけ……ディアはますます縮こまり、そのまま塊になってしまいそうだった。気まぐれになぶったジャイ公は、バスタオルをリネンバッグに投げ込み、棚に積まれた下着、糊の利いた病衣を着た。そこにふらふらと、囲いに追い込まれるようにしてロバ先生、その後ろから無表情のウーパーが入ってきた。
「よぉ、先公」
 にやりと牙をのぞかせるジャイ公におびえ、引き返そうとするロバ先生をウーパーが押す。
「シャワー、シャワー! くさい、きたない!」
 押し込もうとしているとウォッチが鳴り出し、指導員からの警告に鞭打たれてロバ先生はおどおどした。その無様をせせら笑い、ざっとドライヤーをかけるジャイ公たち……ロバ先生は南館の住人なのに、こっちでシャワーを浴びるらしい。そうした騒ぎを避けて濡れ髪のままディアが姿を消す。ウォッチに騒ぎ立てられながらロバ先生をなだめすかし、ウーパーは病衣、そして下着を半ば強引に脱がせていく……こんなことまでやらされているのか……もしも自分が、ノラに同じことをするように言われたら……せかせかと下着、病衣を着て黒サンダルを突っかけ、頭を乾かすのもそこそこに逃げ出そうとしたところで指導員が呼び止めてくる。
「4891番、あなたにはここの片付けを覚えてもらいます」
 そしてスモークシールドは、曲面でウーパーを黒ずませた。
「3301番、それが終わったら教えておいてください」
 はい、とウーパーは首をむなしく振った。シャワー浴が終わった頃にまたここに来なさい、と指導員に言われ、通路に出るとぞっと寒気がする。自分は近くの手すりにつかまって、ぐたっとしゃがみ込んだ。
 片付け……そんなもの、なぜ覚えなきゃいけないんだ……――
 マール、マール、マール、マール、マール……頭や背中にずんずん積もっていくようだった。よろっと立ち上がり、壁に耳をつけてみたが、外の音はまったく聞こえない……またしゃがんだ前を、時折ストライプ柄がふらふら通り過ぎる……――
 ぼそっと呼ばれて顔を上げると、ウーパーが伏し目で立っていた。ぽつんとしたその姿は、照明の陰りに半ば混じっている。手すりをつかみ、立ち上がった自分はめまいでくらっとした。
「かたづけ、します……」
 そう言って、ウーパーは共同シャワー室に入っていく……中は、だらけた湿気に満ちていた。腹で手を組むウーパーにぼそぼそ言われる通り、自分は換気扇のスイッチを入れ、洗剤をシャワールームとその周りにまき、壁はスポンジ、床はデッキブラシでこすって流した。室内に流れ込み、ぬろぬろと渦を巻く徳念……それから脱衣所を床ホウキで掃く。どんよりした息を吐き、動けば動くほど体が重くなっていく。掃き集め、ちりとりでごみ箱に捨てて、今度はリネンバッグの交換……リネンカートごと汚物処理室に運び、酸っぱい刺激臭があふれ出るバッグの口を縛ってダムウェーターに入れ、空のバッグをカートにセットして脱衣所に戻す。それで終わりかと思いきや、倉庫からビニル紐で十字結びのバスタオルの束を提げ、ウーパーにも持ってもらって、備え付けのハサミで紐を切って脱衣所の棚に補充しなければならなかった。
「おわり、です……」
 換気扇のスイッチを切り、斜め下に目を落としながらウーパーは言い、ありがとうございます、と返したこちらに鈍く頭を下げ、出ていった。これでそのうち、ここの掃除をやらされるのだろう……こっちには、あいつの世話があるというのに……やり方を教えたウーパーさえも恨めしく、毒づきながら自分は泥状の疲労を引きずった。
 八つ当たり気味に片引き戸を開けると、奥の朝食は手付かずのままだった。低いうめきにうなりが混じって、疲れでささくれた神経に障ってくる。
 勝手にしろ……――
 間仕切りカーテンを閉め、自分は掛け布団をかぶった。奥からの微かなそれに耳を塞ぎ、暗がりに沈み込んでいく……いつしかとろとろしていたところ、昼食の時間を告げる放送が蹴りつけてくる。粘っこいだるさを押して起き上がり、ぼやっとした頭で奥のトレイを引き上げる。冷めた猫まんまから、小バエが一匹ふいっと飛んでいった。
「何だよ、食べてないのか」
 開口一番、厄介そうに指導員は言った。中身は朝と違うらしかった。責任を問われている気がして、スモークシールドに映る伏し目の自分は小さくなった。
「しょうがない。昼食は、ちゃんと食べさせてな」
 半ば投げやりな指導員に自分は謝り、昼の猫まんまを奥、間仕切りカーテンそばに置いた。そういえば、朝からトイレシートは汚れていない。入れなければ出ないのは当然だが、このまま飲まず食わずだったら……途切れがちなうめきに落ち着かなくなり、自分はテレビの音量を上げた。
 そして配膳車が回収にきて、またしても自分は、奥の分の返却は次回に……と頭を下げる羽目になった。フルフェイスヘルメットの中はイヤホンとマイクをつけているらしく、それでおそらくはヘッドにお伺いを立てたのち、指導員は恩着せがましく許可していった。自分は行き止まりをうろうろし、こっそり室内をのぞいたが、猫まんまが減る様子はない。このまま飲まず食わずで、もしそうなったとしてもこっちのせいじゃない……あいつの問題だろう……行き止まりの壁にもたれ、押し付けた後頭部がごりっとする。そんなに気を揉むことはない……いよいよ腹が減ったら、食べるに決まっている……――
 無性に腹立たしくなった自分はがらっと開け、奥を背に寝床で横になった。掛け布団をかぶっているとカートが回ってきて、配達係のチンパンが隣室に届けていく。少し眠ろうとするも眠れず、今朝の青年からの応援メッセージがやたらとわき上がって……――
 たまらず、自分は部屋を出た。いない方が、あいつにとってもいいだろう……マール、マール、マール……徳念がねっとりと染み込んだ通路には、のそのそ、がくがくとデイルームの方へ歩く後ろ姿がある。そういえば、何かあったような……記憶の霧中をさまようことしばし、ようやく思い出した自分は徳輪の集会をのぞいてみることにした。
 デイルームでは、参加するらしい者たちが緩く輪を作っていた。黒いウェアラブル・デバイスの間隔を空ける、大半は北館の顔ぶれ……いつもの場所でケロノが鼻歌を歌い、ひん曲がった指で見えない弦をはじいている。臭ってきそうなほどアピールしていたが、鼻につくそれは誰にも見向きもされていなかった。小さくなった自分がどうにか輪に加わってまもなく、黒ヤマネコがフォロワーと現れて中央に立つ。すると核を得た輪は引き締まり、形を整えていった。鏡を嫌うように誰とも目を合わせない、伏し目や顔を背けた総勢二十数名……黒ヤマネコが主催者なのか……定刻ぎりぎりにジャイ公とミッチーが来て、輪を大蛇のごとくのたくらせた。
「皆さん、本日の集会にご参加いただき、ありがとうございます」
 挨拶し、ぱっちり目を巡らせる黒ヤマネコだったが、その焦点はどこにも合っていない感じがした。冷艶な青白い顔で、口角がにこやかにつり上がっている。あのギンガムチェック柄であって漆黒のローブではないが、どことなく現代風サバトというイメージが拭えなかった。
「初めての方もいらっしゃいますので、簡単にご説明させていただきます」
 黒ヤマネコは、右手とウォッチがはまる左手とをふんわり広げた。
「程度の差こそありますが、概して闘病はつらく苦しいもの。何かと悩みを抱えてしまうこともあるでしょう。どんなことでも構いません。声を聞かせてください。みんなで一緒に考えていきましょう」
 さっそく手が上がる。ケロノだった。主催者に促され、ほろ酔い加減で語り出す。
「ご存じの通り、ぼくはミュージシャンでね。あちこちのライブハウスで歌っていたんですよ。たくさんのファンがいて、チケットは飛ぶように売れていつも大入り満員! そのせいでしょうね、誰かからこの病気をうつされてしまったんです」
 残念そうに笑ったケロノは、ジグザグ指の両手を挙げ、裏、表と返し、握って開いた。
「前はもっとひどくて、スプーンを握るのも一苦労でしたけど、毎日のリハビリでここまでになったんです。声もそれなりに出るようになりました。だけど、社会復帰はもうちょっと先かな。ファンのみんなを待たせて悪いけどね」
「うるせえ、オンチ」
 どら声が投げつけられる。ふてぶてしく腕組みし、そっぽを向いたジャイ公のにやにや顔は悪ガキそのものだった。隣のミッチーが吹き出し、輪のあちこちから失笑が漏れる。固まるケロノ……黒ヤマネコは、野次の主にやんわり流し目した。
「1945番さん、否定的な発言はご遠慮ください」
「えっ?」わざとらしく、ジャイ公は目を丸くした。「おれ、何か言った?」
「皆さんも――」ざっと見回す、黒ヤマネコ。「ポジティブにお願いします。ネガティブから建設的なものは生まれません。よろしいですね」
 まつげがコウモリのごとく羽ばたき、黒ヤマネコはケロノに微笑んだ。
「3691番さん、ありがとうございます。早くファンの皆さんのところに帰れるといいですね」
 けぱっと笑顔になり、ケロノはうなずいた。
「そう言ってもらえると嬉しいです。音楽はアートだし、その、人それぞれ好みがあるから、そこら辺は仕方ないですね」
 そうですね、と首肯し、黒ヤマネコは拍手した。周り、自分もぱちぱちとお愛想で叩く。すると今度はジャイ公が挙手し、許可を待たずに話し始める。
「おれなんか人の何倍も努力しているからさ、モニタリングでも高得点をキープしているわけよ。奉仕活動も込み込みで評価は高いだろうし、その気になればすぐにでも社会復帰できるぜ。だけど、どうにも北館のことが気にかかってなあ……」
 悩ましげに首を振り、ジャイ公は北館と南館の格差をずらずら並べ立てた。空調の利き具合、照明の明るさ、三食の献立の内容、奉仕活動への参加……――
「たくさん寄付をしているヤツが、いいサービスを受けられるってのは分かるさ。奉仕活動をしなくてもいい評価が約束されていることもよ。おれたちだって出せるもんなら金を出したいけど、ない袖は振れないんだよなあ。ろくな仕事にありつけず、貯金はない。あるとしたら借金。足手まといや寄生虫はいても頼れる身内はそういない。つまりは、いわゆる人並みの生活すらままならない。北館はみんな、そんな感じだと思うぜ。とにかくそういうのはさ、努力だけじゃどうにもならない。運だよ、運。まあ、ガチャだな」
 熱っぽく語るジャイ公は右手で、カプセルトイのレバーを回す真似をした。
「南館にいるのは、ちょっとばかり運が良かっただけ……本当は、そこは北館の誰かの場所だったのかもな。だとすれば南の人間はさ、もっとおれらを気遣って当然じゃねえの?――なあ、3691番?」
 振られたカエル面はぎょっとし、にへっとへつらった。南館の者は居心地悪そうにうつむき、方々に顔をそらしている。自分には、もっともな発言に聞こえた。北館の面々も顔つきからすると同じらしい。微熱を帯びた輪は、ゆっくりと締まっていくようだった。
「ま、南館と言ってもピンキリだけどな」ジャイ公が鼻の下をかく。「一番人気の南東の角部屋を独占する誰かさんもいれば、デイルームすぐそばの、南というより西の部屋の奴もいる。窓がないとはいえ、方角次第で住み心地は結構違うだろ。な、アーティスト?」
 アーティストと呼ばれたケロノは、くすぐったそうにうなずいた。
「とにかくさ、おれとしては、みんながハッピーになればいいなって思ってんのよ。――3108番、あんたは副会長なんだから指導局に掛け合ってくれよ。南の分から北に回してくれって」
「貴重なご意見、ありがとうございます」3108番こと黒ヤマネコは、口元だけ微笑んだ。「自治会の役員として、皆さんが気持ちよく闘病に専念できるように検討してみましょう」
 そして、ぱちぱちと拍手……とりわけ北館の参加者から拍手されるジャイ公は、男性誌の表紙を飾るように腕組みして胸を張った。自分も、やや熱く手を叩いていた。それでは、と見回す黒ヤマネコの視線を感じ、すらっとそろった右手指先がこちらに向けられる。
「新しく入られた方は、何かと悩みを抱えがちです。4891番さん、遠慮なく話してみてください」
 自分は逡巡した。マール、マール、マール、マール……こもる徳念を聞いているうちにのぼせ、よどんでいたものがこみ上げてくる……ためらいはあったが、それはとうとう堰を切ってあふれ出した。ノラの糞尿、その処理……臭いの染みついた部屋……食事を奪われたこと……あちこちから笑いが漏れ、そのたびに自分の顔から火が出たが、かっかしながらも指導局や自治会などへの批判は口にできなかった。
「大変ですね」
 息を荒くした自分を哀れみ、黒ヤマネコは黒髪を耳にかけた。
「世の中には、老親や病身の配偶者、障害のある子どもなどのお世話をなさっている方がたくさんいらっしゃいます。そういった方々の頑張りには、本当に頭が下がります。こうした場でたまったものを吐き出し、少しでも気持ちが楽になっていただければ幸いです」
 そして、拍手――周りの拍手も加わって、押し寄せるそれらに自分は飲まれていった。ありがとうございました、とスタンプ的に微笑んだ黒ヤマネコは他に目をやり、何人かの発言が自分を吹き抜けていく。
「後ろ向きなマインドというものは、――」輪の中心で舞う、ざくろ色の唇。「マイナスの結果しか生みません。視点や考え方を少し変えるだけで世界は劇的に違って見えます。謙虚な気持ちで周囲への感謝を忘れず、前向きに努力をしていけば、きっと良い結果につながるはずです。それでは、最後に放送に合わせて徳念を唱えましょう」
 左右の手の平のしわを合わせ、黒ヤマネコはスピーカーからの斉唱に瞑目した。照明の加減で左手首のウォッチが黒光りする。マール、マール、マール……ストライプ柄の輪もうわごとみたいな声を出す。マール、マール、マール……ミッチー、そしてジャイ公も……マール、マール、マール、マール、マール、マール……そんな気分ではなかったのに、いつしか自分もマール、マール……と口にしていた。マール、マール、マール、マール……じんわりとぼやけ、空漠としていく視界……どうせ、思い通りにはならない……だったら、ポジティブにとらえないとつらくなるだけ……マール、マール、マール、マール、マール、マール……――
 黒ヤマネコの挨拶で散会になり、輪はぼろぼろと崩れていく……マール、マール、マール……焦点を失った目を落とし、自分は半ば放心のまま歩き出した。
「おい、4891番!」
 顔を上げるとジャイ公がガッツポーズし、厚い背を向けてミッチーと帰っていく。おそらく、ノラとのことを励ましたつもりなのだろう……よろっと手すりにつかまり、重くむくんだ足を小刻みに運ぶ……ふと、掲示板の啓発ポスターがよみがえる。がんばろう自分……それしかない……一日でも早くここから出ていくため、ノラのようにならないために……それが叶わないときは……――


 やっとのことで片引き戸を開けると、歯ぎしりに似たうめきがあちら側に寝返った。トイレシートの横では、猫まんまが半分くらい減っている。
 食べたのか……――
 胸苦しさがいくらか和らいだ自分は間仕切りカーテンを閉め、ごろっと寝床に横たわった。そして、掛け布団をかぶって真っ暗にする。彼方に遠のく、奥のうめき……――
 食べた分は、出るんだよな……――
 体を縮めると、ウォッチが胸に硬く当たる。出るのは自然なことだ。誰だって、自分だって毎日トイレで出している……あいつにはそれができない。あんなふうに這っていては、便器にたどり着く前に漏らしてしまうだろう。そもそも、トイレでやるという頭があるのかどうか……だから、ここでやる……そしてそれは、誰かが後始末しなければならない……考えてみれば、トイレシートに出すなら結構じゃないか……そこらに好き勝手にやられるよりは……前向きに……黒ヤマネコが言っていたようにポジティブにとらえよう。こんな苦労をしていれば、大抵のことは我慢できるようになる。自分のためにもなるんだ……マール、マール、マール……――

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