第6話

文字数 5,044文字

 いつにも増してまずい夕食を終え、何倍にもむくんだようなだるさを押して歯磨きをしに洗面所へ……帰ってきてから、不在の間に汚れたトイレシートを始末……やがて消灯を迎えて部屋は真っ暗になった。寝床の暗がりで自分はとろとろし、息苦しさから何度も身もだえした。蒸された脳裏であれやこれやが揺らめき、入り混じっていく……奥からの、さざ波を思わせるうめき……壁の向こうからはノコギリっぽいいびき……ジャイ公が寝ているということは、もう日付は変わっているのだろう。やがて尿意を催し、仕方なく掛け布団をはいだ自分はぞくぞくっと身震いした。横になっていたにもかかわらず、だるさがずっしりとたまっている……くすぶる頭は煙っていて、ふうっと暗闇に散ってしまいそうだ。昼間の疲れのせいか、あるいは病が……かぶりを振り、目を凝らした自分は黒サンダルを履き、壁につかまって部屋を出た。
 鳥肌の立つ、ほの暗い通路に身を縮め、スピーカーからの繰り返しにさらされながら南館をぼんやり眺める……そうしているうち、自分はここがすべてという感覚にとらわれていった。この西通路を下って真っ暗なデイルームを横目に南館へ入り、南西の角を左折して南通路から東通路、北通路を経て、また振り出しに……逆に回っても同じこと……マール、マール、マール、マール、マール……やがてロバ先生みたいにさまよい、エレベーターの操作パネルをいたずらにいじって……芯から震えてきて、かちかちと歯が鳴った。
 こんなところにいて、たまるか……――
 ふらっと踏み出して角を曲がった先では、切れかかった照明がちらちら瞬いている。トイレの中は真っ暗……まずは照明のスイッチを……手すりから離れ、出入口に近付こうと通路を横切りかけたとき、自分はいきなりばくっと丸呑みされた。
 停電?――
 しばし立ち尽くし、自分は手探りで壁か手すりを求めた。しかし、手は闇をかくばかり……ふらつきながら腕を伸ばすほど、辺りは空になっていくようだった。マール、マール、マール……じっとりと病衣が濡れ、くらくらして前後左右があやふやに……それほど幅のある通路ではない。すぐそこに部屋だって並んでいるはずだが……――
 だッッ!?――
 背中にビス打ちかという衝撃があり、悲鳴を上げて自分は崩れた。膝と手をつき、じんじんする痛みに呆ける。一体、何が……――
 パシュッ――
 空気のはじける音がし、右尻の激痛で反り返って――自身のうめきに混じって、タンッ、タン、と小さな粒が床をはねる。闇のどこかで、嘲笑が押し殺されたような……――
 う、撃たれている?――
 耳をそばだて、あたふたと這う途中で左足の黒サンダルが脱げる。つんのめりながら立ち上がったところで壁にぶつかり、尻餅をついて――したたか後頭部を打って一瞬意識が遠のく。自分はまた四つん這いになり、冷え冷えとした床を這って、這って……助けを求めようにも喉からはあえぎばかり……――
 パシュッ、パシュッ――
 左頬辺りに連続し、間の抜けた悲鳴を上げてうずくまる自分の尻が再び的にされ、尻尾に火をつけられた亀さながらに這い回るうちに息が切れ、動けなくなっていく……パシュ、パシュ――前から後ろから、あちこちからやられ、そのたびにかすれた悲鳴が漏れる。パシュ、パシュ……パシュ、パシュ……マール、マール、マール……パシュ、パシュ、パシュ、パシュ、パシュ………………――――
 頭上から何やら声をかけられ、べたついたまぶたがわずかに開く。目の前には細かな傷、染みついた黒ずみ……自分は床にぐったりと、うつ伏せに倒れていた。
「そんなところで寝るなよ」
 くぐもった、含み笑い混じりの声が降ってくる。視線を這わせた先には、見覚えのある黒ブーツ……がく、がくと起き上がった前には腕組みの指導員が立っており、並んだ部屋のあちこちから青い冷淡がこちらを眺めていた。
「お前、漏らしてるぞ」
 スモークシールド越しの失笑が、自分にはよく分からなかった。股と内ももの冷たさに目をやると、染みの広がったストライプ柄が肌に貼り付いている……そこと接していた床は濡れ、ふうっと臭っていて……みじめな注目を集め、指導員の説教になぶられる自分は、いつまでも顔を上げられなかった。


 ごろごろ、ごろ、ごろごろ……大きくなってくる、車輪の響き……巨大なそれが迫り、潰されそうになって……びくんっと引きつった自分は、砕けそうな動悸を寝床の暗がりにこもらせた。
 配膳車、か……――
 蒸し蒸しとし、眠気をこびりつかせた頭に響くそれ……さらに奥から、なじるようなうめきが混じってくる。起きようとするも肉体は思うように動かず、ぞくぞくっと寒気に襲われてくしゃみが立て続けに出た。これはゾンビ病の症状とは違う……いつもより熱っぽいし、風邪だろうか……昨夜、あんなことがあったから……――
 ようやっと起き上がったところによみがえってきて、自分のまなざしは掛け布団のしわの波間に沈んだ。微熱で薄れているせいだろう、今ひとつ現実感が乏しく、悪い夢だったようでもあるが……腹がまたぐずつき、じゅくじゅくと痛んでくる。あれは、おそらく指導員の仕業……暗視ゴーグルとかを装着し、エアガンで撃ったのだろう。FPSゲームを真似て……その理由は昼間の訴えなのか、それともただの暇つぶし……自分がターゲットだったのか、誰でもよかったのか……それらの疑問が溶け合い、いくつも渦を巻く……車輪の音が大きくなってきて、自分は何かがおかしいと感じた。しかし、何が……かすんだ頭を何度もひねり、はたと気付いて――配膳車が回ってくる、ということは……もたもたとつけたテレビでは、画面端の時刻がもうじき正午だと突きつけてきた。
 そ、そんな……――
 朝の体操や朝礼どころか、朝食、奉仕活動までなんて――血の気が引き、急ぎふらふらと通路に出たところ、隣室前で配膳車を待っていたミッチーがにたっとした。
「よう、大した度胸だな。今頃起きてきやがって」
 息が詰まり、ふらついてそばの手すりにすがったところにジャイ公が出てきて、よう、とこちらに右手を上げた。
「ようやくお目覚めか。おねしょはしなかったかい?」
 手を叩いて爆笑のミッチー、さもうまいことを言ったという顔のジャイ公……自分はただ、唇を震わせるばかりだった。うな垂れ、手すりをつかんでいるとメガネザルが配膳車を引き、指導員と回ってくる。
 一体、どんな罰を……――
 おびえながら壁に身を寄せる前でジャイ公、ミッチー、それからウーパーが昼食を受け取り、もつれかけた足取りのディアがこちらに気付いて目を伏せ、トレイを持ってそのまま室内に消える。その態度が、いっそう自分を追い詰めた。
「4891番、早くしなさい」
 鞭をしならせるような指導員の声……自分はおどおど近付いた。いつ打たれるのかとおびえながらトレイをつかみ、戻ろうとして呼び止められる。首を縮めていると、ノラの分も持っていくように指示がある。寝坊をとがめることなく指導員は配膳車と離れていったが、それがかえって恐ろしかった。結局、評価にはどう響いたのか……もしかすると、また昨晩のような目に……血の気が引いて、目の前がふうっと暗くなった。どうにか猫まんまを奥に置き、ずずっと鼻水をすすって先割れスプーンを持ったものの、朝食抜きにもかかわらず食欲はなかった。
 横になろう……――
 手付かずの昼食を間仕切りカーテンの外に出し、自分は寝床に入った。暗がりでくしゃみが出て、ぶるっと震えがくる。光のないまぶたの裏に浮かぶ、鈍色のカーブ――カーテンレール……その気になれば、いつだってできる……恐れが薄らいだ自分は、とにかくこの体調不良をどうにかしようと丸くなった。これ以上、評価を落とすわけにはいかない……うつらうつらし、食器とトレイを返さなければと外をのぞいたところ、猫まんまはもちろん自分の分まで平らげられていた。
 ごろごろしているだけのくせに……――
 食べられても構わなかったが、頭はじりじりと熱くなってくる。昼休みになるのを待ち、自分は中腰で壁の呼出ボタンを押した。間があって――
『はぁい!』
 迷惑電話と分かった上での応答、そんな口調だった。寝坊のこともあってひるんだものの、風邪薬をもらえませんか、とマイクロホン越しに頭を下げる。熱が高い、寒気もする、鼻水やくしゃみも出る……症状の説明が終わっても相手は無言だったので、不安になった自分は、もしもし、と問いかけた。
『それは、差し入れしてもらってください。購買部では日用品とかしか扱ってないんで』
 放り出す言いようだった。そんなことを言われても、自分には頼れる当てがない……機嫌を損ねないように重ねて頼むと――
『だったら、体を動かしたらいいんじゃないすか』
 意味が分からずにいると、くぐもった笑い声がたたみかけてきた。
『風邪なんでしょ? 一汗かけば治るじゃん。リハビリにもなって一石二鳥だよ』
 このつらさが分からないから、そんなふざけたことが言えるんだ……ぐっとこらえた自分は、ゾンビ病に風邪を併発したつらさを訴えたが、相手はスピーカー越しに突っぱねてきた。
『だから、薬は扱ってないんだって! 薬の処方だってできないんだよ! ここには医者どころか看護師だっていないんだから! おとなしく寝ていればいいだろっ!』
 がしゃっ、と通話は切れてしまった。奥のうめきが、やたら身近に感じられる……力が抜けた自分は、ぐったりと横になるしかなかった。安静にするしかない……ジャイ公たちのキャンプなんて無理だ……腐った酢漬け風に臭う暗がりで鼻をすすり、くしゅっ、くしゅっ、とくしゃみを繰り返す……亀裂が広がるように鈍く痛み、焦げていくような頭……眠ることもできずなぶられるうち、夕食を運ぶ車輪の音が聞こえてきた。
 依然として食欲はなく、起き上がりたくもなかったが、食べなければ病も治らない……掛け布団から顔を出した途端、つんとした臭いが鼻をつく。間仕切りカーテンの外には、黄色い染みのトイレシート……片付けるどころかため息も出ず、自分はままならない体を引きずって夕食に頭を下げた。
 胸くそ悪い尿臭に息を止め、奥に猫まんまを置いて……がくっと寝床に座って、自分は重たい足を投げ出した。夕食はまた、ほとんどもやしの野菜炒めに米飯とわけぎの味噌汁……それらをしばらく眺め、とにかく食べなければと先割れスプーンを動かしかけたとき、奥の間仕切りカーテンが揺れ、トイレシートを踏んでもぞもぞする。
 なっ――
 うろたえて味噌汁がこぼれ、トレイでわけぎが泳ぐ。慌てて脇に置き、カーテンの隙間からうかがうと、あの醜い尻から、ぷぴっ、と放屁があって、ぼととっ、ぼとっ、といつもより太い、二人分の昼食の変わり果てたものが落下して、むうっと悪臭が押し寄せてきた。
 ざけんなッ!――
 たちまち理性が黒焦げになり、間仕切りカーテンから飛び出した自分は、寝床に戻ろうとする四つん這いを蹴りつけた。酔っ払い並みにふらついてはいたが、右足は青黒い尻に当たって、ぎゃあっと耳をつんざく悲鳴――焦点のずれた目がこちらに転じ、燃え立つしわの顔で足にむしゃぶりつかれた自分は、わめきながらよろめき倒れた。そこへ鼻の曲がりそうな体臭、ぎゃあぎゃあという奇声が襲いかかり、がりっと顔を引っかかれて――むちゃくちゃに腕を振り回し、足をばたつかせて払いのけようとするうちに左手首と首、互いのウォッチが半狂乱になったが、それは炎に油をぶっかけただけだった。
 お前なんか、お前なんか、いない方がいいんだッッ!――
 馬乗りになった自分の両手が、黒い輪のはまるやせた首を絞めていた。浮き上がった血管が身をよじり、あえぎがかすれていくにつれ、こちらも息ができなくなっていく……それでもなお、燃え上がるまま両手の指は食い込んでいって――
 げあっ……――
 死に物狂いのあえぎに力が緩み、頬をぶたれてぐらつく自分――わめき散らしながらノラはもがき、這い出して……床にへたり込んだ自分の、左手首の黒いウェアラブル・デバイスが金切り声を発し続ける。
 ――っせぇッッッ!――
 体をひねって自分は、ウォッチを壁に思いっきり叩きつけた。ガッ、ガッ、ガッッ――とり憑かれたかのごとくひたすら繰り返すうち、背後でがらっと片引き戸を開ける音がし、荒っぽく羽交い締めにされて、それから……――
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