・クロエ(監督・脚本/利重 剛)

文字数 2,755文字

 大好きな映画だ。
 元となった話は、ボリス・ヴィアンという海外作家の「日々の泡(うたかたの日々)」という小説だ。
 しかし正直、図書館で借りてめくったその話は、まったく良さが分からなかった。目は字面(じづら)をすべるばかりで、少しも情景が浮かばない。当時うつが重かったせいかとも思うのだが、改めて読む気にも今はなれない。
 それはきっと、「原作とは別の話」と出だしに語られるこの邦画(ほうが)の美しさが、胸に()きついているせいだ。
 あまりに記憶が遠すぎて、出逢ったきっかけも覚えていない。アマゾンでおすすめされたのか、ビデオ屋でたまたま目に()まったのか。動画サイトで偶然予告でも観たのだろうか。
 とにかくこの映画には、出だしからびっくりさせられた。岸田今日子演じる老婆が、タバコを吸いながらいきなりエキセントリックな告白を始めるのだ。
「皆が かげであたしの悪口を言ってるんだって 突然分かったんです」「ああ そうなんだなあって 思ったら……指から砂が落ちるんです」「払っても払っても落ちてきて……それは あたしの体がだんだん砂になってるんだって 分かったんです」
「それで 夢の中で あたしは全部砂になっちゃうんですけど……これって 星ではどういう意味なんでしょう」
 そう訊ねられた主人公の「高太郎」は、黙って首をひねる。
「もったいぶらないで教えてくださいよ 星占いとかあるでしょう?」そう老婆(どうやら清掃員らしい)に重ねて訊かれ、高太郎は「僕の知ってる星は そういう星じゃないですから」と困ったように微笑(わら)って答える。
 そのやりとりでやっと、老婆は「奇妙な夢」の夢解きを望んでいただけだと分かる。そうしてその会話とその後の「高太郎の職場」の描写で、彼はプラネタリウムの職員なのだと分かるのだ。
 しかし正直、観始めはあまりのパンチの強さに「これセレクト失敗したかな……」と(あせ)ってしまった。けれどもそのおかげで、観る側は画面の向こうの世界にぐっと引き込まれてしまう。
 おおまかなあらすじとしては、さほどに難しくはない。「ひとりきりで生きてきた男」が、「ひとりきりで生きてきた女」と出逢い、結ばれて、死別するまでの物語だ。
 ありきたりと言ってしまえばそれまでだ。
 しかし、その世界観が素晴らしい。
 ともさかりえ演じるヒロイン、「クロエ(黒枝)」は高太郎と結ばれてほどなく病気にかかる。ただその病は実際にある病気ではなく、「胸(肺)に睡蓮(すいれん)のつぼみが宿る」奇病。あまりにも幻想的な病ながら「胸のつぼみが育ってしまうから、あまり水分は()れない」など、絶妙にほどよいリアリティーを持たせる設定。
 そして二人のまわりのキャラクターも、みな個性的で愛おしい。
「キタノ」というアーティストに心酔し、キタノの作ったものを高額で手に入れてはコレクションする、借金まみれの「英助(えいすけ)」。
 だめだめながら憎めない英助を母のようにも愛している、彼の恋人「日出美(ひでみ)」。
 そうして高太郎の職場の同僚(おかまさん)の「アニ」、アニの弟でバーのマスター「チビ」。高太郎とクロエの結婚式をとりもった牧師(ぼくし)さん。
 他にもさまざまな面々が画面の向こうに姿を現し、主人公二人を見守り、悩み、苦しみながら生きてゆく。
 この映画を手に入れた当座は、もちろん高太郎とクロエに一番感情移入していた。しかし、今は違う。
 何となれば、ある意味では英助が一番苦しいのではないかと思う。
 高太郎の結婚する時、「俺は 俺の好きなやつには皆幸せになってほしい」と、高太郎の貯金の一部を譲られた英助。
「それで借金を返して今まで通りに働いて、日出美と幸せになってほしい」と願う高太郎に、英助はろくでなしの金の使い方をする。「キタノがデビュー前に書きためたノート」一冊を手に入れるために、もらった金をほとんど全額つぎ込んでしまうのだ。
 理由(わけ)があってプラネタリウムをクビになった高太郎は、クロエの病気を良くするために「あの時の金 少し貸してほしいんだ」と英助に頼みこむ。しかし、英助にはもう金がない。借金もそのまま、もちろん日出美とも結婚出来ない。
 このどうしようもない英助は、その後チビの酒場で初対面の女子たち相手にクダを巻く。そしてその場にいた牧師に、血を吐くように問いかけるのだ。
「なあ イエスは元気かよ」
「元気だよ ジーザスは君のそばに今いるよ」
「ああ? 何でこんなとこにいるんだよ 何で高太郎んとこ行ってやんねえんだよ」
 そして英助はなおも訊ねる。
「イエスは何であいつらのこと (たす)けてやってくんねえんだよ」と。
「ジーザスはそういう存在ではない」と苦悶しながら答える牧師に、英助は吐き捨てる。
「じゃあイエスは俺の友だちじゃない あいつらの友だちでもない」
「でもあんた友だちだろう? あんたあいつらのために何やってやれるっていうんだよ!!」
 そこで我慢の決壊したチビが、泣き叫ぶように怒鳴るのだ。
「英助! じゃああんたは何やってんのよ! 高太郎のとこにも行かないで ここで飲んだくれて!!」
 その後英助は「貸した金を返してくれ」とバーにやって来た青年を蹴り倒し、チビに「出てって もう二度とここには来ないで」と根っこから関係を断たれるのだ。
 そのさまは、あまりにも無様(ぶざま)だ。あまりにも弱い、情けない。
 しかし私は、このシーンを観るたびに涙があふれて止まらなくなる。英助は弱い。どうしようもなく弱い。だが彼が、もしかしたら一番高太郎とクロエを案じていることが、痛いくらいに伝わるのだ。
 どうにかして力になりたい、何でもして助けてやりたい。けれど自分が弱いから、何の手助けもしてやれない。かえって二人にとってひどいことをしてしまっている――。
 その想いがひしひし胸に迫ってきて、両目は丸ごと痛くなる。
 その後、英助は死ぬ。
 借金で首が回らなくなり、日出美にも何も言わずに逃げ出して、最後のさいごに「良い金になんだろ クロエの治療費に回してくれ」と一番大事な「キタノのノート」を高太郎に手渡して――。
 借金をしたあげくにいつか蹴り倒した青年に、すれ違いざま刺されて殺されて終わるのだ。
 私には分からない。
 弱いというのは、それほどいけないことなのだろうか。作中の「ジーザス」は、けっきょく英助を救ってはくれなかった。
 そうして「英助が死んだのはキタノのせい」と考えたのか、日出美はキタノを殺害し、逮捕される。クロエは死ぬ。(のこ)された高太郎が、クロエが亡くなってしばらくして、何でもない場面で泣き出して泣き叫ぶシーンで空は高くなり、映画はエンドロールにかかる。
 私には分からない。
 清いクロエの魂は、きっと「天国」へ召されただろう。
 しかし、人を殺した日出美の魂は……弱い英助の魂は、作中で「天国」へ行けただろうか?(了)
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