・童話迷宮(釣巻 和)

文字数 2,073文字

 自室の本棚のすみっこに、このまんがは眠っていた。
 作者・釣巻 和。「つりまき かず」だと長い間思い込んでいたこの描き手は、本当は「つりまき のどか」という女性作家だ。
 今回このエッセイを書くために本棚をつくづく調べたら、だいぶ日に焼けてほこりをかぶって「お久しぶり」と姿を見せた。
 もうどういう経緯(けいい)で手に入れたのかも覚えていない。アマゾンでおすすめでもされたのか、それとも本屋で出逢ったのか。
 もしかしたら、近所の本屋で出逢ったのかもしれないと、今書きながら思い出した。「おや、これは」と背表紙を見て手にとって、『原案:小川未明』の表記に気がつき、少しひるんだ覚えがある。
 おがわみめい。
 どうもこの御仁(ごじん)の書かれた童話は、自分には妙に肌に合わない。『東洋のアンデルセン』と(うた)われたこの巨匠の本を、今までに二三度手に入れて、本棚に住んでもらったこともある。
 まともに読み通せた覚え、今までただの一度もなし。ろくに目も通せないまま、古本屋にお引き取りいただくこと(いく)たびか。「童話迷宮」を本屋で手にした時にはもう、「小川未明」の童話集は見かけても手にとることすらなくなっていた。
 子どもにも手加減なしに厳しい現実を見せつける、その真剣な筆運び。そう絶賛される巨匠の話は、私の目にはどれも冷たく感じられる。星も凍って落ちてきそうな雪の砂漠を、ただあてもなくひたすらに歩かせられるような、そんな感覚を覚えるのだ。
 だから正直、このまんがを手にした時はだいぶ迷った。買おうか、買うまいか。あくまで原案というものの、今まで童話集ただの一冊もまともに読み通せなかった相手の話がベースなのだ。
 気になる。気になるが、はたして自分はこのまんが上下巻を終わりまでめくることが出来るだろうか。やはりまともに読み通せずに、今まで手に入れた童話集と同じように、「古本屋にお引き取り」ねがうことにはならないだろうか……。
 しばし迷って、やはり上下巻二冊とも手にしてレジに向かった。それほどにこの本のたたずまいに()せられて、その直感を信じてみようと思った上で。
 結果、前述の通りこのまんがは、日に焼けてほこりをかぶろうと、それでも自室の本棚にいる。売れないのだ。「だいぶ読んでないし、もう良いか」と手放すつもりで手にしても、確認のためにぱらりとめくると、知らぬ間に「ゆめうつつ」の世界に()きつけられてゆく。しばし時を忘れ、五分以上も「現代のおとぎの国」に精神はゆらゆらとたゆたって、ぷはあと夢の水面(みなも)から顔を上げた時には、売る気などとうになくなっている。
 中でも「野ばら」という話がいけない。
 上巻の半ばに座をしめるこの掌編は、ある老人と「公園の清掃員」の青年との話である。
 老人は公園の「野ばら」に水をやる青年に「このつぼみのバラはいつ頃咲くでしょう」と訊ねかける。「この分でいくと、今日明日には」と応じる青年に、老人はほっとした顔で自分の昔話を始める。
 自分には別れた妻がいる。その子どもから連絡があり、「バラの咲く頃むかえに行く」と言ってくれたと、老人は嬉しそうに語る。語って去っていく老人の背中を見送る青年。そこに現れた青年の上司が「君ぃ、またてきとうなこと言って」「だってそのバラ、造花じゃない」とたしなめる。
 その場に居合わせた清掃仲間は、上司にこう説明する。「あのおじいさん、もう長い間(しばらく)ボケちゃってんですよ」「結局息子さんむかえに来なくて、例のバラの季節が過ぎてから記憶が止まっちゃったそうで」……。
「どうせまた 明日になったら同じこと訊きにくるんですから」
 青年はひとりごちる。郷里の母が亡くなる時、自分に(のこ)した言葉を想う。
(あんたの父ちゃん 今東京にいるんだって
 きっとむかえにいったげて)――。
 母が亡くなり、青年は父に連絡した。父は訊ねた。「いつ こっちに来れる?」「バラが バラが咲く頃」――。そう答えながら、青年は迷った。青年の両親が別れた理由は明かされないが、いったいどんな事情がそこにあったのか。
 迷ったのちにしばらく経って父を迎えに行った時には、バラなぞはもうすっかり枯れていた。そうして迎えに来ない息子を待ち続けた父の意識は、もう「バラの咲く前の季節」で止まっていて……。
「どちらさまだい?」
 そう、老人の待ち焦がれる息子は、公園の清掃員の青年だったのだ。
『咲かないバラは枯れもしないし
 醒めない夢は現実になる
 だから せめて
 咲かないバラに 今日もオレは水をやる』
 この結末にさしかかると、必ず視界が潤んで歪む。手はこの本を手放せなくなり、なおもぱらぱらとページをめくる。ひとしきり時間を奪われ、本を静かに閉じる頃には、「やはり本棚にいてもらおう」と、このくり返しなのである。
 正直、「小川未明」は知っていても「童話迷宮」を知らない方は多いだろう。小川未明の童話のようには、このまんがは後世には残らないだろう。
 けれど、それでも。
 今日もどこかの本棚で――。
 純粋すぎて残酷で、なお美しく優しいこの本は、ひっそりと息づいているのである。(了)
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