・百物語(杉浦日向子)

文字数 2,315文字

「江戸の怪奇」を淡々と描いた、地味ながら味わい深い短編集。
 シンプルな描線とごくあっさりした描写で紡いだ、「日常のあわいの非日常を切り取った」ような(いさぎよ)いエピソードの数々は、正直数年前は一ミリも良さが理解できなかった。
 怖くない、のである。はっきり言って。
「テレビでやるようなメイクばりばりの幽霊やお化けって、逆にテンション下がるのよね!」なんて偉そうなことを言っておいて、当時の私はそういう「ケバい怖さ」にけっこう毒されていたらしい。
 分からんのだ、繊細(せんさい)な恐怖というものが。当時少し「うつ」が重かった(現在(いま)と比べて)というのもあるが、図書館で借りた上下巻の単行本『百物語』は、少しも面白いとは思えなかった。
 何だこのぶつ切りの小話の寄せ集めは! もう少しページを()いてちゃんと「結末(オチ)」まで書ききりゃ良いのに! やっつけ仕事にも程がある!
 ……なんて、何も分からぬ当時の私は(いきどお)って本を返却したのである。
 でもって、その数年後。
 近所の本屋で再会した「その本」に、何故か私は妙に()かれた。
 百物語? ああ、前に目を通したあのまんがか。文庫版か……でも描いてある中身は同じだし……。
 と思いながらも、手は自然とその文庫本へ伸びていた。何となくめくって目にしたその「小話」に、「ほほう」と思う自分がいた。いやそんなはずは、と思いながら、指先でランダムにめくる、めくる、めくる。めくるたびにぶつかる話が、妙に琴線(きんせん)に触れるのである。
 これはどういうことだろう?
 自分で自分の感性を疑問に思いつつ、文庫本を持って足はレジへと向かっていた。
 しかしなあ……数年前に「壊滅的に好みじゃない!」と判断を下した作品だし、お金の無駄づかいにならなきゃ良いが……という心配は杞憂(きゆう)に終わった。
 面白い。つくづくとしみじみと面白い。
 これは一体どういう訳だ? 当時のうつの状態ではこの本の味わいが理解できなかったということか? それともそれなりに歳を重ねて、「若い自分」には分からなかった「細やかな美味しさ」が味わえるようになったのか?
 正直言って、今ではこの本の面白さが「分からなかった」自分のことが分からない。それほどに今はこの本は、自室の本棚の中でも「特にお気に入り!」の位置にいる。
 中でも一番好きなのが、「(ふな)女房の話」である。
「忘れるのが(いや)さに、語り置く」とて、母から聞いた話……という出だしで始まる掌編は、個人的に一番ツボに刺さる話だ。
 あらすじとしては「おゆう」という名の少女の父に、嫁が来る。いわゆる後妻である。そこで嫁入りの前の日に、おゆうさんは(ねえ)や(お手伝いさん)と共に、お祝いのお膳に使う山菜を採りに行く。
 ある(ふち)のそばで姉やは山菜採り、おゆうさんは淵に石を投げて遊んでいたが、その水に人面魚のごとき鮒を目撃。翌日嫁入りに来た後妻は、淵で見た鮒とまったく同じ顔立ちで……。という話。
 そのおゆうさんが大変に可愛らしい。初めは「イヤダ、イヤダ」と鮒と同じ顔の義母(ぎぼ)を拒んで姉やにしがみついているが、「(まかな)いが不要となり」姉やが里に帰された後、母との距離は近づいていく。
 その距離の変化を、このまんがは美しく簡潔に物語る。(うつわ)に張った水を鏡にして、くちびるに紅をさす鮒女房。部屋の外からのぞく娘を、義母は「おいで。おゆうさん。」と穏やかに呼び寄せて、自分と同じようにそのくちびるへちょんと紅をさしてやる。「ほら。」と言う母と共に、水鏡をのぞくおゆうさん。
 ただそれだけ。たったそれだけで、この二人の距離が心地良く縮まりつつあると物語り、短いお話はもうおしまいへさしかかる。
 その後おゆうさんはお嫁に行き、久しぶりに例の姉やに会いに行く。しかし「かかさんは鮒だったのかねえ」と何でもない口ぶりで話すおゆうさんを、姉やはまったく相手にしない。
「あの日、姉やと見た鮒は、たしかにかかさんの顔だったに」と言うおゆうさんに、姉やは「まさかに、そんな鮒はおりゃせんね」「嬢ちゃんの顔が、水に映っとったんじゃのう」と、あの日のことをなかったものとして扱うばかり。
 はたして、姉やはあの日のことを忘れたふりをしているのか。本当に忘れてしまったのか。
 その姉やの言動におゆうさんはひどく違和感を感じ、それきり彼女とは音信不通になった、という。
 その「母から聞いた話」を大きくなった子どもが物語る、という、ただそれだけの話だ。それだけの話なのだが、私は深く感じ入った。
 何よりおゆうさんの感受性が素晴らしい。明らかな人外である義母を、何のためらいもなく「かかさん」と呼ぶ絆の深さ。そしてかえって「淵の主」である「人面の鮒」をなかったことにする姉やの方に違和感を感じ、関係を()ってしまうという、一見すれば異様な反応。
 だがそのことが逆に言えば、また「かかさん」との親密さを物語っている。
 また、読み返してみて思ったのだが、もしや姉やとの再会の時点で、「かかさん」は亡くなっているのではないか。淵の主、おそらくとても長命だろうが、「人間の姿」をとって生きると人間並みの短い寿命が生じるのではないか。
 そうして人間としての生を終え、「かかさん」はまた鮒に戻って淵の奥深くへ潜っていったのではないか。もしかしたら、おゆうさんの子どもがたまたま淵で人面の鮒に逢い、「この鮒は俺の祖母(ばば)さまだ」と思う日も来るのではないか……。
 そう、数年前ものも分からず「やっつけ仕事だ」と酷評(こくひょう)した一話一話の終わり方。この淡いしめ方こそが、読み手の想像をいくらでもかき立ててくれるのだと……。
 そう分かってしまった今、読みこんで色の沈んだ表紙の本を手に、また読み返しに熱が入ってしまいそうだ。(了)
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