・はてしない物語(ミヒャエル・エンデ)

文字数 2,930文字

 私は、この本に呪われている。
 手放せないのだ。というより、初めてこの本に出逢って、ページをめくったその瞬間から、一度として手放そうと思ったことはない。
 それほどに好きな本である。
 ひと言で片づけるのは簡単だ。凝った装丁(そうてい)のおとぎ話。なかなかに読み応えのある厚みの、少年のファンタジー冒険譚。いわゆる「子ども向けのお話」……。
 けれど手放せない。もう到底子どもとは呼べない年齢(とし)の自分が、「一冊だけ好きな本をあげるとすれば?」と問われたら、迷いなくこの本の名をあげるだろう。
 まずその「しかけ」が素晴らしい。
 出だしの数ページで、ある本に関する描写が出てくる。
『表紙はあかがね色の絹で、動かすとほのかに光った。(中略)表紙をもう一度よく眺めてみると、二匹の(へび)が描かれているのに気がついた。一匹は明るく、一匹は暗く描かれ、それぞれ相手の尾を()んで、楕円(だえん)につながっていた』
 まずこの時点でびっくりする。だってその本の説明は、今自分が手にしている本の見た目にそっくりなのだ! え? え? と思いながら続きを読むと、その本の題名が明かされる。
『はてしない物語』。
 うわーこの本だ! 今自分が読んでるまさにこの本だ! すげえ! なんか魔法にかかったみたい!
 たわいなく感激できる子どもの時に出逢えたことが、今はしみじみありがたい。
 すっかり鼻息が荒くなって読み進めると、主人公の「バスチアン・バルタザール・ブックス」もこの本にすっかり魅入(みい)られて、衝動的に本屋からこの本を万引きしてしまう。
 またこのバスチアンが、子どもの本の主人公としては意外なほどに情けない。
 でぶでちびでエックス(きゃく)、運動も学業もからっきし。雨に降られてずぶ濡れで本屋に駆け込んできたのは、クラスメートのからかいやいじめから逃げるため。
 そんなバスチアンは、本を盗んだことでよけいに行き場を見失い、学校の物置きへ(ひと)り隠れて、本の世界に逃げ込むように暗がりでページをめくり出す。
 物語は、『ファンタージェン』という世界のお話だ。
 この世界を()べるのは「幼ごころの君」という少女の姿の生き物だ。幼ごころの君は「存在すること」そのものでこの世界の中心にいる。すなわち、彼女が消えてしまえば、ファンタージェンの生き物はすべて消える。それどころか世界そのものも消えてしまう。
 しかも彼女は物語の初めから、重い病にかかっている。彼女には「新しい名前」が必要なのだ。しかしファンタージェンには、名をつけられる者など誰一人としていない。「人間の世界」の人の子でなければ、彼女に名前をつけられないのだ。
 そのうえ少女の病のために、世界はすでに病み始めている。ファンタージェンのいろいろな場所が、ぽっかり穴の開いたように「無」になってゆく。それはどんどん広がっていく。あまりにそこへ近づきすぎると、物語の中の生き物は恐ろしい力に引きずられ、「虚無(きょむ)」にはまり込み消えてしまう。
 バスチアンは思う。
 ああ、ぼくがファンタージェンに行けたなら!
 物語を思いつくことなら、ぼくは大の得意なのに! そのせいでひとり言が多いから、クラスメートに笑いものにされるくらいだ。名づけだってお手のものだ。それに……。
 それに父さんは、数年前に母さんが病気で亡くなってから、ぼくのことなんか目に入ってやしないから。ぼくが落第した時も、何も言わずに悲しそうな目で見つめただけだ。
 そんなぼくが……そんなぼくが、ファンタージェンに行けたなら!
 そう念じながらバスチアンはページをめくる。
 やがて物語の中には、もう一人の主人公「アトレーユ」が現れる。アトレーユは(めい)をさずかり、「幼ごころの君を救える者」を探す旅に出る。
「幸いの竜」フッフールとの出逢い、数々の苦難を経て、アトレーユは幼ごころの君と対面する。その頃にはもう、バスチアンは心の底から分かっていた――。
 呼ばれている。
 本の世界が、ファンタージェンが求めているのは、まぎれもないこのぼくだ!
 バスチアンは今やもう恐怖にとらわれていた。本の中に明らかに自分の描写が連ねてある。古本屋から本を盗み出し、学校の物置きに隠れて本を読んでいる自分のことが、あまりにもありありと描かれている!
 けれどもう、後戻りは出来なかった。追い詰められたバスチアンは、もうとっくに考えていた新しい「幼ごころの君」の名を叫ぶ。
「今行きます! 月の子(モンデンキント)! 今行きます!」
 その名前がきっかけで、バスチアンは物語の世界に入り込む。
 そうして、自分の望みを一つひとつ叶えてゆく。
 美しい自分に。強く勇敢な自分に。出逢えたアトレーユとフッフールに感心してほしい。皆に尊敬される自分に――。
 望みは「アウリン」という美しい金のメダルの、それを授けてくれた月の子(モンデンキント)の力によって全て現実のものになる。
 そうして、望みが叶うたびに、バスチアンは一つずつひとつずつ忘れていくのだ。
 かつてはちびででぶだった自分。
 運動も出来ない、臆病者(おくびょうもの)だった自分。
 物語を作れたこと。自分が子どもだったこと。そうして全て忘れたら――。
 彼が(むしば)まれていくことに気づいたアトレーユとフッフールは、「アウリン」をバスチアンから盗み出し、ひいては彼を救おうとする。しかしバスチアンはそのことに気づき怒りに燃え、アトレーユの胸を剣で刺し、深く傷つけてしまうのだ。
 そしてそのあと知るのである。
「人間の世界」からファンタージェンにたどり着き、人間の世界の記憶を全て失くした人間は、何も訳の分からない、空っぽの、抜け殻のようになって、歳も取らずに永遠に生きねばならないということを。
 心から後悔したバスチアンの心には、知らぬ間にまた望みが湧いてきてしまう。止めようとしても自然に生じてきてしまう、望みとはそのようなものなのだ。
 仲間がほしい。もう「偉くなりたい、頂点に立ちたい」などとだいそれたことは望まない。どんなつまらない者でもいい、一番下の立場でも良い。誰かの仲間にしてほしい……。
 そしてその願いが叶うと、またもう一つ別の望みが。
 愛されたい。ぼくがぼくであるからこそ愛してくれるひとがいたなら……。
 願いが叶うたび、残り少ない記憶は一つ、またひとつと消えてゆく。
 そうして最後に残った望みは……。
 この先を言うのは止めておこう。しかしこれだけは伝えておきたい。最後に待ち受けているものは、とても素晴らしいハッピーエンドだ。
 さて、この本を読み終えた私はというと、しっかり呪いにかかってしまった。「こんな物語を自分でも作りたい」という甘い呪いに。
 その後、中学生になった私は文芸部に入部して、一年に一冊のスローペースで手書きの本をこしらえた。文化祭で簡素なテーブルに並んだその本は、ひかえめに見て「好きな作品のパロディ」としか呼べないしろものだった。
 その本の後書きで、私はそっとつぶやいた。
「あなたが最後の読者にならないように 祈っています」。だいぶん気どったセリフだが、まぎれもなく本心だった。
 そして現在。
 私は他に誇るものなど何もなく、ただ思うまま頭の中に生じる話を言葉にしては、吐き出している。
 私はまだ、ファンタージェンに出逢う前のバスチアンだ。(完)
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