・ジーザス・クライスト・スーパースター(1973年映画版)

文字数 1,617文字

 昔、家にあった映画だ。
 父親が好きで、私が生まれる前からビデオを購入して持っていたのだ。
 初めて()たのはいつだったか。もしかしたら小学校に上がる前だったかもしれない。その時はもう何も分からずに、ただ全ての人が美声だとひたすら感心し、「ユダがカッコいい!」と思ってたわいなく興奮し、何度もなんども観たものだった。
 その時は聖書に出てくるイエス・キリストや、彼を「裏切った」ユダのことなどよく知らなかった。正直ビデオを観てもろくろく理解出来なかった。彼らはあくまで「ビデオの中のひと」たちで、それこそ本当に「お話の中の登場人物」でしかなかった。
 少し大きくなって聖書の有名なくだりも聞きかじり、ほんの少し英語が分かるようになっても、そのビデオは変わらず家に置いてあった。時おり思い出したように観返しては「やっぱりユダはカッコいい」とつくづく思った。
 その頃には、「そちらこちらにツッコみがいがあって面白い!」と思うようにもなっていた。ジーザスが寝ている周りでマリアが大声で歌っているシーンで「安眠妨害!」と笑ってみたり……。
 病人たちが、イエスに「癒してください」とすがるシーンは特にツッコミがいがあった。何せ病人のうちの一人が「私はほとんど(しゃべ)れない」と歌うのである。いや歌っとるがな!
 あと「俺の財布(さいふ)は空なんだ」と訴える「病人」。いやお前は違うやろ!! あと病人たちに押し寄せられて、「数が多すぎる!」と叫んだ後のイエスのセリフ! 「自分で治せ!!」って、自分で治せないからあなたのところへ来てるのに!!
 ……などと、何も知らない当時の自分はさんざんに笑ったものだった。
 その後、何年か経って自分はうつを(わずら)った。
 しばらく苦しみ、周囲にもひどく迷惑をかけ、何年もかけて少しずつ回復へ向かっていった。そうして映画なども観られるくらいになった時分、ふっとこう思いついたのだ。
「ああ、あの映画がまた観たい」と。
 ジーザス・クライスト・スーパースター。1973年映画版。
 なぜそう考えたのだろう。今になっても理由はよく分からない。
 とにかく、そう思い立った時にはもうビデオはどこにまぎれたか影もなく、私は改めてDVDを購入した。
 そうして久々にその映画を通して観て、目が痛いくらい泣き腫らした。
 気の毒なのだ。ユダが――。
 どう見ても彼は単なる「裏切り者」とは見えなかった。悩み苦しみ、目を真っ赤にして後悔し、「彼があんな目に()わされると分かっていれば、密告などしなかったのに」と叫び立て、ついには自らの手で命を落とす。
 しかもユダが密告した直後には、「よくやった ユダ」と福音のようなおごそかな声まで聴こえてくるではないか?
 自分は、目を何処(どこ)につけていたのだろう。
 そう思うほど、私はこの映画を一つも理解していなかった。それから「聖書」がらみの話に興味が()き、今度はミルトンの「失楽園」を手に入れた。
 また涙が出た。
 サタンもユダも、同じだと思った。
 正直自分の考えが正しいのかは分からない。教会に行っていたのはほんの子どもの頃で、それも単なる「日曜学校」。当時の感覚では「週末に遊びに行く」のと変わらなかった。
 けれど、それでも。
 ユダは「裏切り者」の代名詞、サタンは「悪の化身」……。そういう「役」の者に「こいつらが悪いから」と全責任を負わせるような、「善人」のエゴを感じるのだ。
 映画と観た後、失楽園を読んだ後、だから私は一つの長編を書き上げた。
 めちゃくちゃな話だ。今まで「悪」とされていたものが、全てひっくり返る話だ。そしておそらく、敬虔(けいけん)なキリスト教信者にとっては「ひどく冒涜的(ぼうとくてき)な話」だ。
 けれども、私は楽しんで(ひど)い描写をしたのではない。イエスが磔刑(はりつけ)にされるシーンは、泣きながら吐きながら書き上げた。
 そうして「恐ろしく冒涜的」で、けれども私にとっては祈りそのものの物語は、ネットの海に流されて、ただぽっかりと浮かんでいる。(了)
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