第2話(#11)
文字数 5,168文字
「……スズミさんはあれから大丈夫なの?」
【うん。昨日はぐっすり眠れたからね。今はほら、めっちゃ元気! セイヤくん……心配かけてごめんね?】
スマホ越しに聞こえるスズミさんの声が耳を軽やかにさすった。まるで早朝の小鳥のさえずりのように。
よかった……いつものスズミさんだ。
僕の身体からすっと何か冷たいものが抜け、ほっこりと安堵する。
僕とスズミさんが友人になった日の翌日早朝、僕はベッドに寝転がってスズミさんと通話していた。
家に帰ったスズミさんが不安で電話をかけようか迷っていたが、意外にも彼女からかかってきたのだ。
スズミさんは昨日二時間ほど眠った後、夕方に帰宅した。念のため病院に行くように言ったが、電話の声を聞く限り問題無さそうだ。
ある意味とても運が良かった。家には誰もいなかったし、救急車を呼ばなければスズミさんは今頃……。思い出すだけでもぞっとする。
箱は僕の机に戻した。鍵をかけ、開けられないようになっている。
僕はスズミさんに申し訳なくなった。
「ごめん、軽い気持ちで勝手に開けたりして」
【いいよ。最初に言い出したのは私だし、私こそ謝るべきだったよ。でも、結局大事にならなかったから、今度から気を付けようよ】
「うん……」
こくり、と自分を戒めるように首を縦に振る。
あの中はもう絶対開けてはならない。そう心に誓いたい。
【それよりも、私すっごく気になるんだよねえ】
「え?」
【なんでキミ、箱を開けても大丈夫だったの? 私、すっごく苦しかったのにセイヤくん、気分悪くなったりしなかったの?】
スズミさんの疑問に呼応するかのように、僕も脳内にはてなが浮かび上がった。
確かにそうだ。
箱を開けてしまったとき、苦しむスズミさんに対し僕は驚きこそしたが、身体に異変は感じられなかった。
「別に、なんともなかったけど」
【そっか……】
「すぐ箱を閉めたからかな」
【そうかもしれないけど、キミ箱の前にいたでしょ? あの中、何が入ってたの? 私見る余裕がなかったけど】
「あんまり言いたくないけど……」
あの箱の中身を思い出しながら話す。半分は不気味に笑う人間、もう半分は魚のような、得体のしれない怪物。多分、スズミさんが苦しみだした原因はその怪物だろうけど、あれはいったい……。
【それって……まさか】
「知ってるの?」
【まあ、ね。私も図鑑で見ただけなんだけど】
――人魚
それは僕にとって意外な答えだった。
スズミさんによれば日本に伝わる人魚の姿は、あの箱に入っていた怪物と同じだという。
「そんな……。でも、人魚って伝説上の生き物なんでしょ?」
しかし、スズミさんの様子がおかしかった。
【……なんで? だとしたらセイヤくんは……】
「え?」
【まあ、そうなら説明はつくかな……】
「スズミさん!」
スマホに向かって叫ぶ。
【っ! ごめん】
「さっきから独り言だけど、どうしたの?」
【い、いや……私もそう思うけど……】
おほん、と咳払いが画面から聞こえた。
僕にとってはスズミさんが何か隠しているようにしか見えない。
【それより、こんな危険なものどうしてチカさんは渡したんだろうね】
いきなり話題を変えられた。違和感を覚えつつも僕はスズミさんに応じた。
「……僕も気になってるんだ」
【じゃあさ、今度会ったら聞いてみようよ】
「でも勝手に開けたってバレたら、チカさん怒ると思うよ」
【うーん……。まあ、その時考えようよ】
「え……」
先延ばしするのか。
てへへ、とスマホの向こうで笑っているであろうスズミさんに、無意識のうちにツッコミを入れたくなるけど、僕にそんな勇気はない。
まあ、こっちから呼び出さないかぎり、チカさんとまた会えるかなんてわからないし。
とりあえず話題を変えた。
「それで、何でスズミさんから電話かけてきたの?」
【あんまり心配かけたくなかったってのもあるけど、セイヤくんは今度の土曜日時間大丈夫かなって】
「え?」
【夏祭りだよ。平川地区であるんだけど。八百で夏といったらこれってやつ!】
頭をフル回転させて思考を巡らせているのだが、なぜかピンと来ない。
「……なんなの?」
【え……知らないの? 〈平川火まつり〉だよ!】
あっ!
僕の脳内で埋もれ、散らばっていた記憶がパズルのピースを組み合わせるように繋がる。小学四年のときまで友人と一緒に遊びに行っていた夏祭りだ。
〈平川火まつり〉
平川地区の砂浜一帯で年に一回開催される豪勢な火祭りで、江戸時代からの伝統があるといわれる。毎年全国各地から大勢の観光客が訪れ、いつも以上の賑わいを見せるのだ。盛大な炎が夜の八百湾を包み、豪快で力強く、だけどどこか幻想的な雰囲気を水面や海上に映し出す。
夏祭りなので屋台も出る。八百の人々は老いも若きもその日はこぞって、平川に集まるのだ。
一方で僕はここ数年祭りと呼べるようなイベントに行っていない。他のイベントがあったり、家族旅行があったりしたせいだけど、なによりぼっちになってからめっきり外で遊ぶことがなくなったからだ。
【早い話が一緒にお祭り行かないかなってこと! 予定、あいてる?】
数年ぶりに友人からお祭りに誘われた。
しかも、それが異性の友人。
気になるし、だけど一緒に行ったらほかの誰かに見られないか……。
僕の頭の中でモヤモヤが次第に大きくなり、身体も熱くなる。
「え、え、あー……」
戸惑いと緊張で声がつっかえてしまった。そんな僕にスマホからスズミさんのいたずらをした子供のような、にやついた声がした。
【来られないの? 暇そうなのに】
「だ……大丈夫だよ!」
僕のちっぽけなプライドが軽く傷つけられたのか、声を上げてしまった。
【ちょっと、声大きいよ。でも……行けるみたいだね】
「う、うん。ごめん」
とたんに僕の声が小さくなった。
スズミさんは軽やかに笑う。
【ふふっ。じゃあ、土曜日の夜六時に八百駅集合ね。いいかな】
「うん……」
【よし。じゃあ、またね】
スマホの通話が切れた。
僕はまるでスマホに向いている棒のようにきょとんとしていた。だが、心臓の拍動が速く大きく耳を刺激する。
気分を落ち着かせるため、起き上がらせていた上体を、ベッドの上に押し付けた。同時にため息が漏れる。
緊張した。まさか、スズミさんから祭りに誘われるなんて、生まれて初めてだ。
しばらく寝転がると、気持ちも落ち着いてきた。そして正反対のわくわく感が浮上する。
お祭り――。案外、悪くないかもしれない。
***
土曜日がやってきた。
日中適当に家で過ごした後、僕は自転車に乗って八百駅に向かった。
夕方六時、待ち合わせの時間通りに八百駅に到着する。今年は猛暑だけど、夕暮れにもなると涼しい。噴き出ていた汗をタオルで拭くと、さわやかな風が僕を包んだ。
そして、彼女はあの時と同じようにベンチに座ってスマホを触っていた。
オレンジ色のキャミソールに、ピンクのスカート。そこから伸びる程よく日焼けした、すらりと伸びた細い手足は夕日に照らされて、少々色っぽく輝いていた。
僕は目のやり場に困りながらも、彼女に声をかけた。
「あ、あの……スズミさん」
「ん?」
そっと顔を上げるスズミさん。
僕はすぐに目を彼女の顔から離した。
「あ、あの、六時だよ……?」
「もうそんな時間?」
「うん。……何してたの? 人魚の調べ事?」
「まあ、そうだけどね」
そういうとスズミさんはひとつため息をついた。
横目に見えるスズミさんはどこか煮え切らない表情だった。だが、僕の視線に気づいたのか、
「ごめんね。雰囲気台無しにしちゃったね。お祭り行こっか」
***
平川までは電車で十分ほど。とはいえ、車内は観光客や見物客でごった返している。田舎ではめったに体験できない満員電車である。
まあ、僕にとって電車は学校ほどではないが嫌な場所だ。理由は簡単でいじめられっ子に遭遇するかもしれないから。
だけど、そもそも人が多すぎて満員電車内で出くわすことはなかった。
会場の平川の砂浜についたときも同じで、会場が隅から隅まで人で埋め尽くされていた。
八百の人々、県外の人、外国人旅行客――。老いも若きも、男の人も女の人も集まって、火祭りが始まるのを今か今かと待ちわびている。
あまりの多さに、僕は開いた口がふさがらず声を漏らした。
「すげえ……」
「毎年こうだよ?」
「しばらく行ってなかったから……。でも、意外にあいつらはいないね」
「ゆかちゃんたちのこと?」
僕は首を縦に振る。スズミさんはにっこりと笑顔を見せた。
「人が多いからね。心配しなくていいんじゃない?」
「そうだね」
その時、見物客の歓声が一気に上がった。
僕とスズミさんの意識もそちらに向けられる。
祭りが始まったのだ。
海に浮かぶ船の上で二十メートルもの高さがある巨大な松明 に火が灯り、激しく燃え盛る。
船上で男たちが松明を回し、倒して起こす。
炎が激しく踊り、火の粉が夜空に舞っては散る。
同じような船が何隻も八百湾に浮かび、炎が黒く染まった闇夜を赤く染めるように豪快にあたりを乱舞する。
観る者はみな釘付けになっていた。
すごい……。感動が自然と口から発せられていた。中にはスマホやデジカメで写真に残す人もいる。
「すごい……こんなんだったんだ……」
僕も海で乱舞する炎に見惚れていた。何年か前の火祭りに行ったときの記憶もよみがえる。
疎遠になってしまったけど、小学校時代の友人と並んで見ていたっけ……。
隣を見ると、スズミさんも両手をかぶせ、うっとりとその炎を眺めていた。
友人と見物する火祭り。僕はまるであの頃に戻ったかのような感覚に浸っていた。
***
火祭りは前半と後半に演目が分かれている。その間に休憩時間が挟まれ、スズミさんによればみんなこの時間帯は、屋台でゲームをしたり食べ物を買ったりするらしい。
僕とスズミさんは駐車場に設置された出店屋台を回っていた。
屋台では和服を着た子供や若いカップル、外国人など大勢の人が並んでいる。
金魚すくいに大判焼き、たこ焼き……。やりたいことはいっぱいあるけど、お小遣いは限られている。
「どーれにしよっかな……」
スズミさんは僕の隣で、無邪気な子供のように顔を動かしながら行きたい屋台を探していた。
「なるべく早く済ませようよ。後半の火祭りも始まっちゃうし」
「そうだけどさー、お祭りって楽しいじゃん」
気持ちはわかる。スズミさん、ずっと楽しそうだったし。
でも、こんなところで歩いてたら目立つぞ……? 多分、あいつらも……。
無用な心配かもしれないけど、なぜか警戒してしまう。
だが僕が警戒していたのは間違いではなかった。
――鈴美 、そこにいたのか。
楽しい祭りの雰囲気はその一声で破裂した。
目の前にいるスーツ姿で、白髪が混じった中年の男。眉が眉間に寄せられ、明らかな敵意を僕らに向けていた。
僕は思わず恐怖のあまり腹の底からぞっと、震えを感じた。
ふと隣にいる少女に目をやる。
彼女は顔が青ざめ、全身が震え、額から冷汗を出し、まるで金縛りにあったかのように動けなくなっていた。
僕らの周囲に動けば爆発しそうな、危険な沈黙が漂っていた。
「……保 おじさん」
スズミさんから漏れた言葉。
「今日は勝手に出歩いちゃダメって言っただろ。みんな心配してるから、帰るぞ」
「……」
スズミさんは黙り込んだ。
いや、多分だけど恐怖に支配されて声が出せないのだ。
「さあ、早く」
「……わかった」
力なく答えると、スズミさんは前に歩を進め始めた。
「あ、あの……」
「君は鈴美の友達かい?」
彼女を呼び止めようとすると、保おじさんと呼ばれた男が僕に声をかける。
「そうですけど……」
「今日は用があるんでね。また今度にしてくれないかな」
「え」
「うちの事情なんだ。じゃあね」
男は世間一般的に笑っていたかもしれない。だけど、その目は敵意が含まれていた。
男は振り返るとスズミさんの肩を押した。スズミさんはまるで小説に出てくる、やつれた奴隷のような姿で歩いていた。
僕はそんなスズミさんを見ることしかできなかった。
【うん。昨日はぐっすり眠れたからね。今はほら、めっちゃ元気! セイヤくん……心配かけてごめんね?】
スマホ越しに聞こえるスズミさんの声が耳を軽やかにさすった。まるで早朝の小鳥のさえずりのように。
よかった……いつものスズミさんだ。
僕の身体からすっと何か冷たいものが抜け、ほっこりと安堵する。
僕とスズミさんが友人になった日の翌日早朝、僕はベッドに寝転がってスズミさんと通話していた。
家に帰ったスズミさんが不安で電話をかけようか迷っていたが、意外にも彼女からかかってきたのだ。
スズミさんは昨日二時間ほど眠った後、夕方に帰宅した。念のため病院に行くように言ったが、電話の声を聞く限り問題無さそうだ。
ある意味とても運が良かった。家には誰もいなかったし、救急車を呼ばなければスズミさんは今頃……。思い出すだけでもぞっとする。
箱は僕の机に戻した。鍵をかけ、開けられないようになっている。
僕はスズミさんに申し訳なくなった。
「ごめん、軽い気持ちで勝手に開けたりして」
【いいよ。最初に言い出したのは私だし、私こそ謝るべきだったよ。でも、結局大事にならなかったから、今度から気を付けようよ】
「うん……」
こくり、と自分を戒めるように首を縦に振る。
あの中はもう絶対開けてはならない。そう心に誓いたい。
【それよりも、私すっごく気になるんだよねえ】
「え?」
【なんでキミ、箱を開けても大丈夫だったの? 私、すっごく苦しかったのにセイヤくん、気分悪くなったりしなかったの?】
スズミさんの疑問に呼応するかのように、僕も脳内にはてなが浮かび上がった。
確かにそうだ。
箱を開けてしまったとき、苦しむスズミさんに対し僕は驚きこそしたが、身体に異変は感じられなかった。
「別に、なんともなかったけど」
【そっか……】
「すぐ箱を閉めたからかな」
【そうかもしれないけど、キミ箱の前にいたでしょ? あの中、何が入ってたの? 私見る余裕がなかったけど】
「あんまり言いたくないけど……」
あの箱の中身を思い出しながら話す。半分は不気味に笑う人間、もう半分は魚のような、得体のしれない怪物。多分、スズミさんが苦しみだした原因はその怪物だろうけど、あれはいったい……。
【それって……まさか】
「知ってるの?」
【まあ、ね。私も図鑑で見ただけなんだけど】
――人魚
それは僕にとって意外な答えだった。
スズミさんによれば日本に伝わる人魚の姿は、あの箱に入っていた怪物と同じだという。
「そんな……。でも、人魚って伝説上の生き物なんでしょ?」
しかし、スズミさんの様子がおかしかった。
【……なんで? だとしたらセイヤくんは……】
「え?」
【まあ、そうなら説明はつくかな……】
「スズミさん!」
スマホに向かって叫ぶ。
【っ! ごめん】
「さっきから独り言だけど、どうしたの?」
【い、いや……私もそう思うけど……】
おほん、と咳払いが画面から聞こえた。
僕にとってはスズミさんが何か隠しているようにしか見えない。
【それより、こんな危険なものどうしてチカさんは渡したんだろうね】
いきなり話題を変えられた。違和感を覚えつつも僕はスズミさんに応じた。
「……僕も気になってるんだ」
【じゃあさ、今度会ったら聞いてみようよ】
「でも勝手に開けたってバレたら、チカさん怒ると思うよ」
【うーん……。まあ、その時考えようよ】
「え……」
先延ばしするのか。
てへへ、とスマホの向こうで笑っているであろうスズミさんに、無意識のうちにツッコミを入れたくなるけど、僕にそんな勇気はない。
まあ、こっちから呼び出さないかぎり、チカさんとまた会えるかなんてわからないし。
とりあえず話題を変えた。
「それで、何でスズミさんから電話かけてきたの?」
【あんまり心配かけたくなかったってのもあるけど、セイヤくんは今度の土曜日時間大丈夫かなって】
「え?」
【夏祭りだよ。平川地区であるんだけど。八百で夏といったらこれってやつ!】
頭をフル回転させて思考を巡らせているのだが、なぜかピンと来ない。
「……なんなの?」
【え……知らないの? 〈平川火まつり〉だよ!】
あっ!
僕の脳内で埋もれ、散らばっていた記憶がパズルのピースを組み合わせるように繋がる。小学四年のときまで友人と一緒に遊びに行っていた夏祭りだ。
〈平川火まつり〉
平川地区の砂浜一帯で年に一回開催される豪勢な火祭りで、江戸時代からの伝統があるといわれる。毎年全国各地から大勢の観光客が訪れ、いつも以上の賑わいを見せるのだ。盛大な炎が夜の八百湾を包み、豪快で力強く、だけどどこか幻想的な雰囲気を水面や海上に映し出す。
夏祭りなので屋台も出る。八百の人々は老いも若きもその日はこぞって、平川に集まるのだ。
一方で僕はここ数年祭りと呼べるようなイベントに行っていない。他のイベントがあったり、家族旅行があったりしたせいだけど、なによりぼっちになってからめっきり外で遊ぶことがなくなったからだ。
【早い話が一緒にお祭り行かないかなってこと! 予定、あいてる?】
数年ぶりに友人からお祭りに誘われた。
しかも、それが異性の友人。
気になるし、だけど一緒に行ったらほかの誰かに見られないか……。
僕の頭の中でモヤモヤが次第に大きくなり、身体も熱くなる。
「え、え、あー……」
戸惑いと緊張で声がつっかえてしまった。そんな僕にスマホからスズミさんのいたずらをした子供のような、にやついた声がした。
【来られないの? 暇そうなのに】
「だ……大丈夫だよ!」
僕のちっぽけなプライドが軽く傷つけられたのか、声を上げてしまった。
【ちょっと、声大きいよ。でも……行けるみたいだね】
「う、うん。ごめん」
とたんに僕の声が小さくなった。
スズミさんは軽やかに笑う。
【ふふっ。じゃあ、土曜日の夜六時に八百駅集合ね。いいかな】
「うん……」
【よし。じゃあ、またね】
スマホの通話が切れた。
僕はまるでスマホに向いている棒のようにきょとんとしていた。だが、心臓の拍動が速く大きく耳を刺激する。
気分を落ち着かせるため、起き上がらせていた上体を、ベッドの上に押し付けた。同時にため息が漏れる。
緊張した。まさか、スズミさんから祭りに誘われるなんて、生まれて初めてだ。
しばらく寝転がると、気持ちも落ち着いてきた。そして正反対のわくわく感が浮上する。
お祭り――。案外、悪くないかもしれない。
***
土曜日がやってきた。
日中適当に家で過ごした後、僕は自転車に乗って八百駅に向かった。
夕方六時、待ち合わせの時間通りに八百駅に到着する。今年は猛暑だけど、夕暮れにもなると涼しい。噴き出ていた汗をタオルで拭くと、さわやかな風が僕を包んだ。
そして、彼女はあの時と同じようにベンチに座ってスマホを触っていた。
オレンジ色のキャミソールに、ピンクのスカート。そこから伸びる程よく日焼けした、すらりと伸びた細い手足は夕日に照らされて、少々色っぽく輝いていた。
僕は目のやり場に困りながらも、彼女に声をかけた。
「あ、あの……スズミさん」
「ん?」
そっと顔を上げるスズミさん。
僕はすぐに目を彼女の顔から離した。
「あ、あの、六時だよ……?」
「もうそんな時間?」
「うん。……何してたの? 人魚の調べ事?」
「まあ、そうだけどね」
そういうとスズミさんはひとつため息をついた。
横目に見えるスズミさんはどこか煮え切らない表情だった。だが、僕の視線に気づいたのか、
「ごめんね。雰囲気台無しにしちゃったね。お祭り行こっか」
***
平川までは電車で十分ほど。とはいえ、車内は観光客や見物客でごった返している。田舎ではめったに体験できない満員電車である。
まあ、僕にとって電車は学校ほどではないが嫌な場所だ。理由は簡単でいじめられっ子に遭遇するかもしれないから。
だけど、そもそも人が多すぎて満員電車内で出くわすことはなかった。
会場の平川の砂浜についたときも同じで、会場が隅から隅まで人で埋め尽くされていた。
八百の人々、県外の人、外国人旅行客――。老いも若きも、男の人も女の人も集まって、火祭りが始まるのを今か今かと待ちわびている。
あまりの多さに、僕は開いた口がふさがらず声を漏らした。
「すげえ……」
「毎年こうだよ?」
「しばらく行ってなかったから……。でも、意外にあいつらはいないね」
「ゆかちゃんたちのこと?」
僕は首を縦に振る。スズミさんはにっこりと笑顔を見せた。
「人が多いからね。心配しなくていいんじゃない?」
「そうだね」
その時、見物客の歓声が一気に上がった。
僕とスズミさんの意識もそちらに向けられる。
祭りが始まったのだ。
海に浮かぶ船の上で二十メートルもの高さがある巨大な
船上で男たちが松明を回し、倒して起こす。
炎が激しく踊り、火の粉が夜空に舞っては散る。
同じような船が何隻も八百湾に浮かび、炎が黒く染まった闇夜を赤く染めるように豪快にあたりを乱舞する。
観る者はみな釘付けになっていた。
すごい……。感動が自然と口から発せられていた。中にはスマホやデジカメで写真に残す人もいる。
「すごい……こんなんだったんだ……」
僕も海で乱舞する炎に見惚れていた。何年か前の火祭りに行ったときの記憶もよみがえる。
疎遠になってしまったけど、小学校時代の友人と並んで見ていたっけ……。
隣を見ると、スズミさんも両手をかぶせ、うっとりとその炎を眺めていた。
友人と見物する火祭り。僕はまるであの頃に戻ったかのような感覚に浸っていた。
***
火祭りは前半と後半に演目が分かれている。その間に休憩時間が挟まれ、スズミさんによればみんなこの時間帯は、屋台でゲームをしたり食べ物を買ったりするらしい。
僕とスズミさんは駐車場に設置された出店屋台を回っていた。
屋台では和服を着た子供や若いカップル、外国人など大勢の人が並んでいる。
金魚すくいに大判焼き、たこ焼き……。やりたいことはいっぱいあるけど、お小遣いは限られている。
「どーれにしよっかな……」
スズミさんは僕の隣で、無邪気な子供のように顔を動かしながら行きたい屋台を探していた。
「なるべく早く済ませようよ。後半の火祭りも始まっちゃうし」
「そうだけどさー、お祭りって楽しいじゃん」
気持ちはわかる。スズミさん、ずっと楽しそうだったし。
でも、こんなところで歩いてたら目立つぞ……? 多分、あいつらも……。
無用な心配かもしれないけど、なぜか警戒してしまう。
だが僕が警戒していたのは間違いではなかった。
――
楽しい祭りの雰囲気はその一声で破裂した。
目の前にいるスーツ姿で、白髪が混じった中年の男。眉が眉間に寄せられ、明らかな敵意を僕らに向けていた。
僕は思わず恐怖のあまり腹の底からぞっと、震えを感じた。
ふと隣にいる少女に目をやる。
彼女は顔が青ざめ、全身が震え、額から冷汗を出し、まるで金縛りにあったかのように動けなくなっていた。
僕らの周囲に動けば爆発しそうな、危険な沈黙が漂っていた。
「……
スズミさんから漏れた言葉。
「今日は勝手に出歩いちゃダメって言っただろ。みんな心配してるから、帰るぞ」
「……」
スズミさんは黙り込んだ。
いや、多分だけど恐怖に支配されて声が出せないのだ。
「さあ、早く」
「……わかった」
力なく答えると、スズミさんは前に歩を進め始めた。
「あ、あの……」
「君は鈴美の友達かい?」
彼女を呼び止めようとすると、保おじさんと呼ばれた男が僕に声をかける。
「そうですけど……」
「今日は用があるんでね。また今度にしてくれないかな」
「え」
「うちの事情なんだ。じゃあね」
男は世間一般的に笑っていたかもしれない。だけど、その目は敵意が含まれていた。
男は振り返るとスズミさんの肩を押した。スズミさんはまるで小説に出てくる、やつれた奴隷のような姿で歩いていた。
僕はそんなスズミさんを見ることしかできなかった。