第10話(#28)
文字数 2,778文字
それから何年、何十年かが過ぎた。周りの景色は四季を繰り返しながら刻々と変わっていく。人々も老いて、死に、新たな命が生まれる。
だけど時代が進んでいく中、あたしだけがほとんど変わらなかった。
あたしが人魚を食べてしまった事件から百年が過ぎた。あたしはいろんな地域を転々としながら、細々と凌いでいた。どうやら人魚の肉には老化を遅らせる作用があるようで、あたしは百歳を超えても外見は十五、六程度の娘だった。
この百年、想像するだけでも吐き気を催すようなひどい目に遭いまくった。粗暴の悪そうな男にたかられ、殴られたり斬られたりした傷が瞬時に治れば気味悪がられ、町や村から追い出される――それの繰り返しだった。物理的にも、精神的にも痛みだけが蓄積していった。
とはいえ、身体だけは丈夫なので餓えることはなかった。
今あたしは
百年も経てば当然あたしを知る人などいなくなる。そろそろ生まれ故郷に戻っても大丈夫だろう。
ほのかな期待は現実のものになった。
百年前より人口が増え、町が大きくなった八百には海の前にお城が建てられ、目の前には城下町が広がっていた。
そして、町の人は快くあたしを受け入れてくれた。近隣の町や村から出稼ぎに来る人がいて、長屋などで集団で生活していた。だからよそ者を受け入れる余地があったのだ。
あたしは出稼ぎ民として八百に住み着き、漁師さんの仕事を手伝いながら生計を立てた。漁は力仕事で女の力ではまともに人魚の肉により筋力が増強したあたしには
次第に漁師さんたちから信頼され、雑談や世間話を交わすまでの関係になっていった。彼らにとってあたしは十代半ばの娘に見えていた。当時、女の子は十五を過ぎれば結婚する。そのため、あたしに縁談が舞い込んできた。お相手は
あたしは数回の交際ののち、神主と結婚。二人の間に子供を三人授かった。子供たちはすくすく成長し、一人前になっていった。
あたしも妻ながら神事やお祭りを手伝った。力仕事も多く、あたしにとってお手の物だった。そして、いつまでも若々しかったあたしは、 “ビクニさまが在らせられた” ともてはやされ、人々の注目の的となっていった。
神社の参拝客も増え、卯花家は栄えていった。
本当に幸せだった。この幸せがいつまでも続いてほしいと思っていた。百年も命が張り裂けそうなひどい仕打ちを受け続けて生きてきたのだから、強く願うのは当然だ。
しかし、幸せは砂時計のように徐々にすり減っていく。
やはりあたしと家族の間には越えられそうで越えられない ”壁” があったのだ。
***
結婚して五十年が過ぎた。時代は江戸時代も後期に差し掛かる。世に言う天明の飢饉のころ。
旦那は年老いて、子供たちは成長して自立していった。旦那の神事は長男が継いでおり、すでに孫も生まれていた。旦那は隠居生活に入ろうとしていた。
ある夏の日、あたしは夫に呼び出された。
それは例年より日差しが少なく、寒い夏だった。農作物は不作で、全国的に病が流行していた。
卯花神社の神楽殿で、神棚に背を向けて座る夫。宮司姿の彼は背中を向けながら語り出した。
「人前に出るのはやめてくれんか」
「え……」
いきなりの発言にあたしは戸惑った。
「どういうことです……」
「年相応のふるまいをしてはどうかと言っておるのだ」
「年相応……?」
「左様。わしも来年は
「……」
旦那は振り返るとあたしをそっと見た。
「最近変な噂が立っている。卯花神社の宮司の嫁は狐の生まれ変わりとか、蜘蛛が若い娘に化けてわしを誘惑しているとか……」
「そんな……」
根も葉もない、滅茶苦茶な噂だった。
「わしはお前さんを信用したいのじゃ。お前は何者なんじゃ。なぜいつまで経っても若いのじゃ」
「……」
見た目は二十台にも届かない娘にしか見えない。だが、実際の年齢は百五十歳を迎えていた。すでに旦那よりも倍以上も歳を取っていた。
「言わんか」
「……」
「言えぬのか」
「はい」
「なら、よい。出なければよいだけじゃ」
そういうと旦那はもう一度背を向けた。
「お前さんは屋敷から出てはならぬ。決してな」
それは絶望的な言葉だった。すべてが裏切られた気がした。
「どうして……ですか」
「悪く言いたくはないが、世間様に顔向けできんからな」
「……!」
一瞬気持ちが高ぶりそうになった。
だけど、彼にすがりたい思いが勝ったのかすぐ冷静になった。
「わかり、ました……」
その後、あたしは軟禁された。
家族と隔離され、一日のほとんどを一人暗い部屋で過ごすことを余儀なくされた。
自分を愛してくれた人に裏切られた気がした。せっかく手に入れた幸せを踏みにじられた気がした。すべてが、また地獄のどん底に突き落とされた気がした。
誰も信じてくれない。結局、この世に味方なんかいない。
何度も自分を短刀で傷つけようとした。しかし、人魚を食べた体は、自分の命を絶つことすら許してくれなかった。
このまま死ぬまで、この部屋で過ごすのか……。
だったら、誰も知らぬ間に消えればいい。
あたしは長い人生で、自分を比丘尼に見立てていた。彼女の境遇とあたしの人生が、どこかで重なったから。
彼女は白い椿を愛していたといい、卯花山を訪れた時、椿を洞窟の前に植えたという。そして、彼女が洞窟に身を潜めてしばらくしたのち、椿は枯れた。
ある日偶然、神楽殿に奉納された品の中に白椿があった。その時、あたしは思い立った。これをあたしの部屋に飾ろう。そして、ここから消え去ろう。
この椿が枯れたら、あたしは死んだことになる。
部屋に椿を飾ると、あたしは誰にも気づかれずにまるで霧のように卯花家から消え去った。
***
そして、今に至るの。これまでにもいろいろあったけどね。人魚の肉の保存とか、時代に合わせた生活とかいろいろ。まあ、大変さはあなたには想像できないと思う。
だから、もう一度あたしはあなたに問いかける。
――あたしの仲間になって
あなたにはその素質がある。だから……。
目の前の彼はまるであたしを哀れむように見ていた。あたしは、彼の答えを待った。