第四部「罪の残響」第1話(完全版)
文字数 13,142文字
見つけなさい
私は
あなたを待っています
☆
蝉 の声が風景に溶け込んでいる頃。
多くの虫の声は、不思議なほどにこの季節の湿度に絡みついた。
咲恵 もすでに慣れているとはいえ、この季節だけは長い髪を暑苦しく感じることは多い。萌江 のようなストレートでないからだろうか、咲恵 の少しうねった髪質は服や首筋によく絡み付いた。髪の色が僅かに赤みがかっているのは染めているわけではない。とはいえその色は嫌いではなかった。
それでも少しだけ、黒くストレートな髪質の萌江 を羨 ましく思うことはある。
肩にかかるくらいの長さ。そこから時々覗く首筋が好きだった。
しかし萌江 からすると、この時期に後ろで髪を束ねた時に見える咲恵 のうなじにこそ色気を感じるという。
だからというわけではないが、今日の咲恵 はポニーテール。もちろん暑いからだが、隙を見てその首筋に手を回したがる萌江 に少し鼓動が速くなる。
──……付き合い始めのカップルじゃないんだから…………
そう思いながらも、咲恵 ももちろん嫌ではなかった。
同時に、最近、自分の感覚が若い頃に近くなっていることに対しての自覚はある。
「いつ帰るの?」
珍しく平日のランチタイムを二人で楽しみ、特別目的があるでもなく街中をブラブラとしながら咲恵 が切り出した。
すでに二週間ほどになる。
萌江 は咲恵 のマンションに泊まり込んでいた。咲恵 が日曜日に萌江 の家に泊まりに行くのはいつものことだったが、何も理由がなく萌江 がその家を空けるのは、萌江 が山の中に逃げるように引っ越して以来のこと。
「んー…………どうしよっかな……」
そう応えた萌江 は、強い陽差しから逃げるように、自然と日陰を探しながら歩いていた。日光が遮られた瞬間に瞼 がスッと楽になる。
萌江 のすぐ斜め後ろを歩いていた咲恵 の声が優しく届いた。
「私もだけど、萌江 だってあの家好きでしょ。何かあったの?」
「そういうわけじゃないんだけど…………正直に言っていい? なんかちょっと…………寂しかったからさ…………」
──……お母さんのことか…………
咲恵 はすぐにそう思ったが、それを口にすることは憚 られた。
萌江 の産みの母────金櫻京子 。
今は亡きその過去に触れた。しかもそれはあまりにも重い。自らその命を絶った時の想いまでもが容赦無く萌江 と咲恵 の中に流れ込んできた。
あの事件以来、咲恵 の中に、萌江 の母親のイメージが残っているのは事実だ。もしかしたら萌江 は咲恵 の中に母親を見ているのだろうか。そう思うと、咲恵 も冗談で返す気にもなれない。
咲恵 の見てしまったそのイメージは、あまりにも壮絶だった。
萌江 の母親である京子 の人生は、産まれた家と霊感体質に振り回された一生だった。まるで誰かに操られたような人生。
そして、まるでそれは、萌江 を産むためだけの人生。
京子 が自分の意思で生きていたのは、もしかしたら最後の瞬間だけだったのかもしれない。咲恵 はそんなふうにも感じる。
我が子を守るためだけに、死んだ。
萌江 のために自分の命を投げ打った。
相手が何者かも分からない内に。
──……私に…………それだけの気持ちを持つことが出来るのかな…………
「好きなだけいて」
その咲恵 の声に思わず萌江 は振り返る。揺れた肩までの髪から、自分と同じトリートメントの香りがした。
「いいの?」
すぐに返した萌江 の表情は決して満面の笑みというわけではない。喜んでいないわけではない。それなのに、なぜか複雑な表情を向けていた。
咲恵 もそんな萌江 の感情を汲み取ったのか、出来るだけ明るく返していく。
「ダメな理由を教えてよ…………あ、でも…………あっちは一日置きくらいでいいけど…………」
「毎晩あんなに喜んでるのに」
「喜んでるけど違います」
「じゃ、喜んでるみたいだからもう少しお世話になろっかな」
「お互いもう若くないんだから…………」
咲恵 がそう返した時、目の前の萌江 の足が止まった。
二人が歩いている歩道から、萌江 は道路を挟んだ向かいの歩道を見つめていた。
その視線の先を目で追いながら咲恵 が声をかける。
「どうしたの?」
「うん…………あそこで会ったんだ…………あの女の子…………」
萌江 は視線をそのままに応える。
「女の子? ああ…………」
「そ、私の想像上の女の子」
その話は以前から何度か咲恵 も聞いていた。ただただ、不思議な感じのする話だと咲恵 は思っていた。明らかに幽霊とも違う。
萌江 が続けた。
「無表情で黙って立ったまま、私のことをじっと見てた…………一緒に暮らしてた頃だよね…………あの日は私の帰りが早くて…………でも夜の一一時は回ってた。そんな時間に、暗い歩道でひとりぼっち…………一〇才くらいの小さな花柄のワンピースの女の子…………少し歩いて振り返ったらもういなかった…………」
「いわゆる幽霊…………とは違うのよね」
「ある意味同じかもよ。私も今みたいな考えになる前は幽霊ってよく見てたけど、考えが変わったら急に見なくなった。つまり……幽霊なんてその程度のものってことでしょ。でも、あの子は違う…………と思いたい…………私の願望…………」
「本当に想像なのか…………0.1%なのか…………」
「どうなんだろうね。どう考えても私の想像。でもどこかに、そう思いたくない気持ちがあるんだろうね」
「例え想像でも、会いたいんだよね」
「うん…………産んであげられなかったんじゃなくて、生 を受けさせてあげられなかった」
すると、咲恵 が萌江 の左手を握る。
そのまま萌江 は繋いだ。
「……あの時…………声をかけてたら…………どうなってたんだろう…………金縛りの時に出てきてくれた時、ホントに嬉しかった…………触れたんだよ…………」
萌江 は右の掌 を見下ろしながらさらに続ける。
「……髪の毛に…………頭に触ってあげたの…………」
次の瞬間、萌江 の体を、後ろから咲恵 の両腕が包んでいた。
そして咲恵 は萌江 の感情を吸い取る。
咲恵 の中に入り込むそれは、萌江 そのもの。何の偽 りもない。
萌江 は子供を作れない体だった。一度は結婚し、子供を求めたが、自分が妊娠すら出来ない人間である事実を叩きつけられる。同性愛者であることを認めて生きてからも、それは負い目のように萌江 を苦しめた。
そしてそれは、萌江 の目の前に具現化 する形で現れる。子供二人のイメージが明確になってしまったことで、それが頭から離れることはない。しかもそのイメージを作ったのは萌江 自身。
ある意味、残酷だ。
萌江 は、自分で自分に〝呪 い〟をかけていた。
そして、それは萌江 にも自覚があったこと。
この世に生 を受けていない二人の子供。
想像以外に説明が出来なかった。
〝幽霊は想像で作り出せる〟
そう言い切る萌江 の言葉には、それなりの根拠があった。
萌江 を包み込んだ咲恵 が小さく呟く。
「……ごめん…………暑いよね…………」
「昼間の住宅街で大胆だね…………私はいいけど」
「…………バカ」
☆
明治 元年。あるいは慶応 四年。
その洋館はその頃に建てられた。
少し小高い高台に、林を切り開いて作られた広い敷地。その敷地のためだけに道路も作られ、その街としてはちょっとした公共事業。
元々は明治 新政府の相談役として来日していたイギリス政府の要人のために建てられた家だった。今で言う大使館員に当たるだろう。
当初予定されていた期間は二年間。
家族全員での来日。
妻の他は子供たちが三人。使用人が一〇人。
しかし当時の流行 り病 は日本人以外にも容赦無く襲いかかり、家族全員が病 で亡くなった。政府は病 の広がりを抑えるためにすぐに火葬し、遺骨をイギリスに送る。
外国事務総監 の要職 に就いていた井上実美 は外交問題を恐れたが、僅かな遺恨 を残しつつも流行 り病 でもあったことでなんとか事なきを得る。
土地と建物はイギリス政府の所持となっていたが、やがて明治 八年、日本政府に売却された。
紀伊呉平太 がその洋館に移りすんだのは明治 一〇年。
呉平太 が初代となる紀伊財閥 の中心は造船事業。明治 九年にその造船事業を拡大するために本社をこの地に移転したばかり。
それに合わせて紀伊 家も本社近くの洋館に引っ越す。事業の関係で大日本帝国海軍との繋がりがあったため、明治 政府から安く買い取ることが出来た。
妻と幼い息子が二人。
最初に体調の不調を訴えたのは次男。
やがて長男も同じ症状を訴え始め、一年と経たない内に病床 に伏 せる。
やがて妻、そして呉平太 自身も体調を崩す。
息子二人、妻に次いで呉平太 が亡くなったのは明治 二五年。
明治 政府の指示で、建物と土地は民間の不動産業者に引き渡された。
☆
夜になっても真夏日が収まる気配はない。
そんな夜もすでに数日目。夜になったからといって決して湿度が下がるわけではなかったが、陽の光が影に隠れただけでやはり過ごしやすさは違う。基本的に夜型の萌江 と咲恵 にとっては気持ちの沸き立つ時間。
その夜もいつものように萌江 は咲恵 と共に店に入り、開店前から呑み始めていた。
元々萌江 は決してアルコールに強いほうではない。自覚もあるが、それでも自分が楽しく飲める飲み方を知っていた。他人から見るとお酒に強く見えるらしい。
場所はカウンターのいつもの定位置である一番奥。外の街明かりが見える大きなガラスの側。
他の客と盛り上がれば閉店までいる時もあるが、ほとんどは萌江 が先に咲恵 のマンションに帰り、ご飯を用意して待っている毎日。咲恵 もそんな毎日を懐かしく感じつつ、同時に楽しくも感じていた。
それでも、そんな日が重なっていく度に、どこか寂しさが付 き纏 う。
──……いずれは、帰っちゃうんだろうな…………
そんな僅かな不安をどこかに疼 かせながら、咲恵 はいつしか萌江 の決断を恐れるようになっていた。
──……いつまでいても…………いいんだよ…………
その日は萌江 に続くようにして、珍しく開店と同時に来店があった。
平日の早い時間にたまに顔を出すその常連は下の階のゲイバーのマスター。もっとも、本人はママと呼ばれたいらしい。今夜は久しぶりの来店だった。故に、常連とはいえ萌江 とは初めての顔合わせ。聞いていないだけと言えばそれまでだが、年齢は咲恵 でも知らない。
「オカマとゲイを一緒にしてほしくないわ」
それがゲイバーのマスター、リョウの口癖だった。
「リョウちゃんはどっち?」
すでにだいぶ酔いの回った萌江 がそう言葉を投げるが、咲恵 からは楽しんでいるようにしか見えていない。
「私はゲイ。男しか愛せないわ」
「私はレズ。女しか愛せないわ」
「私たち仲良くなれそうね」
「そうね」
──この二人、結構似てるかも
そんなことを思いながらも、カウンターの中の咲恵 は口を挟みたい気持ちを押し込んだ。
リョウはボトルのブランデーをロックグラスで繰り返し口に運びながら口を開く。氷を入れずにストレートで飲むのがいつものスタイルだ。
「所詮 マイノリティーって言われたら反論できないけど」
「生物の子孫繁栄に反してるからね」
応える萌江 はあくまで自分のペースを崩さない。
それにリョウが返していく。
「でも仕方ないじゃない。男にしか興奮できないんだから」
「仕方ないよね。女にしか興奮できないんだから」
「私たち親友になれそうね」
「そうね……リョウちゃんなら咲恵 も嫉妬しないし」
そこに咲恵 。
「私を挟むな」
そしてリョウが声を上げる。
「それより私の悩み聞いてよ」
「オカマでゲイのリョウちゃんの悩み?」
萌江 がからかう。
「私はオカマじゃなくてオカマ寄りのゲイなの。ノンケのオカマだっているんだから一緒にしないで」
「やっぱりオカマじゃん」
「もう! 嫌な子ね! あなたとは絶対に仲良くなれないわ」
「で? 親友でゲイのリョウちゃんの悩みって何よ」
すると、少しだけ、リョウの目が曇る。
悩み自体は真剣なものなのだろうと、それは萌江 でも瞬時に判断出来た。
そして飛びつくようなリョウの声。
「それがね。この間彼氏と一緒に暮らすために広いマンション借りたのよ。そしたらさ…………お札 があったの」
その言葉の意味に、萌江 の口元に笑みが浮かび、リョウの話が続く。
「何て書いてるか読めないし不動産屋に聞いても事故物件じゃないって言うし家賃だって普通だったんだけど……なんでお札 なんかあるのよ……ラップ音もするのよ」
しだいに震える声になったリョウに対し、相変わらず萌江 は変わらぬ表情のまま。
カウンターの中で表情を緩める咲恵 には構わず萌江 は言葉を返していた。
「そんな所いくらでもあるよ。どうせ古いマンションなんでしょ? 他の部屋にもあるかもね」
「まあ……確かに古いわね」
「仮に事故物件だったとして物々 しくお札 なんか貼る? ここは事故物件ですってポスター貼ってるようなもんだよ。形式でお祓 いだけしとけばいいじゃん」
「それもそうね…………」
「飲食店の店先の盛り塩と同じ意味合いのお札 もあるんだよ。大家さんの中には事故物件じゃなくても空室にお札 貼ってる人もいるみたいだね。変な人が入居してこないようにって。内見で勘違いされる可能性があるから、分からないような位置にね。剥 がし忘れたんじゃない? どこにあったの?」
「トイレのタンクの裏……自然に剥 がれて落ちてきた…………」
「ほら、それじゃ幽霊だって気付かない」
萌江 はグラスに氷を追加する。それは軽やかな音を響かせ、やがて流し込まれるコニャックの熱に溶けていく。
そんな光景を眺めながら、萌江 が続けた。
「それにさ……例えばここのテナントビルだって百年前は何があった所なんだろう。千年前なんてさらに分からない。元々都市部って昔から人が集まってた所がほとんどでしょ。地形も変化はするんだろうけど、川の位置とかで暮らしやすい地形だったんじゃないかな。じゃあ、このビルのある場所で、長い間にどれだけの人が死んだんだろう。人間だけじゃないでしょ。動物だって命がある。宗教なんてものが無かった遥か昔から、色々な場所で色々な生き物が死んできたはず。だったら世界中が事故物件になるじゃん」
そう言ってグラスを空 にした萌江 にリョウが返す。
「でもやっぱり最近死んだ人のほうが幽霊になりやすいんじゃないの? 知らないけど」
するとコニャックを追加したグラスを揺らし、氷をゆっくりと回しながら萌江 が応えた。
「なんで死んでまで寿命があるのよ。あの世がこの世と同じだったら、なんでこんなふざけた世界が必要なの?」
「それも…………そうね……」
「つまりさ、幽霊とか心霊現象って、宗教が生み出したものなんだよ。変だと思わない? もしもリョウちゃんが引っ越す前にそこで自殺とかあったとして、その人が仏教徒って補償ある? 日本人にだってキリスト教徒はいっぱいいるんだよ。ホントは十字架のほうが良かったりしてね。結局思い込みでしょ。お札 が無ければ不安に思うことも無かった。ラップ音だってただの家鳴り…………鉄筋コンクリートの建物でも壁や床まで鉄? 違うでしょ。幽霊がキリスト教徒かもしれないから十字架も用意しないとねって話になる。お経もやめなよ。一神教なんて外から入ってきたものだし、あの世を見たこともない人間が作ったものなんだから。霊能力者も無駄。日本の霊能力者はみんな仏教と神道 のミックス。その時点でおかしいよ」
すると、ロックグラスのブランデーを飲み干したリョウが静かに返した。
「やっぱりあなたとは仲良くなれそうね」
「オカマ寄りのゲイはちょっと…………」
「差別よ差別! ヘイトスピーチだわ! ヘイトヘイト!」
「友情の始まりね」
そして萌江 は自分のロックグラスにボトルのコニャックを注ぐ。
──……後で萌江 も下に連れてってやるか…………
咲恵 がそんなことを思った時、ドアの鈴が鳴った。
そこに立っていたのは、不安気な表情を浮かべた、大き目のキャスケットを被った若い女性だった。
初めてみる顔。会員制の店では珍しい。
「いらっしゃいませ。えっと…………」
咲恵 が口を開いた直後、その女性は素早く応えていた。
「すいません。会員制のお店なのは聞いてたんですけど…………」
咲恵 はすかさず。
「一人? いいわよ。気にしないで」
──……私と萌江 を訪ねてきたの?
咲恵 はすぐにそう感じた。
するとリョウが急に立ち上がる。
「もうこんな時間じゃないの! 私もお店開けるわ! ママ、また来るわね」
そしてカウンターにいつものセット料金のお金を置くと、ゆっくり萌江 に振り返る。
「店で待ってるわ…………じゃあね!」
そして、リョウはドアに足をぶつけながらけたたましく店を後にした。
途端に店内が静かになると、呟いたのは萌江 。
「嵐のようなオカマだった…………」
直後、今度は咲恵 が立ち尽くす女性に顔を向けた。
「座って。最初だから萌江 の隣でいいかな」
そう言った咲恵 は素早くリョウのボトルセットを片付け始めた。無言でダスターを渡された萌江 も黙ってカウンターを拭き始める。慣れたものだった。
その萌江 に咲恵 が言葉を放り投げる。
「この子は〝違う〟から口説いちゃダメよ」
不思議そうな顔をする女性に顔を向ける萌江 の目が、ゆっくりと変わっていった。
──……ん? そういうこと?
「まあ、座ってよ」
そう言う萌江 に、戸惑いながらも女性は返すだけ。
「はい……失礼します…………」
女性がカウンターの椅子に腰を上げると、萌江 が続けた。
「若くて可愛い女の子は大好きなんだけど、怖いお姉さんに怒られちゃうから我慢しようかな」
「はあ…………」
明らかに困惑した表情の女性は、ゆっくりとキャスケットを脱ぎ、カウンターの上に静かに置いた。そこから現れたショートカットの明るい髪は、おそらくは癖が強そうな質感であることが見て取れた。こまめにケアをしている印象でもない。
──……だから大き目のキャスケットか……
咲恵 もそう感じていた。
──大雑把 な性格なのかな?
そして口を開く。
「もしかしたら、誰かの紹介?」
すると女性は慌てたように大き目のショルダーバッグから名刺を二枚出し、それぞれ渡して口を開く。
「私はフリーでカメラマンをしてる水月杏奈 と言います。まあ、食べていけないのでライターもやってはいるんですけど……今書いてる記事のことでご相談がありまして…………実は…………」
そしてその杏奈 は視線を落として繋げる。
「……御陵院 ……西沙 さんにお二人のことを聞きまして…………」
「あら」
思わずそう明るい声で反応した咲恵 に対して、萌江 が小さく呟く。
「…………あいつか……」
春先の〝呪われた土地〟の解決以来、事あるごとに西沙 は萌江 に電話をしてきていた。しかもその多くは萌江 に言わせればただの世間話。しかも電話に出ないと何度も掛かってくるので出ないわけにもいかない。ごく稀 に仕事上の相談もあることはあった。
「萌江 の愛人の紹介ね。大歓迎よ」
そう言う咲恵 は分かりやすいほどに笑いを堪 えていた。
「……あのメンヘラ霊能者め…………」
そう萌江 が呟くと、杏奈 が切り出す。
「私も何度か西沙 さんに取材したことがありまして……よく助けてもらってます」
そして、軽く溜息 を吐 いた萌江 が返していく。
「ってことは、杏奈 ちゃんはオカルト系のライターをしてるの?」
「まあ……昔から興味があったのもあるんですけどね…………でも今回のネタは少し変なんですよ。少し前にニュースにもなってたのでご存知かもしれませんが〝悪魔の館〟って呼ばれてる所です」
「ああー」
萌江 と咲恵 が同時に声を上げた。それでも二人とも興味のありそうな反応ではない。
それに笑い出す萌江 を無視して、少し恥ずかしがりながら咲恵 が返していく。
「あれって、アレなんじゃなかった? 確か取り壊したって…………」
「今は解体工事が中断されています」
すると萌江 が思い出して声を上げた。
「ああ、白骨遺体が出たってニュースで騒いでたやつだ」
「それです…………でもそれ以来報道はストップしました。続報は今のところありません」
「ホントに続報がないんじゃなくて?」
すると、返る杏奈 の声は僅かに低い。
「それならいいんですが……」
「違うの?」
グラスを口に運びながら質問を返す萌江 に対して、杏奈 の返しは早い。
記者独特のものだろうか。
「出版社の部局長から記事を取り下げて欲しいと言われました。しかも今後もこのネタは扱わないことになったと…………」
「へー…………」
それだけ発した萌江 の声色 が明らかに変化する。とは言え、それは咲恵 だけが気が付く程度。
気が付くはずもない杏奈 が繋ぐ。
「あそこは〝日本で一番古い事故物件〟として有名な心霊スポットだったんですよ。最初は取り壊されるの寂しいなあって思ってましたけど、そんな所から白骨遺体です。しかも大人二人と子供が三人…………もっと話題になっていいと思うんですよねえ…………」
「ところで」
不意に咲恵 が挟まって続けた。
「何か飲む?」
「はい! ビールがいいです!」
「ウチだとバドワイザーかハイネケンかギネスになるけど…………」
「ギネスでお願いします」
「へー、結構好きね」
咲恵 はロングネック瓶の栓を抜いて杏奈 の前へ。その瓶の隣にはピルスナーグラス。
すると萌江 が声を上げる。
「ママ〜私もバド呑みたい」
「はいはい」
咲恵 が萌江 の前にやはりロングネックの瓶を差し出した。ロングネック瓶のビールにグラスを必要としないのが萌江 のいつものスタイル。
その間に杏奈 はギネスをグラスへ注ぐ。その泡が落ち着くのを待って、萌江 は軽くそのグラスにロングネックの瓶を当てた。
杏奈 は多少照れているかのようにはにかんだ笑顔を浮かべると、ビールを喉の奥に押し込み、大きく息を吐いてから話を続ける。
「警察から情報得るのだってタダじゃないし色々取材にもお金が掛かってるんですよ。それなのに記事に出来なきゃお金にならないじゃないですか」
あまりお酒に強いわけではないらしい。
愚痴 をこぼし始めた杏奈 に、萌江 がそれを制するように返していく。
「そもそも、なんで〝悪魔の館〟なの?」
「まあ、昔はああいった古い洋館…………って言うんですか? 珍しかったんでしょうね。山の中の廃墟だといかにもって感じだし。悪魔っぽいじゃないですか。海外のホラー映画みたいだし」
「まあ、純日本家屋だったら悪魔じゃないか……名前なんてそんなもんだよね…………あそこってどんな噂があったの? 事故とか事件とか?」
「ネットで言われてる噂は総てウソでした。よくある心霊スポットのよくある噂ですよ。でも…………人は結構死んでます」
「へえ…………」
杏奈 は使い古されたカーキ色のショルダーバッグを開いた。萌江 も女性にしては大きなバッグだと思ってはいたが、どうやらカメラバッグも兼ねているらしい。何やらゴツいカメラが顔を出している。しかもデザインも色も女性受けする物とも思えない。
杏奈 はそのカメラの脇から紙を取り出すと語り始める。サイズはA4くらいだろうか。あまり綺麗な紙ではない。何度も折り曲げられた跡が見えた。
「建物自体は明治 元年に作られてます。最初に暮らしたのはイギリス人家族ですね」
「イギリス人? 外交官みたいな人?」
「大使館員みたいな感じだったようです。でも一年ちょっとで一家全員が病死してます。その後の家族も病死。三番目の家族も病死。四番目は家の主人が家族を殺害してから自殺しています…………どうでしょうか……」
サラリととんでもない洋館の過去を語る杏奈 に、萌江 は即答していた。
「ウソの噂なんか必要ないくらいに死んでるじゃない」
「はい、私も調べてみて驚きました。郷土史研究をしてる大学まで行きましたけど、問題は今回地下から見付かった白骨遺体です。過去に死んだ人たちは死因が記録に残ってます。生前にしても死後にしても、一度は病院を経由していると思われます。家の地下に埋めるわけがありません。ということはそれ以外の死体が地下に眠っていたわけです。廃墟ですから最近の物かとも思ったんですが、かなり古いらしいんですよ。警察からの裏情報ですけどね…………」
「なるほど、それで西沙 ちゃんの所に助けを求めた────ってことかな?」
「はい、それでお二人を勧 められました」
「……あの子も少し分かってきたのかな…………ミステリーとしては面白いけど、オカルトとしてはどうなの?」
「結果次第でしょうか。地下に埋まった死体の謎もそうですし、その死体の呪 いみたいなもので屋敷に住んだ人たちが死んだのか……それとも別の理由か…………その答えさえ分かれば自分のブログで発表しようかと思ってます」
「なるほどね。でも、一度警察が入ってるってことは、今その現場は入れないんでしょ?」
「そうですね…………バリケードテープの前までですけど…………」
すると、ビールを一口呑み、少しだけ考えた萌江 が返した。
しかもその声はそれまでとは違う。今度は杏奈 でも変化に気が付くほど。
「私たちが…………どういう人間か分かってる?」
その僅かに低くなった声と、そして細くなった目に、杏奈 は少しだけ体を硬 くしていた。
明らかに自分と萌江 の間の空気が変わったことに気が付き、同時に萌江 の目から視線を外せないまま口を開く。
「……はい……西沙 さんから聞いてました。とても興味はあります」
「私は99.9%幽霊も呪 いも信じていない能力者…………こんな人間はオカルト好きには嫌われるだろうねえ」
それは西沙 からも聞いていたこと。そして杏奈 はそんな部分にも興味を抱いたのは事実。正直、今までそんな人物に会ったことがない。
「私も心霊現象に関しては前から懐疑的 な部分がありました。幽霊を信じてないっていうわけじゃないですけど、色々な霊能力者さんの話を聞いてると、なんか辻褄合 わないことが多くて…………でも西沙 さんは何か違うというか…………」
その杏奈 の言葉に、萌江 は小さく首を傾 げて返す。
「うん、分かるよ。最初会った時は典型的な霊能力者かと思ったけど、何か違うのは分かる」
「……はい。考え方とか……他の霊能者とは違うって言うか……」
杏奈 のその言葉に、萌江 が大きく笑みを浮かべた。
「そりゃあれだ。凄い霊能力者に感化されたんだな」
そんな萌江 に咲恵 の冷めた声。
「誰よ」
「まあ、それはアレとして…………咲恵 はどう思う?」
萌江 はそう言ってカウンターの中の咲恵 に顔を向けた。
「そうねえ…………まあ、正直今の時点ではっきり見えるものは無いし…………何より萌江 のことが大好きな西沙 ちゃんからの紹介じゃ断れないよねえ」
笑顔で応える咲恵 を横目で見ながら、萌江 が杏奈 に顔を戻す。
「まあ、西沙 は別として調べてみてもいいけど結果は保証しないよ。ミステリーになるかオカルトになるか…………」
「構いません…………お二人の検証結果が知りたいです。お金も…………」
そう言うと杏奈 はショルダーバッグから厚めの封筒を取り出して続ける。
「西沙 さんから頂いた口止め料です。お二人のことを口外 しないようにと…………今回はこれで…………」
萌江 はすぐに掌 で遮 り、口を開く。
「あなたの望む結果が出せたらね」
少し驚いた表情の杏奈 に、萌江 は続ける。
「行くのは、いつにする?」
「もう少し調べたい部分があるんで…………次の日曜日の深夜はどうですか? 深夜二三時で」
「日曜日なら定休日だし……いいよ。じゃ、今夜はもっと飲むか」
すると、いい感じに酔いの回り始めた杏奈 が声を上げた。
「もう一本お願いします!」
それに便乗する萌江 。
「ママ〜私のボトルってあと何本残ってるの〜?」
応えるのは冷静なトーンになった咲恵 。
「二本しか残ってないわよ」
「早っ! 一〇本もあったのに!」
☆
現場は市街地や住宅街からはかなりの距離があった。道路は舗装された物が続いていたが、それでも都市部からはだいぶある。
道中も山の中の道。周りを林に囲まれ、曲がりくねった先にその洋館の跡地はあった。かなり広い敷地の周りには深い林があり、明らかに山の一部を切り開いて作られたことが見て取れる。
道路から敷地にはすんなり入ることが出来た。そして開かれた空間の先には中途半端に取り壊された洋館が姿を現す。解体業者が入ったためか周囲の雑草は多くない。そしてその周囲を警察のバリケードテープが黄色く車のヘッドライトを反射していた。
そのテープのすぐ前で車を停めた咲恵 は、エンジンを切って軽く溜息 を吐 いた。
萌江 が無言で助手席を降りると咲恵 も続いて外に出る。元々初めて来る場所、かつ市街地から距離もあることで、どのくらいの時間がかかるか予想が難しかった。
そして最初に口を開いたのは咲恵 。
「少し早かったね。コーヒーでも飲んで待ってる?」
「うん」
萌江 は小さく返すだけ。
それでもその視線は闇に浮かぶ取り壊された洋館に注がれていた。外壁は半分以上も壊されているだろうか。
咲恵 は車の後部座席に置いていたコンビニの買い物袋から缶コーヒーを二つ取り出すと、萌江 の横に移動して渡した。
二人でコーヒーを飲みながらバリケードテープの向こう側に目を凝らすが、月明かりすら薄いせいで、遺体が見付かったという地下室の場所までは分からない。
咲恵 としては、正直その時点では何も感じなかった。言葉に出来ないような嫌な感覚があるわけでもなく、この土地の過去が見えてくるわけでもない。萌江 の反応を見ている限り、萌江 自身も何かを感じている様子はない。
それを確認するかのように、咲恵 が言葉を繋げた。
「死体が見付かったのって最近だったよね。深夜とは言っても警察って来ないのかな」
「大丈夫じゃないかな」
そう即答した萌江 が続ける。
「あの子は警察に結構なパイプ持ってるね。もちろん細いパイプだとは思うけど…………警察の記者クラブなんてフリーの駆け出しが入れるような所じゃないし、お金渡してでも裏から情報を掴んでる。中々大したもんだよ。警察って官僚組織はまだまだ男社会…………紛れ込むならビールも飲めるようじゃないとね。洋酒の並んだ棚への目の配り方でお酒好きかどうかは分かるけど、それほど詳しくはなさそうだ」
「なるほどね。伊達 にフリーで記者なんかやってないわけか。でも警察のいる時間までチェック出来るのかなあ」
「あの子……結構やり手かもよ…………」
「ってことは、敢 えてこの時間を選んだのにも理由があるってこと?」
「多分ね。まさか心霊スポットだからって理由で深夜に呼んだとも思えない」
そう言いながら周囲に懐中電灯を向け始めた萌江 が何かに気付く。
敷地の周囲は背の高いブロック塀で囲まれていたが、それとは別の小さな突起物が気になる。
「…………井戸 ?」
小さな萌江 の声に、咲恵 も目を凝 らしながら応えた。
「っぽいね。何か関係ありそう? 私はまだ見えない…………」
「どうだろう…………地図を見た感じじゃ、ここより高い周囲には工場なんかも無かった。毒物になるものが地下水に染み込む条件も無さそうだけど」
「そっか……でもかなり人が死んでるって割には、そんなに感じるものもないなあ。あまり〝念〟を感じない…………でもなんか変だね」
そう言うのと同時に、ゆっくりと薄 らと、咲恵 の中に何かが流れ込む。
それは間違いなく、土地に刻まれた記憶。
しかし、まだ小さい。
「……最後の家族の殺人現場……確かに酷 いけど…………他はみんな病死…………ん?」
途端に表情を曇らせた咲恵 の顔を、萌江 が覗 き込んだ。
「────どうしたの?」
そんな萌江 の言葉にも関わらず、少しずつ自分の中で形になっていく過去の光景に、咲恵 は目を曇らせ、小さく低い声を漏らしていた。
「…………この仕事……よくないな…………」
その時、二人の背後から車の音とヘッドライトの光。四輪駆動の軽自動車が咲恵 の車の後ろに停まる。
エンジンを切って降りてきた杏奈 が早速 声を上げた。
「すいません! 待たせちゃいました⁉︎」
素早く切り替えた咲恵 が声を上げて応える。
「大丈夫。早く着いちゃっただけ」
萌江 が杏奈 に振り返った時、助手席からもう一人。
そこに見えるのは、相変わらずの派手なゴスロリ衣装。
「とうとう追いかけてきちゃった」
その咲恵 の言葉を聞いて、萌江 は大きく溜息 を吐 いて呟く。
「…………来ちゃったよ……」
そしてそれに続くのは、相変わらず強気な、西沙 の声だった。
「ひ…………久しぶりね」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第四部「罪の残響」第2話(完全版)へつづく 〜
私は
あなたを待っています
☆
多くの虫の声は、不思議なほどにこの季節の湿度に絡みついた。
それでも少しだけ、黒くストレートな髪質の
肩にかかるくらいの長さ。そこから時々覗く首筋が好きだった。
しかし
だからというわけではないが、今日の
──……付き合い始めのカップルじゃないんだから…………
そう思いながらも、
同時に、最近、自分の感覚が若い頃に近くなっていることに対しての自覚はある。
「いつ帰るの?」
珍しく平日のランチタイムを二人で楽しみ、特別目的があるでもなく街中をブラブラとしながら
すでに二週間ほどになる。
「んー…………どうしよっかな……」
そう応えた
「私もだけど、
「そういうわけじゃないんだけど…………正直に言っていい? なんかちょっと…………寂しかったからさ…………」
──……お母さんのことか…………
今は亡きその過去に触れた。しかもそれはあまりにも重い。自らその命を絶った時の想いまでもが容赦無く
あの事件以来、
そして、まるでそれは、
我が子を守るためだけに、死んだ。
相手が何者かも分からない内に。
──……私に…………それだけの気持ちを持つことが出来るのかな…………
「好きなだけいて」
その
「いいの?」
すぐに返した
「ダメな理由を教えてよ…………あ、でも…………あっちは一日置きくらいでいいけど…………」
「毎晩あんなに喜んでるのに」
「喜んでるけど違います」
「じゃ、喜んでるみたいだからもう少しお世話になろっかな」
「お互いもう若くないんだから…………」
二人が歩いている歩道から、
その視線の先を目で追いながら
「どうしたの?」
「うん…………あそこで会ったんだ…………あの女の子…………」
「女の子? ああ…………」
「そ、私の想像上の女の子」
その話は以前から何度か
「無表情で黙って立ったまま、私のことをじっと見てた…………一緒に暮らしてた頃だよね…………あの日は私の帰りが早くて…………でも夜の一一時は回ってた。そんな時間に、暗い歩道でひとりぼっち…………一〇才くらいの小さな花柄のワンピースの女の子…………少し歩いて振り返ったらもういなかった…………」
「いわゆる幽霊…………とは違うのよね」
「ある意味同じかもよ。私も今みたいな考えになる前は幽霊ってよく見てたけど、考えが変わったら急に見なくなった。つまり……幽霊なんてその程度のものってことでしょ。でも、あの子は違う…………と思いたい…………私の願望…………」
「本当に想像なのか…………0.1%なのか…………」
「どうなんだろうね。どう考えても私の想像。でもどこかに、そう思いたくない気持ちがあるんだろうね」
「例え想像でも、会いたいんだよね」
「うん…………産んであげられなかったんじゃなくて、
すると、
そのまま
「……あの時…………声をかけてたら…………どうなってたんだろう…………金縛りの時に出てきてくれた時、ホントに嬉しかった…………触れたんだよ…………」
「……髪の毛に…………頭に触ってあげたの…………」
次の瞬間、
そして
そしてそれは、
ある意味、残酷だ。
そして、それは
この世に
想像以外に説明が出来なかった。
〝幽霊は想像で作り出せる〟
そう言い切る
「……ごめん…………暑いよね…………」
「昼間の住宅街で大胆だね…………私はいいけど」
「…………バカ」
☆
その洋館はその頃に建てられた。
少し小高い高台に、林を切り開いて作られた広い敷地。その敷地のためだけに道路も作られ、その街としてはちょっとした公共事業。
元々は
当初予定されていた期間は二年間。
家族全員での来日。
妻の他は子供たちが三人。使用人が一〇人。
しかし当時の
土地と建物はイギリス政府の所持となっていたが、やがて
それに合わせて
妻と幼い息子が二人。
最初に体調の不調を訴えたのは次男。
やがて長男も同じ症状を訴え始め、一年と経たない内に
やがて妻、そして
息子二人、妻に次いで
☆
夜になっても真夏日が収まる気配はない。
そんな夜もすでに数日目。夜になったからといって決して湿度が下がるわけではなかったが、陽の光が影に隠れただけでやはり過ごしやすさは違う。基本的に夜型の
その夜もいつものように
元々
場所はカウンターのいつもの定位置である一番奥。外の街明かりが見える大きなガラスの側。
他の客と盛り上がれば閉店までいる時もあるが、ほとんどは
それでも、そんな日が重なっていく度に、どこか寂しさが
──……いずれは、帰っちゃうんだろうな…………
そんな僅かな不安をどこかに
──……いつまでいても…………いいんだよ…………
その日は
平日の早い時間にたまに顔を出すその常連は下の階のゲイバーのマスター。もっとも、本人はママと呼ばれたいらしい。今夜は久しぶりの来店だった。故に、常連とはいえ
「オカマとゲイを一緒にしてほしくないわ」
それがゲイバーのマスター、リョウの口癖だった。
「リョウちゃんはどっち?」
すでにだいぶ酔いの回った
「私はゲイ。男しか愛せないわ」
「私はレズ。女しか愛せないわ」
「私たち仲良くなれそうね」
「そうね」
──この二人、結構似てるかも
そんなことを思いながらも、カウンターの中の
リョウはボトルのブランデーをロックグラスで繰り返し口に運びながら口を開く。氷を入れずにストレートで飲むのがいつものスタイルだ。
「
「生物の子孫繁栄に反してるからね」
応える
それにリョウが返していく。
「でも仕方ないじゃない。男にしか興奮できないんだから」
「仕方ないよね。女にしか興奮できないんだから」
「私たち親友になれそうね」
「そうね……リョウちゃんなら
そこに
「私を挟むな」
そしてリョウが声を上げる。
「それより私の悩み聞いてよ」
「オカマでゲイのリョウちゃんの悩み?」
「私はオカマじゃなくてオカマ寄りのゲイなの。ノンケのオカマだっているんだから一緒にしないで」
「やっぱりオカマじゃん」
「もう! 嫌な子ね! あなたとは絶対に仲良くなれないわ」
「で? 親友でゲイのリョウちゃんの悩みって何よ」
すると、少しだけ、リョウの目が曇る。
悩み自体は真剣なものなのだろうと、それは
そして飛びつくようなリョウの声。
「それがね。この間彼氏と一緒に暮らすために広いマンション借りたのよ。そしたらさ…………お
その言葉の意味に、
「何て書いてるか読めないし不動産屋に聞いても事故物件じゃないって言うし家賃だって普通だったんだけど……なんでお
しだいに震える声になったリョウに対し、相変わらず
カウンターの中で表情を緩める
「そんな所いくらでもあるよ。どうせ古いマンションなんでしょ? 他の部屋にもあるかもね」
「まあ……確かに古いわね」
「仮に事故物件だったとして
「それもそうね…………」
「飲食店の店先の盛り塩と同じ意味合いのお
「トイレのタンクの裏……自然に
「ほら、それじゃ幽霊だって気付かない」
そんな光景を眺めながら、
「それにさ……例えばここのテナントビルだって百年前は何があった所なんだろう。千年前なんてさらに分からない。元々都市部って昔から人が集まってた所がほとんどでしょ。地形も変化はするんだろうけど、川の位置とかで暮らしやすい地形だったんじゃないかな。じゃあ、このビルのある場所で、長い間にどれだけの人が死んだんだろう。人間だけじゃないでしょ。動物だって命がある。宗教なんてものが無かった遥か昔から、色々な場所で色々な生き物が死んできたはず。だったら世界中が事故物件になるじゃん」
そう言ってグラスを
「でもやっぱり最近死んだ人のほうが幽霊になりやすいんじゃないの? 知らないけど」
するとコニャックを追加したグラスを揺らし、氷をゆっくりと回しながら
「なんで死んでまで寿命があるのよ。あの世がこの世と同じだったら、なんでこんなふざけた世界が必要なの?」
「それも…………そうね……」
「つまりさ、幽霊とか心霊現象って、宗教が生み出したものなんだよ。変だと思わない? もしもリョウちゃんが引っ越す前にそこで自殺とかあったとして、その人が仏教徒って補償ある? 日本人にだってキリスト教徒はいっぱいいるんだよ。ホントは十字架のほうが良かったりしてね。結局思い込みでしょ。お
すると、ロックグラスのブランデーを飲み干したリョウが静かに返した。
「やっぱりあなたとは仲良くなれそうね」
「オカマ寄りのゲイはちょっと…………」
「差別よ差別! ヘイトスピーチだわ! ヘイトヘイト!」
「友情の始まりね」
そして
──……後で
そこに立っていたのは、不安気な表情を浮かべた、大き目のキャスケットを被った若い女性だった。
初めてみる顔。会員制の店では珍しい。
「いらっしゃいませ。えっと…………」
「すいません。会員制のお店なのは聞いてたんですけど…………」
「一人? いいわよ。気にしないで」
──……私と
するとリョウが急に立ち上がる。
「もうこんな時間じゃないの! 私もお店開けるわ! ママ、また来るわね」
そしてカウンターにいつものセット料金のお金を置くと、ゆっくり
「店で待ってるわ…………じゃあね!」
そして、リョウはドアに足をぶつけながらけたたましく店を後にした。
途端に店内が静かになると、呟いたのは
「嵐のようなオカマだった…………」
直後、今度は
「座って。最初だから
そう言った
その
「この子は〝違う〟から口説いちゃダメよ」
不思議そうな顔をする女性に顔を向ける
──……ん? そういうこと?
「まあ、座ってよ」
そう言う
「はい……失礼します…………」
女性がカウンターの椅子に腰を上げると、
「若くて可愛い女の子は大好きなんだけど、怖いお姉さんに怒られちゃうから我慢しようかな」
「はあ…………」
明らかに困惑した表情の女性は、ゆっくりとキャスケットを脱ぎ、カウンターの上に静かに置いた。そこから現れたショートカットの明るい髪は、おそらくは癖が強そうな質感であることが見て取れた。こまめにケアをしている印象でもない。
──……だから大き目のキャスケットか……
──
そして口を開く。
「もしかしたら、誰かの紹介?」
すると女性は慌てたように大き目のショルダーバッグから名刺を二枚出し、それぞれ渡して口を開く。
「私はフリーでカメラマンをしてる
そしてその
「……
「あら」
思わずそう明るい声で反応した
「…………あいつか……」
春先の〝呪われた土地〟の解決以来、事あるごとに
「
そう言う
「……あのメンヘラ霊能者め…………」
そう
「私も何度か
そして、軽く
「ってことは、
「まあ……昔から興味があったのもあるんですけどね…………でも今回のネタは少し変なんですよ。少し前にニュースにもなってたのでご存知かもしれませんが〝悪魔の館〟って呼ばれてる所です」
「ああー」
それに笑い出す
「あれって、アレなんじゃなかった? 確か取り壊したって…………」
「今は解体工事が中断されています」
すると
「ああ、白骨遺体が出たってニュースで騒いでたやつだ」
「それです…………でもそれ以来報道はストップしました。続報は今のところありません」
「ホントに続報がないんじゃなくて?」
すると、返る
「それならいいんですが……」
「違うの?」
グラスを口に運びながら質問を返す
記者独特のものだろうか。
「出版社の部局長から記事を取り下げて欲しいと言われました。しかも今後もこのネタは扱わないことになったと…………」
「へー…………」
それだけ発した
気が付くはずもない
「あそこは〝日本で一番古い事故物件〟として有名な心霊スポットだったんですよ。最初は取り壊されるの寂しいなあって思ってましたけど、そんな所から白骨遺体です。しかも大人二人と子供が三人…………もっと話題になっていいと思うんですよねえ…………」
「ところで」
不意に
「何か飲む?」
「はい! ビールがいいです!」
「ウチだとバドワイザーかハイネケンかギネスになるけど…………」
「ギネスでお願いします」
「へー、結構好きね」
すると
「ママ〜私もバド呑みたい」
「はいはい」
その間に
「警察から情報得るのだってタダじゃないし色々取材にもお金が掛かってるんですよ。それなのに記事に出来なきゃお金にならないじゃないですか」
あまりお酒に強いわけではないらしい。
「そもそも、なんで〝悪魔の館〟なの?」
「まあ、昔はああいった古い洋館…………って言うんですか? 珍しかったんでしょうね。山の中の廃墟だといかにもって感じだし。悪魔っぽいじゃないですか。海外のホラー映画みたいだし」
「まあ、純日本家屋だったら悪魔じゃないか……名前なんてそんなもんだよね…………あそこってどんな噂があったの? 事故とか事件とか?」
「ネットで言われてる噂は総てウソでした。よくある心霊スポットのよくある噂ですよ。でも…………人は結構死んでます」
「へえ…………」
「建物自体は
「イギリス人? 外交官みたいな人?」
「大使館員みたいな感じだったようです。でも一年ちょっとで一家全員が病死してます。その後の家族も病死。三番目の家族も病死。四番目は家の主人が家族を殺害してから自殺しています…………どうでしょうか……」
サラリととんでもない洋館の過去を語る
「ウソの噂なんか必要ないくらいに死んでるじゃない」
「はい、私も調べてみて驚きました。郷土史研究をしてる大学まで行きましたけど、問題は今回地下から見付かった白骨遺体です。過去に死んだ人たちは死因が記録に残ってます。生前にしても死後にしても、一度は病院を経由していると思われます。家の地下に埋めるわけがありません。ということはそれ以外の死体が地下に眠っていたわけです。廃墟ですから最近の物かとも思ったんですが、かなり古いらしいんですよ。警察からの裏情報ですけどね…………」
「なるほど、それで
「はい、それでお二人を
「……あの子も少し分かってきたのかな…………ミステリーとしては面白いけど、オカルトとしてはどうなの?」
「結果次第でしょうか。地下に埋まった死体の謎もそうですし、その死体の
「なるほどね。でも、一度警察が入ってるってことは、今その現場は入れないんでしょ?」
「そうですね…………バリケードテープの前までですけど…………」
すると、ビールを一口呑み、少しだけ考えた
しかもその声はそれまでとは違う。今度は
「私たちが…………どういう人間か分かってる?」
その僅かに低くなった声と、そして細くなった目に、
明らかに自分と
「……はい……
「私は99.9%幽霊も
それは
「私も心霊現象に関しては前から
その
「うん、分かるよ。最初会った時は典型的な霊能力者かと思ったけど、何か違うのは分かる」
「……はい。考え方とか……他の霊能者とは違うって言うか……」
「そりゃあれだ。凄い霊能力者に感化されたんだな」
そんな
「誰よ」
「まあ、それはアレとして…………
「そうねえ…………まあ、正直今の時点ではっきり見えるものは無いし…………何より
笑顔で応える
「まあ、
「構いません…………お二人の検証結果が知りたいです。お金も…………」
そう言うと
「
「あなたの望む結果が出せたらね」
少し驚いた表情の
「行くのは、いつにする?」
「もう少し調べたい部分があるんで…………次の日曜日の深夜はどうですか? 深夜二三時で」
「日曜日なら定休日だし……いいよ。じゃ、今夜はもっと飲むか」
すると、いい感じに酔いの回り始めた
「もう一本お願いします!」
それに便乗する
「ママ〜私のボトルってあと何本残ってるの〜?」
応えるのは冷静なトーンになった
「二本しか残ってないわよ」
「早っ! 一〇本もあったのに!」
☆
現場は市街地や住宅街からはかなりの距離があった。道路は舗装された物が続いていたが、それでも都市部からはだいぶある。
道中も山の中の道。周りを林に囲まれ、曲がりくねった先にその洋館の跡地はあった。かなり広い敷地の周りには深い林があり、明らかに山の一部を切り開いて作られたことが見て取れる。
道路から敷地にはすんなり入ることが出来た。そして開かれた空間の先には中途半端に取り壊された洋館が姿を現す。解体業者が入ったためか周囲の雑草は多くない。そしてその周囲を警察のバリケードテープが黄色く車のヘッドライトを反射していた。
そのテープのすぐ前で車を停めた
そして最初に口を開いたのは
「少し早かったね。コーヒーでも飲んで待ってる?」
「うん」
それでもその視線は闇に浮かぶ取り壊された洋館に注がれていた。外壁は半分以上も壊されているだろうか。
二人でコーヒーを飲みながらバリケードテープの向こう側に目を凝らすが、月明かりすら薄いせいで、遺体が見付かったという地下室の場所までは分からない。
それを確認するかのように、
「死体が見付かったのって最近だったよね。深夜とは言っても警察って来ないのかな」
「大丈夫じゃないかな」
そう即答した
「あの子は警察に結構なパイプ持ってるね。もちろん細いパイプだとは思うけど…………警察の記者クラブなんてフリーの駆け出しが入れるような所じゃないし、お金渡してでも裏から情報を掴んでる。中々大したもんだよ。警察って官僚組織はまだまだ男社会…………紛れ込むならビールも飲めるようじゃないとね。洋酒の並んだ棚への目の配り方でお酒好きかどうかは分かるけど、それほど詳しくはなさそうだ」
「なるほどね。
「あの子……結構やり手かもよ…………」
「ってことは、
「多分ね。まさか心霊スポットだからって理由で深夜に呼んだとも思えない」
そう言いながら周囲に懐中電灯を向け始めた
敷地の周囲は背の高いブロック塀で囲まれていたが、それとは別の小さな突起物が気になる。
「…………
小さな
「っぽいね。何か関係ありそう? 私はまだ見えない…………」
「どうだろう…………地図を見た感じじゃ、ここより高い周囲には工場なんかも無かった。毒物になるものが地下水に染み込む条件も無さそうだけど」
「そっか……でもかなり人が死んでるって割には、そんなに感じるものもないなあ。あまり〝念〟を感じない…………でもなんか変だね」
そう言うのと同時に、ゆっくりと
それは間違いなく、土地に刻まれた記憶。
しかし、まだ小さい。
「……最後の家族の殺人現場……確かに
途端に表情を曇らせた
「────どうしたの?」
そんな
「…………この仕事……よくないな…………」
その時、二人の背後から車の音とヘッドライトの光。四輪駆動の軽自動車が
エンジンを切って降りてきた
「すいません! 待たせちゃいました⁉︎」
素早く切り替えた
「大丈夫。早く着いちゃっただけ」
そこに見えるのは、相変わらずの派手なゴスロリ衣装。
「とうとう追いかけてきちゃった」
その
「…………来ちゃったよ……」
そしてそれに続くのは、相変わらず強気な、
「ひ…………久しぶりね」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第四部「罪の残響」第2話(完全版)へつづく 〜