第七部「猫の目」第4話(完全版)
文字数 9,941文字
気怠い朝だった。
カーテン越しの陽射しが弱いせいもあるのか、妙な疲労感を感じたままの朝。
──……曇り空?
そう思った萌江は、この街に来てから感覚が鋭くなっているのは自覚していた。
刻一刻とその感覚は重くなる。
しかも咲恵と共に、何か大きな〝壁〟を感じていた。
何かに妨害されている感覚。
誰かにシャットアウトされている感覚。
それが常に消えない。
萌江が枕の上で顔を横に向けると、そこにはまだ微かに寝息を立てる咲恵の寝顔があった。
──……円満な解決はない…………
それは咲恵も分かっているはず。
萌江はそう思いたかった。
──……でも……このままには、出来ない…………
萌江はゆっくり、静かにベッドを降り、バスルームへと向かった。
──……嫌な予感がするな…………
やがてその萌江がバスルームから戻ると、ベッドにバスローブ姿の咲恵が座り込んでいた。片手にはスマートフォン。頭は項垂れたまま。
「咲恵? どうしたの?」
萌江は反射的に声を掛けていた。すぐに駆け寄って咲恵の体を包む。
「……西沙ちゃんから…………ダメだった…………また…………」
その咲恵の小さな声に、萌江は反射的に返した。
「またって────」
「また犠牲者が出た…………六人目…………」
「シャワー浴びて出る準備して」
萌江は早口でそう言うとジーンズを履いて上にトレーナーを着ただけで部屋を飛び出していた。
同じ階の西沙の部屋のドアを激しく叩く。
「西沙! 説明して! 何があったの⁉︎」
ドアはすぐに開いた。
「落ち着いて」
西沙は萌江の顔を見るなりそう言って続ける。
「六人目は、四番目の犠牲者の弟…………」
「弟? 例の議員の三男?」
西沙はベッドに腰を降ろしながら応えた。
「二階敦彦…………少し前に自宅で見付かったってテレビ局から電話があった。出勤してこないし電話しても出ないからって議員事務所の人が自宅まで行ったらしいんだけど、ドアの前に靴の跡があって…………それが血みたいだったから警察に電話したんだって…………」
「……どうして…………」
「殺され方はいつもと同じ。テレビ局は当然六人目の犠牲者って報道するみたい…………」
「…………なにか…………何か理由があるはず…………」
その萌江の声は僅かに震える。
──……どうして何も感じなかった…………
すると西沙は、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出し、一本を萌江に手渡して言った。
「今日の予定は殺害現場を見て回ること……だったけど……先に新しい所に行く?」
そして西沙はペットボトルの蓋を回す。
大きくその中身を喉の奥に押し込んだ直後、萌江が西沙をベッドに押し倒していた。
「…………え?」
──……こういうのは…………だめ…………
ペットボトルがカーペットに落ちる鈍い音が床に広がり、転がっていく。
「西沙…………」
萌江のその声に、西沙は何も言い返せないまま。
萌江の声が続いた。
「西沙の力を頼ることになる…………いい?」
「…………は?」
「頼むよ」
萌江はベッドを降りると足早に部屋を出て行った。
──…………強引すぎ…………でしょ…………
☆
現場までは少し距離があった。
テレビ局からの情報では、議員の三男────二階敦彦は二ヶ月ほど前に離婚したばかり。実家には戻らずにマンションを借りて生活していた。愛人を囲っていたという情報もあったが、その真意はマスコミでも不明なまま。
何かしらの理由があったのかマスコミの取材から逃れるためか、決して新しいマンションではない。しかしそれが今回は仇になった。廊下などには監視カメラが無い。その情報は期待出来なかった。
マンションの周囲には何台もの警察車両とマスコミ関係者、テレビカメラ、野次馬。すでに遺体は搬送された後なのだろう。萌江たちがタクシーで到着した頃には救急車は見当たらなかった。
何人もの警察関係者が激しく出入りする中、上空には報道ヘリが飛ぶ。その激しい音が周囲の声や音までも大きく振るわせていく。
おそらく今頃はすでにテレビ報道が始まっているのだろう。ただでさえ猟奇連続殺人事件。しかも一人の政治家の次男に続いて三男までもが犠牲となる。当然多くの人々が縁恨説を唱え始めるだろう。
しかし、その〝縁恨〟は別のところにあると萌江と咲恵は考えていた。
例え西沙とはいえ、事件現場に入ることは出来ないまま、人混みの中でもどかしい時間を過ごすだけ。その西沙が後ろの萌江に振り返って声を張り上げる。
「どうするの? 勢いで来ちゃったけど…………これじゃどうしようもないよ」
すると萌江は、隣の咲恵と繋いだ左手に力を入れて即答した。
「大丈夫……絶対に無駄にはならない…………」
直後、周囲がザワつきだす。
カメラのシャッター音が周囲の空気を捉え始めた。
被害者の父親。県議会議員の二階敦敏の姿がマンションから降りてくると、途端に警察とマスコミ関係者がもみ合いとなる。
人波が蠢き始め、ザラついた空気が広がった。
しだいに三人に近付いてくる人波の中心。萌江が西沙がはぐれないように背後から片手で包んだ。小柄な西沙は簡単に萌江に捕まる。
「ちょ……ちょっと…………」
西沙が漏らした声の中、二階敦敏がしだいに三人に近付く。
届く声は年配男性の掠れた声。
「だから家に帰ってこいとあれほど言ってたんだ…………それなのにあのバカ息子が!」
微かに震えるその声が、咲恵の隣を通り過ぎた。
やがて、しだいに離れていく人波。
空気がまるで固体のように動いていく。
そして、咲恵の口元に笑みが浮かんだ。
その咲恵が囁く。
「…………見えた?」
「…………うん」
萌江は即答した。
そして続ける。
「西沙…………次に行こうか…………」
すると、萌江を見上げた西沙が口を開く。
「…………何が、見えたの?」
「うん…………〝縁恨〟……」
☆
最初に三人が向かったのは五人目の殺害現場。
最初のマンションから近かったのが理由だったが、そこは小さな公園。
すでに殺害現場のベンチは撤去されていた。近辺の土も掘り起こされているのが色から分かった。
黄色のバリケードテープもすでにない。公園などの公共施設の中ということもあり、確かに鑑識作業さえ終わればもう必要のない物だ。可能な限り現状復帰を急ぎたかったのもあるだろう。
萌江と咲恵はベンチのあったであろう場所で、手を繋いだまま立ち尽くす
そして二人は不思議な感覚に囚われていた。
先に呟くように口を開いたのは咲恵。
「……萌江…………これは……どういうことだと思う?」
萌江はゆっくりと応えていく。
「昨日もだった…………邪魔をしてるのは誰?」
ここは繁華街近くの公園。
近くの繁華街の四人目の犠牲者の殺害現場へ移動した。
ビルとビルの間。陽の入り込まないその薄暗さは、確かに遺体の発見を遅らせるには丁度いいだろう。しかし二人が感じるのはそれだけ。
結果は同じ。
イメージを読み取ることが出来ない。
三人目の殺害現場である大きな公園のトイレへ。
やはり同じだった。
二人に焦りと苛立ちが生まれる。
二人目の殺害現場は一軒家。
「さすがに今は空き家になってるよ。息子さんがそう遠くない所に暮らしてるから、旦那さんはそっちに引っ越してるみたい。まだ所有は旦那さんみたいだけど…………」
西沙が現状を説明し始めるも、咲恵がイメージを読み取れないのは同じ。
萌江と咲恵の背中に冷たいものが走った。
萌江は家に向けた視線をそのままに、西沙に言葉を投げる。
「西沙は? 何か感じる?」
すると、少し考えるかのように間を空け、西沙が応えていた。
「……やっぱりこれって、誰かが〝壁〟みたいなもの作ってるの? 〝念〟の中心がここに無いって可能性はない?」
「……それか……そう思わせるようにコントロールされてるか…………」
「誰が…………」
そう返した西沙の声が自然と小さくなっていた。
そこに咲恵の言葉が挟まる。
「……私と萌江の存在は……もう気が付いてるね……とすると追いかけてる黒幕って────」
「一枚上手ってことか」
そう遮った萌江が口角を上げた。
しかし、その目は笑ってはいない。
悔しさとも違う感情。
萌江が明らかに状況を楽しんでいるのを咲恵は気が付いていた。しかし事は未だ未解決の殺人事件。萌江の目の鋭さから〝許してはいない〟ことも感じる。
──……負けるつもりはないってことか…………
そして口数も少ないまま、一人目の殺害現場へ。
郊外の地主。その勢力は縮小されたとはいえ、やはりそこは充分に御屋敷と呼べる建物。背の高い塀に囲まれ、屋敷前の道路から中を伺い見ることは出来ない。
大きな門の横。
小さなインターフォンを押した西沙が口を開く。
「アポは取ってあるから」
すると、スピーカーからくぐもった声。
『……はい』
「昨日電話した御陵院ですが…………」
『あ、御陵院様……すぐに…………』
二人に振り返った西沙が続ける。
「ここの人たちは一番協力的かも」
通された和室で家主を待つ。
通路の板間の掠れ具合、柱に染み付いた色。例え都市開発の時代の流れの中で資産価値を落とされたとは言っても、その栄華まで削られたわけではないことがすぐに見て取れた。
三人の目の前に出された緑茶一つとっても、口をつけた途端に香りからも安物でないことが感じられる。
そして、少し慌てたように入ってきた家主は腰の低い人物だった。
「これはこれは御陵院先生……わざわざお越しくださいまして」
まだ六〇才前後と思われるその家主の男性は、西沙の前に正座したまま深々と頭を下げる。
「いえいえ久宝さん……頭を上げてください…………」
西沙のその声に、頭を上げながらも視線は畳へ落としたまま、Yシャツの胸ポケットから取り出したハンカチで広くなった額の汗を拭った。
──……寒い季節なのに凄い汗…………
咲恵がそう思った直後、家主が再び口を開く。
「すいません私だけで……息子は…………孫の父親はまだ入院したままでして……」
それにすぐに返したのは西沙。
「……そうですか」
そして今度は萌江と咲恵に顔を向ける。
「あの事件のすぐ後に倒れてね……報道では心労でってことになってた」
それを家主が補完する。
「目眩が酷くて歩くことも出来なくなりまして…………」
──……無理もないか…………
咲恵がそう思った時、家主に顔を戻して繋いだのは西沙だった。
「最近、警察からは何かありましたか?」
家主は相変わらず汗を拭きながら応えた。
「いえ、最近は何もありませんで…………それより今朝……二階先生の息子さんがまた…………」
「はい。私たちも今朝行ってきたところです」
「まさか先生の息子さんがお二人も…………それでこちらも朝からバタバタとしておりまして…………」
久宝家は、以前から地元で息の長い政治家である二階敦敏の講演会の中心となってきた家でもあった。当然その久宝家と二階家でそれぞれ犠牲者を出しているということで、以前から警察としては縁恨説がなかったわけではない。しかし他の犠牲者との繋がりが希薄過ぎた。
「そうですよね……そんな時にご無理をお願いしまして…………」
西沙がそう言って視線を落とすと、家主は顔を上げて返す。
「何をおっしゃいますか。孫を殺した犯人を一刻も早く…………お願いします…………」
家主の語尾が詰まりかけた。無理もないだろう。一人息子の子供、たった一人の孫を奪われた。久宝家の唯一の跡取り。それを奪われた。これからの久宝家がどうなるのか未来が見えなくなっていても無理はない。
反射的にトーンを上げた西沙の言葉が拾い上げる。
「今日はそのことで改めて強力な助っ人を連れて来ました。私の……まあ仕事仲間みたいなものですが…………」
家主が萌江と咲恵に目をやると、その腰の低さに、つい二人も深々と頭を下げていた。
頭を上げながら、咲恵が口を開く。
「黒井と申します……隣は恵元です」
「これはこれは……わざわざこんな所まで…………ありがたいことです…………」
再び深々と頭を下げる家主に、咲恵が言葉を続けた。
家主の目からは嫌なものは感じない。
「早速…………見せて頂きたいのですが…………蔵を…………」
その咲恵の言葉に一瞬視線を落とした家主は、覚悟を決めたかのように軽く頭を下げて応えた。
「かしこまりました。すぐに…………」
蔵の鍵を手にした家主の案内で、三人は敷地の奥へと足を進めた。
家主は歩きながら、すぐ後ろの西沙に向かって言葉を投げかける。
「そう言えば御陵院先生……最近いらっしゃった御同業の方で、仁暮先生という方をご存知でしょうか…………」
「仁暮? ああ…………あまり面識はありませんが」
「あの方が月曜日ですかね……いらっしゃいまして……これから更に大変なことになるかもしれないから覚悟するようにとおっしゃいまして…………御面識があったらと思ったんですが……」
「そうでしたか…………」
すると、西沙の背後から萌江の声が上がる。
「西沙、知ってる人?」
すると西沙は軽く振り返り、小さく応えた。
「祠の場所で…………会った女の人…………」
萌江の口角が上がる。
そして視界の中に現れたのは、二つの並んだ蔵。
蔵としては小ぶりな物だとは聞いていたが、見慣れない萌江や咲恵から見れば決して小さな物ではない。
家主は左側の蔵に向かった。鍵は構造的には南京錠と同じような物だが、突き出しやダルマと呼ばれるタイプの大きな物だ。所々錆び付いて見えることから、それすらもかなり古い物であることが見てとれた。いくら雨風に曝されているとはいえ、その金属の色褪せ具合はやはり年月を感じさせた。
重く分厚い観音開きの扉が開くと、その中にはやはり色褪せた黒い内扉。
家主はその重そうな内扉を大きく右にスライドさせて口を開いた。
「最近はテレビ局もあまり来ておりません……しばらく開けておりませんが…………」
中は思ったよりも広かった。
しかし何も入ってはいない。
萌江と咲恵が一歩踏み込んだ途端に嫌なものを感じた直後、家主が説明する。
「あの後……綺麗に掃除しまして…………その時に中の物は処分致しました。一部は警察の方々が持って行かれましたが…………」
萌江と咲恵はすぐに蔵の中央へ。
すると、咲恵が家主に応える。
「……問題ありません…………ですが…………」
その声に違和感を感じたのか、隣の萌江が咲恵の手を握った。
そして振り返る。
「西沙────来て」
入り口付近にいた西沙が二人の背後に駆け寄る。
萌江の声が続いた。
「私の前に────こっちを向いて」
西沙が言われた通りにすると、突然萌江は片膝をついて腰を落とし、片腕で西沙を包み込む。
驚く西沙が声を上げる間も無く、小さく空気が震えた。
音ではない。
どこからともなく聞こえてきたのは────〝猫の声〟。
威嚇するようなその猫の声が蔵の中に響き渡る。
「咲恵…………家主と蔵の外に」
萌江は手を繋いでいた咲恵にそう言うと、その手を離し、両腕で強く西沙を抱きしめる。
咲恵は一瞬たじろぎながらも従った。
足早に扉に向かう。
「外へ」
その一言だけで怯える家主を促し、二人が外に出た直後、内扉が大きな音を立てて勝手に閉じたかと思うと、外の重い両開きの扉も閉じられる。
直後、鍵が独りでにかかった。
恐れ慄いて尻餅をつく家主の隣で、咲恵は信じるしかなかった。
──……これは…………0.1%なの…………?
扉が閉じているにも関わらず、猫の鳴き声は外にまで響き渡った。
相手を威嚇する甲高いその声に、数人の使用人までも駆けつけていた。
やがて、その足音に混ざる、高いヒールの音。
咲恵は突然肩を掴まれた。
「どいて!」
咲恵が振り返ると、一人の女。
黒いワンピース姿の女が咲恵と家主の間を抜けて蔵の前へ。
──……どうしてここに…………!
大きな音と共に、蔵の鍵が弾け飛んだ。
直後、扉が重さを感じさせないスピードで開く。
内扉が素早くスライドすると、中は漆黒の闇。
女は入り口に立ちすくんだまま。
咲恵が駆け寄っていた。
中には、大きく光る〝猫の目〟。
それはさっきと変わらず背中を丸めた萌江に抱かれた西沙の────〝猫の目〟。
その西沙の口が開く。
そして、辺りに響く低い声。
「〝近付くな! 御主の血はまだ消えてはおらん!〟」
すると、女は軽く体を仰け反らした。
その肩を掴んだのは咲恵。
「どいて」
咲恵は萌江の背後に近付くと、その首筋に手を入れる。
そして水晶を掴んでいた。
──……〝力〟をちょうだい…………
直後、西沙が床に倒れ込む。
「西沙!」
咲恵が叫ぶと同時に、萌江の体の力が抜けていた。
後ろに倒れ込むように咲恵に体を預ける。
「萌江! ────誰か来て!」
咲恵の声に応えるように使用人たちが蔵の中へ。
いつの間にか蔵の中の漆黒も消えていた。
そして咲恵は同時に気が付く。
萌江の足元にうずくまる一匹の黒猫。
何事もなかったかのような丸い目を、咲恵に向けていた。
☆
救急車を呼ぼうとした家主を制したのは咲恵だった。
敷布団と枕だけを用意してもらい、萌江と西沙をそこに寝かせた。その二つの枕の間には、蔵の中にいた黒猫がまるで何も無かったかのように小さく体を丸め、目を閉じている。
部屋には他に家主と────もう一人の女。
その家主が心配そうに、萌江の頭に優しく手を添える咲恵に声をかけた。
「本当に……大丈夫でしょうか…………」
この世のものとは思えない光景を見たせいもあるのだろう。その声は未だ震えていた。
しかし咲恵は、まるで家主の気持ちを落ち着かせるかのように静かに応える。
「ええ……ご心配をおかけしました…………でも大丈夫です。この子たちの状態は、私が一番よく理解していますので…………」
すると咲恵は、家主の側に静かに座る女に、今度は鋭い目を向けた。
そして口を開く。
「久宝さん、この方ですね…………さっき蔵に行く時に話してた…………」
「はい…………仁暮……志筑先生です」
家主がそう応えると、その女────志筑が軽く顔を上げた。間違いない。祠の跡地で会った女だった。あの時はその目を見ることが出来なかったが、日本人にしては薄い色の目だと咲恵は感じた。
茶色とは違う。
黒でもない。
微かに黒味がかった、僅かに灰色にも見える色。
──……まともな相手じゃない…………
そう思った咲恵が、それでも続けて口を開く。
「あなたは…………あの集落に関わりのある人ね…………〝猫神様〟に…………」
すると、志筑の口元が小さく動いた。
口角が僅かに上がる。
咲恵よりも明らかに年上だったが、その割にはやけに若々しい。
その志筑の、低くも透き通るような声が、小さく部屋の空気に溶け込む。
「触れただけでお分かりになるとは…………確かに…………私はあの祠を守っていた村の長の血を引き継ぐ者です…………」
そして、志筑が語り出した。
「我が先祖は祠への慰霊の心を忘れ……祭事を怠り……やがてその呪いを恐れ…………村人を置き去りにあの地を去りました。この度の呪いは、元はと言えば我が先祖の行いが招いたこと…………それを鎮めるために…………〝力〟のある私が参りました」
その独特の声に、場の空気が静まる。
そして、そんな形を持ったかのような空気の中に、湧き上がるもう一つの声。
「それだけじゃないでしょ」
萌江の声だった。
咲恵が振り返ると、そこにはいつの間にか上半身を起こしていた萌江の姿。咲恵が軽く笑みを浮かべると、萌江は布団の上に胡座をかいて続けた。
「あなたも過去の負い目から祠を再建して欲しいと思ってた…………だからあの五人に接触した…………普通の人とは違うやり方でね…………あなたは〝壁〟を作って私たちを妨害していたようだけど、あの五人総てをシャットアウトすることまでは出来ていない。殺害現場の〝念〟は消せても、あの人たちの〝念〟までは消せなかった…………自分の力をあまり過信しないことね。人はそう簡単に操れるものじゃない…………」
そして萌江は、隣で横になっている西沙に顔を向けた。西沙は両手をお腹の上で軽く合わせていたが、そこに手を乗せた萌江が囁く。
「西沙……ご苦労様…………頑張ったね…………」
すると、西沙が重そうに目を開く。そして大きく息を吐くと、何事もなかったかのように上半身を起こした。
そこに萌江が続ける。
「西沙、疲れてるところで悪いんだけど、ホテルに電話して広めの部屋を一つ用意してもらってくれる? 私たちの他に6人入ればいいよ。あの五人にも来てもらって…………警察もロビーに」
そして志筑の声。
「…………公開裁判などと……」
「総ては…………あなたしだいだよ…………久宝さんにまで暗示をかけて…………」
萌江はネックレスの水晶を外すと、左手に巻きつける。
素早く家主の前に移動すると、その額に左手を当てて呟いた。
「この人が余計なことをしないように先回り? でも、この人の孫に向けた〝想い〟のほうが強かった。懸命に抵抗してたからこんな時期にこんなに汗だくになって…………」
萌江が手を離すと、家主の表情はまるで別人のように、スッキリとした目になっていた。
萌江は布団に振り返ると、枕元で大人しく座る黒猫に笑顔を向けた。
「あなたはここが好きみたいね。助けてくれてありがと」
そして家主に顔を戻して続ける。
「あの猫、この家の猫じゃ…………」
すると家主は少し呆然としながらも、すぐに応えた。
「いえ……しばらくこの家では猫は…………」
「じゃ、お願いしてもいいですか? この猫はこの家の守り神になってくれる子です…………大事にしてあげてください」
☆
仁暮家の人間は、一八でその歴史を継承する。
母親と同じく志筑も一八でその現実を知り、仁暮家の歴史を聞かされた。
それは仁暮家の〝罪の歴史〟だった。
仁暮家は古くから村の長としての立場を保持し、その村を守り続けてきた。
そのための落ち武者狩り。
そしてその〝罪〟から逃れるための祠。
その祠を守り続けなければならなかったはず。
しかし祠が作られてから数代後、当時の仁暮家当主が悪夢に苦しめられるようになる。
〝……血を絶て……終わらせろ…………〟
祠の光景と共に、その言葉は繰り返された。
何度も何度も、連日夢の中で当主を苦しめた。
やがて精神を病み、仁暮家は一族ごと村を去った。
そして落ち着ける地を見付けるまで、数年を要することになる。
志筑が初めて知る暗い歴史。
多くの人の犠牲の上で成り立つ歴史。
それは志筑をしても、決して許されるものとは思えなかった。
そしてその歴史はなぜか、継承した途端に仁暮家の人間を苦しめ始めるという。
「なぜ……継承しなければ…………誰も知らなければいいことではありませんか…………」
両親に対し、志筑は素直な疑問を投げ返していた。
そんな過去のこと、誰も知らなければいい。知らなければ忘れられる。そう思えたからだ。例え同じ血が流れているとしても、志筑自身がリアルに感じられるものではない。
しかし母の答えは違った。
「……先代の母上は……私に継承することを拒みました。しかし両親とも毎晩悪夢にうなされたそうです…………そして母上は気がおかしくなり……自ら命を絶ちました。自らに影響が及ぶことを恐れた父上が私に歴史を継承したのです。これは……〝呪い〟なのですよ…………我が仁暮家が背負う〝罪〟なのです…………」
何か、大きなものに縛られているかのようだった。
逃れられない。
そして自分の子供以外には口外してはならないという。
自由に生きるなど、夢でしかない。
血筋が絶たれるまで続く〝呪い〟。
そんな理不尽な世界に自らが囚われていることを知った。
しかし、いつものように仁暮家を訪れた雄一の柔らかい笑顔に、志筑の中の何かが疼く。
志筑とは明らかに違う世界を生きている。
自由だった。
〝呪い〟の根源たる〝恨み〟も〝憎しみ〟も知らない。
理解することすら出来ない。
それが雄一の世界。
志筑とは根本的な何かが違った。
助けを求めたのだろうか。
〝罪〟を背負った血筋を受け継ぎながら、それでも志筑は助けを求めていたのかもしれない。
そして、雄一に総てを曝け出す。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第七部「猫の目」第5話(完全版)
(第七部最終話)へつづく 〜
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