第五部「望郷の鏡の中へ」第3話(完全版)(第五部最終話)
文字数 8,919文字
夏場の忙しい時期を過ぎ、敢えてこの時期にオープンして体制が落ち着いた頃に年末の繁忙期を迎える。そんな計画だった。
働いていたスナックのママからの応援もあり、理想的なスタートを切っていた。
ちょくちょくと
裏の仕事とはいえ、かなりの収入になっていたことは事実。バレたら脱税どころの話ではない。もっとも
もちろん店の開店資金にもある程度は役に立った。本当は一〇月のオープンが理想かと思われたが、裏の貯金を崩してまで
一〇月は
行政手続き上は
そして神経をすり減らしている理由はそれだけではない。
時に何度も
──……男の子と、女の子…………
そういう夜に限って、
──…………見てほしいの…………?
そんな時の
裏の仕事のせいかと思った時もある。仕事で色々な〝もの〟を見ているせいで、精神的な疲労を蓄積しているのだろうか。
だからこそ頼ってしまっていた自分もいる。
──……
──……………………見えていたはずなのに…………
そして、
──……この子たちは…………誰…………?
働いていなくても、
本来明るく社交性の高い
唯一その中の〝闇〟を知っているのは
その〝闇〟を垣間見せる〝裏の仕事〟に明け暮れていく中で、いつしか
それでも、夜にやけに疲れている時も多くなった。
いつの間にか、体を重ねる頻度まで減っている。
その夜、
しかも開店前。
「珍しいね、こんな時間に」
出来るだけ冷静を装いながらもそう言う
──……大丈夫……大丈夫…………
懸命に自分に言い聞かせていた。
「ごめん…………ちょっとだけ…………」
その
──……言わないで…………
「………………もう…………お別れしようかな…………って…………」
──…………そうだよね…………
その
「…………そう……」
──……私がこんな体質だから…………
「……うん」
その
「無理だよね…………普通じゃないもん…………ごめんね…………こんな私に付き合ってくれて…………」
それでも顔は上げられないまま。
「見えたでしょ?」
「え?」
「子供二人…………ごめん、だめだ、もう行くね」
その
「────待って
しかし、そこに見えるのは
その
「……あの二人に…………関わっちゃダメ…………忘れて…………」
「…………元気でね……」
ドアの鈴の音がこんなに
──……どうしよっかな…………
いつの間にか、
──……休んじゃおっかな…………
視界が
それは、床に落ちて広がった。
──…………普通の人間に…………産まれたかった…………
帰宅後、すでに
ある日、突然何かが終わる。
思えば、いつもそうだった。
まともな人間ではない。
まともに生きられるはずがない。
店では顔パスの
「てっきり知ってると思っていたが……それじゃあ仕事も断られるわけだ…………」
「ごめんなさい…………私だけじゃさすがに…………」
カウンター越しに軽く頭を下げる
「やめてくれよ。こっちは感謝してるんだから…………それより、住所を知りたくはないのかい?」
「……あ…………ええ……やめておきます…………あの子なりの考えがあるでしょうから…………私たちって普通じゃないですからね…………」
「確かに普通じゃないな。あの世界の感覚は私には理解出来ないが…………ま、これ以上口を出すのは野暮だと思うが、普通じゃないから出会えたとも言えるんじゃないかな…………余計なことだが…………」
──……いつか…………また会えるのかな…………
☆
そして、その時は、思ったより早かった。
およそ三ヶ月後。
夏。
そしてあれから、一人で、一人の家にまっすぐ帰るのが嫌いになった。
仕事帰りに飲み歩くのが日課となっていた。
それでもその夜は仕事中に飲み過ぎたのか、自然とまっすぐマンションに足が向いた。
──……たまには早く寝よっかな…………
玄関前の人影。
元々エントランスやオートロックのあるようなマンションではない。名ばかりの古いマンションだった。誰でも玄関前まで入ることは出来た。
そして、遠くからでも分かった。
早くなり始めた歩幅を意識的に抑える。
──……だめだ…………冷静になれない………………
間違いない。
目の前に、会いたかった
まるで初めて会った時のような
大きくドアを開けた。
──……お願い…………入って…………
下を向いた
続けて中に入った
背後に
ゆっくりとその気配が近付く。
初めての夜も、この玄関から始まった。
そして今夜は、寒くはなかった。
☆
「いやね……歳を重ねると思い出話が多くなって」
開店前から
その
「そう? 思い出せるのは〝思い出〟だからだよ…………あの夜の
そう言ってニヤニヤとする
「仕方ないでしょ……久しぶりだったんだから…………っていうより、あそこまで
「あら。恥ずかしがってるお顔が可愛いわ」
「やめてよ…………バカ」
「でもさ…………あれからもう一年以上になるのかあ…………店もオープンしてからもうすぐ二年…………やっぱり私たちは離れられない運命なんだねえ」
そう言った
夏が終わり、秋の街灯り。少しずつ夜の空気が冬の足音を伝えていた。
ロックグラスに氷を追加しながら
「まさかと思うけど、あれから……
「ああ……あの子…………大丈夫…………来てないよ。
「ちょっと距離置かれたね…………結果が結果だったからねえ。あれ以来電話もない」
「それで寂しくなったの?」
「そんなわけないでしょ。
「ふーん」
「分かってるくせに強がらないでよ」
「まあね」
そんな会話をしている内に開店時間を迎え、
同時に聞こえる
そして
「でも…………
その柔らかい声が、
何となくそんな夜だった。
「最初はやっぱり、自分のこと嫌いだったでしょ」
そう返す
「うん…………目を背けていたって言うのかな…………現実を受け入れようとしなかった」
「無理もないよ…………私だって最初はさ…………普通の人間だったらって何度も思った…………でもそうじゃなかったから、ここにいるんだよ」
その
──……やっぱり……私はこの瞳が好き…………
「
「今夜は燃えそうだね」
「そっちか」
そして、珍しく早い時間にドアの鈴が鳴った。
小柄な若い女性だった。
「いらっしゃい。どうぞ」
店の会員カードだった。
「うん。大丈夫よ。今日は御一人?」
「
すると、その
「…………あの…………私って…………いつこの店に、来たんですか?」
「えっと、ごめんなさいね。だいぶ前だと思う……私も曖昧だけど…………」
こういう時には便利な能力だった。
相手の持ち物からも、
「……確か二人で…………開店した直後…………もう一人はもっと身長の高い人だったと思う……覚えてない?」
やがて視線を落とし、ゆっくりと返すだけ。
「そのもう一人って…………それからここに来ましたか?」
「ごめん…………多分来てないと思う……」
「失礼しました」
それだけ言って
「待って」
その声に、一瞬時が止まる。
そして
「何かを探してここに来たんじゃないの? もう一人の子? それとも〝思い出〟かな? 話してみて…………多分私たちは、あなたの力になれる」
そしてしばらく考えた後で、ゆっくりとカウンターの椅子に座った。
そして声を掛ける。
「とりあえずお茶でも飲む? 今夜は無理やり引き止めたお姉さんがご馳走してくれるから心配しないで…………少し話を聞かせて」
──……この子…………助けなきゃいけない気がする…………
「えっと……
その
「……
張り詰めていたものが弾けていた。
すると、そこに
「
泣き続ける
──……大丈夫…………
すると、それはまるで弾けるかのように、一気に
そして
「
☆
春。
同じ大学の同じ学部で、二人は出会った。
お互い大学に入ったばかり。もうすぐ一九才になる。
初めて会った時から息があった。お互いすぐに
どこにでも可能な限り一緒に出かけた。
お互いアパート暮らしだったが、気が付くと
何度か電車で
二人は幸せだった。
しかし、そんな自分を受け入れてくれる世界が広がった。
最初にLGBT限定のショットバーを見付けたのは麻美だった。
何度か大学の友達と居酒屋に行ったことはあったが、ショットバーとなると途端に大人の世界に感じる。聞かれたら年齢を偽ろうと口裏を合わせつつ、緊張しながらも店のドアの前。
まだオープンして間もない店。会員制と書いてあるが、どうすればいいのかも分からない。
店のドアの前で、とりあえず二人で営業時間を確認する。
「よし。もう開店時間は過ぎてる。会員じゃなきゃダメって言われたら諦める」
「あら、どうぞ」
二人が振り返った先にいたのは
重そうなレジ袋を両手でぶら下げている。
「もしかして、興味があって来てくれたの?」
応えたのは
「あの…………会員制って……」
「ああ、気にしないで。本来はそうなんだけどオープンしたばっかりだし。そう書いておけば冷やかしも入りにくいしね。興味があって勇気を振り絞って来てくれたってことは…………二人もそういうことで、いいの?」
「…………はい……まあ…………」
「素敵。入って。会員証あげるから」
「おかえりー」
店内には他に誰もいない。
「もう、どうして私が客のあなたを留守番にして氷を買いに行かなきゃいけないのよ」
そう言いながら
「まだオープンしたてなんだから、酒屋さんに顔知ってもらわなきゃならないでしょ。製氷機なんてまたいつ壊れるか分からないんだからさ」
そして、ドアから顔を出して中を伺う二人を見付けた。
「凄い。お客さんだ。入って。いらっしゃい」
その
「カウンターにどうぞ。まだオープンしたばっかりだし、静かな店だからゆっくりして。これも何かの縁だしね。いつかこの店が〝いい思い出〟になってくれたら嬉しいかな」
二人にとっては初めて大人の世界に足を踏み入れた日。
そして世界は自分たちに決して冷たくはないということを教わった日。
自分たちの気持ちは間違ったものじゃないと教えてもらった日。
また来ることを約束して、その三日後。
二人は土日を利用して初めての一泊旅行に向かっていた。
二人で初めて温泉宿に予約した。総てが初めての連続。
二人の乗ったバスが山道を進んでいく。
細い道だった。
そして、突然の落ちる感覚。
視界が斜めに動いた。
気が付いた時には、二人の体はバスの中で浮いていた。
同時に、身長の高い
何度もバスは回転を繰り返し、それからは記憶がない。
そして
やっと目が覚めた時、説明を理解するのには時間が必要だった。
ベッドの横で、母親が泣きながら説明を繰り返していた。
「事故の日の夜に、
──…………どうして…………?
──……
「……
その呟くようなか細い
「…………
「
止めどなく涙が零れ、声が溢れていた。
──どうして⁉︎
──どうして⁉︎
──
精神的な部分を考慮して入院は少し延長された。
しかし退院した次の日の朝、
☆
両手を
「……おかえり…………
「忘れないであげて……絶対に…………あなたは
「これも忘れないで…………
やがて、出勤してきた
不思議そうに
「あの子どうしたんですか?」
「うーん……ちょっと訳あり」
そう応えた
──……私も無意識の内に引き止めてたな…………
「大変な経験した子なんだ…………もしまた来たら、優しくしてあげてよ」
「珍しー」
そう言って目を見開いた
「あのセクハラ魔人と呼ばれた
「私はセクハラ魔人だったのか」
「ママがそう呼んでましたよ」
「今夜は体に説教だな」
「出たセクハラ魔人」
「しまった。今夜は私が払わなきゃいけなかった…………」
そして
──……今日は出番が無かったね…………
☆
「今日は体で払ってもらっちゃった」
二人でシーツに包まりながら、
すると
そしてふざけて見せる。
「えーっと、さっきのでお代は足りるのかな…………」
「うーん…………ちょっと足りないかな」
「お姉さんのところはお高いですな」
「まけといてあげる。今日はお陰様だったから」
「ん? 何が?」
隣の
「今夜は……自分の力を少しだけ好きになれたから…………」
そう応える
「
「多分……そうなのかな…………」
「お陰であの子も現実に引き戻してあげられた…………
向き合うということがどういうことなのか、それは
それでも、
どこにも代わりなどいない。
「……そうなのかな…………」
──……誰かの……ため…………か…………
「
そう言って
その指の暖かさを感じながら、
「また来てくれたらいいな、あの子…………少し遠いけどね」
「そうなんだ…………でも大丈夫…………絶対にまた来てくれるよ」
不思議な程に、優しくなれた夜だった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第五部「望郷の鏡の中へ」(完全版)終 〜