第七部「猫の目」第3話(完全版)
文字数 11,032文字
奥田秀一は地元で一番大きな地方銀行の銀行職員として一〇年以上勤めていた。
それなりに地元では信頼の厚い銀行だ。歴史もある。
今では将来も安定した立場だ。
五年ほど前に結婚したばかりで、まだ幼い娘がいた。
その日も秀一は仕事を終え、まっすぐ自宅へ向かっていた。
日頃から、あまり飲み歩く習慣もない。
時刻は夕方。
いつも秀一は自宅まで街中の大きな公園を抜けて帰っていた。時間的にその公園を抜けるのが最短距離。一人で買い物を楽しむような人間でもなかった。それくらいならば、公園の芝生や木々を眺めていたほうがなんとなく気持ちも安らぐ。仕事の反動なのか、何か日々の中に癒しのような求めていたのだろうか。
夏場ならまだ明るいその時間も、秋の深まりと共に周囲はすでにだいぶ薄暗い。すでにぼんやりとした街頭も点灯し、元々日陰の多い公園内では感覚だけなら夜。
そのせいもあるのか、この時期のこの時間になると周囲に歩いている人は少ない。
その日も、ほとんどいなかった。
そんな中、秀一は突然のことに頭が追い付かなかった。背後から猿ぐつわを噛まされ、両腕を背後で押さえられたまま近くの公衆トイレに押し込まれた。
個室に入れられ、壁の冷たいタイルに押し付けられながら、右目に何かを押し付けられる。それは激痛と共にゆっくりと右目の視界を奪った。
恐怖と痛みに包まれながら、体が小刻みに震える。
左目に何かが突き立てられた時、すでに秀一の意識はなかった。喉に当てられた鋭利な刃物に抗うまでもなく、その体は力を失う。
☆
五人が暮らしているのは市営住宅だった。
古くからある集合住宅ではあったが、駅からも近く、いまだに抽選会では人気の物件。
しかし元々立ち退きでそれなりの条件を出されていたにも関わらず、どうして五人が五人共集合住宅に落ち着いているのかが萌江と咲恵には不思議だった。
「いくら限界集落って言ったって、土地と建物を行政が買い取るようなものでしょ?」
咲恵のその質問に応えるのは、二人の前を歩く西沙。
三人は駅前から歩いて行ける距離だからと、駅の裏の再開発地区を歩いていた。
「そうだったみたいなんだけど…………何せ家族って言えるのが一世帯の二人だけで、後はみんな独り住まい。用意してくれた物件も断ったみたいだよ。郊外に立派な一軒家なんか用意されたって確かに困るんじゃないかなあ」
「それもそうか」
そう挟まった萌江が続ける。
「でも別にその待遇で文句を言ってるわけじゃないわけでしょ」
「まあね。年金暮らしの人が一人いるけど、あとは仕事の斡旋までしてもらったみたいだし」
時間はお昼前、この時間に自宅でアポが取れたのは三人だけだった。職場では迷惑だからと、残りの二人は夕方六時に自宅で。
古いエレベーターに乗り込むと、西沙は三階のボタンを押す。日中だというのにどことなく暗い。外壁と同じく建物内部の壁も燻んだ色に染まっているからだろうか。
重い扉が閉まると西沙が口を開いた。
「最初の三人は同じ階の単身者用の部屋。で…………最初は洋三さん。六六才。唯一の年金生活者。ちなみに全員の苗字が同じ田村なのは、小さな集落でみんな遠い親戚筋だからってこと」
部屋のインターフォンを押す。
カメラがあるような新しい物ではない。壁のあちこちも小さなヒビを修繕した跡が目立った。そんな部分に萌江と咲恵が自然と視線を送っていたところに、いきなり玄関のドアが開く。
萌江と咲恵の予想通り、そこに現れたのは昨夜の居酒屋で見かけた初老の男性だった。
西沙の顔を見るなり重そうな声。
「……ああ、あんたか…………何の用だ?」
腫れた瞼から、昨夜のアルコールがまだ抜けていないことが分かった。
すぐに西沙が返していく。
「えっと、あの…………例の件について、改めてお話を伺いたくてですね────」
「前と同じだ。帰ってくれ」
それだけ言った洋三は強めにドアを閉めた。その振動がダイレクトに周囲の壁や空気を揺らす。
洋三は集落でも人望の厚い男だったと資料には書かれていた。
長年連れ添った妻は元々街の出身で、集落へと嫁いできていたが、吸収合併の数年前に自宅で首を吊って自殺している。
困った顔で振り返る西沙に、咲恵が返す。
「……仕方ないよ。無理強いしてもダメ…………」
「じゃあ…………隣で…………」
西沙はそう言うと右隣のドアまで歩く。
軽く肩を落とす西沙の目の前で、インターフォンを押すより早くそのドアは開いた。
そして驚いた三人の前に現れたのは、昨夜の居酒屋で働いていた女性────恵美だった。
洋三とのやりとりが聞こえていたのか、その恵美が先に口を開く。
「失礼しました……こちらでお話を伺いますので…………どうぞ」
昨夜とは違い、その表情と口調には憂いが見えた。
恵美はかつて村から街へ嫁いできた過去があった。しかし離婚後に村に戻った時、両親が自宅で自殺しているのを発見する。遺書はなかった。村の吸収合併が決定する一ヶ月ほど前の事になる。
三人は奥のベランダに面した和室に通された。
そこの窓際にはすでに一人の若い男性が膝を抱いて座り込んでいる。しかし三人が部屋に入っても顔を上げようともしない。
すると三人の後ろから恵美の声。
「郁夫さんです…………お一人では難しいかと思いましたので来てもらいました……さ、お座りください」
郁夫は両親を殺害された過去を持っていた。
元々街の高校に通った。なんとか就職するが、自閉症の影響なのか集団生活に馴染むことが難しく、同僚との喧嘩騒ぎを起こして退職。村に帰った直後、両親が自宅近くの畑で刺し殺されているのを見付ける。
当時はすでに立ち退き要求が激しくなっていた。中には暴力団まがいのチンピラが集落に度々押しかけることもあったことから警察はその線で捜査したが、未だに未解決のまま。
三人が郁夫と距離を取りながらもテーブルの周りに腰を下ろすと、そこにお盆を手にした恵美が戻る。テーブルに湯呑み茶碗を四つ乗せると、最後の一つを郁夫の側に置いてから自分も膝を落とす。
そして顔を上げた恵美は声を上げた。
「えっと……もしかして、そちらのお二人は、昨日…………」
すると最初に応えたのは萌江だった。
「ごめんなさい。まさか昨日あんな所で会うことになるとは思ってなくて…………」
「地元の方では…………」
それにすぐに応えたのは西沙だった。
「違うんです。最近来てもらったばかりで……何というか、私の仕事仲間みたいな感じでして」
「……そうでしたか…………私は構いませんが、隣の洋三さんはあの通りの方ですので、最近はもうテレビにも出たくないと言ってますし…………」
「そうですか…………」
「私と郁夫さんは元々テレビには出ていませんし、それもあって私たちが強く言うのもどうかと…………」
「私も以前に一度お話を伺っただけですからね。それもあって今日は郁夫さんにもお話を伺えたらと思いまして────」
「それは…………ちょっと…………」
恵美は郁夫の丸くなった背中に手を添えて、続けた。
「前にもお話ししたかとは思いますが、郁夫さんは自閉症です…………人混みも嫌がります。あまり重要なお話は出来ないかと思います」
背中に添えた手の柔らかい動きに、萌江と咲恵は何かを感じていた。
──……まあ、それはプライベートか…………
萌江がそう思った直後、隣から咲恵の声。
「では…………」
そう言って挟まった咲恵が続ける。
「恵美さんにはお伺いしてもよろしいですか…………?」
「…………ええ……ですが、まだ何か聞きたいことでも…………総て話したと思いますが…………」
「単刀直入にお聞きします。〝猫神様の呪い〟を訴え始めたのは、祠を壊された…………という理由だけですか?」
その言葉に、恵美は咲恵の目を見た。
僅かに恵美の目が細くなる。
そして言葉を繋げた。
「……他に…………理由があると…………?」
しかし咲恵は応えない。
恵美はすぐに続けた。
「マスコミの方々が面白おかしく書かれているのは知ってます…………あること無いこと書かれているようですね…………でも、以前にお話ししたこと以上のことはありません。工事で事故が多かったのは事実ですし、私たちが訴えてから……実際に殺人事件まで…………」
「殺人事件が起きるまでは…………今ほどマスコミも騒いではいなかったようですが…………」
そう言って会話に刺さったのは萌江だった。
その萌江が続ける。
「確かにあんな殺され方じゃあ、普通に考えても猟奇殺人だ。まともとは思えない。〝まるで猫が喉を切り裂いたようだ〟と言ってマスコミを煽ったあなた方のお気持ちも分かりますよ…………」
──…………煽った…………?
反射的にそう思った恵美の目が僅かに鋭くなるが、構わず萌江は続けた。
「しかも今じゃ連続殺人…………話題は全国区…………それなのに盛り上がっているのはマスコミだけ。行政は動いてくれない。次は………………どうします?」
すぐに、眉間に皺を寄せた恵美が小さく口を開く。
「私たちは────」
それだけ返して、言葉を詰まらせた。
しかし郁夫に視線を移してから続ける。
「……新しく祠を作り直してもらえたら…………それだけで…………」
「それで〝呪い〟が収まってくれますかね…………」
その萌江の言葉には、恵美は応えようとすらしない。
そして、萌江が立ち上がった。
「お邪魔しました」
その声に、咲恵も分かっていたかのように立ち上がる。
玄関に向かい始めた二人を、西沙が追いかけた。
「────あの……お邪魔しました」
振り返って言葉を残した西沙に、恵美は顔を上げないまま。
三人はまっすぐホテルに向かった。
夕方まではまだ時間がある。
一階のカフェでコーヒーを飲みながら、西沙は萌江と咲恵に噛み付く。
「さっきのは何⁉︎ あれじゃまるで責めてるみたいじゃない」
「まあ……ねえ」
咲恵は呟くように返しながらコーヒーを口に運んだ。
西沙が続ける。
「加害者が誰かはまだ分からないんだから────」
「そう?」
そう言って西沙の言葉を遮ったのは萌江。
「少なくともあの三人は、何か知ってるよ…………」
「……そんな…………何の確証があって────」
──…………あ…………そっか…………
西沙は改めて気付く。
萌江は未来、咲恵は過去を見ることが出来る。
二人でなければ辿り着けない事実があることは、西沙も分かっているはずだった。
──……だから二人に助けを求めたはずなのに…………
萌江が淡々と応えていく。
「勘違いしてない? 私たちは警察でも探偵小説の主人公でもないんだよ。私も咲恵も確証を持って動いてる。物語の中心にいる五人には、黒い過去が多すぎる…………誰かに恨みを持つには充分だよ」
「……でも…………過去の自殺と殺人は意味が違うよ────」
その西沙の言葉を咲恵が遮った。
「最初の……洋三さん? 資料だとあの人の奥さんは自殺してる。理由は何も書かれていなかったけど…………私の中のイメージが、さっき会った時にやっと固まった。遺書があったの知ってる? 総てを告白した手紙…………奥さんは集落に嫁ぐ前…………ある議員の妾だった…………その議員の次男が、二階睦夫」
☆
県議会議員、二階敦敏の次男、二階睦夫。
長男と三男は大学を卒業してすぐに議員秘書となっていたが、次男の睦夫だけは大学を卒業しても定職に就くことはなかった。
一部では暴力団との繋がりも示唆され、黒い噂が絶えない。
当然地元では道楽息子と呼ばれ、議員である父親から煙たがられていた。夜に自宅に帰ることなどほとんど無い。それでも昼前には一度帰っていた。
しかしその日は、その前に自宅に警察からの電話があったことで家中が騒然となる。
繁華街の裏路地。ほとんどビルとビルの隙間のような場所から大量の血が流れ出していた。
死亡推定時刻は発見された早朝の直前と見られた。
寒い時期の早朝は、まだ暗い。
殺害方法は先の三人と同じ。
警察の発表では、殺害時、被害者は泥酔状態だったという。
☆
「どういうことなの……?」
半ば呆然とした表情でそう言って聞き返す西沙に、咲恵はゆっくりと返していった。
「洋三が遺書で知ったのは、睦夫が〝妾だった過去〟を理由に妻を恐喝していたこと…………これ以上迷惑はかけられないからと、妻は首を吊って自殺した…………」
「…………それが……見えたの?」
その西沙の言葉に、咲恵は視線を落としてカップを手に取って応える。
「嫌な能力でしょ? 見えるものはその人の過去だけじゃない…………その人の人生に絡まるもの…………」
咲恵は珍しくミルクポットのミルクをコーヒーに少しだけ注ぐと、ティースプーンで軽くかき混ぜる。微妙に混ざりながら回転するコーヒーの表面を見つめた。
向かいの西沙は、静かに椅子の背もたれに体を預け、視線を下へ。
そして、ゆっくりと、咲恵の隣の萌江が呟いた。
「……たまに思うよ…………誰かのためになるならと思ってこんなことやってきたけど…………もしかしたら…………その逆なんじゃないかなって…………今回の件だって、私たちが答えを出さないほうが、幸せな人たちがいるのかもしれない…………」
西沙が何も返せないまま、時間だけが過ぎていく。
☆
その夜、警察官の小林豊にとっては休日の前の夜。
四〇才の小林には離婚歴があった。結婚後二年で離婚したためか、子供はいない。それも一〇年以上も前のことだ。
それでも独りでいることに寂しさもあったのか、何年か前から一人で飲み歩くことも多くなっていた。そしてそれが習慣付くようになると、今夜のような休みの前の日となるとやはり我慢は出来ない。もっとも夜勤明けだと休みの前の晩に店に行くことも出来ないので、今夜は久しぶりに楽しみにしていた。
そのためか、その夜は自分でも分かるほどに少し呑み過ぎたようだ。
時間ももうすぐ日付が変わる頃。
繁華街から少しの距離にある小さな公園。自動販売機で買った温かい緑茶を飲みながら、ベンチに腰を降ろして酔いを覚ましていた。
小さいとは言っても池やランニングコースもある公園だ。朝は近所の人たちで賑わうような場所だが、平日ということもあってか、夜になると静かな空気が流れる場所。
すぐにでも雪が降りそうな気温のこの季節。さすがに軽くアルコールが抜けてきたのか、その寒さを背中に感じた小林が立ち上がろうとした時だった。
突然背後から口を塞がれる。
直後、喉に何かが押し付けられた。
胸に暖かいものを感じながら、同時に呼吸が出来ない。
片目に激痛を感じた時、それは恐怖から絶望に変わる。
☆
時間は過ぎ、すでに夜。
萌江と咲恵は西沙の案内で再び集合住宅を訪れていた。
そこは昼に訪れた単身者用の三階の上、四階からはファミリー向けに少し広い部屋が並ぶ。
五人の中で唯一の夫婦。
夫の修一は五八才、妻の幸恵は五一才。
洋三と共にメディアの前に出ていた三人の内の二人。
秀一は集落にいた頃、畑仕事の傍ら土木関係の出稼ぎに出ていたことがある。その経験から現在は林業の下請け企業で働いていた。幸恵は専業主婦。
一人息子がいたが、街の大きな会社に就職した翌年、交通事故で亡くなっていた。一〇年ほど前のことだ。
三人が通されたリビングのテーブルに幸恵が暖かい湯飲み茶碗でお茶を置くと、秀一が話し始める。
「で? 今更あんたたちは何を聞きたいんだ?」
すでにその態度に歓迎の意思は無い。おそらく恵美から連絡をもらっていたのかもしれないと西沙は判断していた。
応えたのはその西沙だった。昼間とは違い、毅然とした態度で応えていく。
「今回の連続殺人と〝猫神様の呪い〟を結び付けるものを調べています」
「結び付けるも何も…………祠を粗末にするからあんなことになるんだ。現にあんたら霊能力者なんか何も解決出来ていないじゃないか」
「ごもっともですね」
そう口を開いたのは萌江。
萌江は両手で持った湯呑み茶碗でお茶を啜ると、続けた。
「あの祠は安土桃山の……いわゆる戦国時代から守られてきた歴史のある物…………それを神社も介さずに取り壊すなど…………あの集落に暮らしてきた人たちに対する冒涜です」
その萌江の言葉に、秀一は意気揚々と飛びつく。
「そう……そうだ。だからこそ俺たちは新しく祠を作ってくれと訴えてるんだ。それなのにマスコミの奴らが適当に有ること無いこと話を膨らませて幽霊話にしやがって…………」
「まあ…………あんな殺人事件が続けばね…………」
萌江は小さく溜息を吐いて続けた。
「〝まるで猫が喉を切り裂いたようだ〟と皆さんが言わなければ、ただの猟奇殺人で終わっていたかもしれない…………」
すると秀一の目付きが変わる。
そして返した。
「なるほど…………そう言って昼間に恵美を責めたのはあんたか…………」
そう言って軽くのけぞるようにソファーの背もたれに体を押し付けた。
萌江は顔色一つ変えずに平然と応えていく。
「秀一さんは……あの祠の歴史を知っていますか…………?」
「そんなもの…………猫に案内された落武者が村人に感謝して────」
その秀一の言葉を萌江が素早く遮った。
「昔から貧しい村でした…………周りを山に囲まれて孤立した村…………当時はそんな村は全国にたくさんあったことでしょうね。今より生き残るのが大変だった時代。落武者を捕まえたと奉行所に駆け込めばかなりのお金がもらえた場所もあったみたいですよ…………〝落ち武者狩り〟ってやつなんですかね」
「……随分な言い方だ……あんたみたいな部外者に何が────」
「本来ならば村の長が祠を守っていたはず。しかしあの村では長ではなく村人が直接守っていた。長は誰ですか? どこに行ったんでしょうね」
「……なんだと?」
「本当に〝呪い〟や〝祟り〟があるなら、先に呪われて然るべきなのは落武者を騙したあなたたちの先祖だ。あの祠は猫への感謝のためのものではない。猫の〝呪い〟を鎮めるためのものだ────」
「帰れ!」
そう叫んだ秀一は、いつの間にか立ち上がっていた。
体を震わせる秀一を鋭い目で見上げたまま、萌江はゆっくりと立ち上がる。
その横で、咲恵と西沙も続いた。
そこに、台所からの幸恵の声が挟まった。話を聞きながらシンクで洗い物をしていた幸恵は、エプロンで手を拭きながら近付く。
「変わった方々ですね…………」
それはその場に似つかわしくないような柔らかい声。
その声が張り詰めた空気に溶け込んでいく。
「形だけのお祓いをする人たちとは違うようですね…………まあ、あんなものに効果があるとは思っていませんけど」
──……束ねていたのは、こいつか…………
萌江がそう思った直後、幸恵が続ける。
「あなた方の言うことが正しかったとして…………〝猫神様の呪い〟は現実に起きています。違いますか?」
しかし萌江は毅然と応えた。
「〝呪い〟は起きるものじゃない。人が作るものだ────」
「では…………」
幸恵の目付きが変わる。
そして言葉が続いた。
「あなたは…………私たちが殺人を起こしているとでも?」
萌江は首の後ろに手を回した。
ネックレスを外すとその水晶ごと左手に巻きつける。
そして口を開いた。
「咲恵…………支えて」
直後、素早く動いた萌江は幸恵の額を左手で覆っていた。
同時に咲恵が幸恵の体を支える。
「なにを────!」
叫びかけた秀一を右の掌を向けて制したのは、鋭い目の西沙だった。
──……私は、二人を信じる…………
萌江が呟く。
「……自己催眠か…………咲恵!」
「だめ! 壁がある」
咲恵も釣られるように声を上げていた。
萌江が素早く返す。
「このままじゃ解けない…………せめて抑える…………」
やがて、萌江は左手を降ろした。
そして小さく息を吐く。
幸恵はそれまでとは別人のような目で、不思議そうに周囲を見渡すだけ。
その幸恵に萌江が声をかける。
「これで少しは……楽になりますよ…………」
その声は柔らかい。
☆
夜の二三時を回ったところで、西沙は萌江と咲恵の部屋に呼び出された。
その服装を見て最初に口を開いたのは萌江。
「まさかあんた寝る時までゴスロリ?」
西沙はとても寝る前とは思えないような真っ白なゴスロリ風パジャマ。
「い、いいじゃない、私はこれじゃなきゃ寝れないのよ。それにこれなら、このまま廊下にも出られるし」
「ま、いいけど…………杏奈ちゃんからデータ来たよ」
すでに萌江と咲恵はタブレットを覗き込んでいる。
そこに西沙が加わった。
洋三(六六)
妻は吸収合併前に自殺。
妻は若い時に街から嫁いできた。
地方議員の妾だった妻は、逃げるように集落に嫁いできた。
そのことは夫には秘密にしていたが、そのことで恐喝されていた。
恐喝をしていたのは議員の次男である二階睦夫(四人目の犠牲者)。
妻の自殺はそれを苦にした可能性が高い。
修一(五八)
その妻、幸恵(五一)
街で就職した息子が交通事故死。
交差点での出会い頭の事故とされたが、息子は青信号で進んでいた。
そこに信号無視をした車にぶつけられる。
その車を運転していたのは地方議員の息子、二階睦夫(四人目の犠牲者)。
事故の捜査をしたのが警察官の小林豊(五人目の犠牲者)。
小林のせいで被害者としての割合を低くされた可能性が高い。
郁夫(二三)(自閉症)
街の高校を卒業してお菓子工場に就職。
同僚と喧嘩をし、退職して村に帰る。
しかしそれ以前に職場でイジメを受けていた。
その中心的な人物は吉田春子(二人目の犠牲者)。
仕事を辞める原因になった喧嘩騒ぎにも関わっていた可能性が高い。
村に帰ってからは立ち退き要求に連日悩まされていた。
その最中に両親が殺されるが事件は未解決。
当初から立ち退きに関与していた地元暴力団の可能性が疑われていた。
しかし暴力団を扇動していわゆる地上げをしていたのは地元銀行。
その中心にいたのが銀行員の奥田秀一(三人目の犠牲者)。
恵美(三五)
街の地主の長男に見染められて嫁いだが、離婚して集落に戻る。
帰ってきた日、自殺した両親を見付ける。
恵美の両親も他の家と同じように立ち退き要求に苦しんでいた。
地元暴力団による他殺説も出たが、警察としての発表は自殺。
暴力団を扇動していわゆる地上げをしていたのは地元銀行。
その中心にいたのが銀行員の奥田秀一(三人目の犠牲者)。
恵美が嫁いだ先で息子を一人産んでいる。
久宝隆史(一人目の犠牲者)。
萌江は缶ビールを飲み干すと、そのまま缶を握り潰していた。
立ち上がると、冷蔵庫で二本目の缶ビールを取り出して栓を開けた。
咲恵は冷静にベッドに腰掛けていたが、やがて手にしていた缶ビールを飲み干す。
そのすぐ側で、西沙はタブレットを見下ろしたまま体を小さく震わせている。
しばらく、誰も口を開こうとはしなかった。
やがて、ベッドから立ち上がりかけた西沙が膝から崩れ落ちる。
咲恵が素早くその体を支えると、床に西沙の涙が零れ落ちた。
そして、絞り出されたその声は、小さく震える。
「…………おかしいよ…………こんなの…………」
そこに聞こえてきたのは萌江の声。
「いずれは警察も辿り着く…………その前になんとかしないと…………」
「なんとかって────」
顔を上げた西沙に、萌江が続けた。
「あの五人は確かに今回の犠牲者と繋がりがあった…………怨みもあった…………動機は間違いなくある…………でも、そんな簡単に人って殺せるかな…………しかもいずれはバレて当然の繋がり…………しかも恵美は自分の息子まで殺してる…………なんのため? まだ幼い息子を恨む理由ってなんだろう…………」
そこに挟まるのは咲恵。
「黒幕は、まだいるね」
「……うん…………裏はまだ、総て見えてるわけじゃないよ…………」
☆
前嶋雄一。
それが家庭教師の名前だった。
雄一が仁暮家の屋敷に来ると、車の音ですぐに分かる。家のどこにいても聞こえるような大きな音の車だった。
少なくとも仁暮家の車よりはうるさいその音に使用人の多くは眉間に皺を寄せたが、なぜか志筑は、その音を聞くといつも笑顔になる。
しかし車自体は音の大きさに反して小さい。しかも志筑が見たことのない独特な形だった。安っぽいブリキのオモチャに見えたほど。
「先生の御車は、だいぶ変わった形をされているんですね」
そう聞いたことがあった。
「ああ、私は車が好きでしてね。しかも古い外車に目がない。故障は多いですが、最近の車とは違って味があって…………まあ、周りからは変わり者扱いですよ」
そう言って笑顔を見せる雄一に、志筑が聞き返す。
「周り…………ご家族ですか?」
「家族もですが、友達にも笑われますよ」
「……友達…………」
この頃には、志筑も様々な本を読んでいた。多くは文豪と呼ばれるような作家の古い物ばかりだったが、それでもその中にはたくさんの世界があった。志筑の知らないことで溢れていた。
そして、自分には〝友達〟という存在がいないことも知っていた。
「……友達ですか…………私にはよく分かりません…………」
その寂しげな声に、雄一は気持ちのどこかを揺らされたのだろう。もっと志筑に世の中を見せてあげたいと思うようになっていった。
世の中にはもっと楽しいことや美しいものが溢れている。
それを見せてあげたかった。
そういう意味では、雄一自身も自分が変わり者であることは自覚していた。
誰かを嫌ったことがない。
恨んだことがない。
〝憎しみ〟というものが存在するとしたら、少なくとも雄一にはその意味が分からない。
子供の頃からどんなに親に怒られても、どんなに職場である学校で他の教師に虐められても、誰に対しても憎しみを抱いたことがない。
どんなに親から気持ちが悪いと家を追い出されても、どんなに職場である学校で気持ちが悪いからと辞職を促されても、誰も恨んだことがない。
自分が間違っているとも感じない。
不幸という言葉は文字としての知識だけ。
明らかに、一定の範囲で、一定の感情が欠落していた。
しかし雄一は、志筑に対して初めての感情を抱いていた。
──……不幸というものが存在するなら……この人のことを言うのかもしれない…………
しかし志筑にとっては、そんな雄一の存在が心地よかった。
志筑にとって他人は誰しも〝一人〟ではない。その中に何人もの、いくつもの顔を持っていた。完全に〝裏の顔〟を持っていない、本当の意味でその人本人でしかないのは雄一だけ。
だからこそ、初めて他人と触れ合おうと思えた。
他人と、誰かと、心を通わせたいと思えた。
そして数年。
志筑は一八才になっていた。
家庭教師を充てがわれる最後の歳。
志筑は両親から、仁暮家の過去を聞かされる。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第七部「猫の目」第4話(完全版)へつづく 〜
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