第二部「冬桜のうたかた」第3話(完全版)(第二部最終話)
文字数 12,119文字
「さすがに寒いね」
翌日、昼過ぎ。
萌江 と咲恵 の二人は、郊外の小さな駅の前にいた。
曇り空。
駅前の閑散 とした人通りと薄い陽の光に、確かにこの日の体感温度は低い。
そんな中で出た萌江 の愚痴に、隣の咲恵 が返した。
「電車の中が暖かかったからね。電車内の温度調整も難しいんだよ。だいぶ長時間だったし」
「思ったより遠かったしね」
「そうだね。割り切って店を女の子達に任せてきて正解だったかも」
「無理しなくても、よかったんだよ…………」
「そんなわけにいかないこと…………分かってるでしょ……」
「まあ…………そうだね…………」
もちろん、萌江 は咲恵 の過去を知っていた。
話に聞いていた部分も少しはあるが、そのほとんどはお互いに流れ込んできた感情や記憶で理解していた。決してそれについて、ことさら何かを突き詰めようと思ったことはない。
真梨子 の話を総合すると、真梨子 が幸三 と暮らしていた町は、どうやらかつて咲恵 がいた所。もちろん幼い頃ではあったが、咲恵 はこの町で暮らしていた。
真梨子 はアパートの住所を正確に覚えてはいなかった。番地などがあやふやだったが、それでも駅からの道なりは聞いていたので、ネットのマップと合わせれば問題はなさそうだった。しかも駅からはそれほど遠くはない。
「歩いて二〇分くらいかな」
スマートフォンを眺めながら咲恵 が呟く。
「雪道だからもう少しかかりそうだけど、行きますか」
そして二人が歩き始める。
真梨子 が暮らしていた頃とはだいぶ雰囲気も変わっているのだろう。当時は夜になると真っ暗だったと聞いていたが、現在はそんな駅前にもコンビニがある。おしゃれなカフェもあった。当時の面影がどのくらい残っているのか、それを伺い知ることは難しい。
それは今向かっているアパートも同じだった。ネットのマップを見る限りでは、おそらく更地になっているように見える。少なくとも当時の建物は残っていないようだ。別の建物が建っていないことを祈りながら二人は歩き続けた。
寒いとは言ってもプラスの気温。歩道に僅かに積もった雪が溶けかけて歩きにくい。救いはそれほど人が歩いていないことだろうか。駅も周辺の道路も綺麗 に整備されてはいるが閑散 とした田舎の駅という印象は拭えない。
道路沿いのお店はだいぶ様変わりしているようだが、真梨子 とマップを見ながら確認したので間違いはないだろう。マップを見るだけで真梨子 の顔色が変わっていたのを思い出す。思い出したくない記憶なのも無理はなかった。
「やっぱりだったね」
萌江 が呟く。
やはりそこは更地だった。
かなり広い。アパートの建物一棟だけではなく、周辺の建物も取り壊されているような広さだ。十字路の角という話だったので大体の位置は特定出来た。
何回にも分けて深く積もった雪から、僅かに雑草が顔を出す。周囲に看板のような物もないので、今すぐ何かが建設予定ということでもないようだ。
「……こうして……変わっていくんだね……」
萌江 はそう言いながら、広い雪景色に視線を振っていく。
「部屋の位置までは…………難しいかな…………」
咲恵 がそう言いながら萌江 を見ると、萌江 はちょうど水晶を左手に巻きつけているところだった。
「たぶん分かる……大丈夫……」
萌江 はそう言いながら、道路から敷地へ。目の前の積み重なった雪に足跡をつける。黒いショートブーツが足首まで隠れた。
水晶が熱い。
咲恵 も後ろに続いた。
やがて、萌江 の足が止まる。
「…………ここ………………ああ…………そうきたか…………旦那さんに知られたくない過去って……そういうことか…………」
その萌江 の言葉に続くように、咲恵 にも当時の光景が流れ込んでいた。
その咲恵 が口を開く。
「……やられたね…………あの人は私たちにも隠してた…………」
「うん…………それに……………………あの人の知らないこともね…………」
萌江 はそう言いながら、僅かに体を震わせる。
壮絶 な光景が見えていた。
すると、咲恵 が萌江 の言葉を掬 う。
「……なんてこと…………みんな……知られたくない過去とか…………見たくなかったものとか…………色々あるんだよね…………」
「やっぱり、みっちゃんの見立ては正しいね。私たちじゃなきゃ…………こんなの解決出来ないよ…………」
その割り切ったような萌江 の声に、咲恵 の声が続き、響いた。
「…………雪が積もったくらいじゃ、隠せないね…………」
「いこ」
萌江 はそう言って道路に移動しながら続けた。
「ここはもう嫌だ」
「そうだね………………じゃあ…………次に行く?」
「……大丈夫?」
振り返ってそう言う萌江 に、咲恵 はすぐには返さなかった。
それでも、咲恵 は萌江 の隣に移動し、水晶を握った萌江 の左手に触って口を開く。
「自分で決めてここに来たからね…………このままじゃ帰れない…………」
☆
そこまではかなりの距離があった。
駅からそこまで真梨子 が歩いたという事実を考えると、その時の気持ちはどんなものだったのだろうかと、もちろん二人の頭にもそんなことが過ぎる。
その時も雪は溶けかけていたのだろうか。溶け続ける歩道の雪も歩きにくさを手助けしたことだろう。
二人は近くまでタクシーを使った。
時間はもう一五時を過ぎている。すでに陽が傾いているのが空の色からも分かった。曇り空とはいえ、その明るさの変化は早い。
郊外。道路は片側一車線のまっすぐな道。
周囲にはかろうじて民家が点在する程度になってきた。
そんな頃、タクシーのガラス越しに見えてきたのは大きな鳥居 。
その鳥居 の前でタクシーが停まる。
「ここですよね」
運転手が僅かに不思議そうな声を出すと、応えたのは咲恵 だった。
「…………はい、ここで大丈夫です」
咲恵 は財布から五千円札を出して続ける。
「お釣りは結構ですので」
「あ……すいません。ありがとうございます」
そう応えた運転手の笑顔を後 ろに、二人は鳥居 に視線を送ったままタクシーを降りた。
きっと、元々はもっと鮮やかな〝朱色 〟だったのだろう。しかし人間が管理しないだけでどんな物も褪 せていく。しかもそれは色だけではない。
「所詮は人間の作った物」
鳥居 を見上げる咲恵 の隣を、萌江 はそう言って追い抜いた。鳥居 の真ん中を堂々と歩いていく。その後ろを追いかけながら咲恵 は思う。
──……この背中が頼もしいんだよね…………
萌江 が言葉を続けた。
「鳥居 の真ん中って、神様の通り道って言うんでしょ? ただのマナー規範の教えだったのにね。道の真ん中を歩いてたら他の人に迷惑だからってことでしょ。そういうのが昔の日本人の礼儀正しさを作ったんだよね。そういう部分って、私は好きだよ」
──……私は、あなたの…………そういうところが好きなんだ…………
左右を埋め尽くしていた木々が終わる。
開けた空間に大きな建物。
見た目は大きな神社。
咲恵 に、懐かしさだけではない郷愁 が押し寄せる。
そこは、紛れもなく、かつて咲恵 が〝神〟として祀 り上げられた所。
落ちた屋根の瓦。割れたガラス。取り外されたように穴の開いた壁。
かつての栄華 は、もうここには無い。
雑草がはみ出している雪原に立ち尽くし、咲恵 は体が動かない。
そこに、萌江 の声。
「大丈夫だよね」
その声で、不思議と咲恵 の体の中心に何かが走る。
そして、やっと声を出せた。
「うん。私には萌江 がいる」
そう言った咲恵 は首を回す。その視線の先には、かつての御神木 である〝冬桜 〟。
二人で足を進める。
冬には似つかわしくないような、爽やかな風が吹いた。
冬桜 の白い花びらが空中に舞う。
微かに傾き、雲の隙間から顔を出した陽の光。それを浴びた花びらは、まるで光の粒のように辺りを埋め尽くしていく。
その光景の中、咲恵 は、まるで引き寄せられていた。
かつてと何も変わらない。
ずっと、長い間、この場所を見続けてきた。
何かを拒絶するでも抵抗するでもなく、ただ総てを受け入れ続けてきた。
それは、人とは違う〝生き様 〟。
それでも、あの頃と様々なものが交差する。
柵はすでにあちこちが崩れたまま、そこから咲恵 はさらに足を進め、やがてその右手が冬桜 に触れた。
冷たいはず。
暖かかった。
温 もりを感じた。
「……人間の感傷 なんて……小さなものね…………」
掌 を通して伝わるその〝歴史〟は、とても一人の人間が抱えられるものではない。
同時に、その冬桜 にとっては、それすらも過ぎていくだけのもの。
「…………あなたにとっては小さなこと……それでも覚えていてくれたのね…………彼女のこと…………ありがと……」
途端に、懐かしい感情が咲恵 に流れ込んだ。
思い出したくない過去の連鎖が、咲恵 の両目から零 れ落ちていく。
「……ごめん…………ごめんね…………」
意味のないことと思いながらも、咲恵 のその感情は容赦無く掻き回された。
「…………私は…………私は…………」
その声は震えながら、弱々しい。
しかしその直後、咲恵 は背中に温 もりを感じた。
萌江 の左の掌 。
咲恵 が冬桜 から右手を離した。
しかし萌江 は、まだ咲恵 の背中から手を離さないまま。
そして、暖かかった。
その掌 から咲恵 の感情が流れ込んでいく。
二人の周囲には白い花びらが舞い続けた。
そして、萌江 が咲恵 の体を包む。
「いいんだよ…………〝咲恵 〟に会いにきたんだ…………会えてよかった…………」
咲恵 はあれ以来両親には会っていない。
どこでどうしているのかも知らない。
探したこともなかった。
知ることすらも怖かった。
そして、咲恵 の能力を持ってしても、両親の足取りを追うことは出来ない。自分で見れないようにしているのだろう、と、咲恵 自身は思っている。
それで良かった。
萌江 も決してそこには深く触れようとはしない。
その萌江 の気遣いが好きだった。
総てを知った上で、萌江 は咲恵 の側にいた。
お互いに、他の人間では埋められない部分がある。
その微妙な距離感が二人を繋いでいた。
陽が強く傾く。
この季節の夕暮れは短い。
☆
朝から、再びの雪。
一度溶けかけ、総てが消える前にまた積み重なっていく。
凍結するほどの冷え込みでないことは救いではあったが、道路の歩きにくさはこの季節ならでは。
金曜日。
降り続き、辺りを真っ白に染めた大粒の雪は、昼過ぎ、その姿を消す。
まだ、どこの雪の上の足跡も真新しい。
そんな跡を残しながら、マンションのロビー前。
萌江 と咲恵 の目の前で、自動ドアのガラスが開く。
そこにいたのは、あの時の若い家政婦。
「あ、この間の……」
少し驚いたようなその表情に、柔らかく返したのは萌江 だった。
「今日はもう上がりですか?真梨子 さんは上に?」
「あ、はい……あれから時間を見ては来て頂いてて、夜もこちらでお泊まりに────」
「そっか……ありがとう」
それが分かれば充分、とばかりに、萌江 と咲恵 は足を進める。
一階で聞くインターフォン越しの真梨子 の声は、一昨日とは明らかに違った。
『お待ちしておりました。入り口の鍵は開いておりますので、どうぞ』
特別明るくも暗くもなかったが、耳に届くものは言葉だけではない。
エレベーターを降り、数十歩、萌江 が玄関のドアノブに手を伸ばした時、それを遮るようにノブに触れたのは咲恵 だった。
しかし咲恵 はドアを見つめたまま何も言おうとはしない。萌江 も聞くことはしなかった。
やがて鍵周りの金属音と共にドアが開くと、そこから廊下に流れ出る空気も一昨日と違う。あの時に感じた重さは感じられない。
決して萌江 も咲恵 も何かをしたわけではない。怪しげな呪文や儀式めいたこともしてはいない。そして、そういうものであることを二人はよく理解していた。
真梨子 がいるのは圭一 の寝室。
聞いていたわけではなかったが、二人に迷いはなかった。
歩きながら、萌江 が小さく口を開く。
「気付かれてる気、する?」
その言葉をまるで予測していたかのように咲恵 。
「うん。勘 の鋭いところがあると思うよ。自覚がないだけ」
廊下の一番奥。
咲恵 のノックの音が、やけに響いて聞こえた。
「どうぞ」
ドアの向こうから真梨子 の声。
部屋は明るかった。
まるで空気そのものが綺麗 にされたかのような、それだけの違いがあった。
中心のベッドの上、圭一 は小さく寝息を立てている。
カーテンは指示通りに開け放たれ、この時期とは思えない強い日差しが入り込んでいた。
どれだけ長くそうしていたのか、ベッド脇の小さな椅子に座り込む真梨子 はその寝顔を見つめ続け、やがて顔を上げた。
「お待ちしておりました」
声は柔らかい。
しかし、どこかまだ硬い。
最初に言葉を返したのは萌江 だった。
「家政婦さん……指示通りに帰らせてくれたんだね?」
「…………はい……先ほど…………」
真梨子 が応えるが、その声に覇気 は感じられない。
「人払いをする理由…………分かる?」
しかし真梨子 は応えない。
すると咲恵 が萌江 の言葉に繋げる。
「アパートの跡に行ってきました…………やっぱり今はもう更地でした。それでも、真梨子 さんの姿は見えるんです…………あなたがどんなに辛 かったか…………そして、あなたが何をしたのか…………」
そして萌江 。
「あなたが〝幸三 を殺した〟────大量にお酒を飲ませて、足元がおぼつかないままにお風呂に入れて、顔を押さえつけて溺死 に見せかけた」
少しの間 。
ゆっくりと、静かに咲恵 が歩 を進めていた。
やがて、聞こえた真梨子 の声は小さい。
「…………そんな……」
「〝あなたがお腹の子を殺した。だから私はあなたを許さない〟」
鋭 い萌江 の声。
真梨子 の見開かれた目が、微かにだけ、萌江 に向く。
萌江 の言葉が続いた。
「あなたが幸三 の頭を湯船に押し付けながら言った言葉…………覚えてるでしょ。暴れる手足に恐怖を感じながらも、それでもあなたの決心は硬かった」
真梨子 は微動だにしない。
その真梨子 の耳に、萌江 の言葉が響く。
「警察も溺死 として誤魔化 せた。だからあなたはバレると思っていなかったのかもしれない。でも…………あなたのしたことを見ていた人がいたって────」
真梨子 が顔を上げる。見開かれた瞼 が震えていた。
「気付いてた? 分からなかったよね。古いアパートの換気扇の無いお風呂場。格子 が付いてるからいつも少しだけ開けてたでしょ? そこから覗いていたのは…………幸三 の娘…………」
「────娘⁉︎ 娘なんて────」
反射的にそう声を上げて腰を浮かしかけた真梨子 の肩に手をかけたのは、いつの間にか背後に回った咲恵 だった。咲恵 は優しく真梨子 の肩を押し下げる。
そして小さく囁 いた。
「幸三 の秘密…………奥さんを病気で亡くしたんじゃないんです。奥さんは殺されました…………殺したのは一人娘の有里 …………真梨子 さんが幸三 を殺 めたのは、何の因果 か、ちょうど有里 さんの出所の日…………」
「────そんな…………そんなこと…………」
体を震わせる真梨子 の背中に、優しく咲恵 は手を添えた。
「有里 さんはお母さんから虐待を受けていました。義理の母親だったんです。幸三 の最初の妻との間の子…………幸三 は有里 さんを必死に守りました。でも守りきれないまま……有里 さんは義理の母親を殺し、すぐに幸三 の交番に駆け込みました。泣きながらね…………情状酌量の余地もあって、それほど刑期は長くありませんでした。まだ未成年だったことも理由でしょうけど、幸三 さんも辛かったでしょうね……自分の娘を逮捕したんですもの…………それからは色々と肩身は狭かったみたいです…………やっと有里 さんが出所してきたところで、お風呂場から音がして────」
「────やめてっ‼︎」
「あなたの言葉で……多くのことを理解したはず…………」
その咲恵 の言葉に、今度は萌江 が言葉を繋げる。
「出所したての人間の証言なんて警察は信じないだろうと思ったみたい。まあ、理由はどうあれ、義理の母親を殺してるしね。自分が疑われかねない…………だから…………有里 は…………真梨子 さんへの復讐を心に誓った…………」
「………………やめて…………」
「有里 は圭一 さんに近付いた。成功者のあなたへの嫉妬もあったんじゃないかな…………同じ犯罪者なのに、真梨子 さんは逮捕されていない。婚約者がいる圭一 さんに近付いて若い女と浮気をさせ、既成事実が出来た時点で真梨子 さんの過去をバラす…………圭一 さんは恐喝されていたみたいだよ。でも母親のために有里 にお金を払い続けた。婚約者のこともあるし、そんな過去をマスコミにでも流されたら会社は終わる…………あなたの夢を支えたくて大学の政経学部で勉強してきたんだもの…………ちょっとした火遊びがこんなことになるなんてね…………」
少しの間を空けて、更に萌江 が続ける。
「だからさ、だから圭一 さんの夢に出てくる女の子は一人なんだよ。有里 から〝お腹の子供〟って聞いてても、あなたの最初の中絶の話は知らない。だから出てくるのは一人だけ。もし本当に幽霊が出てきてるなら、どうして一人だけなの? でもあなたは更にその前の中絶を入れて二人流してる。それを知ってるのはあなただけ。真梨子 さんには二人見えるんでしょ? おかしいじゃない。圭一 さんのことで過去を思い出して、あなたが自分で自分に呪 いをかけただけ…………それが答えだよ」
それを掬 い上げるのは咲恵 。
「母親の信じられないような過去に…………圭一 さんはかなり苦しんだんでしょうね…………会ったことのない〝姉〟の幻を見るくらいに…………そのくらいに母親を信じていたんですよ」
すると、真梨子 が震えながら声を絞り出す。
「…………あの子たちを…………産んであげられなかった…………絶対に私を恨 んで────」
「あなたが両親を恨 んでるからって、あなたも恨 まれてるって考えてるだけでしょ⁉︎」
叫んでいたのは萌江 だった。
真梨子 も反射的に叫ぶ。
「あなたに何が分かるの⁉︎」
そんな真梨子 に、萌江 はなおも食いつく。
「分かるんだってば‼︎ 私も親に捨てられたし子供を産んであげられなかった! 自分の息子を大事にしなさいよ! 産んであげられなかった子供の分まで大事にしてあげたらいいじゃない! せっかく親になったんでしょ! 親になりたくても、なれなかった人間だっているのよ‼︎」
何も応えられないまま、真梨子 は項垂 れるように肩を落としたまま。
しかし、そこにかける咲恵 の声は柔らかかった。
「あなたがこれからどうするか…………有里 さんをどうするか…………それは真梨子 さんと圭一 さんが決めてください。私たちの仕事はここまでです。これ以上、人生に踏み込むつもりはありません。ただ、今回のことが真梨子 さんの後悔 から生まれたものだとするなら…………それはこれからでも償 えるはず…………私は、人生ってそういうものなんじゃないかと思ってます」
「ま、私たちがいうのも変な話だけど…………」
そう言った萌江 が続けた。
「普通の人間じゃないしね。見たくないものも見えるしさ…………でも、それで助かる人がいるなら…………そこに生きる意味を見出したっていいじゃん」
真梨子 が顔を上げた。腫 れた瞼 が痛々しくも、不思議とその表情は穏やかになっていた。
萌江 が繋ぐ。
「だからさ…………終わった過去なんかどうでもいいとは言わないけど…………真梨子 さんが家族で幸せになってくれたらいいと思うよ。個人的な感情で他人の人生に介入なんかしたくないけど…………最後に一つだけ言わせて……………………あなたは、もう充分に苦しんだ…………二人の娘は、あなたを恨 んでなんかいない。過去の自分を解放してあげて」
真梨子 の目から涙が零 れる。
そして萌江 はドアに向かった。
その背中に真梨子 の声。
「お金を…………」
「最初に充分もらったよ」
その萌江 の言葉に、咲恵 が繋げる。
「お金は圭一 さんのために使ってあげてください。過去のことも含めて二人でしっかりと話して、それから外の空気に触れたら、すぐに元の圭一 さんに戻りますよ」
そして二人はマンションを後にした。
オレンジ色に変わっている空をフロントガラス越しに眺めながら、運転席の咲恵 が口を開いた。
「萌江 にしては珍しいね。これからのことにアドバイスするなんて…………」
萌江 も外の風景に目を配りながら返していく。
「うん……なんかさ…………許されていい罪なんか無いのかもしれないけど…………許されてもいい過去ならあるんじゃないかなって…………」
「萌江 のそういうところ…………」
口をつぐんだ咲恵 の横顔に視線を振った萌江 が返す。
「何よ」
「別に」
「好きなら好きって言いなさいよ」
「今夜ボトル入れてくれるならね」
「一〇本入れてよママ」
「毎度」
やっと、二人の顔に笑みが浮かんでいた。
☆
時間はまだ午前中。
アパートの住人は誰もいないはず。
例え誰かに水の音を聞かれたとしても、自分は寝ていて気が付かなかったことにすれば事故で済む。幸三 もすでに六一才。酒を飲んだ後の入浴で溺死 しても怪しまれる年齢ではないだろう。
しかも休日となると朝から酒を飲むのは周囲でも知られていたこと。
平成元年。
すでに定年退職後の嘱託 職員の幸三 が死んだところで、職場にもそれほどの影響はないだろうと考えた。
裸で浴槽のお湯の中で暴れる幸三 の頭を、真梨子 は力の限り押さえ付けていた。
今までの自分の過去をぶつけるかのように、どこからそんな力が出ているのか不思議なくらいだった。もはや幸三 によって流産させられた子供の分だけではなかったのだろう。今まで真梨子 の中に溜まっていたものが一気に吹き出したような、そんな力が真梨子 の中に眠っていた。
呼吸を出来ずに苦しむということはこういうことかと、痙攣 する幸三 の手足を視線の隅に置きながら、妙に冷静な自分もいる。
やがて、少しずつ、その痙攣 が小さくなっていく。
「あなたがお腹の子を殺した。だから私はあなたを許さない」
いつの間にか言葉が溢 れていた。
そして、幸三 の体の動きが止まる。
それでもしばらくの間、真梨子 は幸三 の頭から手を離さなかった。
人を殺すのは大変なこと。
──……それなのに…………私は子供を二人も殺した…………
警察の実況見分は溺死 という結果に落ち着いた。
無事に葬儀も終わり、真梨子 は新しいアパートを借りた。戸籍上は幸三 の義理の娘。数年前に振り込まれた幸三 の退職金が入った銀行の通帳もある。お金はすぐに自分の通帳に移した。
すぐにお金に困ることはなかったが、少しずつ減っていく通帳の数字に気持ちが騒 つく日々。
平成二年。
真梨子 は二五才になっていたが、過去に働いたことがあるのは風俗業だけ。就職活動も思うようにいかない。年齢に反比例した空白だらけの履歴書の時点で断られることがほとんどだった。
結局、真梨子 は再び風俗店の扉を開けてしまう。
しかし、そこは別世界のようだった。
女性は昔真梨子 がいた店のような奴隷ではなく、一人の従業員として働いている。しっかりと給料をもらい、何より、店が従業員の女性を守っていた。
何の抑圧 も感じない。
もちろん複雑な過去を持って働いている女性も多かった。それでもボロ切れのように働かされているわけではない。一人の人間として生きていた。
その店で働き続け、真梨子 が二七才の時。
店は狭いながらも個室がいくつも並ぶ地下の店。最低時間は四〇分から。スタンダードな料金設定のためか、初めての客も多い。
その客も初めての客だった。というよりも、そういう店自体が初めての客。
三三才。五年前に離婚経験があり、小さいながらも会社を経営していた。
優しい男性だった。
他にも優しい客はいる。しかしその客は、真梨子 を〝店の女の子〟ではなく〝一人の女性〟として見てくれた。
毎回指名をするだけでなく、二度目にきた時から短くても二時間。ただ真梨子 と会話をして帰っていく時もある。それでも他の客のように宝石やアクセサリーを貢 いでくるわけでもない。純粋に真梨子 との時間を楽しんでいるように見えた。
やがて、いつの間にか、少しずつ真梨子 も自分の過去を語るようになっていた。そして、それを黙って聞き続けてくれた客────橋田隆三 と結婚するのにそれほど時間はかからなかった。
結婚を機に風俗業から足を洗ったが、そんな真梨子 を隆三 は守り続けた。その過去を自分の両親や親戚には隠し続け、自分の経営する会社に招き入れて仕事にも関わらせた。それは真梨子 の夢を隆三 が聞いていたからだった。隆三 はそれを何とかして叶え、真梨子 が自立出来るようにしてあげるべきだと考えていたからだった。
真梨子 の妊娠が分かったのは平成六年。
真梨子 二九才。
隆三 は喜んでくれた。しかし真梨子 の気持ちは複雑だった。
中絶と流産を経験し、一度も出産を経験したことがない。無事に産める自信もない。産んであげられなかった二人の子供への負い目もある。
もちろん隆三 にも過去の二度のことは話している。その上で二人で何度も話し合い、出産に向けて努力することを決めた。少し過剰なくらいに隆三 が真梨子 の体調を気にかけてくれる時もあったが、それでも真梨子 にはそんなことですら嬉しい。
男性が怖いと思っていた。
それは風俗業に復業しても変わらなかった。
そんな真梨子 を変えてくれたのが隆三 だった。
隆三 のような優しい男性がいる。
隆三 は自分のことを真剣に考えてくれる。
翌年、無事に圭一 が産まれた。
しばらくは真梨子 が子育てに専念したが、数年後に落ち着いた頃から、隆三 は真梨子 に会社の収支を報告し続けた。いつか自立する時のために、真梨子 には常に経営に携 わっていて欲しいと隆三 は考えていた。
圭一 が大学の政経学部を卒業したのは平成三〇年。
年号が令和に変わり、真梨子 が念願の会社を設立する。そして両親から経営学を学んだ圭一 が専務となり、真梨子 を支えた。
圭一 が体調不良を訴えたのは翌年の秋。
隆三 のバックアップもあって本社ビルが完成した直後だった。
☆
その日は朝から大雪だった。
真梨子 は会社の運転手の制止も聞かずに雪の中を歩き続けた。
やがて足を止めると、後ろを振り返って口を開く。
「圭一 、大丈夫?」
「大丈夫だよ母さん。こんな雪の中でもしっかり歩けるくらいにね」
あれからほんの数日で、圭一 の体調は嘘のように回復した。
二人で多くのことを話した。
二人でこれからのことを決断した。
そして、二人で不思議な経験を共有し、そのケジメとしてここにやってきた。
今年も多くの花を咲かせた〝冬桜 〟。
季節に似合わない爽やかな風が、その花を散らす。
二人の頭上の陽の光が、花びらを輝かせる。
その大きな木が枯れるのは、まだ先のことに違いない。
☆
「電車動かないみたいだよ〜」
まだ開店前。カウンターの上ですでにだいぶアルコールに呑まれた萌江 がくだを巻く。
「朝から大雪なんだから仕方ないでしょ。それよりどうしてあなたは開店前からそんなに酔っぱらってるのよ」
グラスを拭きながら応える咲恵 の眉間 には無意識の内に皺 がよる。
「だってボトル一〇本も入れちゃったんだもん」
「大雪で山道が通行止めになる前にバスで来れてようございました」
そして、店のドアの鈴が鳴る。
「あら、みっちゃん」
咲恵 の声に、満田 はいつもの反応。
「だからその呼び方は────」
「こんな大雪なのに今日は開店前から賑やかねえ」
「まあいい…………今日はこれを持ってきた」
満田 は相変わらず萌江 から一つ椅子を空けてカウンターに座ると、分厚い封筒をカウンターに置いて言葉を繋げた。
「前回の仕事の所…………息子さんは嘘みたいに回復したそうだよ。もう仕事にも復帰したそうだ。これはそのお礼とのことで預かってきた」
その満田 の横顔を見ながら、萌江 が小さく呟く。
「…………そっか」
「いつもながら面白い話だったよ。さすがだ」
しかし萌江 は何も返さない。
「これは俺の独り言なんだが…………あの会社、海外に支社を作るそうだ。息子に任せるらしい。まさか海外まで恐喝しに行く奴もいないだろうし、充分なくらいな金額は搾り取ってたようだしな」
「情報をリークしたところで自分の恐喝もバレるか…………」
呟くような萌江 の言葉を掻き消すように、続けて咲恵 が口を開いた。
「まさか、みっちゃんがコンサルタントしたの? 会計士の仕事じゃないでしょ?」
「会計士って言っても、いろんな奴がいるのさ…………」
そう言うと満田 が立ち上がって続けた。
「今夜は娘の家に呼ばれてるからもう行くよ。久しぶりに孫にも会いたいしな。早目のクリスマスだ」
歩き始めた満田 が振り返る。
「そいつは俺の取り分は無しだ。謝礼だからな。全部もらってくれ」
そして店を出る。
咲恵 はカウンターの上に手を伸ばすと、封筒を持ち上げて言った。
「預かっとくよ。酔っ払いには任せられないから」
それを横目で見ながら、萌江 が呟く。
「……どうして…………息子さんは〝冬桜 〟を知ってたんだろう…………」
「…………そうだね…………」
小さく応えた咲恵 も、気が付いていた。
有里 から真梨子 のことをリークされただけなら、冬桜 は関係ない。しかしその言葉が真梨子 の幻影を大きくしたのも事実。
咲恵 が続ける。
「記憶を引き継いだとか…………」
「〝誰か〟が繋いだか…………」
「…………萌江 らしくもない応えだね」
「流れた子供二人だって、あの人は女の子って断定してた」
「…………男性に対していい印象を持ってなかったから、娘だと思いたかったとか」
「……それだったら…………あそこまで息子に愛情は注げないよ」
そう言いながら、萌江 がグラスの中を見つめていた。だいぶ小さくなった氷がクルクルと回り続ける。
そして呟いた。
「もしかしたら…………もっと前から、会えていたのかもね…………」
ロックグラスの中の氷が、小さな音を立てて砕けた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二部「冬桜 のうたかた」(完全版)終 〜
翌日、昼過ぎ。
曇り空。
駅前の
そんな中で出た
「電車の中が暖かかったからね。電車内の温度調整も難しいんだよ。だいぶ長時間だったし」
「思ったより遠かったしね」
「そうだね。割り切って店を女の子達に任せてきて正解だったかも」
「無理しなくても、よかったんだよ…………」
「そんなわけにいかないこと…………分かってるでしょ……」
「まあ…………そうだね…………」
もちろん、
話に聞いていた部分も少しはあるが、そのほとんどはお互いに流れ込んできた感情や記憶で理解していた。決してそれについて、ことさら何かを突き詰めようと思ったことはない。
「歩いて二〇分くらいかな」
スマートフォンを眺めながら
「雪道だからもう少しかかりそうだけど、行きますか」
そして二人が歩き始める。
それは今向かっているアパートも同じだった。ネットのマップを見る限りでは、おそらく更地になっているように見える。少なくとも当時の建物は残っていないようだ。別の建物が建っていないことを祈りながら二人は歩き続けた。
寒いとは言ってもプラスの気温。歩道に僅かに積もった雪が溶けかけて歩きにくい。救いはそれほど人が歩いていないことだろうか。駅も周辺の道路も
道路沿いのお店はだいぶ様変わりしているようだが、
「やっぱりだったね」
やはりそこは更地だった。
かなり広い。アパートの建物一棟だけではなく、周辺の建物も取り壊されているような広さだ。十字路の角という話だったので大体の位置は特定出来た。
何回にも分けて深く積もった雪から、僅かに雑草が顔を出す。周囲に看板のような物もないので、今すぐ何かが建設予定ということでもないようだ。
「……こうして……変わっていくんだね……」
「部屋の位置までは…………難しいかな…………」
「たぶん分かる……大丈夫……」
水晶が熱い。
やがて、
「…………ここ………………ああ…………そうきたか…………旦那さんに知られたくない過去って……そういうことか…………」
その
その
「……やられたね…………あの人は私たちにも隠してた…………」
「うん…………それに……………………あの人の知らないこともね…………」
すると、
「……なんてこと…………みんな……知られたくない過去とか…………見たくなかったものとか…………色々あるんだよね…………」
「やっぱり、みっちゃんの見立ては正しいね。私たちじゃなきゃ…………こんなの解決出来ないよ…………」
その割り切ったような
「…………雪が積もったくらいじゃ、隠せないね…………」
「いこ」
「ここはもう嫌だ」
「そうだね………………じゃあ…………次に行く?」
「……大丈夫?」
振り返ってそう言う
それでも、
「自分で決めてここに来たからね…………このままじゃ帰れない…………」
☆
そこまではかなりの距離があった。
駅からそこまで
その時も雪は溶けかけていたのだろうか。溶け続ける歩道の雪も歩きにくさを手助けしたことだろう。
二人は近くまでタクシーを使った。
時間はもう一五時を過ぎている。すでに陽が傾いているのが空の色からも分かった。曇り空とはいえ、その明るさの変化は早い。
郊外。道路は片側一車線のまっすぐな道。
周囲にはかろうじて民家が点在する程度になってきた。
そんな頃、タクシーのガラス越しに見えてきたのは大きな
その
「ここですよね」
運転手が僅かに不思議そうな声を出すと、応えたのは
「…………はい、ここで大丈夫です」
「お釣りは結構ですので」
「あ……すいません。ありがとうございます」
そう応えた運転手の笑顔を
きっと、元々はもっと鮮やかな〝
「所詮は人間の作った物」
──……この背中が頼もしいんだよね…………
「
──……私は、あなたの…………そういうところが好きなんだ…………
左右を埋め尽くしていた木々が終わる。
開けた空間に大きな建物。
見た目は大きな神社。
そこは、紛れもなく、かつて
落ちた屋根の瓦。割れたガラス。取り外されたように穴の開いた壁。
かつての
雑草がはみ出している雪原に立ち尽くし、
そこに、
「大丈夫だよね」
その声で、不思議と
そして、やっと声を出せた。
「うん。私には
そう言った
二人で足を進める。
冬には似つかわしくないような、爽やかな風が吹いた。
微かに傾き、雲の隙間から顔を出した陽の光。それを浴びた花びらは、まるで光の粒のように辺りを埋め尽くしていく。
その光景の中、
かつてと何も変わらない。
ずっと、長い間、この場所を見続けてきた。
何かを拒絶するでも抵抗するでもなく、ただ総てを受け入れ続けてきた。
それは、人とは違う〝生き
それでも、あの頃と様々なものが交差する。
柵はすでにあちこちが崩れたまま、そこから
冷たいはず。
暖かかった。
「……人間の
同時に、その
「…………あなたにとっては小さなこと……それでも覚えていてくれたのね…………彼女のこと…………ありがと……」
途端に、懐かしい感情が
思い出したくない過去の連鎖が、
「……ごめん…………ごめんね…………」
意味のないことと思いながらも、
「…………私は…………私は…………」
その声は震えながら、弱々しい。
しかしその直後、
しかし
そして、暖かかった。
その
二人の周囲には白い花びらが舞い続けた。
そして、
「いいんだよ…………〝
どこでどうしているのかも知らない。
探したこともなかった。
知ることすらも怖かった。
そして、
それで良かった。
その
総てを知った上で、
お互いに、他の人間では埋められない部分がある。
その微妙な距離感が二人を繋いでいた。
陽が強く傾く。
この季節の夕暮れは短い。
☆
朝から、再びの雪。
一度溶けかけ、総てが消える前にまた積み重なっていく。
凍結するほどの冷え込みでないことは救いではあったが、道路の歩きにくさはこの季節ならでは。
金曜日。
降り続き、辺りを真っ白に染めた大粒の雪は、昼過ぎ、その姿を消す。
まだ、どこの雪の上の足跡も真新しい。
そんな跡を残しながら、マンションのロビー前。
そこにいたのは、あの時の若い家政婦。
「あ、この間の……」
少し驚いたようなその表情に、柔らかく返したのは
「今日はもう上がりですか?
「あ、はい……あれから時間を見ては来て頂いてて、夜もこちらでお泊まりに────」
「そっか……ありがとう」
それが分かれば充分、とばかりに、
一階で聞くインターフォン越しの
『お待ちしておりました。入り口の鍵は開いておりますので、どうぞ』
特別明るくも暗くもなかったが、耳に届くものは言葉だけではない。
エレベーターを降り、数十歩、
しかし
やがて鍵周りの金属音と共にドアが開くと、そこから廊下に流れ出る空気も一昨日と違う。あの時に感じた重さは感じられない。
決して
聞いていたわけではなかったが、二人に迷いはなかった。
歩きながら、
「気付かれてる気、する?」
その言葉をまるで予測していたかのように
「うん。
廊下の一番奥。
「どうぞ」
ドアの向こうから
部屋は明るかった。
まるで空気そのものが
中心のベッドの上、
カーテンは指示通りに開け放たれ、この時期とは思えない強い日差しが入り込んでいた。
どれだけ長くそうしていたのか、ベッド脇の小さな椅子に座り込む
「お待ちしておりました」
声は柔らかい。
しかし、どこかまだ硬い。
最初に言葉を返したのは
「家政婦さん……指示通りに帰らせてくれたんだね?」
「…………はい……先ほど…………」
「人払いをする理由…………分かる?」
しかし
すると
「アパートの跡に行ってきました…………やっぱり今はもう更地でした。それでも、
そして
「あなたが〝
少しの
ゆっくりと、静かに
やがて、聞こえた
「…………そんな……」
「〝あなたがお腹の子を殺した。だから私はあなたを許さない〟」
「あなたが
その
「警察も
「気付いてた? 分からなかったよね。古いアパートの換気扇の無いお風呂場。
「────娘⁉︎ 娘なんて────」
反射的にそう声を上げて腰を浮かしかけた
そして小さく
「
「────そんな…………そんなこと…………」
体を震わせる
「
「────やめてっ‼︎」
「あなたの言葉で……多くのことを理解したはず…………」
その
「出所したての人間の証言なんて警察は信じないだろうと思ったみたい。まあ、理由はどうあれ、義理の母親を殺してるしね。自分が疑われかねない…………だから…………
「………………やめて…………」
「
少しの間を空けて、更に
「だからさ、だから
それを
「母親の信じられないような過去に…………
すると、
「…………あの子たちを…………産んであげられなかった…………絶対に私を
「あなたが両親を
叫んでいたのは
「あなたに何が分かるの⁉︎」
そんな
「分かるんだってば‼︎ 私も親に捨てられたし子供を産んであげられなかった! 自分の息子を大事にしなさいよ! 産んであげられなかった子供の分まで大事にしてあげたらいいじゃない! せっかく親になったんでしょ! 親になりたくても、なれなかった人間だっているのよ‼︎」
何も応えられないまま、
しかし、そこにかける
「あなたがこれからどうするか…………
「ま、私たちがいうのも変な話だけど…………」
そう言った
「普通の人間じゃないしね。見たくないものも見えるしさ…………でも、それで助かる人がいるなら…………そこに生きる意味を見出したっていいじゃん」
「だからさ…………終わった過去なんかどうでもいいとは言わないけど…………
そして
その背中に
「お金を…………」
「最初に充分もらったよ」
その
「お金は
そして二人はマンションを後にした。
オレンジ色に変わっている空をフロントガラス越しに眺めながら、運転席の
「
「うん……なんかさ…………許されていい罪なんか無いのかもしれないけど…………許されてもいい過去ならあるんじゃないかなって…………」
「
口をつぐんだ
「何よ」
「別に」
「好きなら好きって言いなさいよ」
「今夜ボトル入れてくれるならね」
「一〇本入れてよママ」
「毎度」
やっと、二人の顔に笑みが浮かんでいた。
☆
時間はまだ午前中。
アパートの住人は誰もいないはず。
例え誰かに水の音を聞かれたとしても、自分は寝ていて気が付かなかったことにすれば事故で済む。
しかも休日となると朝から酒を飲むのは周囲でも知られていたこと。
平成元年。
すでに定年退職後の
裸で浴槽のお湯の中で暴れる
今までの自分の過去をぶつけるかのように、どこからそんな力が出ているのか不思議なくらいだった。もはや
呼吸を出来ずに苦しむということはこういうことかと、
やがて、少しずつ、その
「あなたがお腹の子を殺した。だから私はあなたを許さない」
いつの間にか言葉が
そして、
それでもしばらくの間、
人を殺すのは大変なこと。
──……それなのに…………私は子供を二人も殺した…………
警察の実況見分は
無事に葬儀も終わり、
すぐにお金に困ることはなかったが、少しずつ減っていく通帳の数字に気持ちが
平成二年。
結局、
しかし、そこは別世界のようだった。
女性は昔
何の
もちろん複雑な過去を持って働いている女性も多かった。それでもボロ切れのように働かされているわけではない。一人の人間として生きていた。
その店で働き続け、
店は狭いながらも個室がいくつも並ぶ地下の店。最低時間は四〇分から。スタンダードな料金設定のためか、初めての客も多い。
その客も初めての客だった。というよりも、そういう店自体が初めての客。
三三才。五年前に離婚経験があり、小さいながらも会社を経営していた。
優しい男性だった。
他にも優しい客はいる。しかしその客は、
毎回指名をするだけでなく、二度目にきた時から短くても二時間。ただ
やがて、いつの間にか、少しずつ
結婚を機に風俗業から足を洗ったが、そんな
中絶と流産を経験し、一度も出産を経験したことがない。無事に産める自信もない。産んであげられなかった二人の子供への負い目もある。
もちろん
男性が怖いと思っていた。
それは風俗業に復業しても変わらなかった。
そんな
翌年、無事に
しばらくは
年号が令和に変わり、
☆
その日は朝から大雪だった。
やがて足を止めると、後ろを振り返って口を開く。
「
「大丈夫だよ母さん。こんな雪の中でもしっかり歩けるくらいにね」
あれからほんの数日で、
二人で多くのことを話した。
二人でこれからのことを決断した。
そして、二人で不思議な経験を共有し、そのケジメとしてここにやってきた。
今年も多くの花を咲かせた〝
季節に似合わない爽やかな風が、その花を散らす。
二人の頭上の陽の光が、花びらを輝かせる。
その大きな木が枯れるのは、まだ先のことに違いない。
☆
「電車動かないみたいだよ〜」
まだ開店前。カウンターの上ですでにだいぶアルコールに呑まれた
「朝から大雪なんだから仕方ないでしょ。それよりどうしてあなたは開店前からそんなに酔っぱらってるのよ」
グラスを拭きながら応える
「だってボトル一〇本も入れちゃったんだもん」
「大雪で山道が通行止めになる前にバスで来れてようございました」
そして、店のドアの鈴が鳴る。
「あら、みっちゃん」
「だからその呼び方は────」
「こんな大雪なのに今日は開店前から賑やかねえ」
「まあいい…………今日はこれを持ってきた」
「前回の仕事の所…………息子さんは嘘みたいに回復したそうだよ。もう仕事にも復帰したそうだ。これはそのお礼とのことで預かってきた」
その
「…………そっか」
「いつもながら面白い話だったよ。さすがだ」
しかし
「これは俺の独り言なんだが…………あの会社、海外に支社を作るそうだ。息子に任せるらしい。まさか海外まで恐喝しに行く奴もいないだろうし、充分なくらいな金額は搾り取ってたようだしな」
「情報をリークしたところで自分の恐喝もバレるか…………」
呟くような
「まさか、みっちゃんがコンサルタントしたの? 会計士の仕事じゃないでしょ?」
「会計士って言っても、いろんな奴がいるのさ…………」
そう言うと
「今夜は娘の家に呼ばれてるからもう行くよ。久しぶりに孫にも会いたいしな。早目のクリスマスだ」
歩き始めた
「そいつは俺の取り分は無しだ。謝礼だからな。全部もらってくれ」
そして店を出る。
「預かっとくよ。酔っ払いには任せられないから」
それを横目で見ながら、
「……どうして…………息子さんは〝
「…………そうだね…………」
小さく応えた
「記憶を引き継いだとか…………」
「〝誰か〟が繋いだか…………」
「…………
「流れた子供二人だって、あの人は女の子って断定してた」
「…………男性に対していい印象を持ってなかったから、娘だと思いたかったとか」
「……それだったら…………あそこまで息子に愛情は注げないよ」
そう言いながら、
そして呟いた。
「もしかしたら…………もっと前から、会えていたのかもね…………」
ロックグラスの中の氷が、小さな音を立てて砕けた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二部「