第一部「妖艶の宴」第2話(完全版)
文字数 12,543文字
高田健二が浮気相手の子供────萌江を引き取ってからもうすぐ一年が経とうとしていた。
皮肉なのか、引き取った日は萌江の一才の誕生日。それを知ったのは引き取った数日後だったが、どうしてなのか、娘の誕生日に母親は事故で亡くなったことになる。
少なくとも健二は事故と聞いていた。
限りなく自殺に近い事故。警察でも自殺、事故、事件と、健二が事情を聞かれている時点では答えが出ていなかったのが現状。
そしてもうすぐ、萌江の二歳の誕生日がやってくる。
健二は会社ではそれなりの立場だった。大手でもある会社内で、エリート組の健二の立場は堅牢だ。元々親の名前で入社したようなものだった。大きな財閥の次男であるために実家を直接継ぐ必要はなかったが、就職したのは財閥のグループ会社。将来も安泰の立場だ。
妻の紗英は当然のように専業主婦だった。紗英自身、その立場を欲しくて結婚したのだろうと健二は考えている。
浮気と隠し子が発覚し、その子供を紗英に押し付けてから、自然と健二の毎日の帰宅時間は遅くなっていった。休みの日にも意味もなく一人で出かけることが多い。適当に時間を潰して夜に家に帰る。
しばらく紗英と食卓を囲んだ記憶がない。会話は事務的なものだけ。健二が寝るのもこの一年はリビングのソファーだ。
紗英が萌江をちゃんと育てているのかも分からない。休日の朝ぐらいしか萌江の顔を見ることはなくなっていた。
それでも、まさか紗英があんな結果を求めるとは考えもしていない。
それは長い夜になった。
日曜日、適当に外をブラつき、車で家に帰った時は夜の七時を回っていた頃。いつもはもう少し遅く帰るのだが、なぜか、その日は早目に帰宅することを選んだ。
久しぶりに紗英と話をしようと考えていた。
離婚をするとしても、しっかりと話そうと思った。お互いの家のこともある。簡単ではない。それぞれの実家から猛反対されることも簡単に想像出来た。
家に入ると、玄関からリビングまで電気が点いたまま。
そして静かだった。
こんな時間に買い物にでも出ているのだろうか。健二は紗英の最近の生活スタイルを知らない。それほどまでに希薄な関係になっていた。
──……こんな夜に、幼い子供を連れて…………
そう思いながら、健二は台所に向かう。シンクの中に汚れたままの皿が何枚も重ねられている光景を見ると、健二は紗英に擦り寄ろうとしていた自分の中にフツフツと怒りのようなものが湧き上がるのを感じた。
──……専業主婦だったらこのくらいのこと…………
そんなイライラを募らせながら、僅かに残っていたグラスに水を注ぐと、一気に飲み干した。そのグラスを乱暴にシンクの中に置くと、シャワーでも浴びようと風呂場へ足を向ける。
廊下からの扉を開け、脱衣所へ。
そこも電気は点けられたまま。
閉じられた浴槽への曇りガラス。
その空間で、いつも見えるはずのない色が視界に飛び込んだ。
それは、曇りガラス越しに見える、真っ赤な色。
なぜか、健二は何も考えられないまま、思考は働かなかった。もしかしたら、という想像すらも浮かばない。
やがて健二がその扉を開けると、そこには首に包丁を突き立てたまま座り込む紗英。
その全身と周囲は、至る所が真っ赤に濡れ、紗英の見開かれた目が浴槽の中の真っ赤な血溜まりに注がれている。
そこに仰向けに浮かぶのは、萌江の姿。
その光景に、健二の中に突然湧き上がる緊張感が慌てて萌江を抱き上げる。
足が滑った。
床に広がるまだ暖かい紗枝の血が健二の足に絡み付いていく。
転んで頭を打ち、顔を上げると、見開かれた紗英の目が健二を見つめていた。
生きているのか死んでいるのかも分からないようなその目に、健二が初めて感じる恐怖。
直後、腕の中の萌江が咳き込む。
足を滑らせながら、萌江を抱きながらリビングまで。
電話の受話器を取ると、震える手で一一九番へ。健二は紗英が自殺したとは伝えなかった。冷静ではなかったのだろう。何を話したのかも覚えていない。
やがて到着した救急隊員の通報で警察もやってくることになった。
萌江はだいぶ浴槽の水を飲み、同時に首を閉められていたが一命は取り留めた。
事件の可能性があるために警察の捜査は入ったが、紗英の検死解剖の結果は自殺。
それでも当然、警察からも事情を聞かれた。
「検死解剖の結果は自殺しか考えられないとの結果でした。つまり、包丁の刺し傷の角度とかから明らかに自分で刺したものであるということです。しかし医者は言ってましたよ高田さん。あんなに何度も自分の胸に、しかもあんなに深く刺せるというのは、まともな精神状態ではないだろうとね。しかもトドメに首まで刺してる…………」
警察官の口調から、明らかに自分に疑いの目が向けられている緊張感。
そしてその言葉に、健二は顔を上げられないまま、この時間が早く終わってくれることだけを願った。
「最近奥様と喧嘩でも? 何かおかしな言動とかありませんでしたか?」
目の前の机の表面を眺めながら、いつの間にか健二の口元に、小さく笑みが浮かんでいた。
──……自分から、いなくなってくれた…………
「検死解剖の結果が結果ですから、警察としては奥様が娘さんと心中を図った、という形に納めるしかありませんが…………」
──……あいつのために…………俺がどれだけ苦労をしたか…………
警察署から病院に戻った時にはすでに朝。
萌江はその日の内には退院することが出来た。
そのまま健二は内見もせずにマンションを借りた。あの家に戻るのは嫌だった。
問題は警察の捜査が入ってしまったことで実家に事の顛末が知られた事だ。健二はこれまでの総てを話すしかなかった。
愛人のこと。
萌江のこと。
愛人の死。
養子が愛人の子供だったこと。
そして紗英の自殺。
実家にも立場というものがある。
父親は現職の地方議員。
スキャンダルは避けたい。
そして、健二は縁を切られた。
権力を使ってスキャンダルは揉み消される。
それと同時に仕事を失う。それも解雇という形だった。退職金は出ない。
それでもまだ貯蓄はあった。
しかし健二は子育てなどしたことがない。適当に育児の本を買い、適当な子育てを繰り返す。しかし思うようになどいくはずもない。
毎日、萌江の泣き声に神経をすり減らしていった。
──……こいつも…………一緒に死んでくれたら楽だったのに…………
いつしか、萌江をマンションに置き去りにして職業安定所に通う日々が続く。
仕事はなかなか見付からなかった。
しだいに貯蓄もすり減っていく。
前向きな思考など、すでに忘れていた。
自発的な思考が何かも思い出せない。
そんな日々が続いたある夜、少しずつ衰弱していく萌江を抱え、健二はマンションを出た。
もはや何時なのかも分からない。
萌江を抱える健二も、衰弱していた。
いつの間にか、前の会社の時によく使っていた駅に着いていた。
理由は分からない。
どこまでの切符を買ったのかも自覚がないまま、夜の閑散としたホームの椅子に腰を降ろしていた。明らかに様子がおかしいと思われたのだろう。周囲の人たちがチラチラと見る中、駅員も近くで様子を伺っていた。
アナウンスと共に、列車がホームに近づく。
健二は抱いていた萌江を隣の椅子に置くと、小さく呟いた。
「……お前の…………お母さんのところに行ってくるよ…………ごめんな…………」
そして、駅員の動きは間に合わなかった。
☆
「……ごめん…………」
ベッドで裸の萌江を後ろから抱きしめながら、咲恵が囁く。
「そんな幼い頃の記憶まで…………」
本来なら物心がつく前の記憶。
しかしなぜか、萌江の中にはその歴史があった。そんなものまで容赦なく咲恵の中に入り込む。そしてなぜか、今夜の萌江はそれを止められなかった。
カーテン越しに部屋を淡く照らす月明かりでさえ、今夜の萌江の感情を穏やかには出来ないまま。
何かが萌江の気持ちを揺らしている。
その〝何か〟が咲恵には分からないまま。
しかしそんな咲恵に返す萌江の声は優しいものだった。
「大丈夫だよ咲恵。咲恵になら何を見られても平気…………でも咲恵が嫌かと思ってシャットアウトしてた…………けど今夜は無理だった…………私こそごめん」
萌江は自分が冷静ではないことを自覚しながら、懸命に込み上げてくるものを押さえていた。
それを察したのか、咲恵が口を開く。
「今日の仕事…………断ろうか?」
「────だめ」
すぐに、はっきりと応えた萌江の言葉が続いていた。
「……まだ苦しんでる人がいる…………生きてる人と…………もう生きていない人たち…………」
☆
大正五年。
田上重蔵と妻キエの間に娘が産まれる。
その二年後。
大正七年。
長男である多一郎が産まれる。
重蔵の父、華平太は長女を溺愛していたが、それでもやはり跡取りとしての長男が産まれたことを大いに喜んだ。
しかしその幸せも束の間、二才の長女が謎の奇病で死亡する。それはあまりにも突然だった。泣き叫ぶのではなく、まるで大人のように叫んでいた。病院でも原因は分からないまま突然死として扱われる。
重蔵とキエの落胆ももちろんだが、華平太の落ち込み方は尋常ではなかった。初めての孫ということもあったのかもしれないが、長男の多一郎に対しての愛情を示せないほどに、その死は精神的に影響を及ぼしていた。
そのまま数年が経ち、大正一〇年。
華平太の元に、出入りの骨董屋が訪れた。
田上家とは付き合いの長い店だったが、少し前に先代が亡くなり、新しい当主が挨拶がてら訪れていた。
まだ三十代の若いその当主、と言うよりも、華平太はその横の大きな木の箱のほうが気になる。未だ孫の死から立ち直れないままの華平太は、何か心の拠り所を求めていたのかもしれない。
それか、何かを感じたか。
「此度は、御挨拶がてらに珍しい逸品をお持ちいたしました」
目の鋭い男であることは華平太にも分かった。
「ほう……これはこれは…………早速見せて頂きたい…………」
なぜか異常な程に、華平太はその箱の中身を見たくて仕方がない。
いつの間にか胸の内が騒つき、何故か落ち着かなかった。
しかし、自分ではそれを意識の中で理解出来てはいない。額から汗が流れたことにも気が付かないほど。
やがて目の前に木の箱が差し出され、華平太は箱を包む紫の組紐を解く。その手が震えていることにも気が付かない。
蓋を外すと、そこには一体の日本人形。
大き目な物だ。
纏っている着物の色の掠れ具合から、かなり古い物であることはすぐに分かった。
そして、骨董屋の当主がゆっくりと口を開く。
「……歴史のある逸品にございます」
華平太の体が小刻みに震えていた。
なぜかは分からない。
しかし惹かれた。
その日本人形に、間違いなく華平太は二才で亡くなった孫娘を重ねていた。
そして、毎日、その日本人形を愛でるようになっていく。
その翌年、重蔵とキエの間に次女が産まれた。
しかし、なぜか華平太は次女には全く興味は示さず、まるで人間のように人形に接する日々。
そしてなぜか、華平太は裏山の別邸に籠るようになる。しかも裏の蔵の中で、気が触れたように人形を愛し続けた。
それは二年後に次女が二才で亡くなっても続いていた。そして次女の症状は長女の時と全く同じだった。
重蔵は父が精神を病んでしまったとして、そのまま蔵に幽閉する。次女までも二才で亡くなってしまったことで、重蔵も精神的に疲れていたのかもしれない。自分の過去と一緒に多くのものを蔵に仕舞い込んでしまいたかった。
翌年、昭和元年。
華平太が蔵の中で死亡しているのが見つかる。
そのまま、重蔵が六代目当主となる。四三才だった。
長男の多一郎はいるが、他に後継候補を作るべきだと進めたのは母のヨシ。
「もし多一郎が亡くなれば…………田上家は血筋を失います」
呼び出された暗い部屋の中で、ヨシが重蔵に詰め寄る。
「せめて女種が一人だけでも残っていれば良かったのですが……」
蝋燭一本だけの灯りが暗い空気を重くさせ、まるでそれはヨシと共に重蔵の意識に覆い被さっていく。
そして重蔵は顔を曇らせ、無意識の圧迫感に耐えながら口を開いた。
「しかし母上……すでにキヨも若くはありません…………もう四〇近くては…………」
すると、ヨシは口元に笑みを浮かべ、そしてゆっくりと返す。
「……なに……重蔵さんはお得意ではありませんか」
重蔵は母であるヨシのその言葉に鳥肌が立った。
なおも続くヨシの言葉が、重蔵の気持ちの奥底に素早く入り込む。
「若い女子がお嫌いでもありませんでしょうに…………」
嫌な過去が頭を過ぎった。
「…………母上────」
「妾を入れれば良い。若く美しい女子を…………好きなだけ跡継ぎを作りなさい…………元々裏山の別邸は妾用に古くに作られた物。キエさんを気にする必要はありませんよ」
そう言ったヨシは、畳の上で膝を滑らせ、皺だらけの手で突然重蔵の胸ぐらを掴む。
突然の事に怯える重蔵に向けて、ヨシが低い声で続けた。
「すでに三人の子の内、二人が病で命を落としました……しかも女子ばかり……これはもはや呪いでしょう……誰の呪いか…………知らぬとは言わせませんよ…………」
妻のキエはすでに三九才。体は求めても、もう子供を産める年齢ではないと、キエには妊娠は断られていた。
すぐにヨシの見付けてきた若い妾を召し抱えた。キエも渋々承諾する。というより、義理の母でもあるヨシに承諾させられた。立場的に逆らえるはずもない。
そして、最初の夜。
裏山の別邸。
しかしそのすぐ側には、嫌な思い出しかないあの蔵。
複雑な感情はもちろんあった。
そして重蔵は驚いた。
その妾の姿はあの遊女とそっくりだったからだ。昼間に会った時には感じなかったのに、何故か今はそう感じる。いや、それどころかあの遊女そのものだった。
それから毎日のように、重蔵は妾の体を激しく求めるようになる。
そのまま一月ほど。
キエも面白くはなかったのだろう。その夜も重蔵は妾を求めて裏山の別邸に足を運んでいたが、いつの間にか、キエもそこに向かっていた。
そこで何が行われているのかは分かっているのに、何故かキエは足を向ける。
ただの嫉妬心だけだったのか。
ちょうど事を終えた重蔵が、裸のまま台所で水を飲んでいた時だった。
突然の女の悲鳴に、柄杓を土間に投げ捨てた重蔵が駆けつけると、そこには妾に馬乗りになって包丁を振り下ろすキエの鬼のような形相があった。包丁の刺さる音と吹き出す血を前に、止めることも出来ずに重蔵は座り込む。
すると、突然手を止めたキエが顔を上げた。すると、みるみるとその顔は、あの遊女の顔に変わっていく。
しかも鬼のような形相のまま。
──…………呪い…………
そのまま、キエは自分の腹に包丁を突き立てた。
大口を開けて笑い声を発しながら、何度も、何度も自分の腹に包丁を刺しては抜き、刺しては抜き、やがて、後ろに倒れるようにして息絶えた。
翌日二人の葬儀を早々に終わらせたキヨは、まるで生きているとは思えないような生気を失った重蔵の耳元で低く囁く。
「……お前は何も悪くない」
まるで洗脳するかのように言い続けていた。気が触れてしまうかもしれないと考えたからだった。
なんとか正気を取り戻した重蔵に、母は女手が必要だからと新たに三人の妾を充てがった。別邸に行くのを嫌がった重蔵のために、新しい妾は本邸で暮らすことを許された。幸いにも重蔵の妻のキエはもういない。
しかし最初の夜から、重蔵には三人の妾全員が、あの遊女の顔に見えていた。
そして、張り詰めていた重蔵の精神が崩壊する。
そのまま重蔵は、裏山の蔵に幽閉されることとなった。
そこは、重蔵自身があの遊女を閉じ込めた蔵。
重蔵自身が、あの遊女を殺した蔵。
☆
水曜日は朝早くに屋敷に行くため、火曜日の日中に咲恵に迎えに来てもらった萌江は、そのまま咲恵の部屋に一泊し、というスケジュールだった。しかし萌江が大人しく咲恵の部屋で帰りを待っているはずもなく、当然のように咲恵のバーのカウンターに陣取ることを決める。
開店時間は一九時。とは言ってもバーというジャンル上、客が入り始めるのはいつも二一時くらいからだった。
そして開店の一九時ちょうどに萌江は店のドアを開ける。
「来てやったぜ」
「出禁ですよお客さん」
カウンターに座った咲恵のその素早い返しに、笑い声を上げたのはカウンターの中の由紀だった。
あの一件以来元気になったとは聞いていたが、その笑顔は萌江の想像以上だった。
「元気そうだねえ」
そう言って萌江はカウンターの一番奥、咲恵の隣に座る。
最初から閉店までのコースが確定していた萌江は、出来るだけ店に迷惑にならないようにいつも一番奥に座る。萌江なりの配慮だった。言葉にしたことはないが咲恵も気が付いてはいた。しかし店が混んできてもスタッフルームに入り込むようなことはしない。従業員のことは全員を知っている。従業員も萌江が咲恵のパートナーであることは知っている。それでもスタッフルームに入り込む一線だけは超えなかった。バーで働いていた経験のある萌江だったが、馴れ合いだけは嫌だった。例え従業員にどんなに近くても、客としての立場を崩すのは失礼なことだと考えている。
そんな萌江に、由紀は笑顔で返した。
「萌江さんのおかげですよ」
「私はアドバイスをしただけ。由紀ちゃんも一週間彼女とイチャイチャしただけでしょ?」
「なんだか色々話せてスッキリしたのかもしれませんね……もう咲恵さんにも隠し事はないし」
「あれからは? トラブルはない?」
「はい、もうスッキリです。それでこれからは事前に対策をしようと思いまして、とりあえず玄関に盛り塩はしてみました」
すると、萌江の隣で咲恵が含み笑いを浮かべる。
不思議そうな顔をする由紀に、苦笑いを浮かべた萌江が応えた。
「みんなやっちゃうんだよねえ」
「え? 何かやり方とかあるんですか?」
応えた由紀の純粋な目が、萌江と咲恵の間で行き来する。
応えるのは萌江。
「違う…………意味が無いの」
「え? 意味が?」
「お葬式に行くとさ、お清めの塩ってもらえるでしょ。あれはいいの。一つの作法みたいなものだから…………でもその起源には必ず理由があるはずでしょ。なんでお葬式から帰ったら家に入る前に体に塩を振りかけるか分かる?」
「? ……お寺に行ったから?」
「虫を落とすため」
「は⁉︎ 虫⁉︎」
「うん。今は棺に保冷剤入れるからいいけど…………遥か昔にそんな物がない時代って、出来るだけ早く葬儀を終わらせようとしてたみたいだよ。季節によっても違うけど、遺体って思ったより早く腐敗するみたいでさ…………虫がワクわけよ。ウジ虫が。それが服についたまま帰ってしまうことがあるから、家に入る前に塩で落とすわけだ。幽霊なんか関係ないよ。盛り塩なんて話が広がった歴史も割と新しいしね。そもそも塩って昔は高価な物だったんだよ。盛り塩とか塩撒くとか、そんなもったいないこと一般庶民が出来るわけないよ。多分だけど、何かを勘違いしたどっかの飲食店が広げたんじゃないかなあ…………勘違いっていうより別の意味かな。結構店の入り口に盛り塩してる所ってあるでしょ。飲食店だと塩はあるだろうしさ」
「ああ……ありますね」
「あれにしたって、そもそもは幽霊を入れないためにやってるんじゃなくて、悪い物……つまり悪い客が入ってこないようにって意味合いなんだよ。だからさ、霊感ありますって言って塩撒いてる奴は…………私に言わせればただの嘘つき霊能者にしか見えない」
少し声のトーンが落ちた萌江に気が付き、咲恵が繋げる。
「心霊スポットの帰りに背中に塩振りかけたりね」
それを由紀が拾う。
「ああ、ネットの動画とかで見たことありますよ」
そして萌江に帰る。
「美味しくなるならいいけど…………そういう奴らって不味そうだよねえ」
「確かに」
そう言って由紀は笑った。
そして咲恵が萌江に言葉を向ける。
「もう呑む? まだ早い?」
「呑む。呑まないと頭が回らない。今日はコニャックをロックで」
「相変わらず好きねえ。今日は酔い潰れないでね」
「多分大丈夫! 任せてくれ!」
やがて、由紀が大きな氷とコニャックの注がれたロックグラスを萌江の前に差し出す。
すると口を開いたのは咲恵。
「ごめん由紀ちゃん。私も同じのを少しだけ」
「はーい」
由紀も慣れた手付きで二つ目のロックグラスを取り出すと、軽く萌江に顔を向けながら繋げた。
「そんなに大変なんですか? 今回の話って」
シンプルに素朴な疑問。
由紀は前回の一件で二人に関わってしまった一人だ。それでも詳しい部分まではもちろん分からない。咲恵も由紀には新しい仕事が入ったから萌江が来るとだけ伝えていたが、相談内容までは伝えていない。
萌江もシンプルにだけ応えていた。
「そうだね。我が家のリフォームが出来るかどうか…………そのくらい難しい仕事だね」
「よく分かりませんが…………」
「つまり…………分からないくらい難しい」
「さらによく分かりません」
「私も、分からない…………困ったねえ」
そこに呆れたような咲恵の声。
「由紀ちゃん。コニャックの瓶一本……萌江の前に出しといて」
☆
水曜日。
午後。
一四時。
田上家。
前回と同じ和室で萌江と咲恵の前に座るのは、この日はイトだけ。裕子は出迎えと案内だけだったが、それでもイトの背後の襖の向こうに裕子が隠れているのは二人も気が付いていた。畳はフローロングとは違う振動の伝わり方をする。例え静かに歩いても、柔らかさのある畳の上の足袋の歩き方は足音を消しにくい。
重蔵が結婚してからの長女と長男の話から始まった。
重蔵が精神を病んで蔵に幽閉されるまでの話を、イトは淡々と話し続ける。
その語り口に、残酷な話であるにも関わらず、二人は引き込まれた。
イトは取り立てて感情を表には出さない。もちろんここまでの話でイトが実際に出会ったことがあるのは、重蔵の長男の多一郎だけ。それでも決して他人事ではないはず。ましてや、その〝呪い〟によって人生を翻弄されてきたはず。だからこそ外に助けを求めた。それなのに、不思議なほどにイトの表情は、いわば冷たかった。
「それから一〇年以上ですが、多一郎は祖母に育てられたそうでございます。重蔵の父の華平太の奥方様ですな…………奥方様は早目に家徳を多一郎に引き継がせようとしたようでして、そのことを親戚一同に承諾を得た昭和一六年…………年の瀬に大東亜戦争が始まりました」
咲恵が隣の萌江に顔を寄せて小声で質問した。
「──なに? 戦争?」
歴史に興味のない咲恵に対して、歴史に詳しい萌江が即答する。
「太平洋戦争のこと」
それが聞こえたのか聞こえなかったのか、口角を軽く上げて、イトが続ける。
「もし、唯一の世継ぎである多一郎が戦争に行って、よもや帰ってこないとなれば…………田上家の血筋は気の狂った重蔵だけ…………とても世継ぎを作れるとも思えませんでしょう。例え嘘でも後継を見つけなくてはなりません。戸籍を書き換えても養子を取ることまで考えたそうだと、多一郎から聞きました。一人息子だったからなのかすぐには徴兵されなかったそうですが、末期の頃になるとそんなことも言っていられなかったのでしょうな。結局戦場へ行き、それでも終戦の昭和二〇年の内には無事に戻られましたが、その直前に父である重蔵が亡くなったと聞かされることになります。おかしなものですな…………まるで後を追うようにして……多一郎の育ての親だった奥方も、自ら命を絶たれたそうでございますよ」
ただイトは、淡々と話しているだけ。しかし言葉で説明出来ない重厚な威圧感のような凄みを、咲恵は感じていた。
萌江も、まともではない〝何か〟を感じるが、それが何か見極められないまま。
「無事に血を繋いだ田上家に私が嫁いだのは……一七の時でした…………二年後に長女が産まれまして、更にその二年後に次女の出産をした直後、長女が亡くなりました。病院にいた私は死に目には会えませんで…………詳しくは聞かせてもらえなんだ…………そして二年後に、次女が死にます」
「────もうやめよう、イトさん」
声を上げたのは萌江だった。
──…………この子は、誰?
しかしイトは話を止める気はない。
「いえいえ、面白いのはここからですよ…………」
「────何も面白くないよイトさん」
僅かに声を大きくする萌江に対して、イトの言葉は同じまま。
「その後に子供は出来ませんで────もう時代的に見つけるのは難しくはありましたが、妾を召し抱えた頃には私もそれなりの年齢でした。すでに昭和も五〇年代だったかと記憶してございますが…………毎度のことで…………妾の産んだ女の子も二才で亡くなりました。やがて、多一郎もやはり気が触れてしまいました。そのまま幽閉です。お察しの通り、あの〝蔵〟でございますよ」
──…………誰かが、呼んでる…………
萌江の頭にそんな言葉が浮かんだ直後、咲恵が口を開いた。
「待ってください。じゃあ浩一さんって…………?」
すぐにイトが返す。
「養子です……私が引き取りました。しかし今は……先日見てもらった通りでございますよ…………娘も二才で死にました…………やっと田上家の〝血〟を絶やすことが出来たのに、浩一さんと娘まで…………まだ呪いは終わってなどおりません。どうか…………お願いしたく…………」
イトはそう言うと、二人の前で深々と頭を下げていた。
直後、咲恵が立ち上がる。
──……これは、だめだ…………
──…………おかしい……0.1%だ…………
そう思うのと同時に口を開いていた。
「萌江…………今日は帰ったほうがいいよ。一度帰ろう」
もしかしたら、咲恵の声は僅かに震えていたのかもしれない。
しかし萌江から返ってくる声はあくまで冷静だった。
「そろそろ帰らないと、お店に間に合わないよ咲恵」
「だから────」
「私は残る。まだ帰れない」
「萌江!」
そこにイトの声。
「お帰りの際には…………運転手がお送り致しますよ」
「じゃ、お願いするよイトさん…………もう少し調べたいことがあるからさ」
萌江のその言葉に、イトは小さくも不敵な笑みを浮かべていた。
☆
萌江は裏山の別邸への小道を歩いていた。
門の両脇にはまだ盛り塩が残っていたが、そんなものだろうと萌江も思っていた。ある意味、予想通りだった。
すでにだいぶ陽は傾き、この時期になると空気も冷たい。
騒々しい風が吹いていた。
そして、左手に握った水晶────〝火の玉〟が熱い。
萌江の頭上を埋める無数の枝が大きく畝る。その畝りを生む強い風が葉を舞わせる。
巻き上がるような空気の流れと意識を覆い隠そうとするかのような低い音の中、それでも萌江は歩く速さを緩めなかった。
まるで水晶に導かれるように、別邸を目指す。
この時期の陽の落ち方は早い。歩いている間にも周囲ではしだいに闇が広がっていく。
そして季節柄、乾き始めた空気にも関わらず、何故か山の中の空気が重い。湿度とは違う。
やがて目の前に現れた別邸は、異様な空気を纏っていた。それは言葉で表現出来るものではない。
──……あの子は…………誰?
──……ここにいるの…………?
萌江は玄関の引き戸に手をかけた。
当然のように鍵がかかったままだ。日頃使用されてはいない建物であることがよく分かった。しかもその玄関の装飾に積もった埃から見ても、まるで手入れがされていない。
萌江は裏口に回った。日曜日に裏の蔵を見た時に、裏口と、そこに鍵が無いことは確認していた。扉には指をかける凹みがあるだけ。不用心というより、古くは珍しくないことだったのだろう。まして妾用に作られた屋敷。妾というある意味そんな文化が認知されていたにも関わらず、なぜか昔からそれは秘事のように隅に置かれていた。
どうしても、人々は〝隠し事〟を作りたがる。秘密はなぜか気持ちを高揚させる。
それでも、妾自身は秘事であると同時に、やはり人間だった。
時代だから、ではなく、現在でもそれは形を変えて生き残っているものの一つ。
〝影〟の世界。
──私が何をしても、何も変わらない…………
いつも萌江は、何をするにもそんな考えが消えない。
──……でも、あの子が、どこかで私を呼んでる…………
裏口に手をかけると、背中にはやはりあの蔵を感じた。
中に浩一がいることも分かっている。
異常なまでの威圧感。
──……知らなければ、ただの蔵…………
途端に背中が軽くなる。
萌江は恐怖感が作り出す幻影の怖さを知っていた。そしてそれを作り出すのが、自分の想像であることも知っている。
裏口を開いた。途端に外に溢れる埃。いかにも息苦しそうな空間がそこにはあった。
そして、相変わらず水晶は熱い。
古い感情が波のように渦巻いて見えた。
息苦しさの根源が埃だけとは思えない。
──……どこ?
萌江は中に入ると、台所の土間から上がり、真っ直ぐ廊下を進んでいく。
定期的に掃除はしているようにも見えるが、総ての清掃というわけではないらしい。最低限の必要な部分だけ。萌江の歩く廊下はその最低限に入るようだ。積もっている埃は少ない。そして、薄らと見える足袋の跡。決してその足跡を追いかけているつもりはなかったが、自然とそうなっていた。
薄暗かったが、それでもなぜか進む方向に迷いはない。
やがて辿り着いたのは、かなり奥の和室────仏間だった。
小さな仏壇。
しかしその仏壇の扉は閉じられたまま。一見すると使われていないから閉じられているようにも見えたが、扉の取手周りだけが埃が取れているところを見ると、誰かが定期的に訪れていることは想像出来た。
萌江がここに呼ばれたことは疑いようがない。
手の中の水晶がそれを告げていた。
暖かい。
そして萌江は仏壇の扉を開ける。
しかし、そこには位牌も線香立ても無い。
一体の日本人形があるだけ。
綺麗な柄の真っ赤な着物はだいぶ燻んだ印象にはなっていたが、その華やかさだけは分かった。
おかっぱの髪の毛はそれほど傷んではいない。
顔も綺麗なまま。
──……生きてる…………
萌江は手を伸ばしていた。
「────やめてっ‼︎ 触ってはダメ‼︎」
背後からのその大きな声に、萌江は伸ばしかけた手を止めた。
振り返ると、そこにいたのは裕子だった。裕子は襖に体を預けるように膝をつくと、消え入るようなか細い声で続ける。
「…………その人形には…………絶対に触ってはなりません…………」
萌江は人形に顔を戻すと、口を開いた。
「聞かせてくれる? …………〝あの子〟が私を待ってるの」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第一部「妖艶の宴」第3話(完全版)
(第一部最終話)へつづく 〜
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