第三部「蛇のくちづけ」第3話(完全版)(第三部最終話)
文字数 7,975文字
あの子は魔性 の子
望んだ子ではない
危険だ
殺せ
殺せ
殺せ
☆
毎晩、京子 は夢にうなされ続けていた。
夢の内容はいつも覚えていない。
ただ、気持ちの悪い印象が残るだけ。
起きた時にはいつも全身が汗に濡れてヌルヌルとした。
隣のベビーベッドではまだ子供は静かなまま。どんなに夢に苦しめられても、その寝顔を見るだけで癒された。
しかし、時間は残されていない。
──……萌江 との時間は……もう少しだけ…………
それだけは間違いなかった。
平成二年。京子 は二二才。
もうすぐ萌江 の一才の誕生日。
京子 は仕事が休みの夜、自分のアパートに健二 を呼び出していた。
そして健二 の前に一枚の紙を差し出す。
「これは?」
そう言って健二 は紙に印刷された文章を読み進め、そして、しだいにその手が震え始める。
その姿を見ながら、京子 が口を開いた。
「私に何かあったら、萌江 をお願いします」
「バカなことを言うな!判子 なんか押せるわけがないだろ!」
「私はもうすぐ死にます」
その表情は真剣で、かつ冷静なものだった。
その京子 の態度に健二 は圧倒される。
京子 の言葉が続いた。
「私は……萌江 をこの世に産むためだけに生 を受けました…………そして、健二 さんがこの念書 に判子 を押す未来が見えています」
「こんな紙切れなんか────」
健二 は握りしめたその紙を畳に叩き付けるが、それは弱々しく畳の上で広がっていくだけ。
それでも京子 は落ち着きを崩さないまま。
「弁護士の先生に作って頂きました。法的な効力を持っています。夜のお仕事というのは…………様々なご職業の方とお知り合いになれるものですよ…………」
「俺が判子 を押さなければ────」
「弁護士の先生は総てをご存知です。健二 さんも大きな会社でそれなりのお立場…………ご実家も…………相当大きなお宅と伺 っておりますが…………」
「……調べたのか…………」
「前から言っているじゃありませんか。私には総てが見えるんです」
施設に入れてしまえばいい────そう健二 が思った時、目の前の京子 の口元に笑みが浮かび、そして、健二 の背中に嫌なものが走っていく。
翌日、京子 は健二 の判子 の押された念書 を弁護士事務所に持ち込んだ。
そして、自分の長財布に弁護士事務所の名刺を入れる。
裏には手書きでこう書いた。
〝私が死んだら、遺言 はここです〟
──…………萌江 は……私が死なせない…………
京子 の頭の中には、なぜかイメージが出来上がっていた。
自 らが、萌江 を殺す光景が頭から離れない。
☆
西沙 が慰霊碑 に到着した時。
そこには、まるで想像していなかった光景。
二台のワンボックスと一〇人程のグレーの作業服の男たちが歩き回っていた。
「……いったい、なんなの…………?」
車を降りた西沙 が呟 いた時、離れた所から立坂 の声が聞こえた。
「お疲れ様です西沙 さん。早速ですが始めてましたよ」
立坂 が近付く。
西沙 が返した。
「どういうこと? 一体…………何の騒ぎなのよ」
「低周波の測定ですよ」
「低周波⁉︎」
──……どうして……この未来は見えなかったの…………?
そう思った西沙 の背中を冷たいものが走った。
総てとはいかなくても、少なくとも自分に必要な未来は見える。
それがいつもの西沙 の日常。しかしこの日の光景は微塵 も見えていなかった。
──……誰が、遮 った…………
そんな西沙 の耳に、立坂 の声が続く。
「いやあ、業者を見付けるのに苦労しました。そうしたら社団法人だったんですが見付かりましてね」
「ちょっと…………お祓 いは────」
そんな西沙 の声を遮 ったのは、少し離れた萌江 の声。
「必要ないってば」
そして西沙 の後ろから萌江 と咲恵 が歩み寄る。
振り返った西沙 に萌江 が続けた。
「ショーパンって言ったじゃん。どうして昨日と同じゴスロリなの⁉︎」
「そこか変態!」
返しながらも、西沙 の気持ちは落ち着かない。わざとふざけたフリで感情を誤魔化 していた。
「今度はもっと短めのスカートにしてよ。足のラインが好き」
「見るな変態! こういうのしか持ってないんだから仕方ないでしょ!」
「で?」
そう言って挟まったのは咲恵 だった。
その咲恵 は大きな溜息 を吐 きながらも真面目に続ける。
「今回は私もイメージが繋がらなくて難しいと思ってたんだけど…………説明をお願い出来るかしら、変態さん」
そこに、作業服の業者から声がかかる。
「出ましたよー」
「待ってました」
すぐにそう返した萌江 が業者の元に駆け寄る。
全員が後に続いた。
「予想通りですよ」
ワンボックスの後ろには大きな機械。その機械に繋いだラップトップの画面を覗き込みながら、業者の声が続いた。
「こんな所にいたら早い人で一週間と持たないでしょうね…………凄い数字ですよ」
「一週間?」
西沙 が思わず聞き返していた。
応えるのは業者の男。
「あくまでも敏感な人の話ですが、早ければ一週間で体調の不良を訴えるでしょうね。そうじゃなくても一ヶ月…………強い人でも一年もいたら健康なままという可能性のほうが低いと思いますよ」
「どうして…………」
西沙 のその声に、今度は萌江 が応えた。
「低周波だよ。ここは19Hz以下の低周波が渦 を巻いてる。目には見えないけどね」
「そんなことあるの⁉︎」
「あれ」
萌江 が指を差す。その先には大きな電波塔があった。
「あっちにも」
萌江 は反対側にも指を差した。
「あんなの山の中によくあるじゃない」
西沙 の言葉を無視するかのように、萌江 が続ける。
「それと住宅地を囲むような電柱と電線。下の市街地まで続いてるね。しかもここは勾配 が激しい山沿い。電線を市街地まで安全に運ぶためにどうしても電柱の数は多くなる。そこに地形的な条件として、山から常に風が通ってる。条件は総て揃ってるよ。常に風を受けた電線や電柱が低周波を起こして、さらに電波塔から出る低周波がそれを増幅させる。ここは低周波の巣だ」
「そんなバカな…………それが…………呪 いの原因だって言うの⁉︎」
反射的にそう返していた西沙 の中で、何かが崩れた。
萌江 の言葉が続く。
「どうしてこの付近の山には動物がいないの? 虫ですらほとんどいない。みんな住みたくないからここにいないんでしょ。動物たちは素直だからね。土砂 災害の前はいたはずだよ。あの頃は電波塔なんて無かっただろうし、電柱はあっただろうけど少なかったはず。体調不良の話は平成になってからの再開発の後。全国に携帯電話の電波が増えた頃。海外ではあちこちで検証結果が出てるよ」
──……そういうことか…………
咲恵 は納得せざるを得なかった。
ここに来てから咲恵 が感じていたイメージは総てがバラバラだった。
土砂 災害、その後の住宅地での騒動、工事関係者の事故。〝呪 い〟といえば総てを繋げることは出来た。その点では西沙 の気持ちも分からなくはない。
しかし、なぜか繋がらなかった。
その咲恵 も思わず口を開いていた。
「工事に事故が多かったのも説明が出来るね…………体調が悪いまま作業を続けてたら…………」
それに萌江 が応える。
「うん…………多分だけど、体調の悪い人は多かったと思うよ。でもみんなを休ませるわけにいかないでしょ。無理して作業してた人達も多かったんじゃないかな…………それに、呪 いの始まりは処刑場の祟 りだっけ? もう静かにさせてあげようよ…………成仏したくても出来やしない…………」
その言葉に、西沙 が小さく震える声を返していた。
「だから……その呪 いが────」
「何の関係もないよ。土砂災害の前から毎年慰霊祭 があった…………悪い念 はもう残ってない」
──…………あれ?
萌江 の言葉に反応していたのは咲恵 だった。
──…………慰霊祭 してた神社って…………
そこに業者の声が挟まる。
「データの印刷しますか?」
萌江 はすぐに返した。
「そうですね。お願いします。念のためにデジタルデータも後で送ってもらえます?」
「もちろんです」
「データの送付先は立坂 さんの税理士事務所で────もしかしたら、市役所に行く時に説明のためについてきてもらうかも」
「構いませんよ。私たちも貴重なデータを集められましたから」
「じゃ、請求も立坂 さんの所で」
印刷された用紙を受け取ると、業者の車が坂道を降りて行った。
そして最初に咲恵 が口を開く。
「便利な時代ねえ。プリンターも持ち歩ける時代なの?」
返したのは萌江 。
「今はハンディーで充電式のがあるからねえ。もう二一世紀だよ。百年後には呪 いなんて言葉すらなくなってるかもね」
そして立坂 が挟まる。
「さすがです。これでここの呪 いが解決すれば行政も喜んでくれますよ」
しかしその言葉に、萌江 は目を細くして口を開いた。
「まだだよ。まだこれから何年もかかる…………最初に電柱を抜いて電線を地中に埋める工事から始めてもらわないと…………この時代に電波塔を無くすのは難しいだろうから仕方ないけど、それでも人体に影響が無いレベルに低周波が抑えられるのはデータが証明してるわけだし、どうせ動物がいないなら生態系云々の問題だって無いはずでしょ。工事が終わってからまた木を植えたらいいよ。どうせこの辺りの山に自然なんかほとんど残ってないんだから。ただの〝緑〟…………少なからず人間の手が入ってる。だったらこの先も土地に対して責任を持たなきゃ。トンネルとかの一通りの工事が終わった頃には動物だって虫だって戻ってくるよ。共栄の無い世界なんか…………私は嫌い」
「なにを綺麗 に終わらせようとしてんのよ…………」
その声は三人の会話を黙って聞いていた西沙 だった。
西沙 は下を向き、肩を震わせたまま続ける。
「私をコケにしたくて呼んだの? そうなんでしょ⁉︎ バカにしたくて呼んだんでしょ⁉︎」
──……どうして見えなかった…………
そう思った西沙 に萌江 が近付く。
西沙 の声が続いた。
「……私には…………大昔の先祖の高級霊がついてるんだから…………」
それは西沙 が自 ら見た血筋の過去。反射的にそんな言葉が出てきた自分を、西沙 は直後に嫌悪した。
そして、それに返した萌江 の声は柔らかい。
「死んだ人に高級も低級もないよ」
そして西沙 の両肩に手を乗せた萌江 が続ける。
「皇族だろうが庶民だろうが、同じ人間でしょ。何が違うの? あの世でまで生前の肩書きが優遇されるなんて…………そんなあの世なんか、私は嫌い…………」
「じゃあ…………この下で…………土砂 災害で亡くなった人たちの怨霊 は…………」
「亡くなった人たちが怨霊 ? どうして? 酷 い災害だったからってなんで怨霊 にならなきゃいけないの? そう思われるほうが可哀想じゃない。ちゃんと供養されてるんでしょ。未 だに毎年慰霊祭 までしてさ。西沙 ちゃんだって出てるんでしょ? その人たちに今生きてる人たちを恨 む理由なんかないよ。死んでからも大切にされてるじゃない」
そして、萌江 は西沙 の体を両腕で包んでいた。
驚く西沙 の耳元で、萌江 は続ける。
「…………あなたもね…………祠 を綺麗 にして…………昔からの風習を守ろうとした…………立坂 さんに聞いたよ。慰霊碑 にも毎週花を添 えてくれてるんでしょ? そういうのを大事にする人…………大好きだよ…………」
「あなたって…………」
西沙 の震えた声が詰まる。
萌江 は西沙 から体を離すと、続けた。
「私は99.9%幽霊も呪 いも信じていない能力者。だからこそ見えるものがある。と、思って生きてる。それだけ」
呆然 とする西沙 の頭に萌江 は手を乗せる。
「ただのエロお姉さんじゃないよ」
そこに咲恵 の声が小さく届く。
「……それは…………」
「なによ」
そう返した萌江 の胸元を見つめる西沙 。
呟 いた。
「それ…………水晶…………」
「ああ、これ?」
「火の玉…………」
「さすが西沙 ちゃん。分かる?」
「…………〝水の玉〟はどこ…………? 一緒じゃなきゃダメ……探して…………」
萌江 が、その目が西沙 のものではないことに気付いた直後、咲恵 が動いた。
駆け寄って西沙 を抱きしめる。
そして叫んだ。
「萌江 ! 離れて!」
「え?」
「ごめん! この子が憑依 体質なの見抜けなかった────離れて!」
──……何でこんな所で0.1%が…………
「萌江 ! 車に入って!」
咲恵 の叫び声に続くように、西沙 の口が開く。
しかしその声は小さい。
「…………萌江 …………」
──……しまった…………!
その咲恵 の想いは、すでに遅かった。
「……私は…………あなたを死なせない…………」
──……ダメだ…………跳ね返される…………
「…………だれ…………?」
萌江 のその小さな声が空気を漂う。
次の瞬間、西沙 の体が崩れ落ちるように力を失った。
完全に意識を失った西沙 の体を支えながら、咲恵 が震えた口を開く。
「大丈夫…………すぐに意識は戻るから…………」
そして、その背中に届く萌江 の声。
「咲恵 ……?」
咲恵 は振り返ることも出来ない。何も応えられずにいた。額 から冷たい汗が流れ落ちたのにも気付かない。
そして、小さな足音が咲恵 の耳に届く。
「咲恵 …………あなた…………何か見たの?」
咲恵 は微かに振り返りかけ、動きを止める。
「さきえっ‼︎」
「……あなたの…………」
その小さい咲恵 の声が続いた。
「……あなたの……お母さんがいた所…………ここ…………この場所…………」
「…………おかあ……さん…………?」
☆
平成二年。
一〇月二三日。
京子 の中に、確実に萌江 を殺そうとする誰かがいた。
──……私はこの子を産むために生 を受けたはず…………
しかし頭の中に声が響く。
〝その赤子 は魔性 の子だ……殺せ…………生かしておいてはいけない…………〟
すでにそれは夢ではなかった。
やがて仕事にも支障を来たすようになり、少し前に店も辞めていた。
自分で自分をまともだと感じることが出来ない。
そして、どうしたらいいのかも分からない。
ただ、どうしても萌江 を守りたかった。
しかし、自分の中の誰かが京子 を動かす。
──……死ねる所を……探さなきゃ…………
萌江 を腕に抱いたまま、薄暗い街を歩き続けた。
理由は分からなかった。
ただ、京子 はそこに導かれた。
──……ここから飛び降りたら…………
そこは大きなビルの前。
しかし人通りもある。
それでも京子 は突き動かされた。
──……ここから飛び降りたら…………
進みかけた足を、京子 は止めた。
──……嫌だ…………
〝殺せ〟
──…………イヤだ…………!
〝お前と共に……その子を殺せ〟
──……死なせない…………‼︎
京子 は、萌江 を冷たいコンクリートの足元に置いた。
財布の入ったハンドバッグを萌江 の横に添えると、二つの水晶のついたネックレスを萌江 の胸の上に置いた。
萌江 はおとなしいまま、黙って京子 の顔を見上げている。
「……萌江 …………私は…………あなたを死なせない…………」
──……絶対に…………!
薄いコートの内ポケットから、京子 は〝短刀〟を取り出す。
それは、タミから預かっていた、あの短刀。
素早く鞘 から抜いた。
コンクリートの歩道に落ちた木製の鞘 が、乾いた音を立てた。
その京子 の目の前に、黒い影。
大きく、長く、蠢 く。
しかし短刀を両手で逆手 に掴んだ京子 に、迷いはない。
──……私が……断 ち切る…………!
胸に突きつけた。
何度も、何度も。
周囲からは悲鳴が聞こえ、駆け寄ろうとする誰かの足音が聞こえた時、京子 が叫ぶ。
「────近寄るな‼︎」
次の瞬間、胸から抜いた刃 を首筋へ。
──……あとは…………たのむよ…………萌江 …………
そのまま首を掻き切った時、京子 は自分の命が噴き出るのを感じていた。
地面に倒れた京子 から流れる血は、まるで蛇 が這 っているようだったという。
そして、すぐ側 で保護された萌江 の体から、なぜか二つの水晶が消えていた。
☆
庭の駐車スペースに入りこむのは見慣れた車。
もっとも、この家の駐車場と呼べる場所に入ったことのある車は、咲恵 の物だけだ。
いつも洗車をしてから訪ねてくる咲恵 にしては、珍しくタイヤ周りに泥がついたまま。昨夜からの小雨は朝には上がっていたが、思っていたより路面には残っていたようだ。シルバーのボディーとは言っても、やはりそれは目立つ。あちこちに雨の跡がこびり付いていた。
運転席から降りた咲恵 は珍しく明るい緑のワンピース。いつも暗めの色調を好む咲恵 にしては珍しい。それを縁側から見ていた萌江 も、決して始めて見たワンピースではない。むしろ好きだった。そして、どんな時に咲恵 がそれを着るのかも知っている。
「そのワンピース、好き」
萌江 は縁側に横になりながら、近付いてくる咲恵 に声をかけた。
そして咲恵 が返すよりも早く続ける。
「私に抱かれに来てくれたの?」
「あれから…………抱いてくれなかったくせに」
そう言って縁側に腰を降ろしながらも、もちろん咲恵 にも分かっていた。
咲恵 は横になったままの萌江 の手に自分の手を重ねると、続ける。
「みっちゃんから少し前に連絡あったよ…………行政が動いたみたい。今年中には電線を地中に埋める工事を始めるって」
咲恵 の手に自分の指を絡めながら、萌江 が返した。
「そっか…………やっとあそこも…………いい街になるね」
「それと、立坂 さんがうまくやってくれたみたいよ。西沙 ちゃん…………いきなり市役所の応接室に連れて行かれてドギマギしてたらしいけど、無事にあの子の手柄にしてくれたみたい…………他人に手柄をあげちゃうなんて萌江 にしては始めてじゃない? お金も受け取らないなんて」
「私たちは必殺仕事人だからね…………昼行灯 くらいがちょうどいいよ。だれかに感謝なんかされなくたっていい…………誰にも知られなくていいんだ…………」
「立坂 さんじゃないけど────」
「かっこいいでしょ」
そう言って萌江 が浮かべた笑顔を、咲恵 は妙に愛しく感じた。
「それと立坂 さんからもう一つ伝言」
咲恵 は萌江 から目線をズラして続けた。
「西沙 ちゃんが…………会いたがってたみたいよ…………萌江 に」
「ほう……で?咲恵 ちゃんは嫉妬 してるのかな?」
「まさか…………まだまだ若いもんには負けないわ」
「私も咲恵 の体のほうがいやらしくて好き」
「もう…………体目当て?」
そんな会話を繰り返しながらも、いつまでも逃げ続けるわけには行かないことも分かってはいる。
何かに背中を押され、咲恵 は口を開いた。
「あのね…………ごめん…………伝えるかどうか迷ってる内にあんなことになって…………悪かったと思ってる…………萌江 が、おかしくなるんじゃないかと思ったら怖くて…………」
「心配かけたね…………どこまで?」
「え?」
「どこまで見えたの⁉︎」
「……たぶん…………」
咲恵 がそこまで応えた時、萌江 は上半身を起こしていた。
その萌江 に咲恵 が続ける。
「……全部…………お母さんの名前も…………」
萌江 が顔を近付ける。
「……教えて…………」
「…………金櫻 …………京子 …………」
「……かな……ざくら…………きょうこ…………」
僅かに、その目が潤 んでいた。
その萌江 が咲恵 に抱きつく。
しかし咲恵 はすぐに声を上げた。
「ダメだよ! 全部…………見え────」
唇を奪われ、押し倒された咲恵 には、もはや抵抗する術 はなかった。
萌江 が体を絡めると、咲恵 が言葉を絞り出す。
「……シャットアウトしないと────」
「しない」
その萌江 の声が、咲恵 の耳元で続く。
「今日は…………全部見せてよ…………私はもう逃げない…………」
そして咲恵 は、萌江 に体を預けるしかなかった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第三部「蛇 のくちづけ」(完全版)終 〜
望んだ子ではない
危険だ
殺せ
殺せ
殺せ
☆
毎晩、
夢の内容はいつも覚えていない。
ただ、気持ちの悪い印象が残るだけ。
起きた時にはいつも全身が汗に濡れてヌルヌルとした。
隣のベビーベッドではまだ子供は静かなまま。どんなに夢に苦しめられても、その寝顔を見るだけで癒された。
しかし、時間は残されていない。
──……
それだけは間違いなかった。
平成二年。
もうすぐ
そして
「これは?」
そう言って
その姿を見ながら、
「私に何かあったら、
「バカなことを言うな!
「私はもうすぐ死にます」
その表情は真剣で、かつ冷静なものだった。
その
「私は……
「こんな紙切れなんか────」
それでも
「弁護士の先生に作って頂きました。法的な効力を持っています。夜のお仕事というのは…………様々なご職業の方とお知り合いになれるものですよ…………」
「俺が
「弁護士の先生は総てをご存知です。
「……調べたのか…………」
「前から言っているじゃありませんか。私には総てが見えるんです」
施設に入れてしまえばいい────そう
翌日、
そして、自分の長財布に弁護士事務所の名刺を入れる。
裏には手書きでこう書いた。
〝私が死んだら、
──…………
☆
そこには、まるで想像していなかった光景。
二台のワンボックスと一〇人程のグレーの作業服の男たちが歩き回っていた。
「……いったい、なんなの…………?」
車を降りた
「お疲れ様です
「どういうこと? 一体…………何の騒ぎなのよ」
「低周波の測定ですよ」
「低周波⁉︎」
──……どうして……この未来は見えなかったの…………?
そう思った
総てとはいかなくても、少なくとも自分に必要な未来は見える。
それがいつもの
──……誰が、
そんな
「いやあ、業者を見付けるのに苦労しました。そうしたら社団法人だったんですが見付かりましてね」
「ちょっと…………お
そんな
「必要ないってば」
そして
振り返った
「ショーパンって言ったじゃん。どうして昨日と同じゴスロリなの⁉︎」
「そこか変態!」
返しながらも、
「今度はもっと短めのスカートにしてよ。足のラインが好き」
「見るな変態! こういうのしか持ってないんだから仕方ないでしょ!」
「で?」
そう言って挟まったのは
その
「今回は私もイメージが繋がらなくて難しいと思ってたんだけど…………説明をお願い出来るかしら、変態さん」
そこに、作業服の業者から声がかかる。
「出ましたよー」
「待ってました」
すぐにそう返した
全員が後に続いた。
「予想通りですよ」
ワンボックスの後ろには大きな機械。その機械に繋いだラップトップの画面を覗き込みながら、業者の声が続いた。
「こんな所にいたら早い人で一週間と持たないでしょうね…………凄い数字ですよ」
「一週間?」
応えるのは業者の男。
「あくまでも敏感な人の話ですが、早ければ一週間で体調の不良を訴えるでしょうね。そうじゃなくても一ヶ月…………強い人でも一年もいたら健康なままという可能性のほうが低いと思いますよ」
「どうして…………」
「低周波だよ。ここは19Hz以下の低周波が
「そんなことあるの⁉︎」
「あれ」
「あっちにも」
「あんなの山の中によくあるじゃない」
「それと住宅地を囲むような電柱と電線。下の市街地まで続いてるね。しかもここは
「そんなバカな…………それが…………
反射的にそう返していた
「どうしてこの付近の山には動物がいないの? 虫ですらほとんどいない。みんな住みたくないからここにいないんでしょ。動物たちは素直だからね。
──……そういうことか…………
ここに来てから
しかし、なぜか繋がらなかった。
その
「工事に事故が多かったのも説明が出来るね…………体調が悪いまま作業を続けてたら…………」
それに
「うん…………多分だけど、体調の悪い人は多かったと思うよ。でもみんなを休ませるわけにいかないでしょ。無理して作業してた人達も多かったんじゃないかな…………それに、
その言葉に、
「だから……その
「何の関係もないよ。土砂災害の前から毎年
──…………あれ?
──…………
そこに業者の声が挟まる。
「データの印刷しますか?」
「そうですね。お願いします。念のためにデジタルデータも後で送ってもらえます?」
「もちろんです」
「データの送付先は
「構いませんよ。私たちも貴重なデータを集められましたから」
「じゃ、請求も
印刷された用紙を受け取ると、業者の車が坂道を降りて行った。
そして最初に
「便利な時代ねえ。プリンターも持ち歩ける時代なの?」
返したのは
「今はハンディーで充電式のがあるからねえ。もう二一世紀だよ。百年後には
そして
「さすがです。これでここの
しかしその言葉に、
「まだだよ。まだこれから何年もかかる…………最初に電柱を抜いて電線を地中に埋める工事から始めてもらわないと…………この時代に電波塔を無くすのは難しいだろうから仕方ないけど、それでも人体に影響が無いレベルに低周波が抑えられるのはデータが証明してるわけだし、どうせ動物がいないなら生態系云々の問題だって無いはずでしょ。工事が終わってからまた木を植えたらいいよ。どうせこの辺りの山に自然なんかほとんど残ってないんだから。ただの〝緑〟…………少なからず人間の手が入ってる。だったらこの先も土地に対して責任を持たなきゃ。トンネルとかの一通りの工事が終わった頃には動物だって虫だって戻ってくるよ。共栄の無い世界なんか…………私は嫌い」
「なにを
その声は三人の会話を黙って聞いていた
「私をコケにしたくて呼んだの? そうなんでしょ⁉︎ バカにしたくて呼んだんでしょ⁉︎」
──……どうして見えなかった…………
そう思った
「……私には…………大昔の先祖の高級霊がついてるんだから…………」
それは
そして、それに返した
「死んだ人に高級も低級もないよ」
そして
「皇族だろうが庶民だろうが、同じ人間でしょ。何が違うの? あの世でまで生前の肩書きが優遇されるなんて…………そんなあの世なんか、私は嫌い…………」
「じゃあ…………この下で…………
「亡くなった人たちが
そして、
驚く
「…………あなたもね…………
「あなたって…………」
「私は99.9%幽霊も
「ただのエロお姉さんじゃないよ」
そこに
「……それは…………」
「なによ」
そう返した
「それ…………水晶…………」
「ああ、これ?」
「火の玉…………」
「さすが
「…………〝水の玉〟はどこ…………? 一緒じゃなきゃダメ……探して…………」
駆け寄って
そして叫んだ。
「
「え?」
「ごめん! この子が
──……何でこんな所で0.1%が…………
「
しかしその声は小さい。
「…………
──……しまった…………!
その
「……私は…………あなたを死なせない…………」
──……ダメだ…………跳ね返される…………
「…………だれ…………?」
次の瞬間、
完全に意識を失った
「大丈夫…………すぐに意識は戻るから…………」
そして、その背中に届く
「
そして、小さな足音が
「
「さきえっ‼︎」
「……あなたの…………」
その小さい
「……あなたの……お母さんがいた所…………ここ…………この場所…………」
「…………おかあ……さん…………?」
☆
平成二年。
一〇月二三日。
──……私はこの子を産むために
しかし頭の中に声が響く。
〝その
すでにそれは夢ではなかった。
やがて仕事にも支障を来たすようになり、少し前に店も辞めていた。
自分で自分をまともだと感じることが出来ない。
そして、どうしたらいいのかも分からない。
ただ、どうしても
しかし、自分の中の誰かが
──……死ねる所を……探さなきゃ…………
理由は分からなかった。
ただ、
──……ここから飛び降りたら…………
そこは大きなビルの前。
しかし人通りもある。
それでも
──……ここから飛び降りたら…………
進みかけた足を、
──……嫌だ…………
〝殺せ〟
──…………イヤだ…………!
〝お前と共に……その子を殺せ〟
──……死なせない…………‼︎
財布の入ったハンドバッグを
「……
──……絶対に…………!
薄いコートの内ポケットから、
それは、タミから預かっていた、あの短刀。
素早く
コンクリートの歩道に落ちた木製の
その
大きく、長く、
しかし短刀を両手で
──……私が……
胸に突きつけた。
何度も、何度も。
周囲からは悲鳴が聞こえ、駆け寄ろうとする誰かの足音が聞こえた時、
「────近寄るな‼︎」
次の瞬間、胸から抜いた
──……あとは…………たのむよ…………
そのまま首を掻き切った時、
地面に倒れた
そして、すぐ
☆
庭の駐車スペースに入りこむのは見慣れた車。
もっとも、この家の駐車場と呼べる場所に入ったことのある車は、
いつも洗車をしてから訪ねてくる
運転席から降りた
「そのワンピース、好き」
そして
「私に抱かれに来てくれたの?」
「あれから…………抱いてくれなかったくせに」
そう言って縁側に腰を降ろしながらも、もちろん
「みっちゃんから少し前に連絡あったよ…………行政が動いたみたい。今年中には電線を地中に埋める工事を始めるって」
「そっか…………やっとあそこも…………いい街になるね」
「それと、
「私たちは必殺仕事人だからね…………
「
「かっこいいでしょ」
そう言って
「それと
「
「ほう……で?
「まさか…………まだまだ若いもんには負けないわ」
「私も
「もう…………体目当て?」
そんな会話を繰り返しながらも、いつまでも逃げ続けるわけには行かないことも分かってはいる。
何かに背中を押され、
「あのね…………ごめん…………伝えるかどうか迷ってる内にあんなことになって…………悪かったと思ってる…………
「心配かけたね…………どこまで?」
「え?」
「どこまで見えたの⁉︎」
「……たぶん…………」
その
「……全部…………お母さんの名前も…………」
「……教えて…………」
「…………
「……かな……ざくら…………きょうこ…………」
僅かに、その目が
その
しかし
「ダメだよ! 全部…………見え────」
唇を奪われ、押し倒された
「……シャットアウトしないと────」
「しない」
その
「今日は…………全部見せてよ…………私はもう逃げない…………」
そして
「かなざくらの古屋敷」
〜 第三部「