第三部「蛇のくちづけ」第3話(完全版)(第三部最終話)

文字数 7,975文字

     あの子は魔性(ましょう)の子
     望んだ子ではない
     危険だ
     殺せ
     殺せ
     殺せ





 毎晩、京子(きょうこ)は夢にうなされ続けていた。
 夢の内容はいつも覚えていない。
 ただ、気持ちの悪い印象が残るだけ。
 起きた時にはいつも全身が汗に濡れてヌルヌルとした。
 隣のベビーベッドではまだ子供は静かなまま。どんなに夢に苦しめられても、その寝顔を見るだけで癒された。
 しかし、時間は残されていない。

 ──……萌江(もえ)との時間は……もう少しだけ…………

 それだけは間違いなかった。
 平成二年。京子(きょうこ)は二二才。
 もうすぐ萌江(もえ)の一才の誕生日。
 京子(きょうこ)は仕事が休みの夜、自分のアパートに健二(けんじ)を呼び出していた。
 そして健二(けんじ)の前に一枚の紙を差し出す。
「これは?」
 そう言って健二(けんじ)は紙に印刷された文章を読み進め、そして、しだいにその手が震え始める。
 その姿を見ながら、京子(きょうこ)が口を開いた。
「私に何かあったら、萌江(もえ)をお願いします」
「バカなことを言うな! 判子(はんこ)なんか押せるわけがないだろ!」
「私はもうすぐ死にます」
 その表情は真剣で、かつ冷静なものだった。
 その京子(きょうこ)の態度に健二(けんじ)は圧倒される。
 京子(きょうこ)の言葉が続いた。
「私は……萌江(もえ)をこの世に産むためだけに(せい)を受けました…………そして、健二(けんじ)さんがこの念書(ねんしょ)判子(はんこ)を押す未来が見えています」
「こんな紙切れなんか────」
 健二(けんじ)は握りしめたその紙を畳に叩き付けるが、それは弱々しく畳の上で広がっていくだけ。
 それでも京子(きょうこ)は落ち着きを崩さないまま。
「弁護士の先生に作って頂きました。法的な効力を持っています。夜のお仕事というのは…………様々なご職業の方とお知り合いになれるものですよ…………」
「俺が判子(はんこ)を押さなければ────」
「弁護士の先生は総てをご存知です。健二(けんじ)さんも大きな会社でそれなりのお立場…………ご実家も…………相当大きなお宅と(うかが)っておりますが…………」
「……調べたのか…………」
「前から言っているじゃありませんか。私には総てが見えるんです」
 施設に入れてしまえばいい────そう健二(けんじ)が思った時、目の前の京子(きょうこ)の口元に笑みが浮かび、そして、健二(けんじ)の背中に嫌なものが走っていく。
 翌日、京子(きょうこ)健二(けんじ)判子(はんこ)の押された念書(ねんしょ)を弁護士事務所に持ち込んだ。
 そして、自分の長財布に弁護士事務所の名刺を入れる。
 裏には手書きでこう書いた。

 〝私が死んだら、遺言(ゆいごん)はここです〟

 ──…………萌江(もえ)は……私が死なせない…………

 京子(きょうこ)の頭の中には、なぜかイメージが出来上がっていた。
 (みずか)らが、萌江(もえ)を殺す光景が頭から離れない。





 西沙(せいさ)慰霊碑(いれいひ)に到着した時。
 そこには、まるで想像していなかった光景。
 二台のワンボックスと一〇人程のグレーの作業服の男たちが歩き回っていた。
「……いったい、なんなの…………?」
 車を降りた西沙(せいさ)(つぶや)いた時、離れた所から立坂(たてさか)の声が聞こえた。
「お疲れ様です西沙(せいさ)さん。早速ですが始めてましたよ」
 立坂(たてさか)が近付く。
 西沙(せいさ)が返した。
「どういうこと? 一体…………何の騒ぎなのよ」
「低周波の測定ですよ」
「低周波⁉︎」

 ──……どうして……この未来は見えなかったの…………?

 そう思った西沙(せいさ)の背中を冷たいものが走った。
 総てとはいかなくても、少なくとも自分に必要な未来は見える。
 それがいつもの西沙(せいさ)の日常。しかしこの日の光景は微塵(みじん)も見えていなかった。

 ──……誰が、(さえぎ)った…………

 そんな西沙(せいさ)の耳に、立坂(たてさか)の声が続く。 
「いやあ、業者を見付けるのに苦労しました。そうしたら社団法人だったんですが見付かりましてね」
「ちょっと…………お(はら)いは────」
 そんな西沙(せいさ)の声を(さえぎ)ったのは、少し離れた萌江(もえ)の声。
「必要ないってば」
 そして西沙(せいさ)の後ろから萌江(もえ)咲恵(さきえ)が歩み寄る。
 振り返った西沙(せいさ)萌江(もえ)が続けた。
「ショーパンって言ったじゃん。どうして昨日と同じゴスロリなの⁉︎」
「そこか変態!」
 返しながらも、西沙(せいさ)の気持ちは落ち着かない。わざとふざけたフリで感情を誤魔化(ごまか)していた。
「今度はもっと短めのスカートにしてよ。足のラインが好き」
「見るな変態! こういうのしか持ってないんだから仕方ないでしょ!」
「で?」
 そう言って挟まったのは咲恵(さきえ)だった。
 その咲恵(さきえ)は大きな溜息(ためいき)()きながらも真面目に続ける。
「今回は私もイメージが繋がらなくて難しいと思ってたんだけど…………説明をお願い出来るかしら、変態さん」
 そこに、作業服の業者から声がかかる。
「出ましたよー」
「待ってました」
 すぐにそう返した萌江(もえ)が業者の元に駆け寄る。
 全員が後に続いた。
「予想通りですよ」
 ワンボックスの後ろには大きな機械。その機械に繋いだラップトップの画面を覗き込みながら、業者の声が続いた。
「こんな所にいたら早い人で一週間と持たないでしょうね…………凄い数字ですよ」
「一週間?」
 西沙(せいさ)が思わず聞き返していた。
 応えるのは業者の男。
「あくまでも敏感な人の話ですが、早ければ一週間で体調の不良を訴えるでしょうね。そうじゃなくても一ヶ月…………強い人でも一年もいたら健康なままという可能性のほうが低いと思いますよ」
「どうして…………」
 西沙(せいさ)のその声に、今度は萌江(もえ)が応えた。
「低周波だよ。ここは19Hz以下の低周波が(うず)を巻いてる。目には見えないけどね」
「そんなことあるの⁉︎」
「あれ」
 萌江(もえ)が指を差す。その先には大きな電波塔があった。
「あっちにも」
 萌江(もえ)は反対側にも指を差した。
「あんなの山の中によくあるじゃない」
 西沙(せいさ)の言葉を無視するかのように、萌江(もえ)が続ける。
「それと住宅地を囲むような電柱と電線。下の市街地まで続いてるね。しかもここは勾配(こうばい)が激しい山沿い。電線を市街地まで安全に運ぶためにどうしても電柱の数は多くなる。そこに地形的な条件として、山から常に風が通ってる。条件は総て揃ってるよ。常に風を受けた電線や電柱が低周波を起こして、さらに電波塔から出る低周波がそれを増幅させる。ここは低周波の巣だ」
「そんなバカな…………それが…………(のろ)いの原因だって言うの⁉︎」
 反射的にそう返していた西沙(せいさ)の中で、何かが崩れた。
 萌江(もえ)の言葉が続く。
「どうしてこの付近の山には動物がいないの? 虫ですらほとんどいない。みんな住みたくないからここにいないんでしょ。動物たちは素直だからね。土砂(どしゃ)災害の前はいたはずだよ。あの頃は電波塔なんて無かっただろうし、電柱はあっただろうけど少なかったはず。体調不良の話は平成になってからの再開発の後。全国に携帯電話の電波が増えた頃。海外ではあちこちで検証結果が出てるよ」

 ──……そういうことか…………

 咲恵(さきえ)は納得せざるを得なかった。
 ここに来てから咲恵(さきえ)が感じていたイメージは総てがバラバラだった。
 土砂(どしゃ)災害、その後の住宅地での騒動、工事関係者の事故。〝(のろ)い〟といえば総てを繋げることは出来た。その点では西沙(せいさ)の気持ちも分からなくはない。
 しかし、なぜか繋がらなかった。
 その咲恵(さきえ)も思わず口を開いていた。
「工事に事故が多かったのも説明が出来るね…………体調が悪いまま作業を続けてたら…………」
 それに萌江(もえ)が応える。
「うん…………多分だけど、体調の悪い人は多かったと思うよ。でもみんなを休ませるわけにいかないでしょ。無理して作業してた人達も多かったんじゃないかな…………それに、(のろ)いの始まりは処刑場の(たた)りだっけ? もう静かにさせてあげようよ…………成仏したくても出来やしない…………」
 その言葉に、西沙(せいさ)が小さく震える声を返していた。
「だから……その(のろ)いが────」
「何の関係もないよ。土砂災害の前から毎年慰霊祭(いれいさい)があった…………悪い(ねん)はもう残ってない」

 ──…………あれ?

 萌江(もえ)の言葉に反応していたのは咲恵(さきえ)だった。

 ──…………慰霊祭(いれいさい)してた神社って…………

 そこに業者の声が挟まる。
「データの印刷しますか?」
 萌江(もえ)はすぐに返した。
「そうですね。お願いします。念のためにデジタルデータも後で送ってもらえます?」
「もちろんです」
「データの送付先は立坂(たてさか)さんの税理士事務所で────もしかしたら、市役所に行く時に説明のためについてきてもらうかも」
「構いませんよ。私たちも貴重なデータを集められましたから」
「じゃ、請求も立坂(たてさか)さんの所で」
 印刷された用紙を受け取ると、業者の車が坂道を降りて行った。
 そして最初に咲恵(さきえ)が口を開く。
「便利な時代ねえ。プリンターも持ち歩ける時代なの?」
 返したのは萌江(もえ)
「今はハンディーで充電式のがあるからねえ。もう二一世紀だよ。百年後には(のろ)いなんて言葉すらなくなってるかもね」
 そして立坂(たてさか)が挟まる。
「さすがです。これでここの(のろ)いが解決すれば行政も喜んでくれますよ」
 しかしその言葉に、萌江(もえ)は目を細くして口を開いた。
「まだだよ。まだこれから何年もかかる…………最初に電柱を抜いて電線を地中に埋める工事から始めてもらわないと…………この時代に電波塔を無くすのは難しいだろうから仕方ないけど、それでも人体に影響が無いレベルに低周波が抑えられるのはデータが証明してるわけだし、どうせ動物がいないなら生態系云々の問題だって無いはずでしょ。工事が終わってからまた木を植えたらいいよ。どうせこの辺りの山に自然なんかほとんど残ってないんだから。ただの〝緑〟…………少なからず人間の手が入ってる。だったらこの先も土地に対して責任を持たなきゃ。トンネルとかの一通りの工事が終わった頃には動物だって虫だって戻ってくるよ。共栄の無い世界なんか…………私は嫌い」
「なにを綺麗(きれい)に終わらせようとしてんのよ…………」
 その声は三人の会話を黙って聞いていた西沙(せいさ)だった。
 西沙(せいさ)は下を向き、肩を震わせたまま続ける。
「私をコケにしたくて呼んだの? そうなんでしょ⁉︎ バカにしたくて呼んだんでしょ⁉︎」

 ──……どうして見えなかった…………

 そう思った西沙(せいさ)萌江(もえ)が近付く。
 西沙(せいさ)の声が続いた。
「……私には…………大昔の先祖の高級霊がついてるんだから…………」
 それは西沙(せいさ)(みずか)ら見た血筋の過去。反射的にそんな言葉が出てきた自分を、西沙(せいさ)は直後に嫌悪した。
 そして、それに返した萌江(もえ)の声は柔らかい。
「死んだ人に高級も低級もないよ」
 そして西沙(せいさ)の両肩に手を乗せた萌江(もえ)が続ける。
「皇族だろうが庶民だろうが、同じ人間でしょ。何が違うの? あの世でまで生前の肩書きが優遇されるなんて…………そんなあの世なんか、私は嫌い…………」
「じゃあ…………この下で…………土砂(どしゃ)災害で亡くなった人たちの怨霊(おんりょう)は…………」
「亡くなった人たちが怨霊(おんりょう)? どうして? (ひど)い災害だったからってなんで怨霊(おんりょう)にならなきゃいけないの? そう思われるほうが可哀想じゃない。ちゃんと供養されてるんでしょ。(いま)だに毎年慰霊祭(いれいさい)までしてさ。西沙(せいさ)ちゃんだって出てるんでしょ? その人たちに今生きてる人たちを(うら)む理由なんかないよ。死んでからも大切にされてるじゃない」
 そして、萌江(もえ)西沙(せいさ)の体を両腕で包んでいた。
 驚く西沙(せいさ)の耳元で、萌江(もえ)は続ける。
「…………あなたもね…………(ほこら)綺麗(きれい)にして…………昔からの風習を守ろうとした…………立坂(たてさか)さんに聞いたよ。慰霊碑(いれいひ)にも毎週花を()えてくれてるんでしょ? そういうのを大事にする人…………大好きだよ…………」
「あなたって…………」
 西沙(せいさ)の震えた声が詰まる。
 萌江(もえ)西沙(せいさ)から体を離すと、続けた。
「私は99.9%幽霊も(のろ)いも信じていない能力者。だからこそ見えるものがある。と、思って生きてる。それだけ」
 呆然(ぼうぜん)とする西沙(せいさ)の頭に萌江(もえ)は手を乗せる。
「ただのエロお姉さんじゃないよ」
 そこに咲恵(さきえ)の声が小さく届く。
「……それは…………」
「なによ」
 そう返した萌江(もえ)の胸元を見つめる西沙(せいさ)
 (つぶや)いた。
「それ…………水晶…………」
「ああ、これ?」
「火の玉…………」
「さすが西沙(せいさ)ちゃん。分かる?」
「…………〝水の玉〟はどこ…………? 一緒じゃなきゃダメ……探して…………」
 萌江(もえ)が、その目が西沙(せいさ)のものではないことに気付いた直後、咲恵(さきえ)が動いた。
 駆け寄って西沙(せいさ)を抱きしめる。
 そして叫んだ。
萌江(もえ)! 離れて!」
「え?」
「ごめん! この子が憑依(ひょうい)体質なの見抜けなかった────離れて!」

 ──……何でこんな所で0.1%が…………

萌江(もえ)! 車に入って!」
 咲恵(さきえ)の叫び声に続くように、西沙(せいさ)の口が開く。
 しかしその声は小さい。
「…………萌江(もえ)…………」

 ──……しまった…………!

 その咲恵(さきえ)の想いは、すでに遅かった。
「……私は…………あなたを死なせない…………」

 ──……ダメだ…………跳ね返される…………

「…………だれ…………?」
 萌江(もえ)のその小さな声が空気を漂う。
 次の瞬間、西沙(せいさ)の体が崩れ落ちるように力を失った。
 完全に意識を失った西沙(せいさ)の体を支えながら、咲恵(さきえ)が震えた口を開く。
「大丈夫…………すぐに意識は戻るから…………」
 そして、その背中に届く萌江(もえ)の声。
咲恵(さきえ)……?」
 咲恵(さきえ)は振り返ることも出来ない。何も応えられずにいた。(ひらい)から冷たい汗が流れ落ちたのにも気付かない。
 そして、小さな足音が咲恵(さきえ)の耳に届く。
咲恵(さきえ)…………あなた…………何か見たの?」
 咲恵(さきえ)は微かに振り返りかけ、動きを止める。
「さきえっ‼︎」
「……あなたの…………」
 その小さい咲恵(さきえ)の声が続いた。
「……あなたの……お母さんがいた所…………ここ…………この場所…………」
「…………おかあ……さん…………?」





 平成二年。
 一〇月二三日。
 京子(きょうこ)の中に、確実に萌江(もえ)を殺そうとする誰かがいた。

 ──……私はこの子を産むために(せい)を受けたはず…………

 しかし頭の中に声が響く。

 〝その赤子(あかご)魔性(ましょう)の子だ……殺せ…………生かしておいてはいけない…………〟

 すでにそれは夢ではなかった。
 やがて仕事にも支障を来たすようになり、少し前に店も辞めていた。
 自分で自分をまともだと感じることが出来ない。
 そして、どうしたらいいのかも分からない。
 ただ、どうしても萌江(もえ)を守りたかった。
 しかし、自分の中の誰かが京子(きょうこ)を動かす。

 ──……死ねる所を……探さなきゃ…………

 萌江(もえ)を腕に抱いたまま、薄暗い街を歩き続けた。
 理由は分からなかった。
 ただ、京子(きょうこ)はそこに導かれた。

 ──……ここから飛び降りたら…………

 そこは大きなビルの前。
 しかし人通りもある。
 それでも京子(きょうこ)は突き動かされた。

 ──……ここから飛び降りたら…………

 進みかけた足を、京子(きょうこ)は止めた。

 ──……嫌だ…………

 〝殺せ〟

 ──…………イヤだ…………!

 〝お前と共に……その子を殺せ〟

 ──……死なせない…………‼︎

 京子(きょうこ)は、萌江(もえ)を冷たいコンクリートの足元に置いた。
 財布の入ったハンドバッグを萌江(もえ)の横に添えると、二つの水晶のついたネックレスを萌江(もえ)の胸の上に置いた。
 萌江(もえ)はおとなしいまま、黙って京子(きょうこ)の顔を見上げている。
「……萌江(もえ)…………私は…………あなたを死なせない…………」

 ──……絶対に…………!

 薄いコートの内ポケットから、京子(きょうこ)は〝短刀〟を取り出す。
 それは、タミから預かっていた、あの短刀。
 素早く(さや)から抜いた。
 コンクリートの歩道に落ちた木製の(さや)が、乾いた音を立てた。

 その京子(きょうこ)の目の前に、黒い影。
 大きく、長く、(うごめ)く。

 しかし短刀を両手で逆手(さかて)に掴んだ京子(きょうこ)に、迷いはない。

 ──……私が……()ち切る…………!

 胸に突きつけた。
 何度も、何度も。
 周囲からは悲鳴が聞こえ、駆け寄ろうとする誰かの足音が聞こえた時、京子(きょうこ)が叫ぶ。
「────近寄るな‼︎」
 次の瞬間、胸から抜いた(やいば)を首筋へ。

 ──……あとは…………たのむよ…………萌江(もえ)…………

 そのまま首を掻き切った時、京子(きょうこ)は自分の命が噴き出るのを感じていた。
 地面に倒れた京子(きょうこ)から流れる血は、まるで(へび)()っているようだったという。
 そして、すぐ(そば)で保護された萌江(もえ)の体から、なぜか二つの水晶が消えていた。





 庭の駐車スペースに入りこむのは見慣れた車。
 もっとも、この家の駐車場と呼べる場所に入ったことのある車は、咲恵(さきえ)の物だけだ。
 いつも洗車をしてから訪ねてくる咲恵(さきえ)にしては、珍しくタイヤ周りに泥がついたまま。昨夜からの小雨は朝には上がっていたが、思っていたより路面には残っていたようだ。シルバーのボディーとは言っても、やはりそれは目立つ。あちこちに雨の跡がこびり付いていた。
 運転席から降りた咲恵(さきえ)は珍しく明るい緑のワンピース。いつも暗めの色調を好む咲恵(さきえ)にしては珍しい。それを縁側から見ていた萌江(もえ)も、決して始めて見たワンピースではない。むしろ好きだった。そして、どんな時に咲恵(さきえ)がそれを着るのかも知っている。
「そのワンピース、好き」
 萌江(もえ)は縁側に横になりながら、近付いてくる咲恵(さきえ)に声をかけた。
 そして咲恵(さきえ)が返すよりも早く続ける。
「私に抱かれに来てくれたの?」
「あれから…………抱いてくれなかったくせに」
 そう言って縁側に腰を降ろしながらも、もちろん咲恵(さきえ)にも分かっていた。
 咲恵(さきえ)は横になったままの萌江(もえ)の手に自分の手を重ねると、続ける。
「みっちゃんから少し前に連絡あったよ…………行政が動いたみたい。今年中には電線を地中に埋める工事を始めるって」
 咲恵(さきえ)の手に自分の指を絡めながら、萌江(もえ)が返した。
「そっか…………やっとあそこも…………いい街になるね」
「それと、立坂(たてさか)さんがうまくやってくれたみたいよ。西沙(せいさ)ちゃん…………いきなり市役所の応接室に連れて行かれてドギマギしてたらしいけど、無事にあの子の手柄にしてくれたみたい…………他人に手柄をあげちゃうなんて萌江(もえ)にしては始めてじゃない? お金も受け取らないなんて」
「私たちは必殺仕事人だからね…………昼行灯(ひるあんどん)くらいがちょうどいいよ。だれかに感謝なんかされなくたっていい…………誰にも知られなくていいんだ…………」
立坂(たてさか)さんじゃないけど────」
「かっこいいでしょ」
 そう言って萌江(もえ)が浮かべた笑顔を、咲恵(さきえ)は妙に愛しく感じた。
「それと立坂(たてさか)さんからもう一つ伝言」
 咲恵(さきえ)萌江(もえ)から目線をズラして続けた。
西沙(せいさ)ちゃんが…………会いたがってたみたいよ…………萌江(もえ)に」
「ほう……で? 咲恵(さきえ)ちゃんは嫉妬(しっと)してるのかな?」
「まさか…………まだまだ若いもんには負けないわ」
「私も咲恵(さきえ)の体のほうがいやらしくて好き」
「もう…………体目当て?」
 そんな会話を繰り返しながらも、いつまでも逃げ続けるわけには行かないことも分かってはいる。
 何かに背中を押され、咲恵(さきえ)は口を開いた。
「あのね…………ごめん…………伝えるかどうか迷ってる内にあんなことになって…………悪かったと思ってる…………萌江(もえ)が、おかしくなるんじゃないかと思ったら怖くて…………」
「心配かけたね…………どこまで?」
「え?」
「どこまで見えたの⁉︎」
「……たぶん…………」
 咲恵(さきえ)がそこまで応えた時、萌江(もえ)は上半身を起こしていた。
 その萌江(もえ)咲恵(さきえ)が続ける。
「……全部…………お母さんの名前も…………」
 萌江(もえ)が顔を近付ける。
「……教えて…………」
「…………金櫻(かなざくら)…………京子(きょうこ)…………」
「……かな……ざくら…………きょうこ…………」
 僅かに、その目が(うる)んでいた。
 その萌江(もえ)咲恵(さきえ)に抱きつく。
 しかし咲恵(さきえ)はすぐに声を上げた。
「ダメだよ! 全部…………見え────」
 唇を奪われ、押し倒された咲恵(さきえ)には、もはや抵抗する(すべ)はなかった。
 萌江(もえ)が体を絡めると、咲恵(さきえ)が言葉を絞り出す。
「……シャットアウトしないと────」
「しない」
 その萌江(もえ)の声が、咲恵(さきえ)の耳元で続く。
「今日は…………全部見せてよ…………私はもう逃げない…………」
 そして咲恵(さきえ)は、萌江(もえ)に体を預けるしかなかった。




        「かなざくらの古屋敷」
      〜 第三部「(へび)のくちづけ」(完全版)終 〜
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