第66話 事実は小説よりも奇なり

文字数 6,060文字

「ううん……」

 その日、春道は仕事用のノートパソコンの画面とにらめっこをしながら、ひたすら呻いていた。
 趣味で独自に組み立てていたシステムが、結構前に仕事上の関係者によって紹介された。その時はどうとも思っていなかったのだが、開示していたシステムを販売したいとの申し出が大手企業からあった。

 こんな展開は極めて珍しいので戸惑っていたところ、前述の関係者が口を利いてくれたのがわかった。
 春道が作ったのを買い取り、その企業が法人や個人を相手に販売したいらしい。

 相当の収入になるし、思い入れが強いシステムでもないので別に構わなかった。
 しかし、どうにも申し出てくれた企業の担当者との関係がしっくりこない。
 言葉の端々から、フリーで仕事をしている人間を見下してるような様子が伝わってくるのだ。
 だからといって、大手企業を相手に啖呵を切ったりすれば、後々で面倒な事態にもなりかねない。

「ううん……」

 もう一度呻いたところで、とりあえず春道は悩むのをやめた。
 腹が減っていては、良い案だって浮かばない。とりあえず朝食をとってこようと考え、椅子から立ち上がる。
 不在の間だけでも室内が日光を取り込めるように、カーテンを開けてから部屋を出る。

 もうすぐ朝の7時になろうとしているので、娘の葉月はすでにダイニングでご飯を食べているはずだ。本来なら春道はもう少しあとで朝食をとりたいタイプなのだが、一緒に食べたいという娘の希望を叶えてあげたかった。
 毎朝少しでも顔を合わせれば喜んでくれるので、次第に面倒だとも思わなくなった。妻も専業主婦で家にいるのもあって、最近では昼食を食べる場所も仕事部屋ではなく、もっぱらダイニングだった。

 リビングへ入ると、中にあるダイニングテーブルで葉月が朝ご飯を美味しそうに食べていた。食後に歯を磨いたらすぐ出かけられるように、隣の椅子に赤いランドセルを置いてある。
 母親の和葉はキッチンに立っており、春道が来たのを音で察すると、こちらを向いて「おはようございます」と挨拶してきた。

「パパ、おはよー」

 茶碗をテーブルの上に置いてから、葉月も挨拶をしてくれる。

「ああ、おはよう」

 皆に挨拶を返してから、春道は愛娘の正面に腰を下ろした。
 長方形のダイニングテーブルには4つの椅子が、車の車輪のような位置関係で設置されている。誰がどこにとかは決まってなく、その時々で好きな場所に座る。

 和葉がご飯を盛った茶碗や、ハムエッグが乗っているお皿をキッチンから持ってきてくれる。
 しばらくは美味しそうな匂いを堪能していたが、そのうちに違和感を覚える。
 正体はすぐにわかった。いつも元気な葉月が、なんだかおとなしいのだ。普段ならあれこれと話しかけてくるのに、今日は黙々とご飯を食べている。
 朝の挨拶以外は、口を利いていない。何か気に食わないことでもしたかなと考えてみるも、思い当たるような出来事は何もなかった。

「ごちそうさまでしたー」

 春道が戸惑っている間に葉月は食事を終え、空になった食器を重ねて母親が立っているキッチンへ持っていく。流し台の上へ置いてから水を張り、和葉が洗いやすいようにする。
 行儀のよさは、春道の子供時代と比べれば雲泥の差がある。
 なのにどうして、料理にはあんなに気を遣わないのだろうか。不思議で仕方がなかった。

 食後の歯磨きも終えると、最後に一度だけリビングへ顔を出して、いってきますの挨拶をする。
 春道はその場で「いってらっしゃい」と言うだけだが、和葉はいつも玄関先まで見送る。
 妻と娘がいなくなったリビングで朝食を頬張る。毎日繰り返されてる光景なので、寂しさは感じない。すぐ和葉が戻ってくるからだ。

   *

「これで一段落ね」

 リビングへ戻ってくるなり、安堵のため息をつきながら和葉が言った。
 主婦の彼女にとって朝のキッチンは戦場みたいなものだった。常に忙しく動き回り、春道や葉月の朝食を用意する。

 愛娘が登校してようやくひと息つける。
 キッチンから持ってきた自分の分の朝食をダイニングテーブルへ置き、春道の正面、つまりは少し前まで葉月が座っていた椅子に腰を下ろす。
 その頃にはほぼ朝食を終えていた春道は、先ほどの疑問を解消するために「なあ」と妻へ話しかけた。

「葉月の奴、なんか変じゃなかったか? 口数が少ないというか……」

「そのようですね。私にも何も話してくれないので、詳しい事情はわかりませんが、どうやら室戸さんのことが気になってるみたいです」

「そういえば、運動会の時にも他の保護者から話を聞いたな……」

 柚の両親は不動産の会社を経営しており、以前はかなり羽振りがよかったはずだ。しかし、ここ最近の不景気で業績がガタ落ちし、収支はかなり危険な状況になってると誰かから聞いた。

 確か……実希子の父親だっただろうか。
 口が堅そうには見えなかったので、ひょっとしたら娘にもその辺の事情を教えてる可能性がある。さらにそこから葉月に伝わってというのは、十分に考えられる話だった。

「和葉は、室戸さんのところの話は詳しく知ってるのか?」

「いいえ。恐らくは、春道さんと同じ程度の情報量しかないと思います。大きな声で話せる内容でもないですし……」

 和葉が曇った表情を見せる。

「そうだな。それに……俺たちがどうこうできる問題でもないしな。室戸さんだって、自分の家の内情を他人に知られるのは嫌だろう」

 和葉も同じ結論に達していたらしく、春道の言葉に頷く。
 大人でもどうしようもない問題なのだから、いくら気にしても子供の葉月には解決のしようがない。
 頭を悩ませた挙句に絶望し、気分を落ち込ませるのも無理はなかった。

「なんとか持ち直してくれるといいのですが……」

 祈るような和葉の台詞に、春道も同意する。もし室戸家が全員で夜逃げでもしたら、葉月はせっかく仲良くなった友人と会えなくなってしまう。
 いつも元気な少女が、暗く沈んでいる姿はなるべくなら見たくない。
 とはいえ、いくら春道でもなんとかできるものと、そうでないものが存在する。

 これ以上は悩んでも仕方がない。
 妻が言っていたとおり、相手方が地力でなんとかしてくれるのを願うだけだ。

「やれやれ。どこもかしこも悩みだらけだな」

 食休み中の春道が何気なくそう言うと、書面に座っている妻が即座に反応した。

「春道さんも、何か悩みがあるのですか?」

「え?
 あ、いや……」

「仕事関係ですか。それなら、私に話しても仕方ありませんね」

 少しだけ拗ねたような口調だった。
 春道は愚痴などを含めて、仕事関係の話をほとんどしない。
 家庭に仕事を持ち込まれても迷惑だろうと考えているからなのだが、もしかしたら妻はそれを信頼されてないと捉えているのかもしれない。
 仕事も大事だが、夫婦関係はもっと大切だ。彼女が求めているのなら、仕事の話をすればいい。丁度、ひとりで悩んでるのにも疲れてきたところだ。

「実は……仕事と関係なしに趣味で作ったシステムを、とある大手企業が自社で販売させてほしいと言ってきてるんだ」

 仕事上の悩みを打ち明けてもらえたからなのかは不明だが、和葉は食事の手を一旦止めて、身を乗り出すようにして話を聞こうとする。
 報酬なども含めた話を春道がすると、妻は「いいお話ではないですか」と言った。まったくもってそのとおりで、だからこそ春道も迷っているのだ。

「一体何が問題なのですか?」

「子供っぽい理由なのだが……先方の担当者が気に入らない」

 やや呆れたように、話を聞いていた妻がため息をついた。
 相手の反応に腹をたてたりはしない。逆の立場だったなら、まず間違いなく春道も同様の反応をしていたからだ。

「それなら、担当者を変えてもらえばいかがですか?」

「その会社の人事にメールをしてみたが、現在の担当者が適任だそうだ。フリーの人間の相手など、まともにしたくないんだろうな」

「なるほど。それで先方の会社に不信感を抱いてるわけですね」

「まあ、そういうことだ。取引を反故にするのは簡単だが、相手は大手企業だからな。下手に逆らって、目をつけられてもマズいし……」

 引っかかっている部分はそこだけだった。そうでなければ、とっくの昔に取引など断っている。
 和葉が専業主婦になってる今、間違っても春道が無収入になるのはマズい。

「春道さんにしては弱気ですね。せっかくフリーの立場にいるのですから、乗り気でない仕事は断っても構わないと思いますよ」

「しかし……」

「私や葉月の心配をしてるのでしたら大丈夫です。春道さんが職を失っても、なんとかなりますよ。夫婦そろってアルバイトになっても、不本意な仕事をしてストレスを溜めた挙句、精神や肉体を病んでしまうよりはずっといいではないですか」

 笑顔で和葉にそう言ってもらえて、春道は心がスーっと軽くなったような感じがした。
 絶望的な状況へ追い込まれたとしても、家族だけは味方でいてくれる。
 それがわかっただけで、何よりも幸せな気持ちになれた。

「和葉の言うとおりだ。ありがとう、気分が楽になったよ」

「それはよかったです。夫を支えるのは妻の役目ですから」

 2人でひとしきり笑い合ったあと、朝食の後片付けがある和葉を残して春道は自室へ戻る。
 あれだけ悩んでいたのが嘘みたいに、すらすらと断りのメールを作成できる。
 先方に何を言われようとも構わない。自分の気持ちに嘘をつかなくていいというのが、こんなにも素晴らしいとはこれまで気が付けなかった。

「これで俺も一段落だな。でも、大手企業が販売したいとまで言ってきたものがあるんだから、利用しない手はないよな……」

 そこまで呟いてから、紹介してもらった企業がひとつでないのを思い出した。
 大手企業と比べると規模も資金も断然足りないが、贅沢は言っていられない。
 メールを送ると、すぐに返信がきた。
 担当者は非常に乗り気で、すぐに電話で話すことになる。詳しい契約の内容などもその場で決めた。

   *

 それから数日後。
 契約を結んだ企業から喜びの電話が入った。まだ一般への発売は決まってないが、内々で多くの企業との売買契約がまとまりつつあるらしかった。

「よかったですね。御社に損をさせずに済んで、私も安堵しています」

「すべて高木様のおかげです、ありがとうございます。我が社の業務成績を上方修正できそうなのもあって、購入をキャンセルした不動産契約も再びできましたし」

「そうなんですか? それはまた景気がいいですね」

「いえいえ。先ほども申し上げたとおり、高木様のおかげです。取引先の不動産会社も夜逃げしなくて済むと泣きながら喜んでいましたよ。個人で経営しているところなのですが、大の大人が号泣するくらいなのですから、よほど切羽詰っていたのでしょうね。とにかく、我が社としては大成功です。これからも高木様とは良いお付き合いをさせていただきたいですね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 和やかな雰囲気で通話が終わった。
 それにしても、契約を結んだ直後にこの結果というのはいくらなんでも早すぎないか。そんなふうに思っていたら、企業を紹介してくれた人からのメールを受信した。

 どうやら春道が契約をした企業も、かなり業績が悪化していたらしく、今回の一件に社運を賭けていたみたいだった。
 そのため、契約を結んでもらえる前から色々と根回しをして、多くの企業と交渉を進めていたのだという。

 一方でかなりの好条件を提示していた大手企業は、相当な自信を持っていただけに、春道に振られて激しく落胆しているらしかった。
 担当していた社員や、春道の申し出に応じなかった人事の担当者は社長から大目玉を食らった挙句に降格になったとも書かれていた。

 ざまあみろとは思わなかった。
 彼らが不遜な態度を取ってくれたおかげで、春道は感じが良い企業と新しく繋がりを持てたのだ。

 メールを読み終えると余計に晴れやかな気持ちになった。
 同時に相談へ乗ってくれた和葉に恩返しをしたくなる。
 一緒に買い物でも行こうかなと思い、ウキウキした気分を隠そうともせずに春道はリビングへ向かった。
 するとそこには和葉だけでなく、葉月や友人の好美らがいた。その中には柚も含まれている。

「あ、パパだー」

 柚が一緒にいるからなのか、葉月はすっかりいつもの元気を取り戻してるみたいだった。テーブルの上にたくさんあるノートや教科書を見れば、聞かなくとも勉強していたのがわかる。
 場にいる全員の視線を集めている春道に、妻の和葉が声をかけてくる。

「こんな時間にリビングへ来るのは珍しいですね。どうかしたのですか?」

 そういえば、今が何時なのかも気にしていなかった。
 リビングにある時計を見ると、すでに午後4時を過ぎていた。道理で葉月たちも帰宅しているはずだ。

「いや、この前のが一段落したんでな。報告しにきただけだ」

「ということは、うまくいったのですね」

 和葉が瞳を輝かせる。

「ああ。向こうの担当者は大喜びだったよ。キャンセルした不動産を買えるようになったってね」

 そこまで話してから、春道はこの場に葉月たち子供もいるのを思い出す。
 和葉だけならともかく、ここでするような話ではなかった。反省をしながら自室へ戻ろうとする春道を、妻が驚いた様子で引き留める。

「不動産……ですか?」

「え?
 ああ……そうなんだが、ここでする話じゃなかったな。すまん」

「いいえ。もう少し、詳しく聞いてもよろしいですか?」

「詳しくって……おい」

 和葉が真剣な顔つきで「構いません」と言うので、何か理由があるのだろうと思った。妻が葉月たちにも聞かせたいと思っているのであれば、春道に断る理由はない。

「取引した企業の担当者から聞いたんだよ。キャンセルした不動産を買い直したら、夜逃げしなくてもよくなったと感謝されたってな。どうやら個人で不動産を経営してるところだったみたいだが……」

「えっ!?」

 春道の説明を聞いて、驚きの声を上げたのは柚だった。
 その後さらに詳細な説明をしていくと、彼女は涙を流しながら、春道に「ありがとうございます」と頭を下げた。
 何がどうなっているのかわからないでいると、今度は椅子から下りた葉月が全速力で春道に抱きついてきた。

「パパ、大好きっ!」

「いや、それは知ってるけど。
 ……って、一体何なんだ?」

 状況を正しく理解できてない春道は、困り果てて妻の和葉を見る。
 すると彼女は、嬉しそうに笑った。

「事実は小説より奇なり……ということです」

「……余計に意味がわからないんだが」

「ふふ。葉月の言葉を借りるなら、パパ、大好きっていうことです」

「え?
 あ、その……お、おう……」

 うろたえる春道の姿を、リビングにいる皆に笑われる。
 少しは怒ろうかとも思ったが、とても幸せそうな笑顔ばかりだったので、途中で諦めた。

「まあ、いいか」

 そう言って春道も笑った。
 部屋の中が妙に暖かい。
 きっと、もうすぐ夏がやってくるからだろう。
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