第7話 八木 無己

文字数 987文字

翌日の舞台稽古が終わった後、俺は梶原から呼び出しを受けた。退団を覚悟して梶原のいる個室ドアをノックする。
「よう」
梶原は一人で、ホワイトボード前のパイプ椅子に座り台本を読んでいた。「昨夜は申し訳ありませんでした」と謝ろうとした瞬間、
「昨日はさ、俺酔っぱらっちまってて…悪かったな」
意外なことに梶原のほうから謝罪をしてきた。
「ほら俺、口が悪いからさ。おまえともどう接していいかわかんなくって…つい。いままで芸名のこととかでいじっちまって、悪かったよな」
俺は、ぽかんとしてただ梶原の前で佇んでいた。ハッと目が覚めたようになり、
「とんでもないです。どうかしていたのは自分のほうです。申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた。梶原は「まあまあ」と言った後、
「でも、役者としてまだまだ未熟なのは本当! まあそれはさ、これから俺がゆっくり育てていくから。本腰入れてついて来いよ」
「はい! ありがとうございます」
再び礼をすると、部屋を出た。夜遅く、バーの店主からも電話連絡が入った。
「昨日のお客さんから、「自分も悪かったからクビにしないでくれ」と連絡が入ったよ。芸能人だから、スキャンダルになってマスコミに騒がれるのを恐れたのもあるんだろう。うちも、今きみに辞められるのは正直痛い。来週から、シフトどおりに出勤してくれるかな」

無為の言った通りだった。梶原は悪人ではなく、店主は大らかだった。トラブルは拍子抜けするほど、案外簡単に収まった。「もうお終いだ」と深刻に思いつめた自分が馬鹿みたいだった。
無為に報告とお礼を言いたくて待っていたが、やはり体調がすぐれないのか、なかなか来店してはくれなかった。

一カ月ほどが経った頃、開店してすぐの夕方五時過ぎ、一人の女性が現れた。長い黒髪で、ツイードの上品な白いワンピースを身に着けている。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
声をかけたが女性は返事をせず、じっと俺を見つめている。
「あなたが…」少し経ってから、ようやく口を開いた。
「ひょっとして、あなたが豊田神威さん?」
「そうですけど…」
答えてから、ハッとした。この品性と知性あふれる雰囲気、穏やかな語り口調はどこかで以前に感じたことがある。垂れ目がちだが、整った顔立ち。
「初めまして。私、八木無為の妹で八木無己(やぎ なみ)といいます」
女性は一礼すると、次に衝撃的な一言を言い放った。
「兄は今朝、亡くなりました」

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