第8話 伝言

文字数 1,365文字

「亡くなった…?」
俺は信じられない思いで、カウンターの中立ち尽くしていた。店内には静かにセロニアス・モンクの『ラウンド・ミッドナイト』が流れている。
「体調が良くないとは聞いていましたけど、まさか、そんな」

女性はすぐ前のカウンター席に座り、
「せっかくだから、何かカクテルを頂けますか? フルーツカクテル」
そう言うので、甘味のある苺のカクテルを薦めた。グラスの縁に、カットされた苺が一切れ添えられてある。
「兄はここで、どんなものを飲んでいたんですか?」
一口飲むと、無己は聞いた。
「お兄さんはジンがお好みだったようで、ジンの入ったカクテルをよく注文されていました。マティーニとかギムレットとか」
無己は俯いた。
「お酒のことは普段飲まないのでよくわからないんですけど…兄はこの店にはよく通っていると言っていました。お酒が好きというより、近所だし好きな俳優さんがアルバイトしているからって」
妹がいるとは聞いていたが、そんなことまで話しているとは知らなかった。

「お兄さんは、いつからご病気だったんですか?」
「私も知らなかったんですけど、半年ほど前急激に進行するターボ癌といわれる胃がんと診断されたようです。病気で体調が悪いとは聞いていたんですけど、何か精神的な病気だと思い込んでいました」
実は俺も、ひそかにそう思っていた。半年ほど前だったら、ちょうどこの店に通い始めた頃なんじゃないか。

「兄の不思議な能力については、御存知だったんですか?」
上目遣いで、無己は聞いた。幸い、他に客はまだ誰もいない。もう一人いるアルバイトも、厨房で調理の準備をしている最中だ。俺は微かに頷いた。
「以前、僕がこの店で揉め事を起こした時も、「大丈夫だから」と励ましてくれました。実際、その通り丸く収まったんです」
無己は苦笑した後、それをごまかすかのようにカクテルを飲んだ。
「まあ、偶然だとは思うんですけどね。あの人、さも超能力でわかるような言い方をしますから。私も不思議に誰も知らないようなことを言い当てられたことがありました。でも私は現実主義者で、オカルトとかスピリチュアルみたいな非科学的なことは、どうしても信じられなくって。兄とは気が合わなかったんです」
まあ俺も、深い理解があるほうではないのだが。

「でも…」
無己は何かを言い淀み、目を伏せて長い睫毛を見せた。
「不思議なことがありました。ここ一カ月ほどずっと入院していたのですが昨日お見舞いに行った時、「僕は明日死ぬから」と言うのです。そしてあなたのことを聞かされて、「手紙を書いているから渡してほしい。出来れば本人に探させてほしい」と頼まれました。葬儀の知らせと、そのことを伝えたくて今日はここに来たんです」
「手紙…ですか?」
「そしたら今朝八時頃、本当に急変したそうです。わりと元気そうだったから本気にしていなかったのに…。手紙についても、本当に書いていて部屋の中にあるんだと思います」

スウェーデンボルグも、自分が亡くなる日時がわかっていたといわれている。寄宿先の夫人に「いま何時ですか?」と聞き「夕方五時過ぎです」と教えられると「ありがとう」と礼を言い、夫人と家政婦に看取られながら安らかにそのまま永眠したのだという。

無為にも、自分の死が視えていたのだろうか。何より、俺あてに書かれた手紙というのが気になった。

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