第2話 八木 無為

文字数 1,559文字

バー『mysig』は関内駅北口から歩いてすぐのテナントビル二階にあった。ミューシグという名前はスウェーデン語で心地良い場所という意味があるらしい。実際、客にとって居心地のいい空間になっていると感じた。

階段を上り木の扉を押し開けると右側に灰色のソファー席が六つ並んだカウンター、左に四人掛けテーブル席が三つ見える。壁は茶褐色の赤レンガ、床は板張り、白い天井には木製の化粧梁が横長に広がりダクトレールの照明が取り付けられてあった。硝子テーブルの上には一つずつ硝子容器に入ったキャンドルが置かれ、小ぢんまりとしながらも温かく落ち着いた雰囲気を醸しだしていた。

店内にはいつもジャズが流れている。現在のBGMはマイルス・ディヴィスの『ディア・オールド・ストックホルム』。その雰囲気に溶け込むように、常連客の男が奥のカウンター席に座り、物静かに読書をしていた。
この男は、ほとんど毎晩店にやって来て一人で酒を飲んでいる。年の頃は、俺と同じくらいだろうか。物腰も話す口調も柔らかく、しかしどこか芯の強さを感じさせるものがある。やや垂れ目がちだが知性や品性を(まと)った美男の雰囲気を持つ。俺の視線に気がついたのか、男は持っていた文庫本から目を離し俺を見た。

「昨日の人は、劇団の人?」
意外な質問をされて、俺は戸惑った。
「昨日ここにいた男の人。女の人たちに囲まれた」
「ああ…」見られていたのか。そういえばこの男も、確かカウンター席に座っていた気がする。
「そうです。劇団の団長です」
俺は静かに、注文されたギムレットを木製のカウンターテーブルの上に置いた。前にあるキャンドルの炎が、テーブルとグラスの両方に反射し光っている。
「あの男は、きみに嫉妬している」
男の言葉に俺は「はっ?」と前のめりになりそうになった。が、なんとか抑えこみ男を見つめるに(とど)まった。
「僕にはわかる。あの男がきみに嫉妬していることが。だから嫌味を言われても相手にしないほうがいい」
「結構有名な俳優なんですよ。そんな人が僕なんかに」
「僕は最近テレビを観ないからわからない。ただ、きみがいい男だから嫉妬しているんだ」
男はそう言うと、ライムが一切れ縁に飾られたグラスに口をつけた。この男はいつもジンをベースにしたカクテルを注文する。ちゃんと会話をするのは、これが初めてかも知れない。いつも店主を含め二名の店員がいるが、開店したばかりの今日は、たまたま俺しかいなかった。

「僕はね、昔からきみのファンなんだよ」
再度驚かされた。すぐに社交辞令なんだろうと思った。
「ありがとうございます。僕が俳優をやっていること、御存知なんですね」
「五年くらい前かな。深夜にBLドラマをやっていただろう?あれは良かった。その前からいいなと思っていたんだけど、あれで完全にファンになったんだ」
五年ほど前だったら、まだ以前の芸能事務所に所属していた頃だ。けれど事務所のやる気のなさに嫌気がさして、昨年退所してしまった。

「この店で働いているきみを見つけられて、ラッキーだった。バーテンダーの制服姿も様になっている。本当に素敵だ」
まるで女性を口説くかのように、俺を褒めた。ひょっとして、同性愛者なのだろうか。そもそも一般的な男性が、深夜にBLドラマなど観るだろうか。毎晩のようにこの店に通っているのも、俺が目当てなのかも知れない。二十代の頃自称ファンに付きまとわれたことがあったが、この男もストーカーの(たぐい)ということか。そう考えると、急に背筋が寒くなった。

「お疲れ」
その時ちょうど、店主の男性が入店してきてホッとした。男はそれを見抜いたかのように、上目遣いで微笑んだ。
「僕は無為(むい)八木無為(やぎ むい)っていう名前なんだ。きみより二つ年上の三十三歳。これからもよろしく。また店に来るつもりだから、その時はもう一度話をしてくれるかな」

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