第6話 聖書のある本棚

文字数 2,012文字

ふと、右側に置いてあった本棚に目が留まる。

『愛するということ』エーリッヒ・フロム、『死に至る病』キルケゴール、『道は開ける』デール・カーネギー、『新約思想の成立』八木 誠一…他、見事に哲学・思想関係の本ばかりだった。六法全書みたいな分厚さの大きな聖書まで置かれてある。本棚が少年漫画ばかりの俺とは、これまた大違いだった。

「きみは…」「無為と呼んでほしい」
そう無為に言われて、
「無為は、いつからそんな能力を身につけるようになったの?」
言い直すと、無為は満足げな笑顔を見せた。
「いつからかなあ。たぶん、物心ついた頃なんじゃないかと思う。でも、僕には三つ年下の妹がいるんだけど、全然僕の言うことなんて信じてくれないからね。心の病なんじゃないかと今でも本気で思っているんじゃないかなあ。周りからも、ずっと気味悪がられてきたし」
やっぱり…と内心思ったが、もちろん口には出さず黙っていた。

「でも本棚を見てわかると思うけど、もともと哲学や思想、宗教を好む家庭で育ったんだよ。実家なんてこんな感じの本ばかりある。僕の無為という名前も、老子(ろうし)『無為自然』(むいしぜん)という言葉から由来しているんだ。知識や欲、煩悩にとらわれず、あるがままを為すという意味」
よくわからん。そんな俺の心中が読めたのか、無為は少し笑った。
「わからなくていいよ。ついでに言えば、僕は前世もわかる。僕はキリスト教徒で、何かの戦争、動乱のようなものに巻き込まれて亡くなった。現世はクリスチャンじゃないけど、キリスト教には異様に心惹かれる。現世で出会った人たちは、キリスト教関連で繋がっていた人たちなんだと思う。おそらく、きみも」
無為にそう言われて、ぎょっとした。母親の家系が、キリスト教だったからだ。
「いつも気がついたら、聖書を読んでいるんだ」
気がついたら聖書を…? 俺は聖書なんて、開いたことが一度もない。

「僕のことより、きみの話を聞かせてくれよ。どうして俳優になりたいと思ったのか」
無為は俺とのお喋りが嬉しいのか楽しいのか、笑顔でワインを飲んでいた。
「俳優になりたいというか…俺、小学生の頃からずっと広告のモデルやっててさ。高校生の時試しに受けてみたコンテストで、準グランプリ獲ったんだよ。それで芸能事務所に所属して芸能界入りしたんだけど」
「だけど?」
「そこの事務所が、女性タレントには力を入れて売り込むんだけど、男性タレントは飼い殺しにして放置しているような事務所だった。お笑いタレントがやるようなバラエティ番組の仕事ばかりやらせようとするし」
無為は笑った。
「たぶん、男性スタッフばかりだったんだろうね」
「実際そうだったよ。で、男性タレントだけ島流しするように子会社に分けたものだから、ここにいたら潰されると感じて昨年辞めた」
俺は当時を思いだし、ため息をついた。

「でも俺も、事務所のせいにしているけど才能ないんだよ。よく考えたら芸名もあの男の言う通り、車に似た名前だし。音の響きがいいし好きな漫画のキャラクターから名づけたんだけど」
「そんなことないよ」慰めるように、無為はやさしく言った。「才能ないなんてことはない」
「世の中には、陽の当たる場所で生きている人とそうでない人がいるんだよ」
俺はそう言うと、ぐいと自棄気味(やけぎみ)にビールを飲んだ。
「俺は一生パッとしない人生なのが自分でわかる。あの男に挑発されて殴りたくなったのは、あいつが陽の当たる場所で生きていて嫉妬していたせいもあるんだよ。こちとら一生陽の当らない暗いトンネルの中、とぼとぼ俯いて歩く人生さ。バーテンダーのバイトでもやらないと食っていけない」
「そうやって愚痴ばかり言って、一生身の不運を嘆いて生きていけばいいじゃないか」
そう無為に言われてハッとした。

「神威、自分で自分の限界を決めるべきではない。悲観的に考えれば考えるほど、どんどんその通りになってゆくぞ。励ますわけじゃないけど、僕はきみが役者として成功すると信じている。僕の言葉を信じて希望を持って生きてくれないか」
役者として成功する…? この俺が? 無為の言葉を、どれほど信じていいものだろうか。
「店も劇団も俳優業も大丈夫。万事順調にうまくいく。だから変に悲観的になったりマイナス思考に陥らないでほしいんだ」

無為の穏やかな語り口調と酒で不安が和らいで、もともと寝不足だったこともあり急激に眠気が襲ってきた。気がついたらソファーに横たわり眠っていた。起きたら体にブランケットが掛けられており、無為もテーブルに伏して眠っていた。カーテンの隙間から朝陽が漏れ室内に光の線を描いている。体調が悪いというのに、一晩中俺に付き合ってくれたのか。そう思うと、愛おしさのような感情が込み上げてきた。

「無為」
寝顔にそっと話しかけてみたが、起きないようだった。髪に触れたい衝動に襲われたが、やめておいた。
「ありがとう」
それだけ言いメモに書き残すと、睡眠を邪魔しないようそっと部屋を出た。

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